名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

コンテンポラリーの回廊 - 俺の試聴部屋1

f:id:nu-composers:20220131002816p:plain

コンテンポラリーの回廊

 どうも榊山です。アイキャッチ画像とタイトルからピンとくる方も多いでしょうが、NHK-FM片山杜秀先生のお送りされるところの「クラシックの迷宮」の「私の試聴室」のパロディをやってみようと思いつきではじめてみました。
 まあ内容は私が研究で最近聴いた曲の中から印象に残るものをいくつか紹介するという単純なものですが、はっきり行って日本の作曲シーンは世界に20年は遅れ始めてきているとも言える部分があり、そういった意味で自国の文化の再評価とともに、海外の最新音楽事情を捉えることは重要極まりないことだと思います。
 昨今の作曲家は研究不足否めないと個人的には感じています。全員が全員近藤譲先生のような知の巨人になれるわけではないでしょうが、それでもその域を目指して研鑽に励むべきではあります。私も弟子たちに口を酸っぱくしてい言っていますが、まだまだ伝わってるのかどうかという感じです。しかし教える側が怠惰を極めていては全く話にも何もなりません。
 音楽は感性ともいいますが、それより前に経験芸術であることを忘れてはいけません。経験芸術の最も核となる部分は研究に他ならないのではないでしょうか。

 とやや口うるさい立ち上がりではありますが、早速最近私が聴いて研究したものの中からいくつかご紹介しながら、皆様とその音楽について考えを深めていけたら幸に存じます。

 

1.Soaring Souls/Bernhard Gander

f:id:nu-composers:20220131003005j:plain

Bernhard Gander

 はじめにご紹介するのは1969年オーストリア出身の作曲家ベルンハルト・ガンダーです。若い頃にギター、ピアノ、ドラム、サックスに触れたことが彼の人生に強い影響を与えたようです。その後グラーツで、ベアト・フラーについて作曲を学び、現在はウィーンを中心に活動している作曲家です。
 出で立ちからメタルミュージシャンかと思った方も多いかと思いますが、ほとんど正解です。ナパーム・デスのシャツを着てますからまあ当たり前ですね。しかし彼は紛れもなくコンテンポラリーミュージックの作曲家でもあるわけです。平たく言うとメタルとコンテンポラリーのクロスオーバー的な作品を特徴とする異端作曲家という評価をされています。
 しかしその異端視はどうなんでしょうか。クラシック側の驕りとでも言えるようなつまらない蔑みの感情が隠れているように見えて非常につまらなく感じます。彼の音楽は紛れもなく、ある意味で泥臭く独特の方角に向かって先鋭化することである種の洗練を獲得したと言えるのでは無いでしょうか。メタル的なマナーを使ってはいるものの、曲を書く方法はパラメーター的でありしっかりとコンテンポラリーの手法で書かれています。この絶妙な境界線の突き方は、私からすれば楽音と騒音の境界を絶妙に突いてみせたハヤ・チェルノウィンとなんら変わらない価値を感じます。事実として彼の作品は名門エディション・ペータースから出版されているのですから。
では聴いてみましょう。

www.youtube.com

 

2.Dialogue with the Ghost/Debra Kaye

 

f:id:nu-composers:20220131003227j:plain

Debra Kaye

 デブラ・ケイは1956年生まれのアメリカの作曲家で、ピアニストでもあります。世界中の民族音楽やジャズをも自分の言語として取り込み、自由に言語を組み合わせてニュー・オリエンタルな雰囲気の作風を確立しました。これまでにBruce Hungerford Edith Oppens Ruth Schonthal Todd Briefらに学び、New York Composers Circleのメンバーとしても活躍をしています。
 今回ご紹介するのは無伴奏チェロの独奏曲なのですが、そういった彼女の作風が全面に出た非常に面白い曲だと思います。控えめな特殊奏法や奏者が発する声が効果的に使われ、音楽全体は非常に聴きやすい旋法性の強いものになっています。しかしその音楽が表現するのは前時代的なオリエンタリズムではなく、しっかりと独自の言葉で新しく形作られたものとはっきりわかり、その眼差しと感度の高さを物語っているように思います。それでは聴いてみましょう。

 

www.youtube.com

 

3.quatuor à cordes n°3 "Shadows"/Yann Robin

 

f:id:nu-composers:20220131003420j:plain

Yann Robin

 ヤン・ロバンは1974年生まれのフランスの作曲家です。やはりジャズも学んでおり、多面性のあるベースを持っているようです。作曲はジョルジュ・ブフ、フレデリク・デュリユー、そしてミヒャエル・レビナスに師事しており、デュリユー的で精緻な構成にレビナスの影響を落とし込んだというのは納得のできるところでもあります。極めてノイジーな音楽を書きますが、それが非常にただノイジーなだけでなく、実に軽妙洒脱にまとまっているのが彼の音楽の最大の特徴でしょう。このことで一見聴きにくい響きでもスッと聴かせてしまうカジュアルさがあり、コンテンポラリー最先端であってもファッションカルチャーとしての存在感とにたものを感じる部分があります。
 最近はすっかりアメリカにその座を奪われているコンテンポラリーシーンにあってフランスの面目躍如たる素晴らしい作品を書いていると言って差し支えないと思います。
 今回選んだのは弦楽四重奏曲第3番「影」と題されたもので、特殊奏法だらけの音楽が高速に進んでいくような構成です。ポストラッヘンマン的とも言える響きですが、どうにも癖になる音楽ではないでしょうか。では聴いてみましょう。

 

www.youtube.com


4.MOULT/Clara Iannotta

f:id:nu-composers:20220131003607j:plain

Clara Iannotta

 続いてはイタリアに1983年に生まれたクララ・イアノッタの少し長い作品を聴いてみようと思います。ミラノ音楽院、パリ音楽院、そしてIRCAMで学びアレッサンドロ・ソルビアティ、フレデリク・デュリユーに学び、ハーバードでハヤ・チェルノウィンにも師事しています。またハーバードではスティーブン・タカスギ、ハンス・トゥチュクにも師事し、ブライアン・ファーニホウ、フランク・ベドロシアン、ピエルルイジ・ビローネにも指導を受けるなどエリート街道をひた走ってきた作曲家です。
 その作風はいわゆるポストチェルノウィン世代のそれであり、ノイズのデザインとそのスペクトル分析を中心に、ノイズの倍音を楽器で再現することによる楽音の領域の拡張と、非楽音の倍音の捉え方への挑戦を主としています。
 このタイプの作風をもった作曲家多くいますが、それぞれ立ち位置が異なり、イアノッタはその中でも非常にノイズ倍音の聴かせ方が美しく、曲の構造もシリアスになりすぎない良さがあるように感じます。チェルノウィンの影響は大きいものの、やはりデュリユーの構造的音楽の影響をしっかり引き継いでいるようにも思います。
 今回紹介するのは室内オーケストラのための「脱皮」と題された曲ですが、生まれ変わり、脱皮、或いは変身といった意味合いを内包させていて、それに準じた騒音のサンプルから上手く素材を切り出して、響きによる物語を構築しいるように聞こえます。ポストチェルノウィン世代でも国際的評価の高い作曲家であることに納得がいく名曲ではないでしょうか。

www.youtube.com


5.mammal/Fjóla Evans

f:id:nu-composers:20220131003819j:plain

Fjóla Evans

 最後に紹介するのはカナダ系でアイスランド出身のフョーラ・エヴァンスです。1987年にレイキャビクに生まれエレクトロ・アコースティックのジャンルを得意とする作曲家、チェリストとして活躍しています。作風は明らかにポストミニマル的であり、これはBang on a Canのメンバーとしても有名な作曲家ジュリア・ウォルフに師事したことが非常に大きいと言って間違いないでしょう。
 少ない素材をとつとつと変化させていくのですが、変化はわりに大きく気がつくと音楽は大きく変質していくというスタイルを持っており、またその響きは極めて北国の冷たさを湛えている点にも注目が必要と言えます。
 今回はプリペアードを伴うピアノの独奏のために書かれた「mammal」という曲で、このタイトルの意味はなかなか面白く一般に「哺乳類」と約されますが転じて「母」や「胸」を意味したりもするようです。なるほど哺乳類における「母性」やその象徴としての「乳房」の意味を内包させた、とても女性的で官能性すらももった音楽と言えるでしょう。乾いた空間に響く長い変奏曲のような音楽は、なるほどそうした女性の感じ方の物語とでも言えるのかもしれません。

www.youtube.com


 いかがでしたでしょうか。

 最近はメディアが発達し、海外の最新の音楽事情がすぐに聴け、研究もできる素晴らしい時代です。しかしはじめに書いたとおり古い因習の中にしかいようとしない日本の指導層に今回紹介した作品のようなひらめきはどんどん薄れてしまっています。もっと聴き、真摯に学んでいくことが強く求められ、またコロナ禍にあってはまさにそのような研究にこそ時間を割くべきなのではないでしょうか。

 ということで新シリーズ「コンテンポラリーの回廊 - 俺の試聴部屋」ではこのような感じで時折、新しい音楽を紹介するシリーズとして続けていこうと思います。
ともに味わい、深く思考してみていただけたら幸いです。

5thコンサート曲解説-Night Walkers & Shuffled City/冨田悠暉

先日公開されたオンライン・コンサート名古屋の作曲家たちの楽曲紹介をしようと思います。

前回は作曲者のなんすいが「組曲『新栄』」の解説をしてくれましたが、今回解説するのはコンサート冒頭で演奏された2曲、「Night Walkers」と「Shuffled City」です。

 

 

原曲とコンセプト

さて、これらの曲は今回演奏した曲の中では分かりやすく一風変わった曲です。

「Night Walkers」は大量のセリフと怪音に満ちた混沌とした曲だし、「Shuffled City」は演奏中に別の奏者が入場してきて別の曲を演奏し始めます。

どうしてこういう曲になったのかを説明するためには、まずこの2曲の元となった原曲について話さないといけません。

「Night Walkers」と「Shuffled City」は、それぞれ榊原拓作曲の「Night Walker」「シャッフル都市」というピアノ曲を原曲としています。

作者に原曲のコンセプトを尋ねたところ、これらの2曲はともに

コロナ禍で瓦解した日常に対する問いかけ

がコンセプトだということでした。

「Night Walker」は都市生活から離れて何気ない夜の風景に叙情を見いだす様子を描いており、「シャッフル都市」ではコロナ禍で衰退した都市や自分の望まない方向へ変化していくさまざまな事象を描いているようです。

つまり、①コロナ禍における夜の都会の閑散 と、②世界は常に(ときに自分の望まない方向へ)変化しつづけるということ が最も中心的なテーマと言えます。

①は楽曲における叙情的なモチーフであり、②は主張と言うべきものでしょう。

 

編曲に際して、僕はこれらのコンセプトにもう一歩踏み込んでみることにしました。

 

日常という虚像、世界への錯覚

コロナ禍も2年以上にわたり、失われた日常という言葉をよく耳にしていました。

おもに、「日常はいつ戻ってくるのか」といった嘆きの文脈で、この言葉は用いられます。

それは原曲のテーマでもありました。

 

しかし、考えてみれば妙だとは思いませんか。

”日常”なんてものが一体いつ実在したことがあったでしょうか。

今日あることが明日も続き、明後日も続くと思い込んでしまうのは、人間の思考回路にいささかの惰性があるせいです。

実際には、誰しも明日死ぬ可能性があるし、今日いた人が明日いるとは限らないし、今日の平和が明日続くとは限らない。

”日常”というもの自体、ある種の幸せな平和ボケから生じた虚像に過ぎません。

日常なんてそもそもないし、あるとしてもそれは刻一刻と変わりゆくものであって、不変であったり失われたりする性質のものではないのです。

 

それでも人間は弱いから、”以前までの日常は取り戻せる”と思い込むために、多くの人が日常を「失った」ことにしました。

けれど、人は皆別々の視点から世の中を眺めているので、取り戻すべき”日常”というものに絶対的な正解などありません。

結果、多くの人々は世界の広さを見誤ったのだと思います。

陰謀論が目立ち、主義と主義とのぶつかりあいが増え、荒唐無稽な世界観がどんどん膨れあがっていったのは、「世界」もまた日常と同じように絶対的なものではないからです。

それでも人間は弱いから、自分の頭で納得できる最も好都合なシナリオを本当だと思い込むことにしたのでした。

 

変わる日常と変わらない神

日常とか世界といったものは、絶対的に見えて実は茫洋としたもやにすぎません。

しかし、多分僕たちの周りには変わらないものもあります。

それは日常や世界よりももっと大きくて、毎日朝が来て夜が来ることよりも大きくて、言語化することは難しいものですが、敢えて言うとしたら「自然」が一番近いかも知れません。

ここでは、それを一旦「神」と呼ぶことにします。

僕が今回作った2曲では、不変の自然である「神」と、相対的な個体としての「人間」を音楽的に対置させ、コロナ禍における”日常”に対して問題提起をしてみました。

 

Night Walkers

この曲では、背景でずっとオルゴールが流れています。

オルゴールの音色は「神」を表しており、他のパートからの干渉を受けないまま一方的に進行していきます。

その上にたくさん散りばめられたセリフは、いずれもコロナ禍における日常について述べた別々の立場からの感想・意見・つぶやきです。

それらは1つ1つは具体的なものですが、いっぺんにばらばらに読み上げられることで、何か得体の知れない抽象的なうごめきとなります。

やがてセリフは管楽器によるさらに抽象的な音型へと変化していき、絶対性を失った状態で楽曲が完結します。

 

Shuffled City

この曲でもオルゴールが「神」を表しています。

楽曲は途中まで、無人のまま「神」の旋律が響くだけですが、そこへ3人の管楽器奏者が入場してきます。

この3人は、「神」の旋律が聞こえているのかいないのか、3人だけで全く別の音楽を奏であっています。

3人の旋律は絡み合い、相対的に溶け合っているようです。

やがて「神」の旋律はフェードアウトし、3人の旋律だけが響くようになります。

 

いささか抽象的ではありますが、これが僕なりに出した結論でした。

短い期間でテーマ製のある楽曲を仕上げるのは難しく、やや実験的な曲になってしまいましたが、これはこれでなかなか面白かったと思います。

皆さんも皆さんなりに、ぜひ色々感じながら聞いてみて下さい。

 

楽譜は無料で公開しています。

楽譜無料公開! 5thコンサート「名古屋の作曲家たち」 | 名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

5thコンサート曲解説-組曲「新栄」/なんすい

なんすいです。こんにちは。

春も麗らかに、過ごしやすくなってきましたね。

お花見とかしました?

 

定番の桜も綺麗だけど、私はチューリップが好きです。

あとこないだミツマタの群生地に行ってきたんですけど、それが凄く綺麗でしたね。


f:id:MochiMochiCat:20220411121228j:image

 

うん、綺麗だ。花は良いですね。やっぱり…

 

 

 

 

 

でもね、

 

 

 

 

 

俺は…

 

 

 

 


f:id:MochiMochiCat:20220411182656j:image


f:id:MochiMochiCat:20220411182713j:image

 

俺は、人間だから、

 

花じゃないから…

 

俺は、綺麗ではないんだ。

 

人間は、他のどんな生き物よりも汚れていて、醜くて、全く救いようが無い生き物だ。

だけど、そんな人間にも目蓋を閉じることが許されていて、そうすると、私達は夢を見ることが出来る。

夢の中で、ここにあるどんなものよりも美しい世界を創ることが出来る。こうやって、人間は自分で自分のことを救いながら、強く生きていくんだね。

 

f:id:MochiMochiCat:20220411182825j:image

 

 

 

 

さて、「です・ます調」というのは、必ずまとまった内容があって、その後に「です」やら「ます」やら決まった定形の語尾を付けるために、どうも、書いた文章の内容を都度自らで反芻するような、丁寧で柔らかい印象とは裏腹の踏みしめるような頑丈さが出てしまうような気がする。

 

この記事では、私が5thコンサート「名古屋の作曲家たち」に寄せて書いた組曲「新栄」について書くつもりだ。

しかしこの曲の性格上、普通に解説っぽい解説をするのがなかなか難しくて、それよりはもっと自分の気持ちを湧いてきたそばから書き起こすように、自由に書いたほうが良いんじゃないかと考えた。

そうすると、「です・ます調」よりも「だ・である調」で書いた方が、何となく調子が良いような気がした。あまり頑丈な言葉を紡げない人間だから…。

なので、この記事では語尾を「だ・である調」にして以下書いていこうと思う。

 

 

 

 

ライトモチーフ、という音楽用語がある。

旋律断片であって、キャラクターやら感情やら特定の意味を持たせたモチーフのことだ。

音楽の中で使う「言葉」みたいなもの、とも言えると思う。言葉は、文字記号の羅列や人間が発した音声に特定の情報が載っかったものだと思うと、ライトモチーフの場合は旋律に情報が載っているもの、ということになる。

 

ライトモチーフの大きな問題点の1つとして、伝わりにくいという点が挙げられる。この旋律は炎を表してるんですよと言ったとて、聴いた人がそうと分からなければ、それは作曲者にしか読めない欠陥言語であると言わざるを得ない。

だから、ライトモチーフをそうと分かるようにするには、何かしら工夫が必要だ。

例えば、有名な曲のメロディを引用して、ライトモチーフとして使う。自分が「これは○○のテーマ!」と決めたモチーフを、一生涯作品で使い続ける。そういうことをして、ライトモチーフという言葉に「歴史」を背負わせる必要がある。普通の言語だって同じである。話者が居て、これはこういう意味なんだよと知られていなければ機能しないだろう。

 

それを踏まえた上で、私は、ライトモチーフというものがあまり好きでは無い。

音楽を使って自由な主張をするためには、そこに言葉を組み込んでいく必要がある。その手法として、少なくとも今の私は、ライトモチーフを使うか、そうでなくともライトモチーフのような、音楽の断片に情報を載せて制御していくやり方しか思い付かない。

だから、言いたいことや伝えたいことがあるなら、口で喋るか文章で書くのが最も確かに決まっている。敢えて音楽でやる必要は無い。

ライトモチーフのような、ちゃんと伝わるとも限らない言葉をガチャガチャ組合せて、何かしらの大きな主張に仕立て上げたとして、何の意味があるんだ。暗号でラブレターを書いて寄越すようなものだ。

 

だから結局、音楽で何かを主張したりするのは愚かというか、甘えた行為だと思う。自己満足に過ぎない。

加えてついでに言うなら、別に音楽でなくとも、何かを主張すること自体も好きじゃない。それは、そもそも私が啓蒙主義者では全く無いからだ。

 

じゃあ私には音楽で表現したいものが全く無いのかといえば、それは違って、もっと個人的な叫びのようなものが音楽として1つの形になるような、そういう創作をしたいと思っている。いや、思ってないかもしれない。私は叫びたいのか?誰かに聞いてほしいのか?それが音楽である必要性は?

このように、私は自分が何をしたいのか分からなくなって、悩み始めてしまった。

 

そうやって考えているうちに、もう1つ嫌いなものが増えた。それは論理である。

論理は人に何かを伝えるうえで必要不可欠なものである。論理によって示された答えは、皆が同じ道を辿れるものだし、そう簡単に否定出来ない強さがあるからだ。

論理を紡ぐことは、いわば複雑な現実世界の叢を掻き分けて1本の道を作ることである。無意味な木の塊に刃を入れて、要らない所を削ぎ落としてかわいい熊の置物を拵えることである。それは生産的だが、同時に残酷なものだと感じる。

私が音楽で何を表現したいのか、思考すればするほど、その思考の中で削ぎ落とされてしまった部分にこそ、多くの本質が隠れていたんじゃないかという気がしてきた。

 

 

 

 

ひとしきり悩み続け、2021年の暮れの段階での私が取り敢えず出した、その1つの答えが、組曲「新栄」である。

【オリジナル曲】組曲「新栄」 - YouTube

コンサートの曲作り期間が始まった頃が、ちょうど私は上述したような事についてめちゃくちゃに悩んでいた頃だった。

 

 

 

昨夏名作同でリリースしたDTMアルバム「YOURS HOURS」に提出した曲においては、古代社会の構造を引き合いに出して現代の風潮を否定してみせた。

‎名大作曲同好会の「YOURS HOURS」をApple Musicで

24曲目、アルバムの最後の曲でもある「Pray For 24th Artists」は、文化が失われていく現代のレクイエム、そして次代への無窮の祈りの音楽と位置付けた。

 

「文化を守るために大革命を起こすべきだ!」とかではなくて、あくまでただ祈るという行為に留めている辺り、やはり私は強い主張をするのには向いてないんだな、と思う。

一方で、自分が極めて無意味なことをやっている感覚もした。現代社会に一石を投じるのかと思ったら、結局投じたのは本当に小さな石ころ一粒きりで、私は本当にこんなことをやりたかったのだろうか?と悩み始めることになった。

 

 

 

組曲「新栄」は、そのDTM企画のやり直しとしての作品でもある。

 

DTM企画でやったのと同じように、やはり古代社会の構造を提示することから曲を始めた。

DTM企画の時と異なるのは、そうして始まった曲の全体の主張は、社会や他人では無く、作曲者の自分自身にその方向が向けられているという点である。

 

新栄のライナーノーツに「この曲は多層的な神話である」と書いているが、この神話における神というのは、他でもない、私のことだ。

古代社会において神として共同体に関わった職能、その中には琵琶法師や尺八吹きといった音楽家も居て、物語を語り歩く人達が居た。

あるいは物語を生み出す者、西洋における神とは創造主のことである。

そういう存在に、私自身の立場を置き換えてみることが、この曲の試みである。

 

まぁ、自分を神様に例えるだなんて調子に乗ってやがるよと言われてしまいそうだが、私はもちろんそんなつもりで「神とは私のことだ」なんて言ったわけなのである。

だって、人間なら誰しも神になりたいと思うだろう。私も例外ではなく、人一倍そう思っている。でも人間は神じゃないから神にはなれない。もちろん私もなれない。そして実はそれこそが、私の一連の悩み事の正体なのではないかと考えた。

 

論理も主張も言葉も人間のものだ。ならば芸術表現も本当は人間のものであるはずだ。神は芸術を必要としない。

でも表現者というものは、きっとどこかで神になりたいと強く思って、表面上神っぽいことをやれるようになり、その一方で、それ故に対峙する極めて人間的な問題への対処に一生苦しむことになるんだと思う。

だとすれば、組曲「新栄」がどういう風に結末することになるべきかはもはや明らかだった。

 

 

 

組曲の構造は次のようになっている。

 

最初に、クラリネットソロによる旋律、これは私自身を示すライトモチーフである。私が過去に書いた極めて個人的な曲の主題を引用したものだ。

続いて、古代社会を描写した1個の神話。ここまでが1楽章「栄」のまるまる全部に相当している。

次に、琵琶法師によって語られる神話。神話を語る琵琶法師の描写そのものが、また1個の神話となっている。2楽章「枇杷島」に相当する。

 

そして3楽章「新栄」。組曲冒頭のライトモチーフが再びソロで奏された後、色々あって、コラール的な強奏をもって終結する。この部分、実はコンサートでも編曲された榊原拓さんの作品「Night Walker」の主題を各声部に散りばめて隠してある。

 

そしてフェルマータの後に始まるアップテンポでポップな音楽は、組曲に付加されたエンディングのような立ち位置にあって、かつ「Night Walker」の私自身の解釈による編曲版のつもりでもある。そして更に、DTM企画のコンセプトを練り直した先の、新しい結末としての音楽でもある。

 

この部分のサビでは IV-III-Vl-I の所謂「丸サ進行」と呼ばれるコード進行を使っている。音楽理論をある程度学んだ人間は敢えて使いたがらない軽薄な進行だと思うが、この曲のクライマックスにおいて避けて通るわけには絶対にいけなかった。

 

神の真似事をしている私は、報いとして無意味に悩み果てることになっており、そこから逃避し続ける自分自身のバックグラウンドには、軽薄で俗っぽく使い古されていて、でもどうしようもなく好ましいと感じてしまう丸サ進行が全くぴったりなのだった。

 

悩みながら逃避する自分自身をそのままの姿で晒し、音楽自体は終わる。

 

そして、この曲のオチというのは、私がこの組曲「新栄」を作曲し、「名古屋の作曲家たち」と冠したコンサートのプログラムとして提出し、演奏したという事実である。

結局私は色々悩みつつも音楽を作っているし、神の真似事をしてしまうんだね(笑)というどうしようもない結論である。しかし、強い主張が苦手な自分にとってこんなにも心安らかな結末は無いだろうとも思うわけだ。

 

加えて、とっくに勘付かれているとも思うが、この組曲はほぼ全体に渡ってたくさんのライトモチーフや引用を複雑に組み合わせることによって作られている、ということも明かしておく。

汚いものや苦手なものから取り敢えず目を背けて綺麗な夢を見るのは、やっぱり人間の特権だなと思うわけである。

 

 

 

 

 

最後に、そんななんすいの曲、およびそれが含まれたコンサートがYouTubeで全部視聴出来るので、宣伝します。

名大作曲同好会 5thオンライン・コンサート「名古屋の作曲家たち」 - YouTube

 

それから、コンサートの曲の楽譜も無料公開してるのでぜひ見てみて下さい。ライナーノーツも読めます。(そんなにいい文章では無いけれど…)

楽譜無料公開! 5thコンサート「名古屋の作曲家たち」 | 名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

 

 

レコードを買って聴いた

私が生まれた時にはレコードもベータマックスレーザーディスクも既になくなっていて、物心ついた時にはVHSもMDもなくなってしまった。そして今やCDもDVDも、もしかしたらBDもなくなりつつある世の中である。時代の流れとともに何もかもなくなっていく。流れはどんどん速くなっていて、明日の朝起きたらパンツ以外家も街も何もなくなってしまっても驚かないほどだ。嘘、全然驚く。

そんな時代だからか、失われつつあるものに心を惹かれる自分がいる。周りがLEDに置き換わるなか蛍光灯が点り続ける街灯だったり、再開発される街に佇むレトロフューチャーな建物だったりの写真を撮りそれを愛してやまない。

その眼差しは無論レコードにも注がれる。

初めて見て鳴らしたのは祖父母宅だったと思う。かつて父の部屋だった(と思われる)部屋にあった昭和アイドルのレコードやゴレンジャー主題歌のソノシートを鳴らした。アイドルにもゴレンジャーにも興味がないため、なんかやたら古いなという感想しかなかったが、それはそれとして面白い体験として記憶には残っている。

 

初めてレコードを買ったのは2017年冬だったと思う。コーネリアスが11年ぶりに新譜を発売したときのライブで買った。2曲しか入っていないシングル盤を買ったのにCDより大きくて、なんて効率の悪い音声記録媒体なんだと思った記憶がある。

そして大学2年の頃、友人からYMOのレコードを2枚もらった。

そして今年ようやくプレーヤーを買ったのである。今まで買わなかったのはマジで金がなかったから(今もない)。そしてレコード盤に針を落として流れてくる音に耳を傾けたときに今まで述べてきたレコードに関する記憶が思い出されたわけですよ、プルーストの言う無意識的記憶じゃないですか、エモいですね。エモいと言え!!!!

 

ということで普通に色々聴きたくなったので買ってきました。

 

John Coltrane / Live at Birdland

f:id:nu-composers:20220402112610j:image

言うまでもなく名盤ですね。私はコルトレーンが好きなのですが、彼の作品はどこに行っても売っているので逆に全然手元になく、気が狂っていた時期に買ったascensionしか持ってなかったので買いました。60-70年代くらいまでの音源はスピーカーで聴くことが前提のためか、ステレオの振り方が極端だと思います。今回イヤホンではなくスピーカーから聴くことで想定されている音響で聴くことができ、感動しました。レコード関係なくね?

 

United Future Organization / United Future Organization V

f:id:nu-composers:20220402113230j:image

UFOは前に当ブログで紹介したのでそちらを参照していただくとして、内容は普通のクラブジャズで特に言うことがありません。良いわけでも悪いわけでもなく、なんか普通でした。

 

山下洋輔 筒井康隆 / 筒井康隆文明

f:id:nu-composers:20220402113437j:image

ジャズピアニストの山下洋輔と小説家の筒井康隆がそれぞれ大好きで、そのコラボだからそりゃ良いに決まってるだろうと思って買ったらやはり最高でした。A面(!!!!言ってみたかった言葉)は筒井康隆の「バブリング創世記」を音楽化したもので、そのバブリング創世記というのが

ドンドンはドンドコの父なり。
ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み、ドンドコドン、ドコドンドンとドンタカタを生む。
ドンタカタ、ドカタンタンを生めり。
ドンタカタ、ドカタンタンを生みしのち四百六年生きながらえて多くの子を生めり。
カタンタン、ドカドカとドカシャバを生み、ドカシャバ、シャバドスを生み、シャバドス、シャバドビとシャバドビアを生む。
シャバドビア、シャバダを生み、シャバダ、シャバラとシュビラを生む。
シュビラ、シュビダを生み、シュビダ、シュビドゥバを生み、シャバダ、シャバラとシュビラを生む。

というジャズスキャットに使われるバブリングを用いた聖書パロディ小説なのですが、当然ジャズと相性が良いわけです。嘘です。めちゃくちゃです。この曲、めちゃくちゃすぎる。引用文の朗詠に続きフリージャズの即興演奏が始まったかと思うと、山下洋輔のGUGANが引用され、気づいたら筒井康隆の熊の木本線が引用されたと思ったらピンクレディーが登場して......この感じ、どこまでいっても筒井康隆らしすぎます。

B面「寝る方法」は筒井康隆がひたすら寝る方法について解説してくれるわけなのですが、安眠するアドバイスとかではなく本当に純粋に寝る方法を解説しているのでめちゃくちゃシュールです。

どんな感じかというと、

寝る時は、まずベッド側面部を背にして立ち、ゆっくりと膝を曲げ尻をベッドの上に乗せる。
この時、尾てい骨より垂直におろした架空の直線が少なくとも25センチは奥になければならない。
何故ならベッドの上にはマットレス、シーツ、毛布といった睡眠用具が置かれているため、
両側面から二人の人間が同時に寝ようと試みる場合を除いて、ベッドの端に尻を置くという行為が
当人の上半身を極めて不安定な状態にするからである。

なんなんだ???????

 

とまあこんな感じで非常に満足でした。特にこの筒井康隆文明は現在廃盤らしいので買って得しました。

 

これは反省なのですが、普段ストリーミング配信で音楽を聴いているとこのような廃盤作品に目が全くいかなくなってしまった自分がいることに気付きました。多分同じような人は多い気がします。ストリーミング便利だし。レコードなどの再生が不便な媒体にもに名作が存在していることを頭の隅に置いておきたいですね。おわり。

ウクライナの作曲家入門編

ウクライナ

 知っての通りウクライナという国はロシアの侵略を受けている真っ只中である。ウクライナは私が幼い頃はソ連の一地方であったが、ソ連解体とともに独立国になった。
 とはいえ歴史的には様々な国や勢力の支配を受け、1917年にはじめてウクライナ人民共和国として世界に認知されたのだが、私はそんな頃に生きてないのでいつまでもソ連の一部だった所との認識が消えない。
 さてでは歴史ではなく音楽では私達はどれだけウクライナという国を知っているだろうか。実は何も知らないんじゃないだろうか。ということで今回はそのほとんど入門編として、中期の作曲家から現代の作曲家までで、知っておくべき作曲家を紹介してみたいと思う。

 

Yuri Alexandrovich Shaporin

 ユーリ・アレクサンドロヴィチ・シャポーリンは1887年に現ウクライナ領のフルヒフに生まれた。父親は画家で、本人も画家を目指していたが、キーフで初めて作曲の指導を受け音楽の道に入ったようだ。
 とりあえずサンクトペテルブルグ法律学を修め、その後やっとペテルブルグ音楽院出シテインベルク、チェレプニンに師事、卒業した。卒業後は劇場指揮者として活躍しモスクワに移住、モスクワ音楽院で教鞭をとり優れた弟子を排出する一方、こちらはスターリン体制に従順であり、その作風もロシア的であったことから、体制側とは大変良好な関係であったという。
 彼の作品は劇場指揮者の経験からか声楽曲、管弦楽曲が多い、しかし個人的にはピアノ曲にも傑作が多いと思うので、今回はピアノ・ソナタ第二番を聴いてみたいと思う。

www.youtube.com

 

Boris Mykolayovych Lyatoshynsky

 ボリス・ミコライヨヴィチ・リャトシンスキーは1895年に現ウクライナ領ジトーミルに生まれ、幼少期から類まれなる音楽の才能を輝かせ、キーフ音楽院でグリエールに師事する。そしてその影響はすぐに現れ国民楽派的な精神を作風に持つようになる。
 一方世の中の革新化によってもたらされた半音階的な音楽をも吸収し、スターリン体制にあって革新さをもちながらも国民楽派的という独特の作風で体制側の作曲家として活躍した。
 この独特の作風をある意味受け継いだとも言えるのが、後に紹介する弟子のシルヴェストロフである。
リャトシンスキーは大きな編成の楽曲を多く書き、とりわけ5つある交響曲は名作のほまれが高い。今日は第3番を聴いてみよう。

www.youtube.com

 

Viktor Stepanovich Kosenko

 ヴィクトル・ステパノヴィチ・コセンコは1896年にロシアのペテルブルクに生まれたが、程なくポーランドワルシャワに移った。そこで音楽の才能を発揮しはじめ、ワルシャワ音楽院に入学、さらにサンクトペテルブルグ音楽院でソコロフスキー、ミクラシェフスカに師事し、優秀な成績で卒業する。
 彼とウクライナの接点ができるのがこのあとで、現在ウクライナ領内にあるジトーミルの音楽学校で教職を得、そのまま校長になったのだ。この地で音楽活動を本格化させたコセンコは様々な演奏機会を得るが、最終的にスターリン体制を受け付けなくなり、キーウに逃れその後キーウ音楽院で教鞭をとった。
作品の多くは室内楽ピアノ曲であり、特にピアノ曲は素晴らしく、一つの時代を築いたとも言える。今日は彼のピアノ・ソナタ第1番を聴いてみようと思う。民謡的な旋法性とピアニズムが交錯する素晴らしい曲である。

www.youtube.com

 

 このような中興の祖たちの仕事もあり、ウクライナの音楽というものはどんどん成熟していった。スターリン時代、ソ連邦崩壊など激動の歴史を経て、いまロシアによるまったく非道な侵略を受けている。
 この新たな混迷の中、どんな作曲家がウクライナの声を伝えているのだろうか。少しだけ見てみよう。

 

 

Nikolai Girshevich Kapustin

 ニコライ・ギルシェヴィチ・カプースチンは日本でも大ブームを起こした作曲家であり、その作風は各方面から賛否両論絶えないものの、それはもう一つのソ連を伝えるものでもあるといえる。カプースチンベラルーシ系とロシア系の家系に生まれているので純粋にウクライナ人とは言えないかもしれないが、ウクライナ出身ということで取り上げざるを得ない巨星であろう。
 彼は一貫してピアニストとしてのエリート街道をひた走り、モスクワ音楽院では超絶無比のピアニストとして知られたゴリデンヴェイゼルに師事し、ソ連的超絶技巧を我が物にした。しかしその頃ラジオでジャズに触れ、彼の考えは一気にジャズに偏っていく。モスクワ音楽院を卒業後はソ連で有名であったジャズバンドのオレグ・ルンドストレムのバンドに入り、凄まじい超絶技巧をきかしたピアニストとなる一方、同楽団を通じ自作の発表を始める。これが非常にユニークで、ジャズのイディオムを用いクラシックの形式論で書くという斬新極まりないものだった。
 こういった経験から作品の多くはピアノ曲とピアノを加えた管弦楽曲に偏っている。どの曲を聴いてもすぐ彼の曲とわかる個性があり、悩むところだが生前本人の演奏で収録された「即興曲」を聴いてみよう。ちなみに残念ながらこの混迷の起こる直前、2020年にカプースチンは旅立ってしまった。
https://www.youtube.com/watch?v=Yn9fTO7zp5Q

Valentin Vasylyovych Silvestrov

 ヴァレンティン・ヴァシリョヴィチ・シルベストロフは「ザ・ウクライナ」と言っても良い作曲であろう。1937年キーフに生まれ幼くして音楽に興味を持つが、その後一旦挫折、再度一念発起してキーフ音楽院でリャトシンスキーに師事する。師の影響は作品の中に垣間見られる、民謡性と半音階性であろうか、しかしシルヴェストロフ自身は師とは異なり反体制派の音楽家になっていく。
 雪解けと言われるスターリン体制の崩壊後、様々なソ連の地方から強烈な個性を持った作曲家が現れる中、シルヴェストロフもその一員とみなされ、極めて高い評価を受けることになる。若い頃は音列主義的な作風を採ったが、その後極めて静謐な音像と厳しさをたたえた音楽を書くようになる。
 まさにその音は今、世界に平和をと嘆く人々の姿に重ねられている。この混迷を見た彼はどのような筆を武器に作品を書くのか注目されるところでもある。今日はそんな彼の多くの作品の中から私が個人的に好きな交響曲第5番を聴いてみようと思う。

www.youtube.com

 

 ウクライナウクライナらしさはやはり雪解け以降でないと見えてこないのかもしれない。しかしその先人たちも国民楽派の流儀に習い、ある意味で伝統的ウクライナクラシックを築いたと言える。
 さて最後に若い作曲家を2人紹介しよう。今をこの混迷を誰よりも直視しているだろう世代の音楽とはどんなものだろうか。

 

Alexander Stepanovich Shchetynsky

 オレクサンドル・ステパノヴィチ・シェチンスキーは1960年にハルキウに生まれ、ソ連時代に基礎的な音楽の教育を受け、ポーランドクラクフ音楽アカデミーに進んでいる。1990年代から頭角を現し、トレードマークの長髪をなびかせ様々なコンクールで賞を受賞する。作曲の初期は旋法性を持った作風だったそうだが、その後様々な作風を使い分けるようになっていった。
 まさにこの混迷を目の当たりにし、その音楽がどう変化するかという点では興味もあるが、まずは無事に生き延びてほしいと願うばかりである。
今日は彼の作品から最も今印象的な「レクイエム」を聴いてみようと思う。

www.youtube.com

 

Svitlana Anatoliivna Azarova

 スヴィトラーナ・アナトリーヴナ・アザロワは1976年にウクライナに生まれイズマイール教育学研究所を卒業後、オデッサ音楽院に入学、クラソトフとツェプコレンコに師事した。その後ポーランドに渡るなどした後、オランダのハーグの永住権を取得しアムステルダム音楽院でローヴェンンディーに師事、修士号を取得して卒業した。
 現在も拠点をオランダにおいており、特に「モモと時間どろぼう」をオペラ化したことで、その名前を知られるようになった。
 オランダの地から祖国の侵略される様子をいかに見ているか非常に痛ましいが、それがテーマとなった曲が発表されるなら、じっくり耳を傾けてみたい。
 非常に音響に対して直感力の高い作風を持っており、今日はオーケストラのための小品である「Beyond context」を聴いてみよう。

www.youtube.com

 

 というようにウクライナ音楽史の中盤から割に最近まで、重要と思われる作曲家をピックアップして聴いてみた。実際にはまだまだ多くの作曲家がおり、今回挙げたラインナップに不満の方もあるかもしれない。

 私は今回の記事を持って戦争についてとやかく言おうとは思わない。国の利害、独裁者の見るもの全てに興味がないからだ。
 しかし一つだけ芸術家として、武力を持って他国の文化を破壊し、作曲家の命の断片を破壊する行為には極め強い非難があるべきだと主張したい。

ウクライナの文化が守られ、少しでも犠牲者が少ないことを祈らずにはいられない。

倉橋ヨエコに関する雑考

最近、趣味で楽曲分析をはじめました。

その成果はnoteにまとめてアップしているのですが、先日アップした倉橋ヨエコの分析記事がやたら反応がいい。

彼女は有名シンガーでもなければ、2008年に活動停止してからもう14近くも経っています。

それなのに、まだ彼女の歌を聞き続けている人たちがいるんですね。

今日は彼女の音楽について、とりとめのない雑考をつらつらと書いていこうかと思います。

 

まず、倉橋の音楽は矢野顕子にかなり似ていると思います。

いや、似ているというか…………全然似てはいないんですが。

矢野顕子の温かみと包容力のある歌詞に対し、倉橋の歌詞は狭く暗く血肉のにおいがします。

歌い方も同じで、矢野顕子の柔らかく余裕のある声に対して、倉橋の声は芯にハリがあってキリキリと余裕のない声色です。

音楽性にしたって、矢野顕子は抜けるような長調や静的でジャジー短調が特徴的なのに対し、倉橋は叫ぶようなド短調です。

なのだけれど、すごく似ていると感じてしまいます。

歌い方のテヌート感や、メロディラインがペンタトニック調であること、ふわふわとした声の感じ。

そして何より、転調の仕方がとても似ています。

2人とも、同主長調や同主短調にひっかける形での3度転調をとても多用するのです*1

しかもその転調が、AメロやBメロの途中にいきなりくるというのも共通しています。

色々調べてみても、倉橋が矢野顕子の影響を受けたという情報は見当たりませんでしたが、女性シンガーソングライターかつピアノ弾き語り奏者である矢野顕子に触れて、倉橋は何かしらの影響を受けていたのではないでしょうか。

 

倉橋は、明和高校音楽科から武蔵野音大の器楽部に進んだといいます。

確かに、その音楽性にもクラシック的な雰囲気はしばしば見られます。

たとえば、経過和音として和音の転回形をよく使っていますし、作品中に直接ショパンの引用をした曲もあります。

 

これは、ソナタ3番の4楽章を。

 

これは、木枯らしのエチュードを直接的に引用していますね。

 

また、彼女のインスト楽曲である「薬指のエチュード」は、変奏曲形式で展開されていくピアノ曲で、まさしくクラシックピアノの技法が生きた曲という感じです。

まあ、途中でいきなりジャズになるのですが……。

 

さて、しかしこうして眺めてみると、彼女の音楽というのが音大的なものだとはとても思えません。

まず、彼女の音楽はめちゃくちゃ和音優位で、旋律線の絡み合いというものはあまりありません。

クラシック音楽には必須である対位法的な旋律動向が、倉橋の曲の中ではぜんぜん見られませんね。

加えて、彼女の音楽はクラシック的に見ると禁則だらけです。

メロディラインはしばしば和音とぶつかって不協和音を作ります。

悪いヴォイシングを敢えて用い、ぶつけなくてもいい音をわざわざぶつけたりもしています。

「夜な夜な夜な」のサビ前はその分かりやすい例です。

これは邪推かも知れませんが、倉橋は音大で勉強するピアノに嫌気がさしていたんじゃないでしょうか。

ショパンの直接的な引用をするあたり、そうした音楽自体は好きだったのだと思いますが、「薬指のエチュード」なんかを聞くとまさに『お行儀のいいピアノから解放されたい』というメッセージを感じてしまいます。

また、彼女のこうしたガンガン和音で押してくる作風、旋律同士のバランス調整を放棄して音をぶつけまくる荒仕上げ感は、ある種男性的(男料理的?)ともいえる気がします。

お上品にピアノを弾くおしとやかな女の子、というステレオタイプ的な偶像を、倉橋はどう見つめていたのでしょうか。

 

ところで、彼女の初期の曲は音質が悪い。

いや音質と言うか、MIXで楽器の音があまり粒立っていない気がします。

だいたいの場合、肝心のピアノがけっこう埋もれてしまっているのです。

Quick Japan」の第78巻で、倉橋はこんな言葉を残しています。

音楽は私にとってフィルターでしかないんです。言いたいことがあるがために曲を作る。あくまで、その曲を届けるために音楽の力を借りている。だから曲そのものに関しては滅茶苦茶強情ですけれど、アレンジに関しては、こうしなければならないっていうこだわりがないんですよ。

なるほど、曲を作る段階までは相当こだわるものの、できた曲がどう仕上がるかについてはあまり細かく興味がないわけです。

彼女の曲は曲ごとに雰囲気がバラバラですが、あれも多分そういうわけでしょう。

アレンジの段階では特にこだわりがないから、曲の仕上げはアレンジャーに任せてしまっているのだと予想できます。

彼女のこうした姿勢は、今の商業音楽の世界からすると全くあり得ないことですね。

というか、多分当時の考えでもありえないことだったと思います。

売れる音楽を作るには、作曲はどうでもいいからアレンジでかっこよく仕上げ、MIXで音質を詰める。

これが常識のはずなのですが、彼女の姿勢はまさに表現者そのものだったわけです。

 

最後に、彼女は2008年に廃業したわけですが、2019年に「machi」という名義でなぜか中国のテレビ番組に新曲を提供しています。

「machi」が倉橋ヨエコ本人だというのは、ファンの予想に過ぎず公式情報が出たわけではないのですが、まあ音楽を聞けば疑う余地は……全くないでしょう。

今まで暗く切羽詰まった音楽を作り続けてきた彼女ですが、最後に残された音楽はこの曲でした。

突き抜けて明るいわけではなく、歌詞はすごくナーバスだしどこか後ろ向きではあります。

でも、ゆったりとしたテンポの4つ打ちで奏でられるこの曲は、僕にはどこか倉橋の歩調、どこかを去りどこかへ向かおうとする歩みを表しているように思えました。

最後まで救いのない歌詞だった「今日も雨」と対照的な曲に思えるのです。

 

彼女がどこで何をしているのか、そもそもまだ音楽をしているのかも分かりません。

でも何にせよ、廃業から14年経った今でも彼女の曲は令和の世に流れ続けているようです。

僕ももう少し彼女の音楽を研究してみることにします。

*1:「同主長調や同主短調にひっかける形での3度転調」って何だよ、という方は、僕のnoteを読んでみてね。

〈音楽ガチ分析〉倉橋ヨエコ「夜な夜な夜な」|冨田悠暉〈音楽理論〉|note

Easy Listnerのためのアニメサントラ選 ~びんちょうタン編~

【前回】

アーカイブ

ARIA/スケッチブック/灰羽連盟/あっちこっち/風人物語/ココロ図書館/セイントテール

 

はじめに

春も近いこの季節、いかがお過ごしでしょうか。どうもgyoxiです。今回紹介するのはこのサウンドトラック。

 

 

びんちょうタン

より

びんちょうタン サウンドトラック』

 

f:id:nu-composers:20220312144007j:image

 

びんちょうタンについて

びんちょうタンとは、その言葉通り備長炭を擬人化したキャラクターで、このアルバムジャケットに載っているのがそのびんちょうタンだ。

 

びんちょうタンは、株式会社アルケミストの企画により誕生した、備長炭萌え擬人化したキャラクター、およびそのキャラクターを主人公とする作品。原作及びキャラクターデザインは江草天仁

びんちょうタン - Wikipedia

 

この作品、私は遠い昔に漫画を少し読んだ程度でしたが、たまたまDVDが売っていたので購入し、観てみるかぁ!と再生してみると

「このサントラ...すごない!?!?」

となって駿河屋で速攻で購入しました。なのでまだアニメは完全には見れてません...

 

さて、そんなアニメ作品の監督は古橋一浩だ。

 

f:id:nu-composers:20220312144322j:image

 

アニメーターの出身で『らんま1/2』から演出方面へと転身した。松本憲生中嶋敦子鈴木博文などのアニメーターとタッグを組むことが多い。また、アニメーター時代からスタジオディーン制作作品に携わっていたため、演出家に転向してからも同社とは繋がりがある。

絵コンテが緻密。古き日本映画を思わせる、情景を実写化したような写実的演出が特徴。キャラクターの情感にこだわった詳細な表情カメラワークをはじめ、アクション、殺陣の演出などに定評がある。

古橋一浩 - Wikipedia

 

古橋さんが他に監督をされた有名作品だとるろうに剣心HUNTER×HUNTERジパング等が挙げられます。私はいずれも視聴できていません...というか何よりびんちょうタンの続きが観てぇ...

 

オンド・マルトノの音色

このサウンドトラック作品で特徴的なのはオンド・マルトノと呼ばれる楽器が使用されていることだ。

 

f:id:nu-composers:20220312144706j:image

 

オンド・マルトノ (Ondes Martenot) とは、フランス人電気技師モーリス・マルトノによって1928年に発明された、電気楽器および電子楽器の一種である[1]。

 

この説明だけ見てもなんのことやらだと思いますのでyoutubeで実際に見ていただきましょう。こんな楽器です。

 

 

言葉で雑に説明すると、明和電機オタマトーンのような演奏方法と言えば分かっていただけるでしょうか。

リボンと呼ばれるワイヤーのついた指輪を指にはめ、トゥッシュと呼ばれる特殊なスイッチを押すことにより、演奏者は不思議な音を奏でることができるという寸法だ。

 

そして、そのオンド・マルトノを使ってこのサウンドトラックを作ったは岩崎琢だ。

 

f:id:nu-composers:20220312144407j:image

 

高校生の頃に作曲家を志す。東京芸術大学作曲科に在学中の1989年に、日本現代音楽協会新人賞を受賞。卒業後にアレンジャーとして音楽活動を開始。音楽ユニット「Smart Drug」に参加、3枚のミニアルバムを発表する。現在は、ドラマやゲーム、アニメーションの劇伴音楽を中心に活動している。

【インタビュー】SNSでも話題!? 岩崎 琢作曲による「魔法科高校の劣等生 来訪者編」のサウンドトラック盤が発売! - アキバ総研

岩崎琢とは (イワサキタクとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

岩崎琢さんが他に劇伴を担当されている作品だと、黒執事神様のメモ帳ヨルムンガンド等々があります。ヨルムンガンドの劇伴は非常に格好がよろしいので是非聴いてみてください。

 

さて、岩崎さんがこのアニメの劇伴にオンド・マルトノを使おうと思ったのには、このような訳があるそうです。

 

びんちょうタンの音楽は、基本クラシカルというオーソドックスなスタイルでありながら、

下手をすると当時全盛だった『萌え』という世界観に取り込まれるだけに終わってしまう様な緩いモノを作らないようにする為

柔らかさとある種のエッジ感を持つ楽器が必要だったので

容易に音が出せるシンセサイザーではなく 敢えて、オンド・マルトノを選択しました。

 

というのもあるけど、、 実物を見てみたかったんだよね。

びんちょうタンのサウンドトラックで岩崎さんを知りました。とても素敵で、私の大好きなサントラです。 | Peing -質問箱-

では、そんなこだわりのあるびんちょうタンサウンドトラックを早速聴いてみましょう。

 

Nostalgia

このタイトルと曲から思い浮かべるのは、どこか懐かしいような、不思議な感情が湧き立ってくる。因みにこの曲の33秒くらいからホワホワ音がしているのがオンド・マルトノだ。

 

小さな幸せ

春の木漏れ日の中で昼寝をしているような暖かな安らぎ。心の中は静まって、それでいてじんと暖かい。そんな幸せな情景をこの曲からは感じることができる。

 

空の上

この曲は空の上を飛んでいる情景を描いている。景色は遠くまで澄み渡り、青空が視界いっぱいに広がる。暖かな風を体いっぱいに受けて、気持ちの良い空の旅を楽しんでいる、そんな曲だ。

 

このアルバムの中で特に「面白いなぁ!」と感じたのがこの曲。曲の前半ではキラキラとした夢の壮大さと美しさをオーケストラ・サウンドが描き出し、そして曲の後半では“夢ならでは”な不思議さオンド・マルトノが見事に描き出している。

 

おわりに

今回はびんちょうタンサウンドトラックを特集しました。普段じゃあまり聴けないなかなか面白い音が聴けるので、是非一度聴いて、そしてその音に包まれてみてください。

ではまた!

~次回~