名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

クラシック音楽という呪い ~ ピアノ小品の出版に寄せて

作曲家のトイドラ、もとい冨田です。

私事ですが、僕のピアノ小品集「夜の窓辺にて」が先日発売されました!

5年前に書いた曲集を改訂し、このたび正式に出版していただけることになったのです。

しれっと榊原副会長の曲も出版されている

bridge-score.com

楽譜は Bridge Score 社様のホームページから買っていただけるので是非覗いてみてください。

 

それはそうと、僕はこの曲集のまえがきにこんな言葉を書きました。

この曲集では、そんな“輝かしき闇”を 28 曲ご紹介する。“闇の音楽”は、“光の音楽”とは運指や響きが少々異なっているので、はじめは戸惑うかもしれない。しかし、きっとすぐに慣れるだろう。なぜなら、闇や陰は常に光とあるものだから。

光の音楽」と言うと、僕の頭に真っ先に思い浮かぶのはクラシック音楽です。

長い歴史を持ち、格式高く、正統な音楽。

芸術としての音楽を語ろうと思えば、現代でもなおベートーヴェンやバッハのようなクラシック音楽を話題に挙げる人は多いのではないでしょうか?

ヨーロッパを舞台に連綿と紡がれた音楽史が、クラシック音楽には詰まっています。

 

しかし、よく考えてみてほしいのです。

なぜ日本の我々が、いや日本だけでなく世界中のたくさんの国の人々が、ヨーロッパの狭い地域で発達した音楽をずっと至高の芸術であるかのように扱っているのでしょうか。

ふと見渡してみれば、世界中の音楽は今やほとんど西洋クラシック音楽を母体としたものに塗り替わってしまっています。

今回は、そんな僕のピアノ曲集の裏テーマについて話していこうと思います。

 

もくじ

 

日本民謡の消滅

僕が運営しているYouTubeチャンネルで、先日ある動画を出しました。

童謡「てるてる坊主」をめぐる日本音楽史のナゾ解き動画です。

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この動画では、明治に日本で起きた「新民謡運動」の話に触れています。

この時代、世界は列強諸国による帝国主義で満ちていました。

ヨーロッパ諸国は、"遅れた発展途上国"に対して"進んだ自国の文化"を教えてあげようと、海を渡りキリスト教を世界中に宣教していたわけです。

そういった流れの中で日本も開国を迫られ、いきなりもたらされた西洋文化によって「文明開化」を迎えます。

 

動画の中では、こうした西洋音楽流入に揉まれて、少しずつ日本音楽が西洋的に捻じ曲げられたのではないか?ということを示唆しています。

「文明開化」の価値観では、西洋のものなら何でもハイカラでカッコよかったわけですから、西洋音楽は当然すばらしくカッコいいものだったのでしょう。

当時の日本は、山田耕筰や成田為三といった作曲家を西洋に留学させ、最先端の音楽を持ち帰らせていました。

列強と対等な立場を得るため、着物を捨ててスーツをビシッと着込みます。

どうやら「国歌」というものも制定しなくてはならないぞ、ということで急いで作りましたが、西洋風の音楽を作れる人がいなかったせいで何やら奇妙な国歌になってしまいました。

www.youtube.com

 

こんな調子で、日本はせっせと西洋化していったわけですが、西洋の真似をしたからと言って完全にヨーロッパになれるわけではありません。

当時流行っていた愛唱歌なんて、今では考えられないほどドギツい民謡調でした。

僕は、これは「文化的自殺」なのではないかと思います。

ちょっと言葉が強いですが、当時の日本は西洋に追いつくために嬉々として自国文化を解体していったのです。

こうした例は枚挙にいとまがありません。

 

文化的他殺

日本は嬉々として西洋化しましたが、そうではない例もたくさんあります。

例えば、西部開拓時代のアメリカではネイティヴ・アメリカンたちとその文化が害獣駆除のように殲滅されていきました。

日本でも、北方のアイヌなど少数民族は「文化的に遅れている」とされ、本土の文化にむりやり矯正されたり、やはり殲滅されたりしました。

大航海時代にヨーロッパが行った侵略も、語るべくもないほどの文化的死を伴っていることでしょう。

 

悲しいことに、そうして自分の文化を押し付けて他国の文化を殺していった人々は、たぶん悪気があったわけではありません

「進んだ自国文化を、遅れた他国に」

こういう動機の延長線上に、文化的他殺は起きたのではないでしょうか。

 

音楽は音楽でしかない

ここまでの話は文化全般にいえる話でした。

しかし、こと音楽に関して「西洋文化への偏り」はとりわけ極端な気がします。

アフリカの発展途上国や一部のアジアを除き、ほとんどの先進国はもはやクラシック音楽をベースに発達した音楽しか聴いていません

ド・ミ・ソの3和音を軸に、4拍で1小節のまとまりがあって、メロディは美しく3度でハモって、長調短調教会旋法で書かれていて…………

こうした特徴は全てヨーロッパの文法です。

これが「光の音楽」であり、ヨーロッパの人々は自国の音楽を「光だ」と思ったのです。

 

しかし、僕の考えでは、音楽は音楽でしかありません。

したがって、闇も音楽だといえるでしょう。

事実、西洋クラシック音楽に対するアンチテーゼも、実はかなり長い歴史がある音楽の文化です。

ただ、やはりそういった潮流、所謂「現代音楽」もけっきょくヨーロッパに端を発していることが、僕には不満でした。

 

「音楽が音楽でしかない」以上、歴史あるクラシック音楽も、今ここであなたが歌っているハナウタも、少なくとも「音楽である」という意味では同じだけの価値があります。

一旦それくらいフラットな目線に立てば、西洋の古典的な音楽をタキシード姿で演奏することにどのくらいの価値があるのか、今を生きる我々が個人で考え、感じることができるでしょう。

 

なんだか大風呂敷を広げてしまいましたが、僕のピアノ小品集では「闇の音楽」を画策しています。

これは怖い音楽とか暗い音楽ということではなくて、「今まで目を向けられなかったものに対して眼差しを向けたい」ということです。

日本の伝統的な音楽をベースに、もしこの音楽が今のクラシック音楽と同じくらいに発展していたらどんな響きになったか、試してみたつもりです。

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というわけで、僕の曲集の裏テーマをもとにちょっと語ってみました。

あくまで「裏テーマ」なので、別の大きなテーマもあるし、個別の曲に込められたテーマは様々です。

皆さんもぜひ聞いて、弾いて、いろいろ想像を巡らせてみてくださいね。