名大作曲同好会

“音楽”を創る。発信する。

高等な遊び、以心伝心

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以心伝心

 世の中に音楽は一体何曲あるのだろう。
それこそおびただしい数の音楽が存在するだろうが、これらを似た感じの曲に整理していったら、どのくらいの種類にまとまるのだろうか。

 

似た曲を聴くと必ずパクリだと騒ぎ立てる

「自称音楽通」

が現れる。

 

冒頭で結論をだすのは些か拙速だが

「おととい来やがれ」

と申し上げておきたい。

 

たしかに中には悪質なパクリが存在することも事実だ。
ときにはそれが係争に発展する例もあるし、作者がその事を認めた事例だってある。

しかし何でもかんでもパクリとしてしまう程度の低さには閉口せざるを得ないのもまた事実である。
そこで今回は非常に高等な遊び、あるいはテクニック、以心伝心としての「パクリ」を紹介しようと思う。

 

実はこれは2018年の門下会における特別レッスンで話した内容の一部でもあるのだが、とりあえず次の曲を聴いてみよう。

 

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Valses nobles et sentimentales/Maurice Ravel

 

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Maurice Ravel

 フランス近代の大巨匠モーリス・ラヴェルの書いた大傑作「優雅で感傷的なワルツ」である。
タイトルをそのまま体現した、ノーブルでセンチメンタルなこの楽曲の味わいは、バスク人を親に持つラヴェルの一端を味わうのに最高の一曲だろうと思う。

 

この曲を書くにあたってラヴェルシューベルトのワルツをモチーフにした」と語っている。

 

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Valses Nobles/Franz Schubert

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Franz Schubert

こちらがそのシューベルト「高雅なワルツ集」である。

ではラヴェルの言ったことは具体的にはどういうことか、ラヴェルのほう、特に第1番の冒頭に着目してみよう。

 

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優雅で感傷的なワルツ 第1番の冒頭部分

華やかで非常に金属質のいかにもラヴェルといったハーモニーから始まり、直ちに音階を基本とするモチーフが導入され、転調が促され気がつくとV調に終止する。

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同 和音分析

基本的なハーモニー分析を行ってみると、和声の進行は非常に基本的であり、かつ明瞭を極める。
そこに大胆な非和声音が導入されることにより、ラヴェルの音楽となっていることがわかる。またラヴェルはこれら非和声音にも別の命を与えているのである。

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冒頭の非和声音群

これは冒頭部の和音につけられた非和声音だけを抜き出したものである。
この音をさらにオクターブの別をなくして平均化すると以下のようになる。

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平均化した非和声音群

このように何気なく付加された、あるいは感覚的に付加されたように見える非和声音ですら、極めて精度の高い論理性に裏打ちされ、それが金属質のきらめきをまとった音楽に昇華していくのはまさに名人の至芸といえよう。

 

では話をもとに戻し、この冒頭部の引用元と思われるシューベルトのワルツを見てみよう。

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高雅なワルツ 第1番の冒頭部分


響きだけを聴いていても別の曲であるが、この2つは類似性がはっきり認められる。
それがリズムである。
シューベルトの冒頭のリズムと、ラヴェルの冒頭のリズムを比較してみよう。

 

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ラヴェル-シューベルトリズム比較

こうやって見るとラヴェルシューベルトのモチーフに霊感を得て、それをどう自分の音楽の中に借りたのかがよく分かる。
シューベルトのワルツはアウフタクトをともなっているが、これを一拍ずらしてみると両者はおなじになる。

 


ラヴェルシューベルトのこのリズムにはっきりと「ノーブル」なものを感じ取っていた。
そしてその霊感、味わいを自分の曲に持ち込みたいと考えた時に、極めて高度な処理と、非常に慎ましやかな尊敬の眼差しを持って先人の息吹を拝借したのだ。

 

 

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Glenda Austin

 ときは下って現代の主に教育的音楽を書く作曲家にグレンダ・オースティンという人がいる。ピアノを習ってた人は接したことがある名前かもしれない。
かのギロックの作品の演奏者としても知られる教育者である。
このオースティンがこんな曲を書いている。

 

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Valse Brillante/Glenda Austin

 

一聴してラヴェルのそれに酷似していることがわかるだろう。


見識の低い自称音楽通にはこれもひどいパクリに聞こえるのだろうか。

 

ラヴェルのワルツは美しい、そして演奏難易度が高い。
高い技術を身に着けていなければ全く太刀打ちが出来ない。

 

教育者であるオースティンはこのラヴェルの味わいをもっと平易に子どもたちに届けたいと思ったのだろうか。
この曲はラヴェルの味わいを上手に取り込みながら、子どもたちでも弾ける難易度で調整されているのだ。

 

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華やかなワルツ 冒頭部

冒頭部分はシューベルトからの以心伝心、そしてラヴェルの味わい深い不協和音が踏襲されている。
跳躍や音数は抑えられ、展開も急速なチェンジを押さえて緩やかにしてはあるものの、ラヴェルの音楽を十分に理解していることが、分析をしてみるとよく分かる。

 

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同 和音分析

まず基本的な和音進行は非常に伝統的でありながら、ラヴェルの時代ではないのでやや流動性が付加されている。
非和声音の処理についてはなるほどよく研究しているなと思わせる。
ラヴェルとは実は違う力学になっているのだ。

下の譜例は冒頭の非和声音の解決と、本和音の解決を図示したものだが、解決の遅延先行同時に行うことで、この部分が書かれていることがわかる。


そして気がついただろうか。

さり気なくリズムを更に一拍遅れさせていることに。

 

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同 非和声音構造

この三人の「高等な遊び」はそのタイトルにもよく現れている。

Valses Nobles-Valses nobles et sentimentales-Valse Brillante

息吹を伝え、それぞれの立場作風から先人に学び、それを表現する。
まさにこれこそが「オマージュ」なのだろう。

 

このような例は枚挙にいとまがない。
巨匠メシアンも先人の引用をたくさん用いていることを自著で告白しているとおり、
クラシックにおいてこの手の以心伝心はもはや一つの表現手法であり、れっきとした高等技術なのである。

それどころかそのものズバリを「引用」するというテクニックだってある。

 

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Fantaisie Impromptu/Frédéric François Chopin

 

この曲は誰でも知っているであろクラシックの超名曲、ショパン「幻想即興曲である。

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幻想即興曲 第二主題部分



物憂げで衝動的、流動的な第一主題と、温かみと幸福を夢見るかのような第二主題がコントラストを成し、終始美しくも儚い名作である。

 

この曲の第二主題を直接引用した例が次の曲である。

 

youtu.be

Makrokosmos I, Twelve Fantasy-Pieces after the Zodiac - 11. Dream Image(Love-Death Music)/George Crumb

 

20世紀アメリカの巨匠、ジョージ・クラムの代表作「マクロコスモス第一集」の第11曲にははっきりと分かる直接引用がなされている。

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マクロコスモス第1巻より


これはパクリなのだろうか?トレースなのだろうか?


いや全く違う、クラムはショパンの名曲に「愛」のキーワードを見出し、自身の曲にその象徴として引用したのである。
敬愛と理解がベースになっていないと、この手のことは絶対にできない手法であるが、ことこの曲においては限りなく効果的なものになっているのがわかる。

 

引用にはもっと激しい例も存在する。

 

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Composition 1960 #13/La Monte Young

 

冒頭で演奏者が説明している通り、この曲は「何でもいいから好きな曲を演奏しろ」と楽譜に書いてあるのだ。

 

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Composition 1960 #13/La Monte Young

この映像ではギタリストはバッハの無伴奏チェロ組曲前奏曲を演奏しているが、この瞬間にはこの曲はバッハの曲ではなく、ラ・モンテ・ヤングの曲なのである。

 


これは少々特殊な例としても、かく言う私もこういう味わいや息吹を借りることはとてもよくある。
一例を示せば例えば弟子の一人が展開しているAppliceという東方アレンジサークル
かつて主にオーケストラアレンジとして参加したときのこの曲だ。
(なお私はPopsの仕事のときはGODWOODという名義を用いている)

 

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異世界感、ちょっと宇宙っぽいSF感、疾走するキャッチーなPopでひねったコードというアレンジャーの方向性に、私は菅野よう子さんの作品世界のイメージが合うのではないかと考えて、自分の研究でわかっているエッセンスをふんだんにふりかけてみた。
なにかをそのままトレースするのではなく、先人たちの高等な遊びに学んで、息吹を拝借させていただくという方法は、こうやってPopのアレンジや、部分的なオーケストレーションでも行えるものなのだ。
そしてむしろそういうテクニックこそ、在野の趣味分野のようなところで開陳させることで、理解されるかどうかという点はあるにしろ、文化の底上げに寄与できるのではないかとすら考えている。

人は学ぶ過程である驕りが芽生えることがある。

 

「私は素人じゃないんだ」

 

知ったことが増えれば増えるほどそういった特別な意識が芽生え、ややもすると自分は選ばれた人間であるかのような振る舞いをするようになったりもする。

 

音楽にしろなんにしろ、先人の営みに学ぶことは基本なのである。
そしてこの道に終わりなどありはしない。

作る者は一生を学びに捧げているはずなのだ。
今の知識だけですべてを知ったなどということは有り得ないし、それを常に自分で訂正し続けていかねばならない宿命に生きているとも言える。

 

果たしてそれは作る側だけの命題なのだろうか。

 

聴く行為はすべての音楽の源である。
知れば知るほどに聴けるものが増えるのである。
考えれば考えるほどに味わい深くなるものなのだ。

 

いい気になる前に、もっともっと知ってみようじゃないか。音楽のことを。

吹奏楽コンクール課題曲 難曲史

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真夏の祭典


 まだまだ夏真っ盛り、暑い日に体力も奪われがちですが皆様お元気ですか?
私はなんとが生きております。

 

 さて音楽の世界で夏といえば「吹奏楽コンクール」を思い起こす方も少なくないのではないでしょうか。
吹奏楽の甲子園とも言われる文科系部活動の有名大会ですが、毎年発表される課題曲に一喜一憂した思い出は多くの人と共有できるものと思います。

 

「あの曲楽しかったなー」
「あの曲めっちゃきつかった」

 

OBOGがあつまればたちどころにこんな会話が始まるのではないでしょうか。

 

 吹奏楽コンクールの課題曲というとマーチがその主役ではありますが、それは全体の半分くらいの話です。
残りはベテランから気鋭の若手が学生たちが演奏するという前提の難易度設定で、様々な曲を書いています。

 

(まあたしかに大した内容のないくだらない曲や、十年一日のつまらん曲が量産されてはいますが)

 

 最近では大学、一般枠のみの課題曲として、難度の高い芸術作品と言えるものも必ず選ばれるようになってはいますが、
その枠組が設けられる前から、難易度設定なんてどこ吹く風。自分の音楽を書ききりましたとばかりに書かれた凄まじい難曲が存在します。
今日はそんな歴史的難曲を聴きながら振り返ってみようかと思います。

 

まずは歴史転換点にもなったと言える1974年の課題曲Bに選ばれたこの曲

高度な技術への指標/河辺公一

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河辺浩市河辺公一

 作曲者は東京音楽学校橋本國彦らに学んだ作曲家で、また数々のバンドを歴任したジャズ・トロンボーン奏者でもあり、
この曲は芥川也寸志のすすめでポップスの語法をふんだんに使って書かれた公募作品だという。
たしかに様々なPopsが散りばめられ、その演奏には高い技術がいるのは聴いてみるとすぐわかる。
楽しい曲なので、未だに人気があるのも面白いのではないだろうか。

 

しかしまだまだ全然序の口なのである。

 

次は1979年課題曲Bのこの曲である。

プレリュード/浦田健次郎

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浦田健次郎

 いきなりTimpani手で叩く特殊奏法の長い独奏から始まるという斬新な曲で、曲は明らかに現代曲である。
作曲者は東京芸術大学トロンボーンを専攻し、その後作曲科に入り直し石桁眞禮生に師事したたという経歴を持っている。
作風は本人が語るとおり、音楽は作者のカタルシスであるというものが形になったもので、この曲のように音列的で難解なものも多い。
ついに課題曲に現代曲が現れてきた。当時を考えればこの曲は恐ろしく斬新だったのだろうと思う。

 

1982年課題曲Bにはその世界では結構有名なこの曲が登場する。

序奏とアレグロ/木下牧子

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木下牧子

 作曲者は押しも押されもせぬ合唱の大家である。
しかし御本人は合唱の作曲家ではなく、むしろ器楽の作曲家だと思っているとのことで、たしかにこの曲などその力がいかんなく示された素晴らしい名作だと言える。
東京藝術大学卒、石桁眞禮生、黛敏郎、浦田健次郎、丸田昭三に師事している。
浮遊するような不思議なメロディに、跳躍の多いソロワーク、そして激しい変拍子の躍動と確かに高い技術が必要な曲である。
なお一部のサイトでこの曲を「無調作品」としている記事を見かけたが、
この曲は難解ではあるものの、調性を手放しておらず指摘は誤りだと言っておきたいと思う。

 

1984年課題曲Aにはマイナーだが屈指の難曲が登場する。

変容―断章/池上敏

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池上敏

 作曲者は東京芸術大学卒、池内友次郎、矢代秋雄松村禎三間宮芳生、永正之に師事した。
経歴が示すとおり、本格的な芸術音楽であり、難解なクラスター状のハーモニーに、細かいソロワークが絡み、ダウンベルトーンの強烈な応酬は高い集中力が求められる。
おそらく能などの伝統音楽に由来すると思われるような響きをまとっているが、
あまりの難易度に演奏した団体は少ないだろう。

 

1986年課題曲Cには大巨匠の作品が入る。

吹奏楽のための序曲/間宮芳生

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間宮芳生

 東京音楽学校池内友次郎に師事した巨匠であり、特に合唱のためのコンポジションシリーズは生涯をかけたライフワークとなっている。
外山雄三、林光とともに山羊の会を結成したことでも知られるが、メンバーを見ても分かる通り日本の伝統音楽に取材することの多い顔ぶれである。
この曲も間宮先生の研究命題そのものの民謡性と世界性が盛り込まれており、日本の民謡と黒人霊歌的なフィーリングが合わさった独自の語法は、多くのティーンエージャーを苦しめただろう。

 

と、ここまで確かに凄まじい難易度のものが並んでいるが、

まだまだトップランクではないのだ。

 

1988年課題曲Aはついに恐れていたことが現実になる瞬間である。

深層の祭/三善晃

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三善晃

 現代日本が誇る大巨匠の一人、三善晃が書いた超難曲である。
池内友次郎、平井康三郎に師事しながら、東京大学仏文科からパリ国立音楽院に進み、その後はディティユーに私淑し独特の作風を確立、難解な和声を背景に哲学的な命題を得意とし、あらゆるジャンルで傑作を残した。
この曲も大変な哲学性と内容を持っており、屈指の芸術作品だが、プロでも一筋縄ではいかない凄まじい難度と充実した表現力を求められるため、これを物にできた団体は殆どなかっただろう。

 

この曲は大問題だったのだろうか、ここから難曲の登場が減ってくる。

 

1991年の課題曲Aは久々に難曲の登場。とはいえ前の曲のように多くの団体が挑戦を見合わせるほどのものではなく、全国の腕自慢が取り上げ、悲喜こもごものドラマを生んだ。

斜影の遺跡/河出智希

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 作曲者は愛知県芸術大学出身で、この曲は学生時代に書かれたもの。
その後J-POPのコンポーザーに転身して、現在も活躍されている。
この曲はその響きのコントロールの独自性もさることながら、各ソロワーク、セクションワークが難しく、早い動き、タンギングの正確性、そして途中のEuphのソロ、ラストのTpのソロに泣かされた人も多いだろう。
かくいう筆者もこの曲は「現役時代」に出会っており、いたずらに演奏してみて玉砕した思い出がある。

 

そしてその時。
あの巨匠がまたやってくれた。

 

一般に「マーチ」なら驚愕難易度になりようがないと思うだろう。


当時の吹奏楽連盟もそう思っていたに違いない。

 

そしてあの人に委嘱を出してしまったのだ。

 

1992年課題曲C

吹奏楽のための「クロス・バイ・マーチ」/三善晃

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 大巨匠三善晃にかなえば、マーチも当然芸術である。哲学である。
交錯する行進はエネルギッシュで難解な謎の音楽へ昇華してしまった。
変拍子(実際にはそう聞こえるだけ)、テンポ変化駆使される演奏技術!!

マーチを楽しみにしていた中級以下の学校は軒並み挑戦を見合わせ、腕自慢の学校ですら、この曲を演奏するリスクをとらない選択をしたことで、非常に演奏実績が少ない課題曲となったのだが、後年その高い芸術性が評価され、アマ、プロ問わず演奏会の楽曲に取り上げられるなど、当時より今のほうが演奏回数が多いかもしれない。

 

さすがにこの失敗は吹奏楽連盟にも強い記憶となって残る。
翌年はマーチだけの課題曲となり、難易度もぐっと下がったのだが、
そうなると腕自慢の学校からはクレームも出てくる。
そこで更に翌年オリジナル作品を解禁したところ、

またやらかしてしまったのだ。

 

1994年課題曲III

饗応夫人 太宰治作「饗応夫人」のための音楽/田村文生

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田村文生

 作曲者は東京芸術大学卒、北村昭、近藤譲松下功、Robert Saxtonに師事、終始変わらず難解な中にシニカルさやジョークを称える作風を確立しており、身体表現と音楽との関係など独特の視座をもっておられる。
この曲は表題にある通り、太宰治の名作にあてられた音楽であり、饗応夫人の発狂っぷりや相次ぐ来客の会話などがそのまま表現された怪作である。
また非常に長い曲であり、抜粋版として課題曲になっているがそれでも7分もかかってしまう。

 

 連盟は流石にこれ以降、現代的な音楽への対策を実施していったようで、飛び抜けた難曲は誕生しづらくなったはずだった。
 しかし早速翌年、朝日作曲賞受賞作品という不可抗力でまたもや難曲が来てしまった。このため、この年は課題曲を急遽5曲にするという異例の対応を見せている。


1996年課題曲V

交響的譚詩 〜吹奏楽のための/露木正登

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 作曲者は浦田健次郎に作曲を師事し、一貫してシリアスで本格的な語法による純音楽を書かれている。
私も実は学生時代に仕事をご一緒させていただいたことがあるが、とても真面目で寡黙な方だった。
打楽器の使い方が大胆であり、またこの曲の特徴ともなっているが、分厚い音響のバランスをとるのは難しく、変拍子部分のキレもかなりの技術を要する。

 

様々な困難があったが、やっと吹奏楽連盟にもノウハウが蓄積されたようで、
ここからは全く難曲というものが出てこなくなる。

しかし人間とは欲深いものであり、大学、一般の部を中心に難易度不足の声も上がることになる。
その結果、大学一般の部のみ選べる課題曲Vが2003年から設定されるが、
この枠はそもそも難曲ホイホイ枠なので、今回の記事では扱わないことにある。

 

かくして平和は訪れた。
はずだった…

あの人に委嘱をするまでは…。


その時は突然にやってくる。

 

2015年課題曲III

秘儀Ⅲ -旋回舞踊のためのヘテロフォニー/西村朗

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西村朗

 作曲者はやはり戦後日本の前衛シーンの大立者である。
東京藝術大学卒、池内友次郎、矢代秋雄、野田暉行に師事し一貫してヘテロフォニーという東洋的な音楽イディオムを用いた独自の音楽を展開し、国内外で高い評価を得る大巨匠である。
なんでもこの曲の依頼にあって「楽器をはじめて数ヶ月の子でもできる音域で簡単に」と注文をつけられたのだとか。
なるほど吹奏楽連盟はこうやって難曲が生まれないようにコントロールしていたことが明るみに出た。
 しかし頼んだ先は大巨匠、その要件をクリアした上で自身の語法を貫ききってみせた。
久しぶりの難曲登場に沸き返った諸君も多かったのではないかと思う。
この経験は吹奏楽連盟にどのようなノウハウをもたらすことになったのか、今後の推移を追っていきたいと思う。

 

たっぷり見てきたとおり、吹奏楽コンクールは日本の吹奏楽のレベルと質の向上を促してきたのは明白である。
しかしその連盟自体はプロフェッショナルの集まりとは言い難く、むしろ教育畑の教員たちで構成されている。
それだけに「高い志」のある時代は良かったかもしれないが、それが失われた現在はなんというかただの官僚集団の事なかれ主義が蔓延する実に醜い組織となってしまったと感じてならない。
難曲を巧みに避けるこの歴史は、その事なかれ主義の一端を見るようでもあり、その中にあって西村先生の仕掛けた一発の爆弾は、まさに痛快そのものであった。

 

芸術が制限を受けるいわれなどないのである。
知ったかぶって勘違いしてはいけない。

美的音楽聴取とプラクシス的音楽聴取 〜あなたはどちら?〜

 突然ですが、あなたは「美的音楽聴取」と「ラクシス的音楽聴取」という言葉を聞いたことがありますか?

 

 詳しくは以下の論文を読んでいただければわかると思います。↓↓

ci.nii.ac.jp

 

 簡潔にまとめると、「美的音楽聴取」とは、美を最優先として、音楽教育を人間の感情の本質への洞察を豊かにすることと捉えるものです。

 

 これに対して「ラクシス的音楽聴取」とは、自分を最優先として、経験知の積み上げを教育として捉えるものです。

 

 

 

 私の音楽聴取はどちらかというと「ラクシス的音楽聴取」の傾向にあると思います。

 

 私は現在合唱団に歌い手として所属しており、来年度は指揮者を務める予定です。私は感情の赴くままに音楽的な表現をつけることを意識しています。そのために、普段から曲を聴くときは、雰囲気や感情を受け取ることを意識するようにしています。また、私は幼少期からピアノを習っていて、その頃の教育方法が「ラクシス的」であったので、その影響もあり私は「ラクシス的」に音楽を聞いているのだと思います。

 

 

 読者の皆様はどちらの傾向にあるでしょうか。学問的な音楽に重点をおいてきた方は、どちらかといえば「美的音楽聴取」の傾向にある方が多いのではないでしょうか。

 

そのような方々には「ラクシス的音楽聴取」をしてみることをお勧めします。もしかしたら、今までとは違った音楽の考え方が生まれ、新たな音楽を見つけるきっかけになるかもしれません。

「特殊音楽研究会」を忘れない

突然ですが、

特殊音楽研究会

という名前の非公認サークルを知っていますか?

現在でもTwitterアカウントは残っているものの、その更新は久しく途絶えてしまっていますね。 

twitter.com

今日は、この特殊音楽研究会についての思い出を書いていきたいと思います。

というのも、僕が名古屋大学に入学して一番最初に入ったサークルこそ、この特殊音楽研究会だったからです。

今の名大作曲同好会があるのは、特殊音楽研究会のおかげだと言っても過言ではありません。

というわけで、もはや活動を停止してしまったこの特殊音楽研究会でのあれこれ、思い出しながら書いていきます(メメント・特殊音というわけ)。

 

目次

  

特殊音との出会い

もう約3年前のことになりますが、僕も当時は受験生でした。

頭の硬い教師共に反骨心を燃やしながら、当時はそれを燃料に何とか生きていました。

第一志望は名古屋大学、後輩や教師や大人たちに合格を豪語しつつ、センター試験はボーダーより数点上というやや辛いC判定。

2次試験当日、午前のテストを終えて弁当を食べ終わった僕は、必死に単語帳やらノートやらをめくっている他の受験生を横目に、外に出て息抜きに散歩をしました。

「ここが将来僕の母校になる学校だぞ!

と自己暗示をかけながら、僕は全学教育棟の周りを歩いて回りました。

そして見つけたのです。

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後にも先にも、こんなにイカれたしたチラシはないでしょう。

全学教育棟前に設置された掲示に、特殊音のチラシを見つけました。

 

特殊音に入る

チラシに貼られていたQRコードを読むと、会長の自作曲であろうと思われる厳しめのノイズミュージックが聴けました。

「こんな面白そうなサークルがあるのか」

と、以後の受験勉強の動機にもなりました。

そして厳しい受験をかいくぐり名大に合格した僕は、入学するよりも前に特殊音に入会することになります。

 

図書館での顔合わせに行くと、真っ黒な服を着た会長のキタダさんが何冊かの哲学書と現代音楽書を用意して待っていました。

長髪に喪服のような整った服装と、蟷螂のように痩せた彼の体つきが印象的でした。

「書籍の閲覧目的じゃないと、学外者は図書館に入れないからね」

と言って、会合のときはいつも何冊もの本が用意されていましたが、当時の僕にはほとんど意味が分からない難解な本ばかりでした。

会員は当時僕を含めて3人、もう1人の会員はキタダさんの先輩らしく、身内じゃない外部からの会員は実質僕が初めてだったらしいです。

 

特殊音での活動

特殊音は、特に決まった活動内容があるわけでもなく、時たま図書館で会合をするだけでした。

彼らとの雑談は楽しく、名古屋大学毒クレープ事件の話や音楽サークルの話、文化サークル連盟の裏事情の話、グラインドコアブラックメタルの話、今はなきPHONONカフェの店長の話など、他では聞けない色々なことを話しました。

 

あるとき、大学の学園祭で特殊音がステージに立つことになりました。 

とはいうものの、正式なライブステージではなく、大学生の自由研究という非公認サークルによって設置された路傍の非公認エクストラステージなのですが。

nujiyuken9.html.xdomain.jp

どうして公認ステージに立たないのかキタダさんに聞いたところ、

「実行委員会と色々あってね……」

とのこと。

どうやら昨年のステージで、ノイズ演奏に熱狂したキタダさんが自作ノイズ楽器を客席にぶん投げて出禁になったらしいです。

いや最高だなと思いつつ、

「僕もステージに立ちたいです!」

と名乗り出ました。

 

学園祭当日、吹奏楽部の練習を抜け出した僕は、急いでエクストラステージに向かいました。

路傍に着くと、大学生の自由研究の発起人・江坂さんとキタダさんが雑談をしていました。

江坂さんと僕とはこの2年後に改めて知り合うことになりますが、このときはまだ初対面です。

キタダさんも大学生の自由研究のメンバーだったようで、エクストラステージの開催を手伝っていました。

(余談ですが、自由研のブログでは未だにキタダさんのブログ記事が読めます)

このあとの特殊音ステージでは、キタダさんのノイズ生演奏と僕の自作ノイズ楽器・改造騒音リコーダーの生演奏を行うことになっていました。

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路傍なので、普通に人が通ります。

キタダさんはステージに上がり、おもむろに機材の準備を始めると

「ぶつかったら危ないから、ちょっと離れてて」

と口にしました。

そして、彼の演奏が始まりました。

何かのCMソングが流れたかと思うと一瞬で音は歪み凄まじい電気的ノイズとなって路傍の通行人に襲いかかります。

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髪を振り乱し演奏するキタダさん

そのとき運悪く(運良く?)隣で大道芸人が芸をやっていたので、大道芸のBGMを殴り倒すような爆音ノイズに2度見3度見を繰り返す通行人が面白くて面白くて、僕はずっと興奮していました。

お前らどうせマイクトラブルか何かだと思っていやがるんだろう。

だがこれは音楽だ。

お前らの”常識”だけが世界ではないぞ!

今にもそう叫び出しそうな、とても熱狂的な一瞬でした。

 

キタダさんの演奏の次は、僕の改造騒音楽器の演奏でした。

僕は彼にも楽器を手渡し、

「全くのアドリブでいいので、僕の音を追って演奏してください

と言うと、キタダさんは試しに吹いてみながら

「なかなか難しいけど、この音いいね」

と言いました。

かくして2人でステージに立ち、改造騒音リコーダーの即興演奏が始まりました。

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歴史的瞬間

本当に楽しかったです。

道行く人に変な目で見られても、観客がたった2人しかいなくても、この瞬間僕らは確かに “音楽” をやっている気がしました。

 

こうして幸せな時間が流れ、演奏が想定外に早く終わったので、僕とキタダさんでトークをすることになりました。

何を話したか最早よく覚えていませんが、最後のトークまでしっかり聞いてくれた観客が2人だけいて、そのうちの一人が実は榊原拓、現在の名作同宣伝部長だったりします。

 

こうして楽しい時間は過ぎ、僕は吹奏楽部のステージに出るために講堂へ戻ります。

講堂のちゃんとした舞台で、さっきよりはるかに大きなコンサートで、吹奏楽部員として演奏しました。

それなのに、どうしてか僕の中では物足りない気がして、やはり

「さっきの特殊音のステージ良かったなあ」

と思ってしまうのでした。

 

非公認サークルの寿命

さて、そんな風にして細々と活動していた特殊音。

あるときは、TwitterにDMを送ってきた他大学の人と会合をしたこともありました。

あるときは、ライブハウスまで繰り出して、僕の後に入ってきた会員も一緒に4人でアドリブセッションをしたこともありました。

しかし、いつしか段々最後の活動からの時間が延びていくようになります

思えば、あの頃キタダさんは4年生、つまり就活の真っ最中だったのでしょうか。

結局そのまま ”次の会合” はなく、現在に至ります

 

これが「非公認サークルの寿命」なのでしょう。

非公認サークルは、多くの場合会長が命です。

発起人たる会長がいなくなると同時に、サークル自体も消えていきます。

つまり非公認サークルの寿命は4年。長くてもです。

特殊音も例外ではなく、他の数多くの非公認サークルと同じように、キタダさんと共に活動を停止してしまいました。

 

特殊音がくれたもの

特殊音での体験は、僕にとって決して多くはありません。

たまにある会合、もっとたまにしかないイベント、せいぜいその程度ですからね。

とはいえ、特殊音での経験は僕に大学生としての在り方、そして非公認サークルの在り方について考えさせてくれました。

そして、僕は吹奏楽部を辞める決心をします。

友達とか部活とかじゃなく、ただ純粋に音楽ができるサークルを自分の手で発足するために。

 

ある会合の日、僕はキタダさんに

「実は、名大作曲同好会っていうサークル作ったんすよ」

と話しました。

キタダさんが何と言っていたか覚えていませんが、

「ふーん、そうなの」

程度の返しだったように思います。

当時の名作同は会員2名、しばらくはずっと2名のままでした。

そう考えると、今はずいぶんと増えたものですね。

感慨深いものです。

 

そして現在

……なんてことを思い出しました。

きっかけは、僕が今年3年生になってやっと入部した大学生の自由研究

この前、休学のせいでいまだに卒業できていない江坂さんと2人で、当時を回想しながらお茶を飲んでいました。

「キタダも就職するらしい」

とつぶやいた江坂さんは、旧友を想ってなのかどこか遠い目をしていました。

 

そういえば、大学生の自由研究は「非公認サークルの寿命」にも関わらず生き続けています。

江坂さんが消えた後も、有志によって未だに活動を続けているサークルです。

果たして今後、名作同はどうなるんだろうなあ。

未来のことはなかなか想像できませんね。

やがて誰かが、

「名作同を忘れない」

なんて記事でも書いてくれるんでしょうか。

 

そういうサークルになれたらいいね。

新海誠は嫌いじゃないが「君の名は」は嫌いだ 〜新海誠の芸術論〜 【トイドラ的映画監督批評[前編 2/2]】

~この記事は前編1/2の続きです~

nu-composers.hateblo.jp

 

目次

 

「君の名は」を観る

「君の名は」のあらすじは、Wikipediaによるとこうです。

東京の四ツ谷に暮らす男子高校生・立花瀧は、ある朝、目を覚ますと岐阜県飛騨地方の山奥にある糸守町に住む女子高生・宮水三葉になっており、逆に三葉は瀧になっていた。2人とも「奇妙な夢」だと思いながら、知らない誰かの一日を過ごす。

翌朝、無事に元の身体に戻った2人は入れ替わったことをほとんど忘れていたが、その後も週に2、3回の頻度でたびたび「入れ替わり」が起きたことと周囲の反応から、それがただの夢ではなく実在の誰かと入れ替わっていることに気づく。性別も暮らす環境もまったく異なる瀧と三葉の入れ替わりには困難もあったが、お互い不定期の入れ替わりを楽しみつつ次第に打ち解けていく。

しかし、その入れ替わりは突然途絶え、なんの音沙汰も無くなってしまった三葉を心配した瀧は、記憶をもとに描き起こした糸守の風景スケッチだけを頼りに飛騨へ向かう。瀧の様子を不審に思い、心配していた友人・藤井司とバイト先の先輩・奥寺ミキもそれに同行する。しかし、ようやく辿り着いた糸守町は、3年前に隕石(ティアマト彗星の破片)が直撃したことで消滅しており、三葉やその家族、友人も含め住民500人以上が死亡していたことが判明する。

瀧は、以前三葉と入れ替わっている時に口噛み酒を奉納した記憶を思い出し、山上にある宮水神社の御神体へと一人で向かう。そしてその御神体が実在していたことで「入れ替わり」が自分の妄想ではなく、2人の入れ替わりには3年の時間のズレがあったことを確信する。瀧はもう一度入れ替わりが起きることを願いながら、3年前に奉納された三葉の口噛み酒を飲む。

目覚めると隕石落下の日の朝の三葉の身体に入っていた瀧は、三葉の友人である勅使河原克彦名取早耶香の2人とともに、住民を避難させるために変電所を爆破し町一帯を停電させ、町内放送を電波ジャックして避難を呼びかけるという作戦を画策する。しかし、その計画の要である三葉の父(町長)・俊樹を説得しようとするが、妄言だと一蹴される。

避難計画は順調に進まず、三葉本人なら町長を説得できると思った瀧(身体は三葉)は、三葉(身体は瀧)に会うため御神体がある山を登る。その途中で、瀧は当時中学生だった3年前、見知らぬ女子高生に声を掛けられたことを思い出す。その女子は、瀧に会うためにはるばる東京へやって来た、三葉であった。三葉の自分に対する想いに初めて気づいた瀧は、涙を流しながらも、山を登り続ける。

山の頂上に辿り着いた瀧は、三葉の名前を叫びながら、御神体の外縁を走り回る。2人が生きている世界には3年の時間差があったため、時を超えて聞こえる声を頼りに互いの姿を探すも、声だけで姿は見えなかった。しかし黄昏(糸守ではカタワレ時と呼ばれている)が訪れると互いの姿が見え、入れ替わりが元に戻り、初めて2人は時を超えて、直接会話することができた。

カタワレ時の終盤、瀧は互いの名前を忘れないようにするため、三葉の手のひらに自分の名前を記す。しかし三葉が瀧の手のひらに文字を書き入れようとした瞬間、カタワレ時は終わってしまい、2人はそれぞれ元いた世界へ引き離されてしまう。

三葉は、瀧から住民を助ける計画を引き継ぎ下山する。勅使河原と計画通りに町を停電させ、早耶香が避難指示の放送を流すが、その電波ジャックも町役場にバレて阻止され、避難は進まない。改めて父親を説得するために町役場へ向かう三葉だったが、途中の坂で転倒してしまい、心が折れそうになってしまう。いつの間にか瀧の名前を忘れてしまっていた三葉は、名前を思い出すために、ふと手のひらを見る。だがそこに記されていたのは名前ではなく、瀧からの「想い」だった。その言葉に励まされた三葉は前を向いて、再び町役場へと走り出す。そしてその後、ティアマト彗星の破片が糸守町に落下する。

月日は流れ、瀧が「入れ替わり」という不思議な出来事に遭ってから5年後、偶然にも住民が避難訓練をしており、奇跡的に死者が一人も出なかった糸守町への隕石衝突から、8年後へと舞台は移る。瀧は就活の毎日、三葉たちは東京で暮らしていた。たまに町中でお互いの気配を感じることはあったが、もはや入れ替わりのことは忘れており、ただ「漠然と『誰か』を探している」という、切実な思いだけが残っていた。

さらに月日が流れたある春の日、たまたま並走する別々の電車の車窓からお互いを見つけた2人は、それぞれ次の駅で降り[注 5]、お互いの下車駅に向かって走り出す。ようやく住宅地の神社の階段で再会した三葉と瀧は、涙を流しながら互いの名前を尋ねた。

あの映画でも、ご多分に漏れず主人公は瀧くん、少年です。

そしていつも通りの理想的な女性枠、三葉ちゃんも出てきますね。

ちょっと今までと違うところと言えば、途中までは少年(瀧)が恋をしないということです。

まあこんな差は微々たるもんなので別に良いでしょう。

結局最後はいつもお馴染み、あの子のことが忘れられない状態に陥った瀧少年が彼女との出会いを切望し続けるという展開になります。

ただ、そこに至るまでの過程には結構工夫がありましたね。

身体が入れ替わるという斬新な(?)アイデアを取り入れたり、時間的トリックを使ってみたり、冒険活劇的なストーリー展開に重点を置いてみたりと、今までの作品のようにただ恋をするという感じではありません。

流石にそろそろ大筋丸パクリに危機感を持ち始めたんでしょうかね。

決して会うことはないままに深く親交を深めた二人は、お互いに想いを伝える機会もないままに別れを遂げてしまいます。

いやーいつも通りの展開だ。

安心の新海誠ですよ。

さあ、いよいよラストシーン、「秒速五センチメートル」を思わせる電車のシーンでこの映画は幕となります。

起こるはずのない奇跡を期待しながら、滝少年は衝動に駆られます……。

いやほんっっといつも通りの展開だ、飽き飽きしちゃうナァ!……

しかし何と、今回は

滝と三葉が出会えてしまうのです。

もう一度言いますが、

出会えてしまうのです。

 

 

さあ怒れ若人! 滾れオタク!

我らの新海誠は何処行った!!!!!!

 

陰キャを切り捨てるという勝算

「君の名は」は、最後以外の大まかなストーリー展開は他の新海誠作品と全く同じです。

つまり、

少年が異性に出会う→

ハッキリしないままお別れ→

引きずる→

幻影を追い続けて生きていく

という流れのうち最初の3つまでは踏襲しています。

が、最も大事な最後のステップだけがガラリと入れ替えられ、

「→奇跡的に出会い結ばれる」

という文句無しのハッピーエンドへと変貌しているのです。

僕の考えでは、この点こそが「君の名は」が他の新海誠作品と比べて異例の大ヒットとなった大きな理由の一つです。

それでは、「君の名は」がハッピーエンドで幕となった理由、その狙いについて考えていきましょう。

 

前記事で、僕は次のように述べました。

新海誠作品で最も重要なのは『共感』だ」

登場人物の心情や行動に深く共感し、エモエモ気分になれるのが新海誠作品の良さだと言ったわけですが、実は新海誠映画に「共感」できるのはクソ陰キャオタク童貞だけです。

自己肯定感と成功体験の塊みたいな体育会系陽キャマッチョが「秒速五センチメートル」を見たとしても、

「ずいぶんナヨい主人公だね。てか10年以上引きずるとか有り得んし前向けよww 絵は綺麗やけど」

としか思わないでしょう。

新海誠は、クソ陰キャオタク童貞の感性に寄り添うことに特化した作風を持っています。

(それはきっと彼自身がクソ陰キャオタク童貞だからでしょう)

それ故、新海作品はクソ陰キャオタク童貞には熱烈にウケるものの、その他の層からは多少冷淡な態度を取られていたと考えられます。

というのも、最近こそマシになってきたものの、もともとコミュ障とかオタクというのは社会的に見て好ましくないアンダーグラウンドな少数派と捉えられて忌避されていたからです。

だからこそクソ陰キャオタク童貞は、新海誠のようなクリエイターが差し伸べる手(=新海誠作品)に物凄い熱意で食いつくわけですね。

陰キャでコミュ障なオタクは、持ち前の社交性の低さから、陽キャのように友達100人作ったり、いつものメンツで渋谷に繰り出したり、スクールカーストの上位でのびのび暮らしたりすることが出来ません。

社会的には、「社会」という文字の意味そのまんまに陽キャの方が好ましいとされているので、ありふれた創作物の題材となるのは「仲間との友情」「努力と根性」「チームワーク」「勧善懲悪」などのように陽キャが得意とするフィールドのものばかりです。

そこにあって、新海誠作品ははっきりと陰キャ側に焦点を当て、触れば割れ吹けば飛ぶような極度に繊細でエモい映画を作り上げたのです。

 

さて、ここで本題ですが、以上のことは「君の名は」にも当てはまるでしょうか。

答えはNOです。

「男女の身体が入れ替わる」というオタクらしい設定を取り入れながら、話の内容には陽キャ向けのあれこれがたくさん練り込まれ、代わりに陰キャ的なナヨさは排除されています。

そもそも、今作の主人公である滝と三葉は全然陰キャっ気がありませんね。

いかにも紋切り型な普通の高校生って感じです。

ストーリー展開にも友人関係や冒険活劇がフォーカスされており、言ってみれば典型的なオタクではない人でも幅広く楽しめる作りになっています。

事実、「君の名は」を見て口コミを広め大ヒットせしめた主要な客層は、ごく普通の中高生だったはずです。

カップルで「君の名は」を見に行った人もいたとか。

前述の旧新海誠作品では考えられないことと思います。

 

然して、それのどこが悪いのか?

前の記事で僕は、

新海誠作品には主張がない」

と書きました。

新海誠作品は共感を呼ぶだけに終始していて、作品としての深みに欠くというのが僕の考えです。

とは言いながら、

新海誠作品そのものが絶対的に悪いとは思わない」

とも書きましたね。

その理由は、新海誠作品は娯楽作品としては優れているからです。

そして、ここにきてもう一つ付け加えておきたいのが、新海誠オタクや陰キャに焦点を当てたということです。

あくまでアンダーグラウンドで、日の目を浴びないサブカルな存在であったオタク。

そのサブカルチャーに焦点を当てたという意味で、新海誠作品はアニメ文化的にも価値を置くことができる存在です。

オタクだって青春してんだよ!

これが陰キャ青春なんだよ!

童貞で何が悪いんだ!

こういう意気込みというかメッセージみたいなものは、新海誠作品からジワ〜っと滲み出ているような気がしますね。

青春は仲間とか友情とかだけじゃないんだ、これが俺たちの正統な青春だったんだ、という主張は、作品全体から伝わってきます(個々の作品は薄いけど)。

 

ここまで書けば分かってくれたでしょう。

「君の名は」には今までの作品以上に中身がありません

あれで仮にいつも通りのバッドエンドだったとしたら、非常に賛否両論な問題作になったかも知れません。

大衆向けの顔をしつつ、オチでしっかり陰キャの美学を見せつけてくる訳ですから、むしろ今までの新海誠作品以上に主張の強い作品になっていたことでしょう。

しかし、大衆向けの顔をしつつ大衆向けに終わるのであれば、一体この作品は何がしたかったのでしょうか。

さあ、皆さんお分かりですよね。

そうです。

 

売れたかったのです。

 

お金が文化を喰っていく

事実、「君の名は」は売れる要素を確実に持った作品でした。

爽快でスピード感のある展開、イカしたバンド音楽、青春の甘い匂い、それを補って余りある美麗な作画、衝撃的な伏線回収、可愛い登場人物、クッソエモいハッピーエンド、などなど……。

挙げていけばキリがありませんが、商業的に見てこの作品は見事だと思います。

こりゃ売れない方がウソですね。

根拠があって言う訳ではありませんが、多分新海誠本人もヒット作を作るつもりでこの作品を作ったんだと思います。

だって、そうとでも考えないと今までの作風無視し過ぎですからね。

あんなにナヨっちくて、繊細で、小さくて儚い映画を作っていた監督が、「売れよう!」と思った瞬間にあんなに力強くスピード感があって大規模な映画を作ってしまう、しかもこれまでの自分の信念や方向性を捨て去ってまでそれをやってしまうのだとすれば、お金が文化を喰いものにしているとしか思えません。

 

クリエイターの仕事というのは、世の中にまだないものを作り出すことですね。

しかし、そうやって活動していたクリエイターが多少有名になって「売れよう!」と思った瞬間、やるべき事は変わってしまいます。

世の中にまだないものは、言ってみれば誰にも求められていないものです。

売れるためには、むしろ世の中に既にあるものに乗り移ってそれを上手く運転せねばなりません。

かくして、大衆をチクチク刺激するのが仕事だったはずのクリエイターは、いつしか大衆を褒めそやし忖度する側に回ってしまうのです。

そういう風に堕ちていったコンテンツは身の回りに溢れていますが、大衆が食いつくのはむしろ「このタイミング」です。

それまで新表現の追求に身をやつしていたクリエイターが、あるとき分かりやすくて俗なものを作り出してそれが売れてしまうと、まるでその作品こそが代表作とでもいうようにメディアに取り上げられ、流行っていきます。

つまり、

「表現を捨て売り上げに走って初めて世間に認められる」

という悲しい現象が多発するのです。

確かに、1回バーンと売れてから改めて

「この人こんな表現もしてたんだ」

と見直され、正しく認められていくという側面もありますが、それは決して多くないパターンです。

「君の名は」の音楽を手がけたRADWIMPSが、以前はかなりダークで暗い歌を歌っていたということを知らずに

「ラッドいいよね〜」

なんて言っている女子高生が一体何千人発生したことでしょうか。

 

これが、資本主義が文化の敵である所以、そして「君の名は」が大ヒットした理由だと僕は考えているのです。

 

結局「君の名は」の何が悪いの?

さあ、クッソ長い記事でしたね。

いよいよ総括に入ろうと思います。

結局のところ「君の名は」の何が悪いのか?

それは、「君の名は」が文化破壊者だということに尽きます。

文化というものは、とても広いフィールドを持つものです。

あらゆる価値観、あらゆる感覚、あらゆる手法、そういったものが無限とも思える範囲で広がりを持っている。

こういう状態こそが文化である、と僕は強く主張したいのです。

そういう意味で、新海誠の過去作は一応ちゃんと文化だったと思います。

しかし、その文化が資本主義を前にすると途端に萎縮し、逆の事をやり始めてしまうのです。

つまり、広がりをなくして「理想的消費者」という単一の人間像を求めるようになります。

文化が文化でなくなった瞬間、それが「君の名は」だとここで主張しておきます。

 

 

炎上対策(切実)と次回予告

さあ、こんだけ新海誠バッシバシにバッシングしといてタダで済む気がしませんね(震え声)

一応フォローしとくと、以上のクソ長い文は全て僕個人の考えであって、名作同は関係ありません

てかこれ会員にも反感買いそうだな………。

ただ、これも僕が伝えたいことの一つなのですが、何かを批判することは褒めるのと同じくらい重要なことだと思います。

褒められれば嬉しいのと同じように、批判されても喜べるのが理想だと思うんですよね。

あるいは、見当違いなバッシングを受けると「何をッ?!?」と思うのと同じように、見当違いな褒め言葉にも怒れるといいと思います。

そうでないと、ものを作る側の人間として広がっていきませんからね。

僕は炎上覚悟でここに「本気の批判」の例を置いときます(まあ炎上イヤだけど)。

なお、反論自論は絶賛受付中です。

「俺はこう思う!」

とか、

「お前の考えはここが間違ってる!」

という鋭いご意見があればコメント欄にでもぶち込んでください。

自分の価値観が変わるときほど面白く、不安で楽しいことはありませんからね。

 

最後に、「それじゃあどんな映画が良い映画なんだ?」と思う方のために、一人の映画監督の名前をここに出しておきたいと思います。

その名も湯浅政明監督。

次回では、この湯浅政明作品を、新海誠作品と対比させつつ批評していこうと思います。

新海誠は嫌いじゃないが「君の名は」は嫌いだ 〜新海誠の芸術論〜 【トイドラ的映画監督批評[前編 1/2]】

まず謝らねばなりませんが、僕は新海誠も嫌いです。

いきなり嘘をついてしまいました、どうかお許しください……。

しかしながら、この記事のタイトルにはちゃんと意味があります。

僕は個人的に新海誠はクソ嫌いですが、だからと言って彼をアニメ映画界から排除すべきとか、新海作品は全くの無価値だとか、新海ファンはアホンダラ野郎だとか言いたい訳ではありません

彼のような映画監督がいても、それはアリだと思います。

話が逸れますが、最近「自分の個人的な好き嫌い」と「絶対的な善し悪し」とを混同する人が多過ぎて参ってしまいますね。

「これを見てオレは不快だ!傷ついた!

という言い分でクレームを飛ばしてくる人に対しては、

「だから何?」

というスタンスでガン飛ばすのが正しいと僕は思ってます。

ですから、僕は確かに新海誠が嫌いですが、だからと言ってその価値観を全人類に強制するつもりはありませんし、新海誠作品にも一定の価値は認めています。

 

ただし「君の名は」、テメーは別だ。。。

 

 

目次

 

新海誠作品との出会い&批評

「君の名は」が若者たちの間で一斉にもてはやされたあの時期、僕は3本の新海誠映画を観ました。

僕は映画を見る頻度が多い訳ではありませんが、映画自体は好きで、時間がある時にたまに見ては批評なんかしています。

「君の名は」の流行り方は異様でしたし、僕もいずれ観なくてはならない、と当時から思っていました。

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流行りすぎてパロディもののセクシービデオまで出た

何より、ちゃんと観てからじゃないとちゃんとバッシングできないですからね。

流行り物を信用していない僕は、「君の名は」を批判したくて堪らなかった(悪い癖)のですが、まだ観ていなかったが故に頑張って沈黙を貫いていたのです。

 

そんな折、ついに某CM多過ぎほぼジブリ専門映画チャンネルにて「君の名は」が地上波初放送されるということで、家族そろってテレビの前に鎮座ましますことになりました。

ただ、「君の名は」に関してはその凄まじいブームを目の当たりにして

「本気で批評してやりてえ!」

と思っていたので、予習として昔の新海誠作品を3作観ておくことにしたのです。

 

僕が観たのは「言の葉の庭」「秒速五センチメートル」「星を追う子ども」の三作ですが、それぞれの感想を当時の僕の時系列に沿った心情と共に書いて行きたいと思います(特に「秒速五センチメートル」について)。

また、この三作を観ることで、僕は結果として新海誠の作風を掴むことができました。

 

言の葉の庭

少年が魅力的な女性と邂逅し、触れ合ったり靴作ったりして最後は別れを経験する話です。

出逢う場面はメチャクチャ美しく描かれ、新海誠の持ち味である「描き込まれた美しい風景描写」が出てきます。

女性はちょっと謎を秘めた感じで、少年に和歌を投げかけてきたり、ちょっと誘うような態度を取ったり、魅力的な大人の女性といった感じで描かれます。

とにかくやたらと物語が美しくエモく描かれていて、最後は少年が女性の家に上がって好意を伝え、でも子供扱いされて振られた感じになり、少年は飛び出して行って女性が堪らず追いかけて、実は両思いで……?みたいな感じになって結局はお別れします。

心情描写も丁寧だし、なかなか悪くはないと感じました。

ちょっと美化し過ぎで目がチカチカするけど。

ただ個人的には、この頃(「君の名は」以前)の新海誠の作画はとても嫌いです。

風景はまあラッセンの絵みたいに写実的で美しいんですが、それに比べて人間の作画がアニメ的過ぎて全く写実的ではありません。

人間と風景が同時に画面に収まると、正直違和感が否めない

とは言え、僕は作画はそんなに重視しないので、「言の葉の庭」に関してはまあまあ楽しめました。

 

「秒速五センチメートル」

僕は三作を続けざまに観たので、「秒速五センチメートル」は「言の葉の庭」の直後に観ました。

結論から言うと、僕はこの「秒速五センチメートル」を見終わった瞬間に新海誠の作風きちんと理解しました

そして、絶望のあまり発狂しそうになったのです。

その理由を説明させて頂きましょう。

 

「秒速五センチメートル」は、三つの部からなっています。

まずは第1部「桜花抄」。

あらすじはWikipediaから引用させていただきます。

東京の小学校に通う遠野貴樹と篠原明里は精神的に似通っており、互いに「他人にはわからない特別な想い」を抱き合っていた。

クラスメイトたちのからかいを受けながらも一緒に時間を過ごすことが多かった2人だが、明里の父親の仕事の都合で小学校卒業と同時に明里は栃木転校してしまい、それきり会うことがなくなってしまう。

貴樹が中学に入学して半年が経過した夏のある日、栃木にいる明里から手紙が届く。

それをきっかけに文通を重ねるようになる2人。

しかし中学1年の終わりが近づいたころ(1995年)に、今度は貴樹が鹿児島へ転校することが決まった。

鹿児島と栃木では絶望的に遠い。

「もう二度と会えなくなるかもしれない……」

そう思った貴樹は、明里に会いに行く決意をする

約束をした3月4日、関東では大雪となり、貴樹の乗った列車は途中で何度も長い時間停車する。

さらに、宇都宮線から両毛線への乗り換えの小山駅のホームで、明里に渡す手紙を風に飛ばされ紛失してしまう。

貴樹には、遅れている列車をホームで待っていたり、停まった列車の中で運行再開を待っていたりすることしかできず、時間だけが流れていった。

深夜になって、ようやく貴樹は待ち合わせの岩舟駅に到着する。

人気のない待合室で明里は待っていた

貴樹と明里は雪の降る中、桜の木の下で唇を重ね、近くの納屋の中で寄り添って夜を明かした。

翌朝、明里は駅で「貴樹くんはきっとこの先も大丈夫だと思う」と言って貴樹を見送った。

明里も手紙を用意していたが、貴樹に手渡せなかった。

貴樹は走り去る列車の中、彼女を守れるだけの力が欲しいと強く願いながら、いつまでも窓の外の景色を見続けていた。

まず初めに僕が納得いかなかったのは、貴樹が明里とキスしたことです。

これはやってはいけない演出でした。

多分一般には、寧ろこのシーンこそ名場面とされるんだろうことは容易く想像できます。

が、ここで二人をキスさせてしまうことでメッセージ性が一気に安くなりますね

僕の理解では、貴樹と明里の関係性は友人以上のもの、もっと言えば心で通じあっているものです。

周囲のクラスメイトは二人がいつも一緒なのをからかうわけですが、何故からかうのかと言えば二人が恋愛関係にあると思ったからです。

しかし、この二人は寧ろそれ以上の関係です。

「男と女」という関係性に関わらず、この二人の心は根底で通じ合っていました。

恋愛というのは「男と女」という性的関係性から生じるもので、欲望とか渇望といった動機づけが大きいですが、この二人は恋愛関係にあるというよりも、互いに親友とか理解者と言うべきでしょう。

だから僕は、貴樹と明里との描写を観て、

「ああ、新海誠は男女間にも深い友情や共感が存在し得ると言いたいのかな」

と思いました。

事実、彼の極めて繊細な心情描写を考えれば、男女間の友情など見事に描き切ってくれそうに思えました。

……しかし違った

彼らは極限の状態にあって、無言で互いの唇を求め合ったのです。

てことは何だ、結局二人ともお互いに前々から好き同士だった訳でしょうか。

二人は心で通じ合っていただけではなく、実は異性として」惹かれ合うことであんなに距離が近かったということになります。

しかもその晩、二人は無人の納屋の中で寄り添って寝ましたね。

賭けてもいいけど、絶対やる事ヤッてます

いや、中1だから流石にそこまではないかも知れませんが、散々あれこれイチャつきまくったということだけは断定させてください。

これは正当な推論だと主張したい。

だって狭い納屋の中で二人して寄り添って寝て、目覚めるところまでちゃんと描写されてるんですよ。

この点に関しては異論がある人もいるでしょうが、僕はあくまで二人はそれなりの事に及んだと主張します。

ジブリの「もののけ姫」で、無防備に寝ているサンをアシタカが見つめるシーンがありますが、宮崎駿曰く

「描かなくても分かり切ってる!」

とのことです(何とは言わないが)。

これを論拠にする訳ではありませんが、新海誠の精緻な脚本構成を考えるとあのシーンの描写でただ寝て起きただけだというのは納得できませんね。

 

さて、何かだんだん僕が変態みたいになってきました。

結局何が言いたいのかというと、

新海誠はこのシーンで何を描こうとしたんだ?」

ということです。

別に僕は、性的な交わりが汚らわしい悪だと思っているわけではありませんし、プラトニックな友情こそ至高だとも思いません。

が、貴樹と明里との「心の交流」を散々描いておきつつ結局「肉体の交流」をさせるのであれば、この二人の関係性に託された「作品としての『意味』」が失われてしまいます。

だってキスしたら普通の男女じゃないですか。

二人の繋がりが純然たる「心の交流」だった、というなら伝えたい事としてはアリですが、まあ以心伝心はしてるけど内心お互いに恋心も抱いてるよって事ならそれは普通の出来事です。

何らのメッセージ性も持ち得ません。

ただのよくあるコミュ障陰キャ男女をヤッタラメッタラ美化して描くことに何の「意味」があるのか……?

僕は疑問でしたが、この疑問はのちのち解消されることになります

 

第2部の「コスモナウト」に話を移しましょう。

同じくあらすじは引用です。

1999年、 種子島の高校3年生・澄田花苗は、中学2年の春に東京から転校してきたクラスメイトの貴樹に恋をしていたが、その想いを伝えられずにいた

しかも、卒業を間近に控えながら自身の進路も決められず、趣味のサーフィンでも波の上に立つことができないというスランプに陥っていた。

しかし、一つずつできることからやると決めてサーフィンに挑み、ついに波の上に立つことができた。

今を逃せば二度と気持ちを打ち明けられないと思った花苗は、秘めていた自身の想いを貴樹に告げようと決心する。

しかし、想いを告げようとした瞬間、貴樹から無言の圧力を感じた花苗は告白することができず、貴樹のやさしさを悲しく思いながら帰り道に泣き出してしまう。

そしてその時、2人の後ろで打ち上がったロケットを見た花苗は、貴樹が自分のことなど見ておらず、ずっと遠くにあるものを見つめているのをはっきりと悟るのだった。

結局その日の帰り道、花苗は何も言えずに告白を諦めてしまう。

そして彼女は貴樹への想いが一生報われなくても、それでもなお彼のことがどうしようもなく好きだという想いを胸に、泣きながら眠った。

第2部では時が進み、彼らは高校三年生になります。

話を要約すると、明里を忘れられない貴樹貴樹に想いを伝えられない花苗がこの部では描かれていますね。

注目したいのは、花苗が貴樹を思う構図第1部で貴樹が明里を想っていた構図同じだということです。

貴樹は明里と(キスはしたものの)結ばれていませんし、想いも伝えず手紙も渡さずに最後の別れをしてしまいました。

こう言うと、

「いや、二人はキスしてるし両想いだったんだから結ばれてるっしょ?」

と思う人もいるかも知れませんが、多分そう思う人は陽キャかウェイかリア充でしょうね

貴樹にとって、あの日のキスというのは二人の情熱が最高潮に高まった結果の祝福ではありませんでした。

お互いに極限の状態に置かれて、やっとの思いで死ぬほど想った人に出会えた、その奇跡に目眩して起きてしまった事故です。

つまり、平たく言えば「今まで我慢してたのが出ちゃった」感じでしょう。

大変繊細な感性を持つ貴樹にとって、その出来事を純粋にハッピーな出来事として記憶しておける訳がありません。

確かに夢のように甘い記憶ではあるでしょうが、それはあくまで現実味のない甘い夢であり、お互いに想いを直截に伝えないまま別れてしまったことで彼の心は全く満たされていません。

ここ重要。

貴樹は明里への想いを体ではなく心で満たしたかったのです。

でもそれは叶わず、結果として貴樹は5年も明里のことを引きずり続ける未練モンスターと化しました。

そして、花苗はその貴樹の雰囲気を漠然と感じ取り、自分の想いを結局は伝えられずに終わってしまいます。

しかも、「自分はこの先一生この恋を引きずるだろう」と予言するわけですね。

この予言はこの後、貴樹に対して見事に的中します。

彼は一生明里の影を追い続けることになるのです。

つまり第2部では何が起きているかというと、花苗を使って貴樹の明里への未練が再演されていることになります。

花苗は過去の貴樹を暗喩しているのです。

 

余談ですが、花苗はなぜ貴樹に恋をしてしまったのでしょうか。

理由は明らかですね。

貴樹に自分と同じ闇を感じたからです。

とても優しくセンシティブだが、いつもどこか遠いところを見つめている。

その遠いところとは、貴樹にとっては明里であり、花苗にとっては貴樹なのでした。

 

そして、ついに映画は終わりを迎えます。

最後の第3部「秒速五センチメートル」です。

東京で社会人となった貴樹は高みを目指そうともがいていたが、それが何の衝動に駆られてなのかはわからなかった。

ただひたすら仕事に追われる日々。

3年間付き合っていた女性からは「1000回メールしても、心は1センチくらいしか近づけなかった」と言われ、自身の心が彼女に向いていないことを見透かされてしまう。

貴樹も自分自身の葛藤から、若き迷いへと落ちてゆき会社を辞める。

貴樹の心はあの中学生の雪の夜以来ずっと、自身にとって唯一の女性を追い掛け続けていたのだった。

春のある日、貴樹はふと桜を見に外に出かける。

小学生時代に毎日通っていた場所だ。

踏切に差し掛かかると前方から一人の女性が歩いてくる。

踏切内ですれ違う瞬間、2人は何かを感じ取る。

踏切を渡り立ち止まり、貴樹と彼女がゆっくりと振り返った瞬間、小田急線の急行列車が2人の視界をふさいだ。

列車が通り過ぎると、そこに彼女の姿はなかった。

貴樹は大人になりますが、遂に明里のことを忘れることが出来ません。

ここまで来ると大したタマですね。

貴樹は煩悶し、未だに在りし日の明里の幽霊を追いかけ続け、日常生活に支障すらきたし始めます。

最後の場面は象徴的でエモいですよね。

もしかしたら踏切の向こうに明里が居るかもしれない、とあるはずもない奇跡を期待して……でもやはり奇跡は起きない

多分貴樹は一生このままでしょう。

そしてエモい主題歌が流れ、エモいカットシーンが流れ、映画はエモエモなまま終わっていきます。

 

えっこれで終わり???

 

そうですこれで終わりです。

当時の僕は、ただただエモい映像を垂れ流し続ける画面を前に呆然としました。

いや何も終わった気がしねえんだが。

それでもエンディングテーマは鳴り止みません。

"いつでも捜しているよ……

どっかに君の姿を……" *1

いやエッモ、てか甘っ甘ったるこの歌と戸惑いながら、遂に僕は悟りました。

これが新海誠の意図か……!

 

新海誠の作風

誤解を恐れずにストレートに言うと、新海誠作品の意図はズバリ、

クソ陰キャオタク童貞の妄想を美化し正当化すること

です。

さあ、激しく抗議の野次が聞こえてきましたね!!

頼むから落ち着いてください

ここからちゃんと説明していきます、てか説明させてください……。

 

まず、ここから先陰キャ」「コミュ障」「オタク」「童貞」といったワードが飛び交いまくると思いますが、これらは全て悪口ではありません

どれもニュアンスを上手く伝えるために若者言葉やスラングをそのまま使っているだけなので、どうか仲良くいきましょう。

一応定義しとくと、

陰キャ=引っ込み思案で内向的で自己肯定感が低めな人。

コミュ障=外向的なコミュニケーションが上手くない人。

オタク=特定のものに対して理想化した信念を抱き、それを崇拝する人。

童貞=女性経験がないせいで、女性に関して体験と結びついた正しい知識がない人。

という感じですね。

 

さて、まずは僕が「秒速五センチメートル」を観て、全く終わった気がしないと感じた理由から説明しなければいけません。

前述の通り「秒速五センチメートル」は3部構成であり、あらすじは上の通りでした。

この話を要約すると、

「自分にとって理想的だった異性を忘れられずに生きて行くのって辛いけど美しいよね」

という感じになります。

ここで一つの疑問が湧いてきます。

 

だっだから何!??!!

 

この映画には主張がありません

映画を通して描かれるのは、とにかくセンシティブでナヨナヨしていて陰キャコミュ障極まりない主人公が、好きな女の子をこれでもかと理想化し、有り得ないくらい長い間それを引きずり続けて生きていく様子です。

そして重要なのが、それらの全てがやたらと美しく、エモーショナルに描かれるということです。

繰り返して言いますが、この映画には主張がありません

確かに題材に関してはとても共感できます。

過去の理想化された何かを追い続けてしまうことは、多かれ少なかれ誰にでもあるでしょう。

しかし、それを正当化する真っ当な理由どこにもありません

過去の理想を追うことは決して美しいことではありませんし、そんな童貞的な理想は現実には果たされません

でも新海誠はこの映画を、美麗に描き込まれた作画とエモいセリフ、エモい演出とエモい主題歌、とにかくエッモエモな諸物満たして完成させたのです。

これでは、既存のもの(=理想を引きずること)を無批判に肯定してはいても、芸術的に新たなメッセージ性を主張していることにはなりません。

芸術は、作品のメッセージを相手に伝え納得させるためにあの手この手を尽くしますが、「秒速五センチメートル」がやったのはただクソ陰キャオタク童貞が共感しまくれるストーリーを用意して、それを万人受けする美しさで埋め尽くしただけ。

ストーリー展開には痛いほど共感できますが、その共感が頂点に達したところで突然物語が終わってしまいます

僕としては、そこからついに主張が始まる、と思ったのに拍子抜けしてしまったという訳です。

ここから何が言えるかと言うと、

新海誠の作品で最も大事なのは共感

だということです。

作品を観ることで鑑賞者に作用しようとするものが芸術だとするなら、新海誠作品は鑑賞者に寄り添いこそすれ何らの作用を及ぼしません

つまり、観る前と後とで、見た人の価値観は何も変わりません。

観て楽しめるけれども自分に特に変化を及ぼさない映画を何と呼ぶか、賢明な皆さんなら勘づいていますよね?

そうです、娯楽映画です。

 

そして、僕が気づいた以上のことは、何も「秒速五センチメートル」に限った話ではありません。

多分新海誠作品全てに共通した特徴だと思います。

「秒速五センチメートル」を見終わってからふと思ったのですが、ストーリー展開があまりにも「言の葉の庭」とカブってますよね。

主役の少年が居て、理想」という文字がそのまま歩いてるみたいな女キャラがいて、両思いっぽいんだけど結局結ばれなくて、少年はその思い出を引きずりながら余生を生きる

細かい展開こそ違いますが、大筋は正直手抜きに思えるくらい全く同じです。

つまり、これが新海誠の語法なのだと思います。

「過去の理想を引きずる少年を美しく描く」

これが新海誠の作風であり、一貫して描かれる新海誠の信念みたいなものなのでしょう。

恐らくは、彼自身がそういうセンシティブな感性で生きているのでしょうね。

 

さて、「秒速五センチメートル」を見終わってやり場のない怒りに打ち震えた僕は、続けて3作目「星を追う子ども」を見始めました。

正直内容をよく覚えてませんが、冒頭部分を見た段階で

「あ、これも同じ展開とオチだ」

いう直感に至ったので、自分を拷問にかけるのは止めて早々に視聴を断念しました

 

陰キャの娯楽」という魅力と価値

ここまでで、僕は新海誠作品をボロッカスに批判してきました。

しかし、あくまで忘れないで欲しいのが、以上の話は僕にとって新海誠作品が個人的に嫌い」である理由を説明したに過ぎない、ということ。

もう少し分かりやすく書いていきましょう。

 

僕はここまでの内容で、いかに新海誠作品が芸術作品として無価値かということを力説してきました。

しかし、これは逆に言うこともできます。

つまり、新海誠作品は娯楽作品としては非常に高い価値を持っているということです。

彼の売りは、写実的に描き込まれた作画描写と、極めてドラマティックで感情的な台詞や展開、カットシーンだと思いますが、このクソエモパラダイス祭りを真似できる人は他にまずいないでしょうね。

要するに、深いこと考えなければ絶対楽しめるし、それはそれでアリだってことです。

 

そもそも、僕の文章を見てくれれば分かると思いますが、僕はあらゆる物事に対して意味やメカニズムを深く考えてしまう癖があります。

これは良くも悪くもあって、この癖があるからこそ僕は作曲家としてやって行けるのだと思いますが、一方で俗な物を無批判に楽しむことが出来ません。

僕の批評は、「特定のストーリー展開には特定の文学的意味があって然るべきだ」「芸術は善」という前提の元に進められていますが、これはあくまで僕の感覚であって、

「別に楽しければ何でも良くね?」

と言われたら僕はもはや反論できません

「君がそれでいいなら良いんじゃない?」

としか言えなくなってしまうのです。

 

何が言いたいかというと、僕は別に新海誠作品そのものを全世界から糾弾したい訳ではありません

新海誠作品はクソ陰キャオタク童貞の妄想に過ぎない」という考えを取り下げるつもりはありませんが、

 

「確かに新海誠作品はクソ陰キャオタク童貞の妄想娯楽映画が、俺はただこれを観てエモみを接種したいんだ!」

 

という意気込みで新海誠作品を観る人には何も言いません

むしろ、

「君は分かってるね!

クソ陰キャオタク童貞として精進したまえ!」

と背中を押すところです。

 

さあ、ここまでは実は長い長い前置きなのでした。

ここからついに「君の名は」の批評に移っていきますが、これまでの批評と違って僕は「君の名は」だけはちゃんと糾弾したいと思っています。

つまり、個人的な理由ではなく普遍的に適用できる大きな価値観から「君の名は」を批判したい、ということです。

何かまた凄まじい怒号が飛んできそうですが、ちゃんと説明するので勘弁してください……。

続きからいよいよ本編の始まりです!(長過ぎるわボケ

 

続き→

nu-composers.hateblo.jp

 

 

*1:「実際には、この歌が終わった後で踏切のラストシーンに移るので、この時点で既に歌は流れていないはず」とのご指摘をいただきました。
観たのが昔なもので、曖昧な記憶を頼りに記事を書いており、実際の映画と多少食い違っていたかもしれません。
大変申し訳ない……。

音楽とドラッグ

いま風邪ひいてるんですよ。ごほごほ。

しかも全然治らないので抗生物質の投与も視野に入れ始めました。

 

ところで、抗生物質って薬じゃないですか。

 

薬といえばドラッグですよね。

 

ということで音楽とドラッグの話をしましょう。喉痛え。

 

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おくすりのみたい!(意味深)

 

ところで、最近クスリで捕まるのがエクストリームスポーツとしてミュージシャン界隈で流行ってますよね。

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エクストリーム電撃逮捕されたピエール瀧

薬物使用が悪いことなのかは(議論が面倒くさいので)さておき、大衆音楽の発展とドラッグとは切っても切れない関係にあるのは間違いないんです。

 

たとえばモダンジャズなんかはCharlie Parkerクスリキメて精神錯乱してからというもの、Bill Evans麻薬で歯ボロッボロになるし、John Coltraneヘロイン中毒(克服したけど)Miles Davisのバンドクビになるし、クスリ漬けにならんとやってられんのかキミ達〜? 俺もクスリキメたらジャズ上手くなるの~か?(ならない)

 

さてそのおクスリですが、LSDというのもありますね。

 

LSDとサイケ

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LSD

LSDをキメると

「知覚が先鋭化し、遠近の感覚がゆがみ、残像が長引き、視界が揺れて波のようにうねる。色彩はより強烈になり、輪郭はより鋭利になり、音楽はより情感を帯び、そして周囲のものが重大な意味を持つもののように思えてくる。また、幾何学模様や象徴的な物体が見える。

らしいですよ。たのしそう~!!!!

 

そしてこのLSDを筆頭とした薬物をキメた状態を表現したのが「サイケデリック○○」という一連のジャンル。

 

たとえばサイケデリックアートはこんな感じ

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横尾忠則の作品。いまの大河ドラマの題字はこの人

 

どうです、LSDの諸症状と合致しますね? 

これがサイケだ!

 

とまあサイケ○○は色々あるんですが、音楽ならまずサイケデリックロック(サイケロック)を語るべきでしょう。

 

サイケロックと言えばビートルズが有名ですね。

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サイケでイケイケ期のビートルズ。初期の写真と比較すると面白い

 

ロックの神様たる彼らもバッチリLSDキメてます。(当時LSDは合法だったのでセーフ)

 

特にJohn Lennonは影響を強く受けたらしく、

Lucy in the Sky with Diamonds」

という曲を作りました。本人曰く全くの偶然らしいです。ほんまか?

 

そんなサイケロックですが、以下の二曲聴けばとりあえず雰囲気はつかめます。

 

 


 

いや~この浮遊感がたまりませんね、最高です。

個人的にこの二曲がビートルズで一番好きです。

 

さて、サイケデリックロックばかり語っても仕方ないのでつぎ行きましょう。ちなみにサイケ以外も紹介するつもりだったけど、風邪で集中力が持たないのでやめました! ごほごほ!

 

 サイケデリックトランス

ドラッグは明らかにアンダーグラウンドなものじゃないですか。

音楽にもアンダーグラウンドなものがあるわけで、その中にはクラブミュージックがあるわけです。

 

アングラなものはカウンターカルチャーとしての側面が強いこともあり、ドラッグと結びついてしまい易いとかいう話もあります。

 

ということで、幸か不幸か、クラブミュージックもドラッグと結びついたものがあるわけです。

 

例えばトランスというジャンルがございます。

 

その名の通りトランス状態=幻覚や催眠を催すとか催さないとか。

 

つまるところ、合法的に飛べちゃうんです!

 

とはいうものの、トランス聴いて幻覚や催眠に陥ったことはないので、安心して聴いてください↓

 

トランスの一例

 

そんなトランスですが、ここにもサイケの波がやってきます。

 

悪魔的発想

 

トランス(合法的に飛べる) + サイケ = もっと飛べる

 

と考えたのかどうかは知りませんが、トランスとサイケデリックは融合を果たし、サイケデリックトランスが誕生します。


サイケデリックトランスの名曲、その名もLSD

みんなLSD好きすぎか? てか、もはや隠す気もないな??

 

正直サイケデリックトランスのどこら辺がサイケデリックなのか、僕にはよくわからないです。とりあえず「えるえすでーぃ」って言っとけば良いと思ってね? え、違う?

LSDキメたらわかるのかもしれませんね。

 

そういえば中国人が経営するクラブ行くとドラッグ買えるって聞いたんですが本当ですか? そもそも東京の方だと普通に買えるみたいな話もあるんですが、オイラ田舎モンだからわからんっぺ。

 

はい。こんなところですかね。

本当は「なぜドラッグをやってはいけないのか」「法律で禁止されていなかったらやっていいのか」などの倫理学的な話もしたいんですが、クソ長くなるし、何より風邪でぼーっとした頭には無理なのでやめます。そのうちやれたらいいとは思います。

 

とりあえず良いか悪いかはさておき、音楽とドラッグにはそれなりの関わりがある(あった)ということがわかればそれでいいのです。 

そこを踏まえた上で昨今の報道を見ると、また違った見方ができるかもしれませんよ?