暑かった夏が長引くこと10月を越え、やっと涼しい秋かと思いきや一気に初冬となりました。私は珍しく風邪を引いてしまいましたが、皆様はお変わりなくお過ごしでしょうか。
さて、なかなか書くのが大変なので進まない本シリーズ、3回目の今回は日本人の作曲家田中カレンの創作の軌跡をなぞりながら、現代における重要な発見と、今はもう古くなったと言える価値観について考えてみたいと思います。
田中カレンは1961年東京生まれ。幼くして音楽の勉強を始め、湯山昭に師事し、一旦は青山学院大学へ進学するも中退し、桐朋学園大学に入学、本格的に音楽の道に入る。そこでは三善晃に師事し、在学中より国際的な活躍を始めると、フランスへ渡りIRCAMにてトリスタン・ミュライユに師事した。さらにイタリアにも渡ってルチアーノ・ベリオに師事、海外を拠点に多くの作曲賞を受賞し、活動の幅を広げていった。
こういった経緯からその作風には色彩感と透明感を基調とした倍音操作と、エレクトロニクスの導入がなされたものが多く、一貫して「クリスタル」を題材にした作品タイトルが多いことも頷ける。
一方、湯山昭、三善晃に師事した影響か、教育音楽のジャンルにも強い関心を示し、「星のどうぶつたち」を始めとした三部作は教育音楽の傑作として多くの人に支持されている。
近年は映画音楽の分野にも進出し、作風が徐々に変遷していっており、ジャンルによる作風の垣根が年々薄くなっているように思われる。現在はカリフォルニア芸術大学で作曲の教授職にあり、ロサンゼルスに在住している。
このように田中カレンは日本を代表する作曲家であり、また若い頃から二面的な作曲をしていたことがわかる。一貫してフランスに系統づけられる系譜に位置しているが、後年アメリカに居を移してからは作風にその匂いが立ち込めるようにもなっている。
日本の作曲世代としては中間的な時代の生まれであり、田中の後には秋吉台世代の台頭があり、田中の前には日本の前衛を牽引してきた巨匠の世代があるという、谷間的世代感を背景にしていることも、彼女の作風には無関係ではないと言えるだろう。
さてそんな彼女のキャリアを決定づけた初期作品として、「Wave Mechanics」があげられる。
1994年に書かれ、エレクトロニクスを用いたViolinとViolaを含む20人の奏者のために書かれた作品である。
まずこの作品を聴いてみよう。
どうだろうか。正統派というと語弊があるが、現代音楽であり、いびつな音響と非常に高音で揺らめく光のようなテクスチュアが独特の美しさをもっている。また同時に、長い持続を伴う基音の存在も特徴的である。
これら提示された素材が響きを変容させながら、透明感を失うことなく進んでいく。一見聴きづらそうな要素が多く盛り込まれたように感じるが、なぜか聴取感は悪くなく、IRCAMでの研究と自信の響きへの卓越した感覚が凝縮した作品である。
この作品は、立て続けに連作として同年に「Wave Mechanics II」が書かれれており、こちらはもっと編成を切り詰めきった作品で、エレクトロニクスを伴うViolinの独奏曲として書かれている。
続いてこちらも聴いてみよう。
「Wave Mechanics」で見せた素材をほぼ踏襲して、独奏曲に落とし込んでいる点で、この連作はかなりユニークである。
いびつな響きと、多重録音によって独奏とは思えないテクスチュアを作り上げており、この時代のスペクトル音楽、エレクトロニクスの浸透を否応なく感じさせられる作品である。
しかしこちらも何故か聴取感は厳しくない。その原因は一体何であろうか。一見すれば、特殊奏法とノイズ、さらに半音階的素材に満ちているはずの作品が、どこか調性音楽的側面を放っているのは不思議である。
これは「Wave Mechanics II」のいち部分であるが、このViolinの独奏断片は、よくよく見ると長七度の素材で半音階的ではあるが、基音に対して長三度と短三度とからなる、いわゆる長短合成音で作られていることがわかる。
さらに言えば、それぞれの群の移動は明らかに五度圏的支配が軸に敷かれていて、これが調性的感覚をもたらす原因になっているように思われる。
スペクトル演算を用いているし、十二半音素材を敷き詰めた作品であるにもかかわらず、そのカオティックな断片の間に、こうした調性支配的なピースが挿入されることによって、曲の骨格が厳しくなりすぎず、かといって極端に迎合的になるわけでもなく進んでいるのではないか。
もしかすると、彼女の作曲風景に、当時の最先端前衛語法への強い興味と同時に、自身の童景的違和感がつきまとっていたのかも知れないと感じることもできる瞬間である。
同じ頃ピアノ曲にも傑作と呼ばれるシリーズが書かれている。「Crystalline」である。このシリーズは第1番が1988年に、第ニ番が1995年から翌1996年にかけて、そして第三番が2000年に書かれており、ある意味で彼女の初期から転換点となるまでの間におけるマイルストーン的な作品として位置づけることができる。
今回はこの同時期性という観点から第ニ番に焦点を当ててみようと思う。
スペクトル音楽は多分に微分音を含む関係から本来であればピアノ作品には向かない。
しかし田中は平均律化された素材変容をその作品の骨格に据えており、この意味でピアノ作品に無類の強みを発揮している。これは同時代のIRCAMで学んだ作曲家の中でも異質の特徴と言えるだろう。ピアノを幼い頃から習って、親しみを持っていたということもこのことには強く影響しているのは間違いないだろうし、彼女の最も身近な存在でもあったことが容易に想像できる。
この曲も、半音階的な素材と、上部倍音が移ろいながら変化していくさまと、明らかなる基音の存在が挙げられ、この点は先ほど紹介した作品とも齟齬はない。しかしピアノ作品となった時に一際新しい素材として「反復」という存在がクローズアップされている。
これはややもするとミニマリズムにつながる動作であり、一柳慧が前衛を捨て、これからの音楽の中核にはミニマリズムがあるとして打ち出した1972年の「ピアノ・メディア」や1976年の「タイム・シークエンス」の影響を感じさせるものでもある。
不思議なことに彼女の音楽にはこの要素がこの後もより顕著になってゆくのだが、この「Crystalline II」もまた美しさの導出には調性的遷移を禁じ得ないというのも彼女らしさではないだろうか。
これは序盤に登場する繰り返しの断片の一つであるが、明らかに基音と上部倍音の変化を反復という素材によって彩っていることがわかる。このことからタイトルの通り「クリスタル」のような響きと感じられる、透明な光の印象が打ち出されるに至っていることは明らかである。
「クリスタル」的という表現はスペクトルの音楽にはしばしば見られるものでもあり、スペクトルをいち早く学び自身の音楽に組み込んだ、カイヤ・サーリアホの作品にも、同様の表題を持った作品が見られる。こういったことから本作はスペクトルの語法にはっきりと傾斜していながら、その素材の調理には彼女の幼少期からの音楽体験が息づいている瞬間に立ち会える瞬間と言えるのではないだろうか。
そしてここで彼女のライフワークといえるもう一つの側面を見なくてはならない。
こういったスペクトルに傾斜した作品を書きながら、彼女は教育作品に意欲的に取り組み始め、傑作と言われる曲集を発表することになる。それが「星のどうぶつたち」である。
この曲集は子どものためのピアノ曲として1994年から翌1995年に書かれ、その難易度も低いながら、それまでの子供向け作品にはなかった響きが多くの指導者、あるいは子供たちたちの胸に突き刺さり、評判が評判を呼んだことで、純粋なピアノ曲として演奏するピアニストも現れるなど、大きな衝撃を与えたのである。
私もこの頃この作品をNHKの趣味講座で取り上げられているのを聴いて、その美しさと単純さに非常に感動を覚えた一人であり、以来田中カレンという名前を忘れなくなったと言っても過言ではなかった。
ここでその曲集の一番初めの曲である「星のうた1」を聴いてみよう。
なんという透明感だろうか。そして彼女の語法、すなわちスペクトルの研究が子どものための作品に生かされていることに強く気付かされる。それは自然倍音列を子供のための曲に導入していることと、やはり基音と倍音という存在がはっきりと作品の中に描かれていることだろう。またこの曲も左手はG-Cという完全五度の反復によっていることも注目に値する。
これはこの曲の後半部分の一部だが、明らかに自然倍音列が用いられており、このことが美しいきらめきとなってこの曲の響きを形作っていることがわかる場面である。その意味ではこの曲は無調ともいえ、一曲目にこういった楽曲を、歌心あるメロディとともに子供のための曲集に書いたことは、音楽史上類まれな例といえるだろうし、彼女の原点への眼差し、すなわち湯山昭、三善晃の面影をも感じさせる仕事であると言えるだろう。
この大成功は、当然次作、次次作と連作化されていく。特に1998年から翌1999年に書か れた「光のこどもたち」、そして2010年から翌2011年にかけて書かれた「地球」は、彼女のこどものための曲集3部作として多くの教室、そして演奏家に愛されている。
普通に考えると「Wave Mechanics」の作曲とほぼ同時に、この曲集を書いていたことは驚き以外の何物でもないが、順を追ってみくると彼女の作風や書き方には矛盾がなく、別の顔をする必要はなかったことがはっきりわかる。
これは師である、湯山昭、三善晃も同様にして自身の作風の難易度の設定だけで、作風を変えずに両面の仕事をしたこととも矛盾はなく、その系譜を引き継ぎつつ、そこにちゃんとミュライユの影響すら織り込んでいるのである。
しかし2000年になると彼女の音楽に変化が見られ出す。変化といってもここまでに見られた語法の延長線という点に変わりはないが、こと芸術音楽のジャンルにおける変化はある意味で世間を驚かせ、ややもするとこの時代にあっては落胆されてもおかしくないものだった。
2000年に書かれた「Guardian Angel」あたりからはこの傾向が顕著になり、2002年にN響の委嘱で書かれた「失われた聖地」でははっきりとこの新路線が打ち出されている。
早速聴いてみよう。
いかがだろう。厳しい表現どころか、完全に調性回帰しており、メロディの美しさと彼女が元来持っている響きへの卓越したセンスでまとめ上げられた、ロマンティックな作品になっているのがわかるだろう。
長い持続や反復の多さは相変わらず見られるが、これは大胆な変化であり、映画音楽、劇伴と思われても全く不思議ではない作品になっている。
彼女はこの曲の初演に先立って行われたインタビューで、白石美雪さんの「最近はメロディのあるタイプの曲をお書きになるようになったのはなぜか?」というとに答えて、こんな事を言っている。
「(シリアスな)現代音楽を書くのに自分自身が疲れてしまって、自分の聴きたいと思う曲を書こうと思った」
これは非常に大きな発言であり、乱暴に言えば前衛からの逃避、脱落を意味するものである。
もちろんそういった音楽を否定することはせず、あくまでも個人的な音楽観の変化として語られたものであるが、同時代の音楽に対して「疲れる」とした姿勢が、これだけ世界で活躍した作曲家から言われるのは些か衝撃的である。
ではこの時代にシリアスな作品はないのかというとそうでもない。
例えばピアノの名曲として語られる「Techno-Etudes」も2000年に書かれた作品であり、こちらでは反復の要素がより際立って現れるようになってくる。聴いてみよう。
もうこれはミニマリズムへの傾斜が強くなってきているといっていいだろう。現代という時代をメカニカルなものと捉えているのかも知れない。そして音の構造にも変化が生じている。
これは「Tecno-Etudes I」の冒頭部分の楽譜であるが、明らかに反復を意識して書かれ、機械的に聞こえることをコンセプトとしていることがはっきり読み取れる。そして音素材に注目すると、基本的に完全四度の堆積からなる素材が、調性的誘導によって移ってゆくという構造を取っている。四度の堆積という規則性を破ってまでも次のグループに進む際には属音からの誘導が用意されている。そしてこの傾向に加えてIIでは更に大きな変化が出現する。
これは「Tecno-Etudes II」の冒頭部分だが、こちらはテクノミュージックのベースラインを思わせるPopな左手の反復、これはもはやリフと呼んでも構わないのではないかと思うが、これに完全五度の「メロディ」が載せられている。
そう、明確にシリアスよりの作品でも「メロディ」が回帰していることは特筆に値する。
このようにして調性回帰、反復の強調、メロディの回帰という軸に転換し、新しい境地に入っていくことになる田中だが、この頃のこどものためのピアノ曲集ではどんな姿を見せているだろうか。
この頃2005年にピアノ連弾のための曲集「ハーブ・ガーデン」を作曲している。全曲の音源が見当たらず、セレクションではあるがひとまず聴いてみよう。
一聴にして芸術音楽との境界がすでにぼやけてきおり、倍音の響きは重視されているものの、それよりも旋法性と単純化されたメロディを特徴としていることがわかるだろう。
これはこの曲集の中の第10曲にあたる「ローズマリー」の一部であるが、和音の種類が7thコードの多用となっており、さらにそのつなぎ方に目をやると極めてPop的な進行となっている事がわかる。裏コードのようなものも出現しており、語法がよりPop化してきていることの現れと見ることができるだろう。そしてメロディーは同音の連打を基本としている非常に単純なもので、ここにはミニマリズムの影がしっかりと残っている。
このように中期と呼べる時代、彼女の作風完全にPop風味の調性音楽へ思い切り舵を切っていることがはっきりする。極端な変化である。そしてこの傾向は近年まで続く。
その中で象徴的なタイトルのピアノ曲集が発表される。
2017年に久しぶりに作曲されたこどものためのピアノ曲集は「愛は風にのって」と題され、副題には「三善晃先生の思い出に」と書かれた。ここまで来ると完全に自分の原体験の振り返りとなっており、前衛の先鋒から「引退」した一人の音楽家の癒やしを求める声にもみえてくる。
この曲集の中から第10曲「遠い海の思い出」を聴いてみよう。
お聴きの通り、完全に調性音楽であり、タイトルと言いハーモニーと言いどことなく副題の示す三善晃の後ろ姿が感じられるものとなっている。
このようにPop的とも取れるハーモニーだが、よりその美しさの中心が原初的な彼女のもともと中心にあった音楽性に振っていることがわかる。こうなってくるともはや最先端の音楽を各作曲家ではなく、劇伴の作曲家のような質をも感じるが、このころ彼女は劇伴やアニメ音楽のジャンルでも仕事をするようになっているのだ。
こうした大衆向けの音楽にも身を投じる姿勢は、彼女の中の前衛への忌避のようにすら見える。
さらにこの頃から「水」や「海」をタイトルに選ぶ様になってくるのも特徴的であり、特に2012年から2013年にかけて書かれた「Water of Life」は武満徹の作品群に共感を寄せているようにすら見えるタイトルになっている。残念ながら音源が見つけられなかったが、こういった姿勢は大作曲家の晩年、達観の域に至った視座に共感しているかのようだし、武満や三善への憧憬は「愛」と「死」を意味する部分もあるのかも知れない。
そしてこのあたりから彼女はいよいよ次の大きな転換点を迎えることになる。
その転換点とはかつての語法と現在の語法の融合の試みである。
実は最近このことがはっきりする作品の音源がYoutubeにアップされたのだが、何かの問題で削除されてしまった。
それは2024年に書かれたピアノ協奏曲「Techno Etudes IV」である。過去作を下敷きにオーケストラを背景につけたこの曲は、まさに最近の作風と過去の自分との再統合を図るかのような実に印象的な作品であった。早期に再び音源が聴けるようになることを願わずにはいられない。
しかしここで重要なことに気付かされる。
反復を基調とした、ミニマリズムと調性的な音楽、無調やエレクトロニクスといったものが区別なく書かれるのは最近の若い世代の作品の特徴でもあるのだ。
例えばBen Nobutoがそうであり、国際的にも今の音楽として評価される最新のものは、調性を恐れないものになってきているし、一時否定されかけたミニマリズムもポストミニマルの形で再びよく使われる手法となった。
田中が意図的にそういったことを意識してこの曲を書いたとは思えないが、時を経て個人的な音楽のキャリアと語法に違和感を覚え、原点回帰をした彼女の、二度目の振り返りがかつての前衛語法なのだとすると、意図せず若い世代の語法と近しい関係となってしまうと言えるのだ。
こうなると田中の今後の活動には目が話せない。新しい境地に達したといえる、熟練の筆は一体次にどんな眼差しを私達に与えてくれるのだろうか。そしてその作品は時代が待ちわびた形、今が受け入れやすい形となって大きく注目されるのではなかろうか。
最後に音源の見つかる最新の作品を聴いて本特集を締めたい。
それは2019年にフルート、ヴィオラ、ハープのために書かれた「Wind Whisperer」である。
実は「Techno Etudes IV」につながる布石はすでにこの作品あたりから顕著になっており、ここでは「風」をテーマにしていることから、先述のこどものためのピアノ曲集「愛は風にのって」あたりから色濃くなる武満の晩年作のような風合いが出てきている。
そしてこの作品でも前衛時代の語法と、調性音楽の融合が個人的に試みられており、実に美しい、絶世の美のようなものを個人的に感じてしまう。そしてそれが偶然にも時代を越えて、今という時代に突き刺さるのである。
初演の模様の動画を観れば、観客の受け止めが素晴らしいものであることがわかり、まさに先程来指摘している、時代との邂逅が起こっていることを強く感じられると思う。
反復、調性、メロディ、倍音操作、特殊奏法、持続、田中がこれまで試してきたすべての語法が合一し、一つの美しい音の海となって立ち上がってくるのがわかるだろう。
身につけた語法が進歩的なものであり、世界的に評価されても、人間本来の音楽とはその人の原初の音体験に強く影響されるものであり、本当に心の底から愛おしくてたまらない音とは差異があることは非常に多くある。
今の若い世代の作曲家はそのようなことを悩みなく譜面に書き、そしてそれを受け止められる土壌が作られているが、田中の世代にとっては苦しみとともにたどり着いた到達点と言えるだろう。
しかし考えてみれば前衛が叫ばれた時代ももはや随分前である。そして音楽が闘争の意味と関係し、それ故に左翼的であった時代ももはや終わったのである。
アメリカにおけるトランプ氏の大統領返り咲きや、フランスの右派政権誕生、更に我が国でも左傾化した自民党の大敗や、野党追い風の中で失速した共産党の存在など、複数の理由はあれど、世界全体がそれまでの価値観である左翼的闘争の時代を終え、むしろ影で支配的となった左翼やそれ以前の極右思想へ、ノンイデオロギーの価値観が闘いを起こす様になってきているとも言えるだろう。
これは何も政治に限った話ではなく、このように音楽の世界でも静かに進行している。もう古くなってしまった前衛に挑む語法は調性とか無調とか、そんな音楽的イデオロギーの話ではなくなっているのだ。いつの間にか化石になっていた価値観を今変えていかなければ、もう若者と歩を合わせることは叶わないだろう。そして奇しくも田中の音楽は結果として、若者の歩と呼応するに至った。このことをもう少し重要視してみても良いのではないだろうか。
彼女の今後の創作活動に引き続き注目して行きたい。