名大作曲同好会

“音楽”を創る。発信する。

君は『3分映画宴』を知っているか

日本には全国に“奇祭”と呼ばれる祭りがある。その中に、「映画」に関する奇祭鳥取県米子市に存在した...その名も

 

3  分  映  画  宴

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3分映画宴とは

3分映画宴とは、鳥取県米子市で開催されている映画祭「米子映画事変」内の催しの一つである。

 

 

そもそも米子映画事変とは、(自分もあんまり詳しくは分かってないけど)鳥取県米子市で開催される映画祭であり、超平たく言えば米子の町おこしイベント的な感じである。

で、その3分映画宴という企画なのだが、「上映時間が3分(180秒)以内の映像作品の映画作品」という超単純なレギュレーションのため、どう考えてもプロの犯行レベルの超作品からtheアマチュア感全開のブッ飛んだ作品まで、ありとあらゆる作品が百鬼夜行の如く集う映画祭なのである(褒め言葉)。

ちなみに、本来なら米子にて上映会が行われるのだが今年は生憎のコロナ禍のため、2020年はオンラインで映画宴が執り行われていました。

 

この映画祭を知ったのは私が今年の冬ネットサーフィン中にたまたまyoutubeのオススメに出てきたことからだ。

その受賞作品群のカオスさの虜になり、後ニ週間くらいずっとその作品群を見て楽しんでいた。その後第10回映画宴3分映画宴をオンラインで視聴し、ますますその虜となった。そこで思った、

 

「是非皆さんにも3分映画宴を見て欲しい!」

 

youtubeには各受賞作品がアップロードされており、それだけでも混沌さを実感することができるので、今回は私のお気に入りを皆様にも観ていただき是非その混沌さを体感していただたい(強制)。


作品紹介

おっぱいジパング

自分が映画宴の中で一番好きな作品。クッッッッソヌルヌル動くアニメーション・勢いに満ち溢れた(勢いしかない)ストーリー展開・BGM(フルボイス)付きという狂気の三段構えで、これを初めて観た時は始終笑ってた。見る抗鬱剤因みに友達に見せたところドン引きされました。

 

パーフェクトラウンド

監督はイラスト・アニメーションクリエイターの花蟲だ。第13回 文化庁メディア芸術祭「ひとりだけの部屋」という映像作品で入選もしているので、絵柄を観てピンと来る人も多いだろう。少し不気味な絵柄と不思議で独特な世界感は観ていてゾクっとするものがある。

 

滑舌悪男のラブロマンス

こちらは高校生(?)が撮った作品。冴えない滑舌悪男が女の子に告白をするが、やはり滑舌の悪さから聞き取ってもらえず失敗。しかし彼はポケットから「時間逆行ボタン」を取り出して... 非常にシンプルな展開ながらも最後のオチまでしっかりとしていて、「これは面白い!」と言わせる内容だ。

 

PPP

こちらはコマ撮りで作られた作品。グロ注意。2勢力の戦いと、その最中現れた巨大な敵を描く。巨大な敵が兵士をブッ倒していく様はまさに圧巻。おそらく粘土や針金や絵の具といった身近なものを使っているのだろうが、それだけでこれだけのグロテスクなスペクタクルを表現できているのは流石という他に無い。

 

不思議なポーチ

個人的に結構お気に入りな作品。突如動き出したポーチを撮影した作品。ワンカット(?)で作られているのも流石だが、学生が授業の合間に駄弁る雰囲気動くポーチに対する反応が実に学生っぽくて大好き。もしかしてこれって本当に撮ったやつですか?(すっとぼけ)

 

リエちゃんはマフィア少女

こちらは再びアニメーション作品。この作品のすごい所は、このアニメーションのみならず、漫画が投稿されていたり、オフィシャルファンブックが作られていたり、ポータルサイトが作ってあったり、過去に展示会も行っていたりと、作品自体をメディアミックスに仕上げているところだ。こういうの、すごいワクワクしますよね。

 

パンツ職人のパンツインパンツ

おっさんの宴会芸。おっさんがただひたすら色々な方法でパンツを穿くという動画。普通ならに色んな穿きかたをしててすごいが、生活感丸出しなのがクソ面白い。なぜこれが入選したんだ枠の頂点。

 

おわりに

 

今回はお気に入りの7作品だけを取り上げたが、これ以外にも超絶個性的なお気に入り作品は数多くあり、オンライン開催された第10回についてはノミネート作品も全部視聴することができるので観てみてください。観ましょう。観ろ。

そして、おそらくこれから、第11回の作品応募が始まるでしょう。来年はどのような作品がノミネートされるのでしょうか。私は楽しみで楽しみで仕方ありません。映像に自信のある皆さんは是非応募してみてください。

最後になりますが、第10回米子映画事変の現地開催はコロナの影響により、延期に次ぐ延期を食らっています。次の開催予定は11月27日~28日だとか。どうか無事開催されますように。そして第11回の頃には、コロナ禍も収まっていますように。

いつか自分も現地にいきたいな。

 

おわり

 

trace of rei harakami レイハラカミの思い出

レイハラカミが亡くなってからもうすぐ10年が経つことを知ったのは、ユリイカで彼の特集が組まれていたからだった。

思えば私の音楽人生は、彼にかなり影響されている。たまには思い出話でもしてみよう。マジで思い出を書くだけなのでオチとかないです。

 

私が彼のことを知ったのは今から7年前、2014年の夏頃のことだ。
当時の私はサカナクションを起点にテクノポップ渋谷系、テクノにエレクトロニカを聴き漁っていた。そこで出会った音楽の一つがレイハラカミの「にじぞう」だった。


サイケデリックでシュールなMVとポリリズム、チープだが暖かみのある音色、すべてが14歳の私には衝撃的だった。

とはいえ日頃ハイファイな音を聴いていた14歳にとってSC-88pro(以下ハチプロ)の音はあまりにちゃっちく聞こえたのもまた事実である。これを受容できるようになったのは同時期に出会ったHASAMI groupの影響が大きい。

特に秘密の科学は当時よく聴いていて、14歳は多少音がチープでも全く気にしなくなった。むしろチープでないと不安になるくらいには毒されていた。

 

まあそんなこんなでローファイな音楽に触れて、レイハラカミの良さを少しずつ理解できるようになっていったのだ。彼が故人であることを知ったのもおそらくこの時期だったように思う。

  

それからは彼の作品でYouTubeに載っている音源はほぼすべて聴いた。自分の知らないレイハラカミの曲が減っていくにつれて「もう彼の新曲が出ない」という現実が立ち現れた。

 

当時のお気に入りはafter next joyで、これは今でも変わっていない。

iTunesの存在を知ってからは、彼の作品をいつか揃えたいと常々思っていた。しかし14歳の小遣いではアルバムを購入するのは難しかった。そして当時はCorneliusの方が好きだったため、14歳の手によってレイハラカミは後回しにされたのである。

 

これは大変な間違いだった。なぜなら翌年2015年、彼の音楽はこの世から忽然と姿を消したからである。所謂廃盤というやつだ。iTunesから彼のアルバムは残らず消えて、ペチカのアレンジともう一曲だけが残った。


以来レイハラカミ関連の商品は見つけ次第片っ端から買いそろえるようになった。とはいえなかなか町中で出会えず歯がゆい思いをしていた。

当時、近所の寂れたレンタルCD店に通う習慣があり、そこでred curbを見つけた。このときの喜びは計り知れないものがあった。サブスクでいつでも聴ける今となっては、おそらくもう体験できない類いのものだろう。ウォークマンにいれて毎日のように聴いていた。

 

そしてその約2年後、レイハラカミの版権はringsというレコード会社に移り、再度発売・配信されることになった。
しかしiTunes限定で配信されていたafter next joy、にじぞう ミニなどは配信されなくなっていた。

ウォークマンもなくしてしまった私は、大学受験に打ち込むという名目で音楽から一旦離れることとなった。

 

さらに2年後、晴れて大学生となった私はApple Musicを使うようになり、今までとは比べものにならないくらい彼の音楽を聴くことになる。所有欲は満たされたが、だからといって彼の音楽への興味は尽きることがなかった。


彼が手がけたremixも集め始めた。DC/PRGというバンドのライブに行ったときにpan american beef stake federationという曲の奇っ怪な曲のこれまた非常に奇っ怪なremix、「pan american beef stake federation Rei Harakami 餅米 Re-Arange(メッセージ付)」が収録されたremixアルバムを買った。

youtu.be

DC/PRG主幹の菊池成孔がサイン(思いっきり名前を間違えられたのを私は忘れない)をしてくれたのだが、そのとき菊池が「おおこれか、これはね~良いアルバムなんだよ」と言ったのを良く覚えている。菊池はアルバム全体に対して言及したのだろうが、私はレイハラカミのremixに対して言ったかのように受け取った。(実際アルバムの中で一番良い)

今やそのDC/PRGも解散してしまった。

 

かつて15歳がred curbを借りたレンタルCD店は、サブスクリプションサービスに押され、過去作のレンタルCDを売り払うようになっていた。

その棚にはかつて自分が借りたred curbも存在していた。ここで再び出会ったのも何かの縁だと思い、購入した。


ハチプロを模したSound Canvas VAというプラグインDAWに導入した。使ってみて思うのは、逆再生やピッチシフトこそ行うものの、音色自体はそこまで弄っていないことが多いということだ。逆に弄りまくってる音はどうやって出してるのか全然わからない。

ただ音色云々よりかは、ディレイによる空間演出や、ハチプロとは一切関係の無いクラシカルな作曲方法が彼の個性に繋がっているのを改めて感じた。

 

そしてユリイカのレイハラカミ特集を見つけたのだ。
ここ数年忘れかけていた「レイハラカミが本当にこの世にいない」という感覚を思い起こさせる文章群だった。寄稿されてる文章の多くが弔辞のようで、文字を眺めているだけで葬式に行った気分になる。

 

最近彼の映像作品(彼は映像系の短大に通っていた)を載せているYouTubeアカウントを見つけた。とりあえず机の女という短編を見たが、何を意味しているのかさっぱりわからなかった。


さっぱりわからなかったが、このわからなさは彼の音楽に表出しているようにも感じられる。この二つの共通項を探すのは興味深いし、おそらくその部分が未だ明文化できない彼の音楽の魅力なのではないかと思う。

 

そして没後10年になる今、ハチプロの音を使って一曲作ってみた。表面的には模倣してみたが、どうにも納得のいく音楽には近づけない。そのうちリベンジをしようか、既に思案中だ。

レイハラカミの音楽を模倣しようとするのはある意味ナンセンスな行為だという自覚はあるが、彼の音楽への探求はやめられないのである。

五輪と音楽

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オリンピック

 まもなく東京オリンピックが開幕する。
 コロナ禍で延長されたが、そもそもの開催年であった去年の西暦を変えず「東京オリンピック2020」と称したまま開催されるそうだ。2021年には誰もコロナ禍が収まっているだろうと甘く考えた結果がこの名前に現れているのは言うまでもない。
 そしてIOCの史上稀に見るクソ会長である、フーガの書けない偽物のバッハなる輩や、コーツなるゴミなどを筆頭に言いたい放題の圧力を日本にかけ、中国の国際機関への支配を見せつけてきた。いくら日本人が温厚だからといってなめ過ぎである。現に私は堪忍袋の尾がすでに切れている。目の前にバッハ会長がいたらどうなるかわからない。そして残念なことにこの世界バイオテロ戦争下における日本の宰相は、地方の田舎出身の苦労人という触れ込みで出てきた菅義偉であった。この宰相はまったくもって鈍く、判断はどこか他人任せ、その割には裏で強権を握って恐怖政治をしてきた人物であった。さらに悪いことにこの総理擁立には、昔から小沢一郎とともに売国活動に余念がなかった二階俊博が絡んでおり、まあやりたい放題の最低政権となっている。無論コロナの蔓延はとどまることころを知らず、さらに開催地の風見鶏知事こと百合子ちゃんも、ときの1:9ヘアこと菅総理もまったく責任を取ろうという態度は見えない。

 考えてみれば上皇陛下が御わす時に、悪疫が都に蔓延し、時の御上は無能の悪代官という、なんか日本史で習ったような構図である。歴史は繰り返すということか。

 それなら次に起きるのは令和の大飢饉かあるいは令和の大塩平八郎の登場による、打ちこわしという民衆の武装蜂起だろうか。とまあ私はもともと保守層の人間であるが、ポリティカルコンパスによると「中道左派」と言われていた。日本の地軸が左に傾いているので保守に見えていただけで、さほど保守ではなかったことが今になって強烈な政権への憎悪になって吹き出しているというわけだ。

 ここまで強くバッシングすれば私が今回の東京五輪について反対の立場で、開催直前であっても中止を主張していることはおわかりになるであろう。しかしもともとスポーツ観戦は大好きであり、東京五輪誘致成功のときは、テレビの中で飛び上がって喜ぶ猪瀬知事を見ながら何やら感動し、同じようにこの五輪の日を楽しみにしていたのである。それが、新型コロナウイルスなる出来損ない兵器のバカみたいな漏洩で世界が危機に瀕してしまった今、その考えは全てかき消えて、ただ中止を、国民の命を、自分の命を最も大切に考えているわけである。

 

 そこで今回のオリンピックを音楽の面から見てみようと考えた。

 

 オリンピックと言うとつきものなのがファンファーレであろう。そしてその中で最も有名なものは1984年のロサンゼルス五輪のために書かれたものではないだろうか。

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この名曲を書いたのは映画音楽の大巨匠であるジョン・ウイリアムズなのである。

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John Williams

 オリンピックの音楽には、その国を代表する作曲家が関与するのが一般的で、まさにアメリカのオリンピックで音楽を書くなら彼というのは間違いのないところだったと思う。しかし短い曲でもしっかり彼の音楽の持ち味や作風が出ている点は素晴らしいの一言だ。

 一方で海外のアーティストに音楽を任せる例もまた存在しており、例えば1992年バルセロナオリンピックでは日本人の坂本龍一が音楽を手掛け、開会式で自らタクトを握ったことが話題になった。曲のタイトルは五輪時は「バルセロナオリンピクス」だったが後に「El Mar Mediterrani(地中海のテーマ)」とされた。
抜粋ではあるがお聴きいただきたい。

 

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 作曲した坂本龍一は日本を代表する広範囲の創作を行う作曲家、マルチコンポーザーであることは説明の必要はないだろう。

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坂本龍一

 その反面、若い頃から突出した極左論者であり、その闘争の歴史はなかなか私などにはよく理解できないものであすらある。しかしその思考が、闘争が感動の押しつけであるオリンピックに向けられ、彼の言葉で語られたこの音楽は実にオリエンタルな要素、現代から古代の要素、更にはPopsの要素も加わった素晴らしい曲である。
 要はオリンピックへの皮肉が結実された音楽であり、不完全終止を愛する彼の完全終止音楽は、予定調和への当てこすりというふうにも考えられるのである。
その点で私はこの曲こそ彼の最高傑作ではないかと思ってすらいる。


 さて話を日本に戻そう。
 日本では今回開かれるであろうクソ大会を含めて今までに4回のオリンピックを経験している。(※1940年の幻のオリンピックを含まない)

すなわち

・1964年東京オリンピック(夏季)
・1972年札幌オリンピック(冬季)
・1998年長野オリンピック(冬季)
2020年東京オリンピック(夏季)

である。

 それぞれの大会は今般のものを除いて大いに盛り上がり、日本の歴史に刻まれるものとなった。まあある意味今回のものもすでに始まって以来のクソ五輪として歴史に刻まれているけれども。

 オリンピックが盛り上がる時、同時に上述のようにその音楽も話題になるのだが、日本の各大会ではどうだったのか見てみようと思う。


 1964年東京オリンピックではそのファンファーレは公募とされたそうである。
 そして見事にその公募に当選したのは、今井光也というよく知られていない人物の作品であった。

 

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今井光也

 今井は1922年11月1日に長野に生まれオーケストラ団員の父から手ほどきを受けて、一般業のサラリーマンをしつつアマオケに入り活動していたという。また作曲はちょくちょくしていたようで、このファンファーレ以外にも校歌や団歌にその名前が見られるようである。ちなみに2014年5月6日に91歳の天寿を全うされたとのことである。
 そしてこのファンファーレは知らないようで日本人なら誰もが耳にしたことのある曲である。聴けば納得の名曲であり、またファンファーレなのに短調で書かれている点も極めて珍しい。

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 これを聴くとアレ?と思う人もあるかもしれない。この後に本来は行進曲が続くはずと。しかしそれは間違いである。たしかにファンファーレとマーチはセットで演奏されることが多いが、この後に続けられる行進曲は朝ドラ「エール」のモデルとして話題になった古関裕而が書いたものである。

 

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古関裕而

 古関裕而は1909年8月11日に福島に生まれ、リムスキー=コルサコフに師事したとも言われる賛美歌の作曲家金須嘉之進に師事、その後は山田耕筰の薫陶を受け、主に歌謡曲、流行歌、軍歌のジャンルで多くの名作を残した。
 しかし実際に古関は、こういった商業音楽だけでなく、純音楽もかなりモダンに書きこなす力があったと言われ、交響曲を3つやコンチェルトなども書いたそうだが、いずれも紛失あるいは焼失してしまい、無調風の歌曲「海を呼ぶ」のみがそのモダニストの姿を唯一伝える曲となってしまっているのは、非常に惜しい。

 と言ったわけで古関裕而が書いたこの「オリンピックマーチ」を先程の今井のファンファーレとセットで聴きいただきたい。

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 極めて流麗でありながら軍歌を得意とした彼のマーチの上手さと、突出したメロディメーカーっぷりがはっきり分かる日本の顔たる名曲である。

 

 

 さて次は1972年の札幌オリンピックである。
 実は私は冬季オリンピックのほうが夏季オリンピックより好きなのだが、札幌リンピックにまつわる曲は先の東京オリンピックよりも素晴らしいと思っている。

 まずファンファーレを手掛けたのはなんとあの三善晃である。おそらく彼初の吹奏楽曲がこれだとも言われている。

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三善晃

 三善晃は1933年1月10日に東京に生まれている。その後は平井康三郎、池内友次郎に師事しながら東大仏文科に進む。そしてその途中でフランスに渡り勉強をしたがこれを中退し帰国後、ありとあらゆるジャンルの純音楽を天才的な筆で書く日本を代表する作曲になった。
 フランス和声を軸とした、決して調性を手放さないものの、極めて無調的に拡張された独特の音世界を構築、特に声楽、合唱の世界の大改革を行ったことは有名である。2013年10月4日に80歳で亡くなった彼の作品は膨大を極めているが、どれもすぐにそれと分かる突出した個性を持っており、これは彼の戦争経験に基づく死の匂いだとも言われているようである。

 そんな彼が手掛けたファンファーレ、ぜひ聞いてみよう。

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 おお!三善ワールドがこんな短い中にも詰め込まれている。特に終止の和音進行は素晴らしい。

 そしてこれに次ぐ行進曲はというとたくさん書かれているのである。
その中でもまた古関裕而が手掛けた「純白の大地」はオリンピック賛歌として清水みのるの詩がつけられている。

 

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 なるほどさすが古関と言ったところか。覚えやすいメロディに、よくなる和声、歌謡にしてはうますぎるオーケストレーションだ。

 

 先程今大会にはたくさんの行進曲が書かれていると言ったが、その他を見てみよう。


 合唱界の渋めの作曲家岩河三郎も関係曲である行進曲「虹と雪」を書いている。

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岩河三郎

 岩河三郎は1923年9月9日に富山の生まれ、2013年9月16日に90歳でなくなるまでに、保守的で教育的な作風で多くの合唱曲や歌曲、校歌を残しているが、少ない器楽作品でも意外なことに吹奏楽作品は数曲書いている。
そのひとつがこの行進曲なのである。聴いてみよう。

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 実にオーソドックスなコンサートマーチと言えるだろう。そして特筆すべきなのは、トリオのメロディだ。これはあれ?と思う人も多いだろう。
 そうこれはトワ・エ・モワの歌った「虹と雪のバラード」の引用である。なるほどユニークである。しかしこれだけ真っ直ぐにちゃんとマーチを書くというのは一周回ってすごいなと思う。やはり色々ひねりたくもなるものだが、そういった衒いが一切ない。

 

そして次は入場行進に使われたという曲である。
「白銀の栄光」と名付けられたこの曲は、山本直純の作曲である。

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山本直純

 山本直純は前にも触れたとおり、自分の活動の指名をクラシックの裾野を広げることと割り切って活動しており、純音楽作品は実は少ないのだ。その中でもこのマーチは彼の作風際立つ素晴らしい行進曲で、聴いているだけでワクワクしてくる。

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 いや直純節満点でスカっとする。書くならこういう気持ちの良い行進曲を書いてみたいものだ。

 開会式にはまた別の作品が用いられ、こちらは矢代秋雄が手掛けた。

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矢代秋雄

 矢代秋雄は1929年9月10日に東京に生まれ、若い頃から楽才を発揮フランスでナディア・ブーランジェにも師事している。濃厚で緻密、対位法と複雑なわせを組み合わせた作風は隙きがなく、完璧主義であることが用意に想像できる。それだけに作品数は少ないがそのどれもが大傑作と言われる。なお矢代は1976年4月9日に46歳の若さで急死している。

 そんな矢代が書いた曲は、吹奏楽のための祝典序曲「白銀の祭典」と題されている。聴いてみよう。

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 はじめはオーソドックスに感じるかもしれないが巧妙に仕組まれた和声と、響き合うファンファーレがユニークである。その後の部分も五度堆積和音の保続などなかなかの趣向を見られる、いやこれも傑作ではないだろうか。

 

 

 

 

 さて次は1998年長野オリンピックである。
 私は1978年生まれなので、唯一生まで見た日本のオリンピックである。毎日テレビにかじりつき、特に日の丸飛行隊の大ジャンプには感動して泣いた記憶が鮮明に残っている。その大会のファンファーレを当時もう音楽の道に入っていた私は楽しみにしていた。そしてその楽しみは裏切られなかった。

 長野オリンピックのファンファーレは日本の大巨匠湯浅譲二によって手がけられた。

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湯浅譲二

 湯浅譲二は1929年8月12日に福島県に生まれた。ほぼ独学であったが、独習だけではだめだと痛感して、基礎的な理論を中田一次に習っている。その後は実験工房のメンバーとして日本の前衛を牽引し、方眼紙で作曲に当たる方法論を採用、アメリカを拠点に世界的な影響を与えたのである。
 極めて難解な語彙を用いる作曲家であり、ナラティヴィティとコスモロジーを自らの作風の説明として用いるなど、一筋縄で行く人ではない。そんな湯浅が一体どんなファンファーレを書いてくるか楽しみでしょうがない。早速聴いてみよう。

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 「冬の光のファンファーレ」と題されており、不協和音が煌めきを持つように書かれ、最後まで独特の音楽世界を貫徹している。これはファンファーレ単体としても凄まじい傑作ではないかと思う。終止の音さえドミナントを含むというのは驚きである。

 

 続いて入場の曲であるが、開会式での小澤征爾指揮するところの第九が印象的すぎて、開会式全体はあまり記憶にない。実際には石井眞木が監修をし、石井眞木、田中贒、藤田正典、松下功の4名がそれぞれ別の曲を担当する形で書かれたようだ。また子どもたちが歌う歌はアンドリュ・ロイド・ウェーバーが手掛けたとのことだ。

よくわからないので開会式の映像を貼ってみようと思う。

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 なるほどいずれもとらぬ現代の巨匠の仕事である。ちゃんとそこに日本があるのが誇らしい。

 

 

 では今大会はどうなのだろうか。
 はっきり言って開催反対の私はその信念として今大会を観ようとは思わないし、沿道に出ようとも思わない。家の中で静かに時がすぎるのを待ちたいと思う。
 アスリートには罪はないが、自分の主張をするのもまた人としての尊厳であると信じるからである。しかしすで大会前にしてこの開会式を手掛けるコーネリアスこと小山田圭吾の過去が掘り返され、謝罪するに至るなどグダグダな雰囲気である。

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小山田圭吾

 そんな批判の嵐の中でアーティストがしっかりとアートできるのか甚だ疑問である。五輪反対という思想は分かるが、だからといって何でも叩けば良いとは思わない。小山田のしたことは許されないかもしれないが、五輪がなければ、今の形で強行されてさえいなければ、ここまで騒がれただろうか。私は一アーティストとして、微力だがアーティストのへのクソミソの批判には反対する。彼は極めて優秀な日本の財産であり、つまらない政争の具にされるような人物ではないと思うからだ。

 しかし一方で、開会式の音楽担当が彼だと聞いてがっかりもした。更にメダル授与の音楽は劇伴で有名な佐藤直紀が担当するということも聴こえてきている。

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佐藤直紀

 これもある意味がっかりである。
 みんな表面をなぞるだけで、本来の日本の文化伝統というものを理解していない。過去のオリンピックを見てみろ、素晴らしいではないか。それが何だ、今大会の体たらくは。ただの感動の押し売りに成り下がり、メディアのおもちゃとなった大会に高い文化を求めることなどできようはずがない。期待ハズレも良いところだ。強行してまで開催され、感動を与えたいなどと首相が述べる様な五輪に感動すると本気で思っているのだろうか。もしそうなら完全頭のイカれたクズである。
 感動の押し売りがいかに馬鹿らしいかということを、感動ポルノがいかに無意味かを、24時間テレビがずっと示しているではないか。五輪という素晴らしい大会が24時間テレビ並みの俗な低級ショーにまで堕ちたのは明白だ。


さあ今からでも遅くない。直ちに中止を決断するのだ。

自作曲あけすけ解説シリーズ③「夜の窓辺にて」~楽曲編その2~

~前の記事~

 

ピアノ小品集「夜の窓辺にて」 /冨田悠暉 - YouTube

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曲のタイトル

前回では、「あつくって ねむれない」まで解説しました。

今回はその続きいってみましょう。

 

【もくじ】

 

街のからすの守り唄

カラスという鳥は、基本的に嫌われ者です。

というのも、都会でごみを漁ったり猫を襲ったりしているせいですね。

そんなカラスは真っ黒な色をしており、夜・闇・悪魔といった印象を漂わせています。

 

しかし、そんなカラスも元々は他の野鳥と同じように、山で木の実や虫なんかを食べて平和に暮らしていたわけです。

童謡の「七つの子」なんて、まさにそういう情景じゃないですか。

 

街中でゴミ袋を破いているカラスたちから、僕は哀愁を感じます。

今じゃ七つの子がいるのは山ではなく、電柱の上とかになってしまいました。

 

「街のからすの守り唄」の冒頭で示される民謡調のメロディは、カラスたちが山にいた頃の祭りの唄です。

その民謡調のメロディが、民謡の雰囲気をやや残したまま、瀟洒な和声で彩られて行きます。

つまり、カラスたちはもう山から下り、街にいるということです。

カラスたちはまだあの祭りの唄を忘れてはいませんが、その響きはほんの少し郷愁を含んでいます。

 

つまり、闇は実のところ光なのかもしれないというコンセプトが詰まっているのです。

 この曲も密かに僕のお気に入りです。

 

 

好きな子ができて……

こちらの曲は、先ほどの逆では実のところ闇なのかもしれないというコンセプトで書きました。

「好きな子ができる」、すなわちというのは、多くの人にとって輝かしいことの代表格みたいに思われています。

でも、恋って意外と暴力的なものじゃないですか?

 

この曲の主人公は、1人の男の子です(別に女の子でも構いませんが)。

ちょっと前から、あるクラスメートのことがなぜか頭から離れません。

だけど、この子はまだ恋という概念を知らないので、炎のように押し寄せてくる感情の正体が分からず、戸惑うしかありません。

最後には、何が何だか分からなくなって、衝動的にその子を突き飛ばしてしまいます

どうして突き飛ばしてしまったのか、その子自身にも分からない……とまあこんな情景を想像しながら作曲しました。

 

音楽的なことを言うと、この曲には特殊な工夫がいくつかあります。

まず、主人公が好きな子を突き飛ばしてしまった瞬間の表現として、ドガアァァ~~ンという効果音を用いています。

これは、ピアノのペダルを強く踏むことで得られる音です。

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特殊奏法

また、得体の知れない感情にさいなまれる戸惑いを表すため、特殊な調号を用いています。

この曲は、全音音階(ホールトーンスケール)に音を1つ加えたスケールで全体が構成されており、そのため全音音階のアヤシイ雰囲気が強いですね。

ちなみに、そんな怪しいスケールをさらにトイドラ式ロクリア旋法理論(TLT)で和声的に解釈することで、この響きは生まれています。

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変な調号

 

母さんが ねずに ないてる

この曲は、マジで僕の母が寝ずに泣いてるときに作りました

めちゃめちゃ意味の分からない理由で言い合いをした後で、母のすすり泣く音が聞こえてきて僕も眠れなかったので、BADに入りそうになりながら作曲をしていました。

 

それはそうと、母が泣いているという状況を目の当たりにすることは、子どもにとって衝撃的な出来事です。

母親は子供にとって神であり、正義であり、光の象徴ですから。

そんな母が泣いている、ということは、今まで信じていた光が実は光ではないのかもしれない、ということです。

唯一の光に縋っていられるときは終わり、自分というものを確立する、つまり独り立ちしなくてはなりません。

 

そんな不安定で動揺に満ちた情景を表現するため、ここでも音楽的な工夫がしてあります。

この曲を形作っているスケールは、リディアン・スケールです。

リディアン・スケールは、「リディアン・クロマチック・コンセプト」を見てもわかる通り、音楽の中で最も響きが安定しており、きれいに響くスケールです。

つまり、音楽における神、正義、光というわけですね。

 

しかし、そんなリディアンスケールにトイドラ式ロクリア旋法理論(TLT)を適用すると、おかしなことになります。

TLTは従来の音楽と真逆の音楽理論なので、従来の音楽では使えなかったロクリアン・スケールが模範的なスケールに、そして従来の音楽における神、正義、光だったはずのリディアン・スケールは使用禁止になります

実際、この曲は調的に不安定で、終止和音に解決感がありません。

今までの音楽でロクリアン・スケールを使った時のような不安定感を、ここでは逆にリディアン・スケールを使って醸し出している、というわけです。

 

よるのむこうに みた こたえ

さて、この曲は聞いた瞬間分かる通り「君が代」のアレンジになっています。

日本国家として有名なアレです。

この「君が代」、前にもブログで詳しく書きましたが、実は音楽的にだいぶひどい誤解の元に作られた曲です。

日本音楽を西洋人が誤った解釈の元で編曲した結果が、みんなよく知るこのオーケストラ版なんですよね。

そこで、ちゃんとした解釈で「君が代」をちゃんとリハモナイズしたい、というのが最初の着想でした。

 

では、なんでただの「君が代」がこの曲集に入っているのでしょうか。

これは、アイデンティティの確立という意味で大きな意味を持っています。

 

生まれというのは、子ども側から選ぶことはできません(子どもは親を選んで生まれてくるんだよ~みたいな戯言は却下)

僕は日本に生まれてくることを選んだわけではないし、今の親から生まれてきたのもただの偶然です。

とはいえ、それが自分という人間の形成に大きくかかわっていることは言うまでもありません。

 

つまり、アイデンティティを確立するためには、

  1. 自分の「生まれ」を認め
  2. その上で「生まれ」という枷から脱却する

ことが必要だというわけです。

自分の生まれを無視していても、そこに縋っていてもダメということです。

 

そこへ来て、この曲はどうでしょう。

君が代」という国家を題材としながら、その在り方に疑問を持ち、自分なりに解釈し直しています。

これこそがアイデンティティを確立する瞬間ではないでしょうか。

 

よるのむこうに みた こたえ」というタイトルには、それなりに重みを持たせたつもりです。

 

窓に映った迷子の詠唱

こうしてアイデンティティを確立したわけですが、そう簡単に思春期は終わりません。

鏡を見れば、もう1人の自分が「本当にそれでよかったのか?」と醜い顔で語りかけてくることでしょう。

未来への漠然とした不安と自己嫌悪の瞬間です。

 

この曲は、旋律とスケールが鏡写しの構造になっています。

具体的には、ロクリアン・スケールとリディアン・スケールの複旋です。

ロクリアン・スケールとリディアン・スケールは、上下鏡写しの構造を持つスケールですからね。

また、最後の部分はあからさまに旋律が反行しているのが分かるでしょう。

 

夜の窓辺で 見たものは

この曲は、曲集の終曲を飾っています。

他の曲は1曲あたり長くても5日くらいで作っていたのですが、この曲だけはなんと1か月かかりました。

また、他の曲は作曲しながら題名を考えていたのですが、この曲だけは先に題名を決めてありました。

 

この曲について語ることはあまりありませんが、1つだけ。

実はちょっとだけ、三善晃の「海の日記帳」へのオマージュがあります。

ピアノ小品集「海の日記帳」の終曲を飾る「波のアラベスク」、この曲からリズムモチーフを拝借しました。

雰囲気が少しだけ似ているのではないでしょうか。

ついでに言うと、「海の日記帳」の終曲は28曲目、「夜の窓辺にて」の終曲も28曲目です。

 

おわりに

いかがだったでしょうか。

正直、自分のような無名の作曲家がこういう記事を書いたところで、どのくらいの人が見てくれるのか分かりません。

しかし、逆に言えば無名の作曲家でもこのくらいのことを考えて作曲をしています。

もしかしたらこのシリーズ、まだ続くかもしれません。

Easy Listnerのためのアニメサントラ選 ~ココロ図書館編~

【前回】

nu-composers.hateblo.jp

 

アーカイブ

ARIA/スケッチブック/灰羽連盟/あっちこっち/風人物語

 

梅雨がまだまだ続きますが、晴れ間には陽射しが眩しい季節となりました。いかがお過ごしでしょうか。どうも、gyoxiです。今日紹介するサントラは、太陽の眩しいこれからの季節にぴったりのこの一枚。

 

ココロ図書館

より

 ココロ図書館オリジナル・サウンドトラック

 

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ココロ図書館について

ココロ図書館」は、こころ・あると・いいなの三姉妹がココロ図書館の司書として働く中で起こる様々な出来事を描いた作品だ。いわゆる癒し系日常作品で、アニメの脚本曰く、"「全く毒の無い」物語"に仕上がっているとのこと。視聴した私としても、あまり深くは刺さりませんでしたが、「いやこれ、絶対に熱烈なファンがいるでしょ」と感じるほどの癒され具合でした。これはなかなか...

さて、そんな作品の原作は髙木信孝・脚本は黒田洋介が作っている。

 

大阪を本拠地とする一流家電メーカーで技術者をしながらBoo(ぶぅ)というペンネームで同人誌活動を行ってきたが、30歳のときに漫画家を目指して退職[1]。

友人である脚本家の黒田洋介の脚本で執筆した『ココロ図書館』(『電撃大王』)で商業誌デビューを果たす。同作品は後にアニメ化された。

高木信孝 - Wikipedia

 

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黒田洋介さん

高校卒業後、東海大学に入学。在学中は漫画研究会に所属。本人曰く「行かなくなってしまって」19歳で大学を除籍。雑誌編集者を経て、1993年スタジオオルフェ結成に参加。ゲームシナリオの仕事をしていた関係から本格的にアニメ脚本を手掛けるようになる。[2]


で、なんで今回は脚本まで紹介しとるのか、ということですが、実は髙木さんと黒田さんは

髙木さんが漫画家を志望して退職することを黒田さんに報告→黒田さんが「今から修行するのでは遅い」と判断→『月刊コミック電撃大王』の編集長に髙木さんを売り込み→黒田さんが脚本を書くことを条件に商業デビュー(ここまで約一時間半)

ということがあったのだそうです。いやはや、人の縁とはすごいもんですね。

さてさて、このアニメーション作品の監督を務めるのは舛成孝二だ。

 

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舛成孝二監督

観客へ手を広げてウェルカム!「宇宙ショーへようこそ」舛成孝二監督 : 映画ニュース - 映画.com

 

初期はますなりこうじ名義で活動していたこともある。

2001年に製作されたOVA作品『R.O.D -READ OR DIE-』は大反響を呼びアニメ監督として高い評価を得る、同時にこの作品はヒットし続編が監督自身によって2003年に『R.O.D -THE TV-』としてテレビアニメ化された。

舛成孝二 - Wikipedia

 

私が観た舛成監督の作品は、かみちゅ!です。というか今観てます。これもまた、なかなか素晴らしい作品でして、まあ、この話は、いずれまた...

([追記]この記事を書き終わったその日の夜、「宇宙ショーへようこそも視聴しました。面白かった...)

 

ココロ図書館の音楽について

さて、そんな毒のなく、柔らかで優しい作品の音楽を作っているのは保刈久明だ。

 

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保刈久明さん


保刈久明ファーストライブ『The Day of Solaris』開催決定!|株式会社 キョードー東京のプレスリリース

保刈 久明 (ほがり ひさあき)は、日本作曲家編曲家音楽プロデューサー福島県郡山市出身。

同郷の小峰公子と結成したユニットKARAK1991年メジャー・デビューしているが、2010年現在、同ユニットは事実上の活動停止状態である[1]

ギタリストとしては溝口肇ZELDA濱田理恵ZABADAKなどのレコーディングやPSY・Sのライブツアーバンドに参加した。

新居昭乃の作品における共同作曲、編曲、ライブサポート(エレクトリック・ギターなど)、ROCKY CHACKの編曲、プロデュースのほか、アニメ・映画関連の仕事も多い。

2013年には、初のソロアルバム『DOZE』を発売した。

保刈久明 - Wikipedia

 

そんなココロ図書館サウンドトラックには、”爽やかな夏”を感じ取ることのできる曲がいくつかある。今回はそんな曲を聴いて、間近に迫る夏に思いを馳せてみよう。

 

窓に映るひまわり

この窓とはおそらく図書館の窓のことだろう。山奥の古びた図書館の窓から見える、空とひまわり。比較的彩色の少ない図書館の中から眺める、目に鮮やかな青と、そこに揺れている黄色。この曲を聴くと、そんなクッキリとした色彩が瞼の裏に映る。

 

空につづく坂道

深く青い空に聳え立つ大きな入道雲。目に染みるような空の青。そんな景色の中をゆっくりと登ってゆき、ふと後ろを振り返ると、遠くに見える街並みに向かって、爽やかな風がドゥっと吹き抜けてゆく。この曲からは、そんなひと夏の爽やかな体験追体験することができるだろう。

 

風の強かった日

林の木々を揺らして絶え間なく吹き抜けていく、気持ちの良い爽やかな風。その風に乗って、自分もまた、林の中をかけてゆく。眼に眩しい木漏れ日たちがキラキラと踊る。気持ちの良い風の疾走感を全身で感じることができるのがこの曲だ。

 

遠い夏 光の庭

誰しもが持ってる、夏に関する記憶。人それぞれ、さまざまな思い出があるだろうが、それはとても懐かしく、そしてどこか穏やかで静かなものだ。この曲は、そんな遠い夏を思い出すときのあの懐かしい気持ちで溢れているのだ。

 

おわりに

今回はココロ図書館サウンドトラックを紹介した。蒸し暑いまだまだ梅雨も続きそうでなかなか爽やかにはいかないかもしれないが、このサウンドトラックを聞いて気分だけでも爽やかな夏を満喫してみてはいかがだろうか。それではまた。

 

~次回~

日本のエクストリームミュージック②ノイズカレー

人間の三大欲求は俗に

・食欲

・睡眠欲

・性欲

と言われている。音楽は当然これらを満たすことはできない。

 

そのはずだった――。

youtu.be

不定期にエクストリームミュージックを紹介する謎記事、第二弾はノイズカレーです。

ライブするたびにツイッターでバズっているので、知っている人も多いかもしれません。

 

パフォーマンスの流れ

彼のパフォーマンスを先ほど添付した動画で確認していただいたかと思いますが、ここで今一度その流れを復習しましょう

①カレー調理中に音楽を流す

②調理音をアンプリファイして流す

③ノイズと化す

④できあがったカレーをみんなで食べる(おいしい)

です。

作ったカレーを食べるので、ライブハウスはワンドリンク制にしなくてもよさそうですね(しらんけど)。

 

「カレーは飲み物」はもう古い!! 「カレーは音楽」

ごらんのとおり、男がステージ上で調理をしていますね。これはカレーです。

彼はステージで調理を行うことによって、私たちに「カレーは音楽ですか?」という問を投げかけているのです。これを前衛と言わずして何を前衛というのでしょう。

 

カレーに必要なのはスパイスではなくノイズだった

そして彼は調理中のカレーに奇声と爆音のノイズを聴かせるのです。もうおわかりですね? カレーを美味しくする上で必要なのはスパイスではなくノイズなのです。カレーにノイズを聴かせると美味しくなる、宇宙138億年の歴史の中で最も驚愕すべき事実がここに明らかとなってしまいました。

 

どうしてこうなったのか?

しかしここで一旦冷静になって考えると、ノイズを爆音で鳴らしながらカレーを作るという奇行がポンと現れたとは考えにくいです。何かしらステップを踏んで徐々にこの形態に移行したと考えるのが自然です。そしてそれを裏付けるデータを私は入手しました。

以下の資料をご覧ください。

www.j-cast.com

資料から一部抜粋すると、

 

・元々の活動

ノイズカレー:ロックやパンク、オルタナティブ系のバンドをやってました。今は活動停止中です。パートはドラムです。知り合いと即興バンドをしたり、また海外の路上で空き瓶を叩いて生活してた事があったので、それをライブで、ソロでやったりしていました。

 

・きっかけ

ノイズカレー:最初はライブハウスでフードを作っていました。ですが、気が付いたらステージ上でそれをやっていて、気が付いたら定期的に呼ばれ...やっていく中で進化していきました。(このスタイルに行き着いた)理由はありません。

(気が付いたらステージ上で??????????????????)

ちなみにカレーの作り方は我流だそうです。

 

最近の動向

最近はなかなか観客ありでの公演も難しいらしく、オンライン開催のライブも行っているようです。

 カレーを味わうのにもはや舌は必要ない、耳で味わえということでしょうか。今後の動向に目が離せませんね。

私達のコンサートのメッセージ

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バトンタッチ

いよいよその日が近づいてきた。
 達成率100%以上となったクラウドファウンディングとういう大きな支援を頂いて、私達のコンサートが始まろうとしている。

 前回私のブログの担当週ではそのコンサートからストラヴィンスキーの「春の祭典」、そして伊福部昭の「ピアノ組曲」について、祭儀性と土俗性という2点から少し考えてみた。

 

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 そして私の個人プロジェクトを元とする「忘れられた音楽」で取り上げた淸一二については、特集記事を以前に書かせていただいている。

 

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 また各会員による新曲の説明については以下のように特集を組んでいる。

 

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 となれば残りの作品に対する解説をしないとどうにも片手落ち感が否めないのも事実だ。たしかに一切の解説なく、自らの主観と出会いの瞬間によって音楽聴取の恍惚に触れるのも良いことだろう。
 しかし私達はプログラムというものも芸術表現の一環であると考えていて、その中で会員による侃々諤々の議論と分析をもって選び出された楽曲たちと、その配置には大きな意味が隠されているのである。

 

 少し苦言を言うなら、昨今クラシックのプログラムと言うと十年一日の内容で、さらにプログラム自体への洞察や解釈もされていないものが多いように思う。
 曲というものは生まれた背景がかならずあるものだ。そしてその曲には少なからず作曲家の身を削る思いそのものが注ぎ込まれている。技術だけに長けたものは、何曲であってもその譜ヅラをさらっと演奏してみせることも可能だろうし、オケなどでは観客の反応が良い曲ばかりを並び立てるのはビジネス効率が良いのだろう。
 しかしそんないい加減な姿勢で生命の雫と言っても良い作品に臨んでいてよいのだろうか。
 私は全くそうは思わない。だからこそプログラムにこだわり、さらに演奏者にも深い解釈を求めていたいのである。自分が何らかの形で制作に関わる演奏会やサロンプログラムでも、これまでこの姿勢は一貫して貫いてきたつもりである。
 今回ももちろんその姿勢は変わらず、また多くの会員にそのことを理解してもらえたことは、実に大きな実りであった。

さて話をもとに戻して残る曲を見てみたいと思う。

・A Summer Journal/Robert Muczynski
・Veiled Autumn/Joseph Schwantner
・春の風景/長生淳
・日本の四季/中田喜直

上記の4つが未だ未解説になっている楽曲である。抜粋ではあるがこれらから作品を演奏させていただく。


A Summer Journal/Robert Muczynski

 ロバート・ムチンスキーはポーランドアメリカ人で1929年にシカゴに生まれている。その後ピアノと作曲に熱中し、どちらの道に進むか悩んでいたようであるが、ドゥポール大学で師に作曲の道に進むように助言され、そのことで人生を決定したのだという。このことからも分かる通り彼自身がかなり優秀なピアニストでもあったわけで、彼の作品群にピアノ曲が多いのもうなずけるのである。
 今回取り上げる「A Summer Journal」という作品は彼の前中期の頃の作品で、1964年に書かれ、作品番号は19番となっている。本来は7曲からなる組曲で夏の風景を描写した小品群からなっている。今回はこの中から、Morning Promenade、Park Scene、Midday、Night Rainの4つを取り上げる。

 ムチンスキーの作風というのは当時のアメリカの作曲家の一つの典型例にあたるものということが出来るだろう。つまりJazzのイディオムを取り込んでいる点である。
 またアメリカのクラシック音楽というのはそもそも歴史が短く、その定義を作り出したのはアーロン・コープランドであり、民衆の音楽として、市民の音楽として存在しようとするという特徴を示している。
 ムチンスキーの音楽はコープランド的なメロディとJazz的な掛け合いを特徴とするとよく論評されるが、実際どうなのかMorning Promenadeから検証してみようと思う。

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終止和音

 これはMorning Promenadeの終止和音である。
 見ての通り左手にはE♭の和音、右手にはE♭mの和音という長短混合のハーモニーで曲を閉じている。これはバークリーセオリーというJazzの理論で言えばテンションハーモニーという部類のもになり、この和音はE♭(#9)と書かれるハーモニーと言える。典型的にJazzの匂いのする和音として頻繁に用いられているものだが、ムチンスキーのそれとバークリーセオリーのそれには大きな隔たりがあるのだ。

 というのもバークリーセオリーで見たときにはこの和音は(Bluesの一種を除いて)機能はドミナント、つまり属和音でないといけないことになっている。
 ムチンスキーの場合、上記の例を見ても明らかのように終止和音としてこの和音を選んでいることから、これはトニック、つまり主和音として捉えていることがわかる。つまりクラシックの和声を拡張するときにラヴェル的に非和声音を多く含む形に変容させる手法の一つとして、長短混合和音を選んでいることが伺えるのである。

 

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冒頭の進行

 これはMorning Promenadeの冒頭部分の和音進行を抜き出したものである。専門的ではあるが、これらの和音は実に機能和声を彼自身の方法や、様々なイディオムによって拡張しているものだとわかる。

 はじめの和音も長短混合和音であり、ムチンスキーはこの和音の和声主体は下方に置かれた長和音が主導すると考えているようなのでこれはIということになる。続いて出くる和音は完全四度の堆積からなる和音であり、ダリウス・ミヨーのような語彙を感じさせる。四度堆積和音はその軸をどの構成音にでも取れるのだが、ここではDisに置かれていると考えられる。そうするとこの和音は↑Vという半ズレ和音の亜種であると見ることが可能になる。反復進行が行われ2回目の↑VはVIへ進行するが、VIの和音には上部に非和声音の拡張が行われていて、コードで書くならEm7(9)となる。次のC#m7(b9)は少々難解だが、おそらくは「↑↑vi/V9」と捉えられ、これを反復し2回目に登場するときには同じ音を「↑vii/V9」と読み替えている。続いてF7(13)になるがこれは次のF7(#9)とセットで次のBbm7(9)へのドミナント、つまり「○-iii/V9」と捉えられる。
 このようにズレと非和声音の拡張が彼の持ち味であり、フランスから輸入された、つまりラヴェル、ミヨーの影響下で生じたハーモニー構成が主体になっていると言えるのではないだろうか。

 この楽章にすると朝の慌ただしさと、その後のホッと一息と言った情景に対して、その気だるさの表現として長短混合和音が有効に用いられていると言えるだろう。また気だるさというのは気温や湿度にも関係してくる。
 彼の持つ和音特性が、そういった気象特性を意識して用いられることで、この組曲を通じて極めて暑く気だるい夏の表現の主体として働いていると読むことが出来るだろう。全楽章に通じてこの特性は現れてくるので、風景表現の音楽として、目を閉じて夏の情景を想像しながら聴くと極めて印象的な時間になるだろう。

 

 

Veiled Autumn/Joseph Schwantner

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Joseph Schwantner

 ジョセフ・シュワントナーは1943年にムチンスキーと同じシカゴに生まれた。幼い頃からギターに親しみ、フォーク、ジャズに親しんだことが、彼の作品形成の根源にあるのは間違いなさそうである。その後はスクールバンドでテューバを演奏し、吹奏楽の名門ノースウェスタン大学修士号と博士号を取得したことは、明らかに彼の作品群に吹奏楽作品が多いことと無関係ではないだろう。
 彼の作風はよくフランス的でドビュッシーメシアンの影響があり、またミニマリズムやアフロミュージックの影響、そしてバルトークの影響があると論じられている。実際にそれは響きが美しく、折衷的な語法で変化に富む色彩を持っていることからそのように言われているのだろうが、専門的に見るとすこし様相は違うように思う。
 しかしシュワントナーの音楽はモードセオリーに力点が置かれており、その説明にはピッチクラスという分析方法の心得がないと難しいので、ここではそこまでは踏み込まないことにしようと思う。
 簡単に言うと、旋法を主体としていて、これを数理構造的に変化させることで音楽に変化を起こし、複合的に移旋されたものを積み上げて行われるマトリックスという手法を用いてレイヤーされることで、時層コントロールをも行おうとしている。
 たしかにそういった意味ではメシアンの影響下にあることは否定できない、しかしそのモードの中心はメシアン的なものではなく、むしろ幼いころから親しんだJazz的なものであり、特にリディア旋法を中心に編み上げられる響きを特徴としていると言って良い。

 今回演奏するVeiled Autumnは彼の非常に珍しいピアノ独奏曲である。実際に彼はこれまでピアノ独奏曲は2曲しか発表しておらず、この曲は子供向けの曲集の中に収録されている。

 はじめから彼の語彙とわかる旋法性を打ち出し、これを小規模に変化させながら響きを変えてゆくように変化していく。変奏を主体としているとも言えるが、大雑把に見ると楽曲の形式は古典的なものをベースにしており、ロンド形式の援用であろうと思われる。ロンド形式はその性質上、主題と主題の間に副主題を挿入して進む形式であるから、彼の作曲方法であるモードセオリーによる変化の音楽と相性が良い。

 

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冒頭

 これはこの曲の冒頭部分であるが、非常に緩やかでありながら金属質の光沢を持つ美しい響きが立ち上がってくる。第一小節目の構造を見てみると、次のような特徴があるのがわかる。

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第1小節


 この音形には3度6度5度という要素、加えて2度と7度という要素が見られるのだが、音楽的には3=6、2=7、4=5なので、ある規則を持って構成されていることがわかるだろう。このうち2=7についてはそれほど意味をなしているとは言えないものの、3度と5度については次の小節ではっきりと意味づけがなされる。

 

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第2小節

 この金属質で美しい音列はやはりはじめの小節同様の音程的特徴が見られ、更にはじめの3音と終わり3音はP5移行形となっている。これら数的な秩序を持たされた音を平均化して並べ替えてみると以下のようなリディア旋法を主体と見ることが出来るようになる。リディアであると断言するのは実は少々難しい検証が必要だが、調的中心から判断できるものである。

 

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リディア旋法に還元できる

 彼の生まれたシカゴは四季があって、秋はその中でも非常に短い季節であるそうだ。「ベールに包まれた秋」という詩的なタイトルから、どんな秋を想像するのだろうか。或いはそれは想像の中の秋なのかも知れない。

 

 さてここまで外国人による作品二つについて見てきたが、実は一見日本と無関係と思われるこれらの曲には、日本と非常に大きなつながりが隠されている。シュワントナーについては、日本の吹奏楽界でもよく演奏されるおなじみの作曲家であるということと、旋法性を用いるスタイルから名作同の会員の作品と精神的に親しい関係があるといえる。また「秋」をテーマに出来る地域の出身であることは大きなつながりと言えるだろう。

 ムチンスキーに関してはどうだろう。ジャズの影響、近代フランス的な和声構造、コープランドの築いたアメリカ音楽の中にある点など、あまり日本との関係は感じられないかも知れない。しかし彼の作曲の師を知れば、通人ならなるほどと思うだろう。彼の作曲の師は「アレクサンドル・チェレプニン」である。

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Alexander Tcherepnin

 チェレプニンといえば日本の作曲家の作品からユニークなものを取り上げ、自身で演奏、出版、録音を行い世界に紹介した日本クラシック発展期の大恩人である。
そして今回のプログラムにある伊福部昭は実はこのチェレプニンコレクションに選ばれた作曲家の一人なのである。こうやって実は緻密に構成されたプログラム。残る日本人作品の曲に移っていきたい。

 

 

春の風景/長生淳

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長生淳

 長生淳は1964年に茨城県に生まれた。幼い頃から音楽に親しみ、東京藝術大学で永冨正之、野田暉行に師事している。吹奏楽やアンサンブル関係の作品も多く、特に須川展也率いるトルヴェール・クアルテットとのコンビは彼の出世の一つとなったのは間違いない。
 極めて色彩的で、Popな感覚に溢れた作品はこういったSaxとの交わりの中で培われたのだろう。そしてオーケストレーションの達人としても知られ、ルイ・アンドリーセンが審査員であった2000年には武満音楽賞を見事受賞している。
今回はこの組曲である「春の風景」より第1曲目の「春の夜の夢」を演奏する。

 

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冒頭部分

 これはこの曲の冒頭の楽譜である。左手で演奏されるテーマが実はこの曲の主要動機となっていて、これを定旋律のようにして様々な脚色が施される、パッサカリアにも似た構成をとっている。

 

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中間部分

 このフレーズは曲の途中で現れる下降型のフレーズである。これも何度か繰り返される音形であるが、上記二つよりなんとなく想像するのがメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」である。

 

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メンデルスゾーンの冒頭

 これはメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」の冒頭のハーモニーだが、この曲の主要動機と雰囲気が幾分似ているようにも感じる。

 

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メンデルゾーン下降形旋律

 また「夏の夜の夢」にも重要なテーマとして下降形の旋律線が出現するのも面白い。メンデルゾーンの「夏の夜の夢」はオーケストラ曲として知られているが、実はもとはピアノの連弾曲であった。フェリックスが姉と演奏するためにシェークスピアの作品を題材に17歳の時に書いた作品である。
 そしてこのシェークスピアの作品には「妖精パック」が登場するのだが、このパックをテーマにしたドビュッシー前奏曲がある。

 

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ドビュッシーのパックの踊り

 それがこの「パックの踊り」であるが、このメインメロディに感じられる日本的なムードは五音音階を中心システムとして採用していることから起こってくる。
これは長生の曲の主要動機後半部分の形と部分的に似ていなくもない。

 これらはおそらく偶然の一致であろう。

 しかしそういった関連付けをして読んでいくのは音楽の文化的な楽しみの一つではないだろうか。実際にこの「春の夜の夢」もジャズのイディオムをまといながら官能的なクライマックス向かって突っ走ってゆく。そしてその情熱的な春の恋は、夢うつつの中に消えてゆくのである。


さて最後の一曲だ。

 

 

日本の四季/中田喜直

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中田喜直

 中田喜直は1923年に東京の渋谷に生を受けた。多くの歌曲や童謡を残しており、その多くは多くの人に愛され歌い継がれている。父は作曲家の中田章、兄に同じく作曲家の中田一次がおり、兄に作曲の手ほどきを受け、今の藝大の前身である東京音楽学校を卒業している。戦中の混乱期であり、卒業は特別の繰り上げで、そのまま戦地に赴き特攻隊員として終戦を迎えたという。
 意外なことに若いときにはジャズピアニスト志望であったという。今回はそんな中田が書いた四手連弾の組曲であるこの組曲から最後の一曲「冬がきて雪が降りはじめ、氷の世界に、やがて春の日差しが」をお送りする。
 美しいタイトルであり、また「春夏秋冬」のどれかに四季を固定するのではなく、冬から春へという動的に移り変わる切れ目なき四季を描いているのが特徴だ。タイトル通りの情景を実に丁寧に描写した本当に心から美しいと思える曲だが、この曲が四季のどこか一点をとって描かなかったのは理由があるのだろう。

それは万物流転、円環思想の現れと言っていい。

 そう、実は我々のコンサートこの「円環」の思想こそがテーマになっているのである。この中田の名作でそのことを打ち出して、後半の会員による新曲のステージに繋がるのだが、新曲はどれもどこか一つの四季に拘泥したものはない。日本人の四季観というものは、その死生観とも符合し、まさに流転と次代へのバトンタッチなのである。

 この死と円環という思想を最も色濃くテーマにしていたのは三善晃であった。しかし今回その作品の姿はない。我々はどうしてそこにその姿を置かなかったのか。それは秘密にしておこう。


言葉が多ければ味わいを損なうものである。
たまには黙ってみようではないか。

 

 はてなブログに投稿しました #はてなブログ

 ということでプログラム順に見てみると、

 「春の祭典」では処女が神に捧げられる原始の姿、そして「春の夜の夢」では官能的で儚い出会いが、「A Summer Journal」ではある母の日常の中の夏を。そして夏の訪れは生命の根源を揺り動かす大地の胎動を伝え、秋の匂いがベールに包まれ訪れ始めると、月の光に満ちた秋の夜長に舞い踊る。やがて雪が降り出し、踊るような雪を眺めていると再び春の日差しが現れる。一人の人間の成長と四季の流転を並行させ、円環の思想のもとに次代へのバトンを繋ぐ。


我々のピアノコンサートの主題はこんなところにあるのである。

 

 せっかくのオンライン配信なので、かしこまらずお酒を片手にゆっくりと楽しんで頂けたら幸いである。そして表現の、あるいはプログラムの在り方に、一石を投じることが出来たなら、私はこれ以上なく嬉しい。