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ピアノ小品集「夜の窓辺にて」 /冨田悠暉 - YouTube
前回では、「あつくって ねむれない」まで解説しました。
今回はその続きいってみましょう。
【もくじ】
街のからすの守り唄
カラスという鳥は、基本的に嫌われ者です。
というのも、都会でごみを漁ったり猫を襲ったりしているせいですね。
そんなカラスは真っ黒な色をしており、夜・闇・悪魔といった印象を漂わせています。
しかし、そんなカラスも元々は他の野鳥と同じように、山で木の実や虫なんかを食べて平和に暮らしていたわけです。
童謡の「七つの子」なんて、まさにそういう情景じゃないですか。
街中でゴミ袋を破いているカラスたちから、僕は哀愁を感じます。
今じゃ七つの子がいるのは山ではなく、電柱の上とかになってしまいました。
「街のからすの守り唄」の冒頭で示される民謡調のメロディは、カラスたちが山にいた頃の祭りの唄です。
その民謡調のメロディが、民謡の雰囲気をやや残したまま、瀟洒な和声で彩られて行きます。
つまり、カラスたちはもう山から下り、街にいるということです。
カラスたちはまだあの祭りの唄を忘れてはいませんが、その響きはほんの少し郷愁を含んでいます。
つまり、闇は実のところ光なのかもしれないというコンセプトが詰まっているのです。
この曲も密かに僕のお気に入りです。
好きな子ができて……
こちらの曲は、先ほどの逆で光は実のところ闇なのかもしれないというコンセプトで書きました。
「好きな子ができる」、すなわち恋というのは、多くの人にとって輝かしいことの代表格みたいに思われています。
でも、恋って意外と暴力的なものじゃないですか?
この曲の主人公は、1人の男の子です(別に女の子でも構いませんが)。
ちょっと前から、あるクラスメートのことがなぜか頭から離れません。
だけど、この子はまだ恋という概念を知らないので、炎のように押し寄せてくる感情の正体が分からず、戸惑うしかありません。
最後には、何が何だか分からなくなって、衝動的にその子を突き飛ばしてしまいます。
どうして突き飛ばしてしまったのか、その子自身にも分からない……とまあこんな情景を想像しながら作曲しました。
音楽的なことを言うと、この曲には特殊な工夫がいくつかあります。
まず、主人公が好きな子を突き飛ばしてしまった瞬間の表現として、ドガアァァ~~ンという効果音を用いています。
これは、ピアノのペダルを強く踏むことで得られる音です。
また、得体の知れない感情にさいなまれる戸惑いを表すため、特殊な調号を用いています。
この曲は、全音音階(ホールトーンスケール)に音を1つ加えたスケールで全体が構成されており、そのため全音音階のアヤシイ雰囲気が強いですね。
ちなみに、そんな怪しいスケールをさらにトイドラ式ロクリア旋法理論(TLT)で和声的に解釈することで、この響きは生まれています。
母さんが ねずに ないてる
この曲は、マジで僕の母が寝ずに泣いてるときに作りました。
めちゃめちゃ意味の分からない理由で言い合いをした後で、母のすすり泣く音が聞こえてきて僕も眠れなかったので、BADに入りそうになりながら作曲をしていました。
それはそうと、母が泣いているという状況を目の当たりにすることは、子どもにとって衝撃的な出来事です。
母親は子供にとって神であり、正義であり、光の象徴ですから。
そんな母が泣いている、ということは、今まで信じていた光が実は光ではないのかもしれない、ということです。
唯一の光に縋っていられるときは終わり、自分というものを確立する、つまり独り立ちしなくてはなりません。
そんな不安定で動揺に満ちた情景を表現するため、ここでも音楽的な工夫がしてあります。
この曲を形作っているスケールは、リディアン・スケールです。
リディアン・スケールは、「リディアン・クロマチック・コンセプト」を見てもわかる通り、音楽の中で最も響きが安定しており、きれいに響くスケールです。
つまり、音楽における神、正義、光というわけですね。
しかし、そんなリディアンスケールにトイドラ式ロクリア旋法理論(TLT)を適用すると、おかしなことになります。
TLTは従来の音楽と真逆の音楽理論なので、従来の音楽では使えなかったロクリアン・スケールが模範的なスケールに、そして従来の音楽における神、正義、光だったはずのリディアン・スケールは使用禁止になります。
実際、この曲は調的に不安定で、終止和音に解決感がありません。
今までの音楽でロクリアン・スケールを使った時のような不安定感を、ここでは逆にリディアン・スケールを使って醸し出している、というわけです。
よるのむこうに みた こたえ
さて、この曲は聞いた瞬間分かる通り「君が代」のアレンジになっています。
日本国家として有名なアレです。
この「君が代」、前にもブログで詳しく書きましたが、実は音楽的にだいぶひどい誤解の元に作られた曲です。
日本音楽を西洋人が誤った解釈の元で編曲した結果が、みんなよく知るこのオーケストラ版なんですよね。
そこで、ちゃんとした解釈で「君が代」をちゃんとリハモナイズしたい、というのが最初の着想でした。
では、なんでただの「君が代」がこの曲集に入っているのでしょうか。
これは、アイデンティティの確立という意味で大きな意味を持っています。
生まれというのは、子ども側から選ぶことはできません(子どもは親を選んで生まれてくるんだよ~みたいな戯言は却下)。
僕は日本に生まれてくることを選んだわけではないし、今の親から生まれてきたのもただの偶然です。
とはいえ、それが自分という人間の形成に大きくかかわっていることは言うまでもありません。
つまり、アイデンティティを確立するためには、
- 自分の「生まれ」を認め、
- その上で「生まれ」という枷から脱却する
ことが必要だというわけです。
自分の生まれを無視していても、そこに縋っていてもダメということです。
そこへ来て、この曲はどうでしょう。
「君が代」という国家を題材としながら、その在り方に疑問を持ち、自分なりに解釈し直しています。
これこそがアイデンティティを確立する瞬間ではないでしょうか。
「よるのむこうに みた こたえ」というタイトルには、それなりに重みを持たせたつもりです。
窓に映った迷子の詠唱
こうしてアイデンティティを確立したわけですが、そう簡単に思春期は終わりません。
鏡を見れば、もう1人の自分が「本当にそれでよかったのか?」と醜い顔で語りかけてくることでしょう。
未来への漠然とした不安と自己嫌悪の瞬間です。
この曲は、旋律とスケールが鏡写しの構造になっています。
具体的には、ロクリアン・スケールとリディアン・スケールの複旋です。
ロクリアン・スケールとリディアン・スケールは、上下鏡写しの構造を持つスケールですからね。
また、最後の部分はあからさまに旋律が反行しているのが分かるでしょう。
夜の窓辺で 見たものは
この曲は、曲集の終曲を飾っています。
他の曲は1曲あたり長くても5日くらいで作っていたのですが、この曲だけはなんと1か月かかりました。
また、他の曲は作曲しながら題名を考えていたのですが、この曲だけは先に題名を決めてありました。
この曲について語ることはあまりありませんが、1つだけ。
実はちょっとだけ、三善晃の「海の日記帳」へのオマージュがあります。
ピアノ小品集「海の日記帳」の終曲を飾る「波のアラベスク」、この曲からリズムモチーフを拝借しました。
雰囲気が少しだけ似ているのではないでしょうか。
ついでに言うと、「海の日記帳」の終曲は28曲目、「夜の窓辺にて」の終曲も28曲目です。
おわりに
いかがだったでしょうか。
正直、自分のような無名の作曲家がこういう記事を書いたところで、どのくらいの人が見てくれるのか分かりません。
しかし、逆に言えば無名の作曲家でもこのくらいのことを考えて作曲をしています。
もしかしたらこのシリーズ、まだ続くかもしれません。