名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

シリーズ「ロシア・アヴァンギャルド」 第二回「ニコライ・ロスラヴェッツの合成和音」 ―PCS理論発見の前に同じ基本哲学に気がついた男

 

シリーズ「ロシア・アヴァンギャルド」

Nikolai Andreevich Roslavets

第1章 問題設定

(Roslavets理論再検討の必要性)

 20世紀初頭のロシア音楽においては、調性崩壊以後の音組織の問題が、単なる無調の導入としてではなく、より構造的な音素材の再編として理解されるべき段階に達していた。すなわち、西欧の無調音楽がしばしば機能和声の否定として語られるのに対し、ロシアにおいては音素材の内部関係の再構築という形で、より深い理論的志向が見られるのである。

 この文脈においてニコライ・ロスラヴェッツ(Nikolai Roslavets, 1881–1944)は極めて特異な位置を占める作曲家である。彼の創作は単なる無調の実践にとどまらず、音素材そのものを組織的に設定し、それを時間的展開の基盤とするという体系的作曲法に向かっていた。本論ではこの体系を「合成和音システム」と呼び、その理論的意味を再検討する。

 本研究の目的は以下の三点にある。

1.ロスラヴェッツの理論をロシア音楽理論史の文脈に再配置すること
2.彼の音群組織を現代音楽理論(PCS)により再記述すること
3.その作曲原理を現代作曲のためのモデルとして提示すること

 従来研究では、ロスラヴェッツの理論はしばしば「スクリャービン以後の神秘主義的音楽語法」として扱われるか、あるいは単に十二音技法以前の実験的無調の一例として理解されてきた。しかしながら、彼の音楽に見られる素材設定と展開の方法は、より構造主義的な音楽思考に基づいており、20世紀音楽の理論史において再評価されるべき対象である。

 本論はこの観点から、ロスラヴェッツの理論の基礎哲学を「lad概念」に求め、その上で彼の音群操作を分析し、現代的理論装置を用いて再定式化することを試みる。


第2章 lad概念の理論史

 ロシア音楽理論における「lad」は、西欧の調性概念とは異なる独自の歴史的展開を持つ概念である。これは単なる音階や旋法を意味するのではなく、音の運動傾向、すなわち音がどの方向へ進もうとするかという構造的性質を指す理論概念として理解されるべきものである。

 この概念は19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ロシア理論家たちによって体系化されていった。特にヤヴォルスキーおよびホロポフの理論においては、ladは音程関係の中に内在する運動性として定義され、調性とは異なる音楽構造の基礎原理として扱われた。

 この点について、Bazayevは次のように指摘している。

 ・lad は音の階層構造ではなく、音の運動の組織である(Bazayev 2014)

 この理解は極めて重要である。すなわち、音楽の構造は和音の機能的連鎖ではなく、音程関係の中に含まれる運動傾向によって生成されるという発想である。 

lad構造模式図

 さらに、lad概念は対称性と深く結びつく。音程関係の対称構造は、音の引力関係を再編成し、従来の調性とは異なる運動秩序を形成する。

ladと対称構造の関係図

 上例はスクリャービンの神秘和音におけるlad概念の運用図である。このようにladの概念は不協和音にも適応が可能であるという点において、無調音楽への秩序の導入の意味でも役立つ。このような理論的背景のもと、ロスラヴェッツは音群の設定を作曲の出発点とする方法を採用したと考えられる。

 

第3章 ロスラヴェッツ理論の再定義

 ロスラヴェッツの創作において特徴的なのは、作品ごとに固有の音集合を設定し、それを基盤として音楽を構成する方法である。彼はこれを「合成和音」と呼んだが、その本質は単一の和音ではなく、音程関係構造を内包した音群の設定にある。

 この音群は以下の性質を持つ。

1.音程関係に基づく内部構造を持つ
2.移行可能な構造単位として機能する
3.音楽の時間展開の基礎となる

 この点において、ロスラヴェッツの理論は調性和声とも十二音技法とも異なる独自の体系を形成している。また、彼の理論は神秘主義的思想の産物としてではなく、音素材の構造的操作に基づく合理的作曲法として理解されるべきである。彼の音群操作は、機能和声の代替としての音集合運動の理論とみなすことが可能であり、この観点から再評価することが本論の中心課題となる。

 

第4章 ロスラヴェッツの形成環境と理論生成の契機

 ニコライ・アンドレイヴィチ・ロスラヴェッツ(Nikolai Andreevich Roslavets, 1881–1944)は、ロシア帝国末期からソヴィエト初期にかけて活動した作曲家・理論家であり、その創作は20世紀初頭のロシア音楽における構造的革新の一端を担うものであった。彼の音楽理論は個人的発想の産物ではなく、当時のロシア音楽理論環境および芸術思想の中から必然的に生成されたものであると理解されるべきである。

 ロスラヴェッツはモスクワ音楽院において作曲を学び、主としてセルゲイ・タネーエフの理論的系譜を受け継ぐ教育環境のもとで訓練を受けた。彼の師にはミハイル・イッポリトフ=イワノフおよびレインゴリト・グリエールが含まれ、これらの教育者はロシア音楽の民族的語法と西欧理論の統合を志向する作曲家であった。この教育環境は、形式的構造の厳密な把握と音素材の体系的処理を重視する姿勢をロスラヴェッツに植え付けたと考えられる。

 しかしながら、彼の理論的関心は単なる伝統的作曲教育の枠内にとどまらなかった。19世紀末から20世紀初頭にかけてのロシアにおいては、象徴主義文学や神秘思想、さらには芸術の統合を志向する総合芸術的運動が活発化しており、音楽もまたその思想的影響を強く受けていた。この文化的状況は、音楽の構造原理を再定義しようとする志向を作曲家たちに促すものであった。

Alexander Scriabin

 この点において、ロスラヴェッツとアレクサンドル・スクリャービンとの関係はしばしば論じられてきた。両者は直接の師弟関係にはないものの、スクリャービンの後期作品に見られる和声構造の革新は、ロスラヴェッツにとって重要な問題提起となったと考えられる。すなわち、和音を調性的機能から解放し、音程関係の内部構造として再定義する試みは、ロスラヴェッツの理論的関心と同一の問題領域に属するものであった。

 ただし、ロスラヴェッツの理論はスクリャービンの神秘主義的志向を継承するものではない。むしろ彼は、音素材の内部関係を理論的に組織化することによって、新しい音楽構造を構築しようとした点において、より構造主義的な立場に立っていたといえる。彼の合成和音概念は、特定の象徴的意味内容を担う和音ではなく、音程関係の集合として定義される音群であり、その操作を通じて音楽の時間的展開を生成するための装置であった。

 なおスクリャービンの作曲モデルについては拙著ブログ記事に詳しいのでそちらを参照されたい。

 

nu-composers.hateblo.jp

 

 さらに、1917年革命以後のソヴィエト文化政策の変化は、ロスラヴェッツの活動に大きな影響を与えた。前衛芸術に対する政治的圧力の高まりは、彼の理論的研究および創作活動の継続を困難にし、その結果として彼の理論体系は断片的な形でしか伝えられなかった。この歴史的状況は、彼の理論が後世において十分に理解されなかった一因であると考えられる。

 以上のように、ロスラヴェッツの合成和音システムは、ロシア音楽理論の伝統、象徴主義的文化環境、スクリャービン以後の和声問題、そして革命後の政治状況という複合的要因の中から形成された理論体系である。本論ではこの理論を、lad概念の発展史の中に位置付けるとともに、現代音楽理論の枠組みを用いて再解釈することを試みる。

Mikhail Mikhailovich Ippolitov-Ivanov

 なお、ロスラヴェッツの師の一人であるミハイル・イッポリトフ=イワノフは、ロシア国民楽派の系譜に連なる作曲家として、民族的素材に基づく穏やかで牧歌的な作風によって知られている。彼の作品においては、調性的秩序と民俗的旋律語法が安定した音楽的世界を形成しており、その音楽は20世紀初頭の急進的前衛とは明確に距離を保つものであった。

 一見すれば、このような作風はロスラヴェッツの音楽に見られる鋭利な構造主義的志向とは対極に位置するように思われる。しかしながら、この対照は単なる断絶として理解されるべきではない。むしろロスラヴェッツは、ロシア音楽の文化的基盤と理論的構造を深く理解した上で、それを別の方法論によって再構成しようとした作曲家であったと考えられる。

 すなわち、イッポリトフ=イワノフらが民族的語法を通じてロシア音楽の同一性を表現しようとしたのに対し、ロスラヴェッツは音素材の構造的組織化によって、より抽象的次元における音楽的アイデンティティの確立を志向したのである。この意味において、彼の理論と創作は、伝統的国民楽派への否定ではなく、むしろそれに対する理論的応答として位置付けることが可能であろう。

 したがって、彼が当時の音楽界において周縁的存在と見なされた歴史的状況は、単なる様式的急進性の問題ではなく、音楽理解の枠組みそのものの転換を試みたことに起因するものと解釈されるべきである。

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第5章 音群理論の再記述としてのPCS導入

 ロスラヴェッツの合成和音システムは、20世紀初頭のロシア音楽理論の文脈において形成されたものであり、その理論的基盤は当時の「lad」概念の拡張として理解されるべきである。しかしながら、この理論は数学的集合論として明示的に体系化されたものではなく、むしろ作曲実践の中から導出された操作原理として存在していた。

 この点において、現代音楽理論の枠組みであるピッチクラス集合論(Pitch-Class Set Theory, 以下PCS)は、ロスラヴェッツの音群操作を再記述するための有効な分析装置となり得る。すなわち、彼が「合成和音」と呼んだ音素材は、特定の音程関係構造を持つ集合として理解することが可能であり、その移行や変容はPCSにおける転回・移調操作と対応づけることができる。

 重要なのは、本論におけるPCSの導入が、ロスラヴェッツの理論を後世の概念によって単純に説明し直す試みではないという点である。むしろこれは、彼の音楽思考が現代理論の登場以前に同様の基本哲学に到達していたことを示すための方法論的選択である。したがって、本論におけるPCSの使用は歴史的再解釈であると同時に、作曲理論としての再構築を意図するものである。

 この観点から、本論ではロスラヴェッツの作品に現れる基本音群を集合 

 𝑆

 S として定義し、その構造をピッチクラス集合として記述する。さらに、その移行形をPCSの転移操作として整理し、音楽の時間展開を集合操作の連鎖として把握することを試みる。

 このような再記述は、単なる分析的有用性にとどまらず、現代作曲におけるモデル提示としても重要な意味を持つ。すなわち、ロスラヴェッツの音楽は歴史的事象として理解されるだけでなく、音群操作に基づく作曲理論として現在に再活性化され得るのである。

 また、PCS理論におけるフォート番号の導入は、ロスラヴェッツ自身の理論を数学的体系として再構築する試みではなく、現代の作曲家にとって理解しやすい記述形式を与えるための便宜的手段として用いられる。本論においては、彼の基本音群を特定の集合クラスとして位置付け、その移行関係を集合論的に整理することによって、彼の音楽言語を構造的に明示する。

 この操作はさらに、PCSにおけるZ関係などの概念を通じて、ロスラヴェッツの音群理論を拡張する可能性を示唆するものである。すなわち、彼の合成和音モデルは歴史的完成形として閉じた体系ではなく、現代作曲理論の中で発展し得る開かれた構造として再理解されるべきである。

 以上の理由により、本論ではロスラヴェッツの音楽をPCS理論の枠組みによって再記述し、その作曲原理を現代的視点から再評価することを方法論的基盤とする。

 

第6章 基本音群 S の定義と構造

 ロスラヴェッツの作曲技法の核心に位置するのは、作品ごとに設定される固有の音群である。この音群は彼自身によって「合成和音」と呼ばれたが、その本質は単一の和音ではなく、音程関係構造を内包する集合として理解されるべきである。本論ではこの基本音素材を集合 

 𝑆

 S として定義し、その構造を分析の出発点とする。

 ロスラヴェッツの作品においては、この集合 

 𝑆

 S が単に静的な素材として提示されるのではなく、作品全体の構造生成の原理として機能する。すなわち、音楽の進行は機能和声的な和音連鎖によってではなく、集合 

 𝑆

 S の移行および変形によって組織される。この意味において、彼の作曲法は和声進行の代替としての集合運動理論とみなすことが可能である。

 特に《ピアノ・ソナタ第2番》の冒頭においては、基本音群が音列的形式で明示され、作品の構造原理が提示されている。この提示は、調性的音楽における主題提示に相当する役割を担うものであり、以後の音楽的展開はこの集合の変容として理解されるべきである。

Piano Sonata No.2/N.Roslavets

 この音群は単なる音列ではなく、内部に特定の音程関係構造を持つ集合であり、その対称性および部分構造は作品全体の音楽的運動を規定する。本論では、この集合をPCSの観点から分析し、そのフォート番号による位置付けを行う。

Normal Form 0 1 2 4 6 8 9 t 
Prime Form (0124568T)
Forte Number 8-24

 さらに、この集合は単独で機能するだけでなく、移調形との合成によって拡張された音群構造を形成する場合がある。このような操作は、ロスラヴェッツの音楽において重要な構造生成の手段となっている。

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基本集合と移行形の関係図

 このように、ロスラヴェッツの作曲法は、単一の音群の設定とその変容によって音楽を構築する方法として理解される。したがって、本論の分析は、集合 
 
 𝑆

 S の内部構造、部分集合への分割、声部配置、時間展開という四段階の観点から行われる。

 この四段階構造は、彼の音楽を機能和声の枠組みから切り離して理解するための理論的枠組みを提供するものであり、同時に現代作曲理論における音素材操作のモデルとして再解釈することが可能である。

 

第7章 基本音群 S の内部構造

(ピアノ・ソナタ第2番冒頭分析)

 《ピアノ・ソナタ第2番》の冒頭において提示される基本音群は、単なる音列としてではなく、内部に特定の音程構造を内包する集合として理解されるべきである。この集合は、後続の音楽的展開におけるすべての素材の源泉として機能し、調性音楽における主題概念に相当する構造的役割を担う。

ソナタ第2番冒頭提示音群

 この音群は、特定の中心音を基準として提示されるが、その機能は調性的中心とは異なる。すなわち、ここでの中心音は引力点としての主音ではなく、集合の構造を定位するための参照軸として機能している。この点において、ロスラヴェッツの音群提示は、機能和声における主和音提示とは本質的に異なる理論的意味を持つ。

 さらに、この基本音群は内部に複数の部分集合構造を含み、それらは声部配置に応じて分離的に用いられる場合がある。この操作は、和声の分解というよりも、集合構造の異なる層における展開として理解されるべきである。

右手部分集合の抽出

Forte Number 5-32

左手部分集合の抽出

Forte Numer 5-z17

 これらの部分集合は、単独でも音楽的文脈を形成し得るが、両者が統合されたときに基本集合の全体構造が明確に顕在化する。この関係は、調性音楽における和声分散とは異なり、集合構造の多層的提示として理解される必要がある。

 また、これらの集合は固定された形で反復されるのではなく、移行形として連続的に変化する。この変化は調性的和声進行の代替として機能し、音楽の時間構造を生成する主要な手段となっている。

移行形の展開例

 このような集合の変容は、単なる移調操作としてではなく、音程関係構造の再配置として理解されるべきである。すなわち、音楽の進行は和声機能の推移ではなく、集合構造の変形によって生起する。

 この観点から見ると、ロスラヴェッツの作曲法は、調性音楽における和声進行を集合運動に置換した構造体系として把握することが可能である。したがって、彼の音楽における緊張と解放の感覚は、音群の変形と再統合の過程として理解されるべきである。

移行形の展開例

 以上のように、《ピアノ・ソナタ第2番》冒頭における音群提示は、作品全体の構造生成原理を象徴的に示すものであり、ロスラヴェッツの合成和音システムを理解する上で最も重要な出発点となる。

 

第8章 集合運動と形式哲学

(ソナタ形式との比較において)

 ロスラヴェッツの音楽構造を理解する際、従来の形式理論の枠組みをそのまま適用することは適切ではない。特にソナタ形式との関係を論じる場合、調性音楽における主題対比や調的対立の概念は、彼の音楽には直接対応しない構造原理に基づいている。

 調性ソナタにおいては、音楽の時間展開は主題の提示・展開・再現という形式的枠組みによって組織され、その内部では調的対立と解決が構造的緊張を生み出す。一方、ロスラヴェッツの作品においては、このような機能和声的対立は存在せず、代わりに音群の変形と移行が音楽の時間的運動を規定する。

 すなわち、彼の音楽における「展開」とは、主題動機の変形ではなく、基本集合の構造変容として理解されるべきである。この点において、ロスラヴェッツの形式観は、調性音楽における主題中心的形式論とは異なる原理に基づいている。

集合運動による構造生成模式図

 さらに、この集合運動は単なる構造的操作にとどまらず、音楽の時間経験そのものを再定義する役割を担っている。調性音楽においては、緊張と解放は主として和声機能の推移によって生じるが、ロスラヴェッツの音楽では、集合構造の変容が同様の時間的ダイナミクスを生成する。

 この意味において、彼の音楽は調性形式の否定ではなく、その構造原理の別様の実現として理解されるべきである。すなわち、ソナタ形式における対立構造は、音群の差異として再構成され、再現部に相当する部分は集合構造の再統合として現れる。

 

 

集合再統合の構造例

 この観点から見ると、ロスラヴェッツの形式思想は、音素材の内部構造に基づく時間生成理論として位置付けることができる。彼の作品においては、形式は外在的枠組みとして存在するのではなく、集合運動の結果として生成される内在的構造として現れるのである。

 したがって、ロスラヴェッツの音楽は、調性ソナタ形式の単なる拡張や解体としてではなく、音素材操作に基づく新しい形式理論の先駆的試みとして理解されるべきである。

 

第9章 集合合成と拡張構造

(スーパーセットとしての音群組織)

 ロスラヴェッツの作曲技法において特徴的なのは、単一の基本音群を素材としながらも、その移行形との合成によって拡張された音群構造を形成する点にある。この操作は、単なる移調の反復とは異なり、集合構造の統合による新たな音素材の生成として理解されるべきである。

 《ピアノ・ソナタ第2番》の冒頭に提示される基本音群は、特定の音を基準として提示されるが、作品の進行においてはその移行形が併用されることによって、より広範な音域的・構造的展開が可能となる。このとき、基本集合と移行集合の合成によって形成される音群は、単一集合を超えた包括的構造として機能する。

基本集合と移行集合の合成構造

 

 このような拡張音群は、本論の観点からは「スーパーセット」と呼ぶことが可能である。すなわち、作品の音素材は単一の集合によって固定されるのではなく、その変形と合成によって動的に拡張される構造を持つ。この操作は、調性音楽における調的拡張や和声的転調とは本質的に異なる理論原理に基づいている。

 また、このスーパーセットの形成は、音楽の時間構造に対して重要な影響を与える。すなわち、音素材の拡張は単に音響的多様性を生むだけでなく、構造的緊張の新たな次元を形成する。この点において、ロスラヴェッツの音楽は、音群の変形と統合による構造生成の体系として理解されるべきである。

 さらに、このような集合合成の操作は、現代音楽理論における集合クラスの拡張概念と接続する可能性を持つ。特に、PCS理論におけるZ関係の概念は、ロスラヴェッツの音群操作を新たな視点から再解釈する契機となり得る。すなわち、彼の合成和音モデルは、固定された歴史的技法としてではなく、集合操作に基づく開かれた作曲理論として再評価されるべきである。

 この観点から、本論ではロスラヴェッツの音群理論を現代的集合論の枠組みの中で再定義し、その拡張可能性を提示することを試みる。彼の音楽は、調性崩壊後の無秩序な音素材の使用ではなく、構造的に組織された音群操作の体系として理解されるべきであり、その理論的意義は20世紀音楽史において再検討される必要がある。


第10章 未実装の未来的Roslavetsシステム

(集合操作による作曲理論の拡張)

 ロスラヴェッツの合成和音システムは、作品ごとに設定された音群の操作によって音楽構造を生成する理論として理解されるべきである。本論における分析は、この音群操作が単なる歴史的技法ではなく、現代作曲理論の中で再活性化され得る構造原理であることを示してきた。

 特に、基本集合 

 𝑆

 S の移行および合成によって形成される拡張音群は、集合操作に基づく作曲法として体系化することが可能である。この観点から、ロスラヴェッツの理論は閉じた歴史的体系としてではなく、さらなる展開を許容する開かれた構造として理解されるべきである。

 ここで重要となるのが、現代音楽理論におけるピッチクラス集合論との接続である。PCS理論における集合クラスおよびZ関係の概念は、ロスラヴェッツの音群操作を拡張する理論的契機を提供する。すなわち、基本集合の内部構造を保持しつつ、Z関係にある集合との接続を行うことによって、新たな音素材体系を生成することが可能となる。

 この操作は、ロスラヴェッツ自身が明示的に理論化したものではない。しかしながら、彼の作曲法が音群の構造操作を基盤としていることを考慮すれば、このような拡張は彼の理論の自然な発展形として位置付けることができる。

 したがって、本論ではこの拡張操作を「未実装の未来的Roslavetsシステム」と呼ぶことを提案する。この概念は、ロスラヴェッツの音楽言語を単に歴史的対象として分析するのではなく、現代作曲における創造的資源として再評価するための理論的枠組みを提供するものである。

 さらに、この集合操作に基づく作曲理論は、調性音楽における和声進行の代替原理として機能し得る。すなわち、音群の変形と接続によって音楽の時間構造を生成する方法は、従来の機能和声体系とは異なる新たな形式生成の可能性を開く。

 このような観点から、ロスラヴェッツの理論は20世紀音楽史における未完のプロジェクトとして再解釈されるべきであり、その再構築は現代作曲理論の発展に寄与する可能性を持つ。

 


第11章 構造思想としての音群理論

―東洋的作曲観との接続において

 ロスラヴェッツの合成和音システムは、音群の構造操作によって音楽を生成する理論として理解される。本論における分析は、この理論が単なる歴史的技法ではなく、音楽構造の生成原理として現代においても有効であることを示してきた。しかしながら、その意義は音楽理論の枠内にとどまるものではない。

 彼の音群理論は、音楽を構成要素の機能的連鎖としてではなく、構造の生成過程として理解する思考に基づいている。この観点は、西欧調性音楽の発展史とは異なる方向に音楽を捉える可能性を示唆するものであり、音楽の時間構造を素材操作の連続として把握する立場に通じる。

 このような構造中心的思考は、東洋的芸術観における生成概念と共鳴する側面を持つ。すなわち、音楽を固定された形式の実現としてではなく、素材の関係性の変容として理解する立場は、過程そのものを美的対象とする芸術思想と接続し得るのである。

 ロスラヴェッツの理論においては、音群は作品の開始時点で設定され、その変形と統合の過程が音楽の全体構造を形成する。この構造は、目的地へ向かう直線的進行ではなく、内部関係の変容によって生成される運動として把握されるべきである。この点において、彼の音楽は西欧的形式論の枠組みを超えた構造思想として理解することが可能である。

 さらに、このような音群理論は、現代作曲において新たな創作方法論として再評価され得る。すなわち、音素材の内部関係を出発点とする作曲法は、機能和声に依存しない音楽構造の生成を可能とし、音楽の時間経験を再定義する契機を提供する。

 したがって、ロスラヴェッツの合成和音システムは、20世紀音楽史における一時的現象としてではなく、構造思想として再理解されるべきである。この理論は、現代作曲における素材操作の方法論として再活性化されるとともに、異なる文化的音楽観との対話を通じて新たな創造的展開を促す可能性を持つ。

 本論はこの観点から、ロスラヴェッツの音群理論を歴史的対象として分析するにとどまらず、作曲理論として再構築し、その思想的意義を明らかにすることを試みたものである。


第12章 ロスラヴェッツ理論の作曲実践への応用

―習作による理論検証

 本論においては、ロスラヴェッツの合成和音システムを歴史的対象として分析するだけでなく、その理論を現代作曲における実践的モデルとして再構築する可能性を提示してきた。本章では、この理論的再解釈が実際の作曲過程においてどのように機能し得るかを示すため、筆者による習作例を提示する。

 ここでの目的は、ロスラヴェッツの作曲技法を様式模倣として再現することではない。むしろ、音群操作に基づく構造生成という原理を現代的文脈において実験的に適用し、その理論的有効性を検証することにある。この試みは、歴史的作曲技法の再現ではなく、構造原理の転用による新たな音楽言語の可能性を探るものである。

 本章で示される習作は、基本集合の設定、部分集合の声部配置、集合の時間的展開というロスラヴェッツ理論の主要原理を出発点としているが、その具体的実現においては現代作曲における音響的・構造的要請を考慮している。したがって、これらの習作は歴史的再構成ではなく、理論的継承の一形態として理解されるべきである。

 また、この作曲実験は、本論において提示した「未実装の未来的Roslavetsシステム」の具体的適用例として位置付けることができる。すなわち、集合操作に基づく作曲法が、理論的思考にとどまらず実際の音楽創作においても有効に機能し得ることを示す試みである。

 以下に提示する習作例は、分析章で示した集合構造の理解を前提としており、理論と創作の相互関係を明示することを意図している。

習作例

 本章における習作は、日本の音階構造にlad理論を応用する試みとして提示されるものである。この操作は、ロスラヴェッツの理論がロシア文化の文脈と密接に結びついていたことを前提としつつ、その構造原理が他文化的音楽体系においても適用可能であるかを検証する目的を持つ。

 すなわち、本習作は単なる理論的転用ではなく、異なる音楽文化における構造的翻訳の試みとして位置付けられるべきである。ロシア音楽におけるlad概念は、音程関係の運動性に基づく構造生成の原理として理解されるが、日本の音階においても半音的摂動を通じて類似の構造操作を導入することが可能である。ただし全音連続の箇所に補助音を一つ入れることにより運用が非常に容易になるのでこの工夫を施したものを下に示す。

陰音階におけるlad応用例

 しかしながら、このような理論の借用は、それ自体が創造的価値を持つわけではない。他者の知的遺産を素材として用いる場合、それに対する応答が自らの思索によって裏付けられない限り、その行為は単なる様式的模倣、あるいは表層的装飾にとどまる危険を孕む。すなわち、理論の移植は、それを内在的に再構築し得る思考を伴って初めて、創作行為としての意味を獲得するのである。

 

 この点において、本習作はロスラヴェッツ理論の再現を目的とするものではなく、その構造原理を媒介として新たな作曲言語の可能性を探る試論として理解されるべきである。ここで提示される試みは、異文化的理論の借用を自己の言語へと転換する過程の一例として位置付けられる。

 したがって、この作曲実験はロスラヴェッツの理論の継承というよりも、その思想的射程を現代において再活性化するための試みであり、音群理論が歴史的遺産として保存されるのではなく、創作実践の中で再生成され得ることを示唆するものである。


結語

 本論は、ニコライ・ロスラヴェッツの合成和音システムを、ロシア音楽理論史の文脈において再検討するとともに、その音群操作に基づく構造原理を現代音楽理論の枠組みの中で再記述することを試みたものである。従来の研究において彼の音楽は、スクリャービン以後の前衛的和声語法、あるいは十二音技法以前の実験的無調として位置付けられることが多かったが、本論においては、彼の作曲法を音素材の内部構造に基づく体系的生成原理として理解する視点を提示した。

 特に、基本音群の設定とその移行・合成によって音楽構造を生成する方法は、機能和声に依拠しない形式生成理論として再評価されるべきものである。この観点から、ロスラヴェッツの合成和音システムは、調性崩壊後の無秩序な音素材使用の一形態ではなく、構造的に組織された音楽言語の試みとして理解される必要がある。

 本論ではさらに、ピッチクラス集合論の枠組みを導入することによって、彼の音群理論を現代的記述形式の中で再構築し、その拡張可能性を提示した。この再記述は、ロスラヴェッツ自身の理論を後世の概念によって単純に説明し直すものではなく、彼の音楽思考が現代理論と共通する構造哲学に基づいていたことを示す試みである。

 また、音群理論の構造思想は、西欧調性音楽の発展史とは異なる音楽観と接続し得る可能性を持つ。本論において示したように、音素材の内部関係を出発点とする作曲法は、音楽の時間構造を目的論的進行としてではなく、関係性の変容過程として理解する視点を開くものである。この観点は、異なる文化的芸術観との対話を通じて新たな作曲思想を形成する契機となり得る。

 さらに、本論における作曲実験は、ロスラヴェッツの理論が歴史的対象として分析されるにとどまらず、現代作曲における創造的資源として再活性化され得ることを示唆するものであった。すなわち、音群操作に基づく構造生成の原理は、特定の時代様式に限定されるものではなく、理論的思索と創作実践の相互作用の中で再生成され得るものである。

 ロスラヴェッツの合成和音システムは、20世紀音楽史における未完の構想として位置付けることが可能であり、その再解釈は単なる歴史的再評価にとどまらず、現代作曲理論の発展に対する一つの示唆を与える。本論が提示した視点は、彼の音楽を過去の前衛として固定するのではなく、構造思想として未来に開かれた理論として理解する試みである。

 したがって、ロスラヴェッツの理論的遺産は、音楽史的対象として保存されるだけでなく、現代作曲の中で新たな言語として再生される可能性を持つ。本論はその可能性の一端を示す試論として位置付けられるものであり、今後さらなる分析と創作実践を通じて、その理論的射程が拡張されることが期待される。

 

参考文献

Bazayev, Inessa.
“Orthography in the Music of Nicolai Roslavets.” Music Theory Spectrum 35/1 (2013): 111–135.

Bazayev, Inessa.
“The Expansion of the Concept of Mode (lad) in Russian Music Theory of the Early Twentieth Century.” Music Theory Online 20/3 (2014).

Foreman, Lewis.
“In Search of a Soviet Pioneer: Nikolai Roslavets.” Tempo, no.135 (1980): 2–9.

Lobanova, Marina.
Nikolaj Andreevič Roslavec und die Kultur seiner Zeit. Frankfurt am Main: Peter Lang, 1997.