名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

五輪と音楽

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オリンピック

 まもなく東京オリンピックが開幕する。
 コロナ禍で延長されたが、そもそもの開催年であった去年の西暦を変えず「東京オリンピック2020」と称したまま開催されるそうだ。2021年には誰もコロナ禍が収まっているだろうと甘く考えた結果がこの名前に現れているのは言うまでもない。
 そしてIOCの史上稀に見るクソ会長である、フーガの書けない偽物のバッハなる輩や、コーツなるゴミなどを筆頭に言いたい放題の圧力を日本にかけ、中国の国際機関への支配を見せつけてきた。いくら日本人が温厚だからといってなめ過ぎである。現に私は堪忍袋の尾がすでに切れている。目の前にバッハ会長がいたらどうなるかわからない。そして残念なことにこの世界バイオテロ戦争下における日本の宰相は、地方の田舎出身の苦労人という触れ込みで出てきた菅義偉であった。この宰相はまったくもって鈍く、判断はどこか他人任せ、その割には裏で強権を握って恐怖政治をしてきた人物であった。さらに悪いことにこの総理擁立には、昔から小沢一郎とともに売国活動に余念がなかった二階俊博が絡んでおり、まあやりたい放題の最低政権となっている。無論コロナの蔓延はとどまることころを知らず、さらに開催地の風見鶏知事こと百合子ちゃんも、ときの1:9ヘアこと菅総理もまったく責任を取ろうという態度は見えない。

 考えてみれば上皇陛下が御わす時に、悪疫が都に蔓延し、時の御上は無能の悪代官という、なんか日本史で習ったような構図である。歴史は繰り返すということか。

 それなら次に起きるのは令和の大飢饉かあるいは令和の大塩平八郎の登場による、打ちこわしという民衆の武装蜂起だろうか。とまあ私はもともと保守層の人間であるが、ポリティカルコンパスによると「中道左派」と言われていた。日本の地軸が左に傾いているので保守に見えていただけで、さほど保守ではなかったことが今になって強烈な政権への憎悪になって吹き出しているというわけだ。

 ここまで強くバッシングすれば私が今回の東京五輪について反対の立場で、開催直前であっても中止を主張していることはおわかりになるであろう。しかしもともとスポーツ観戦は大好きであり、東京五輪誘致成功のときは、テレビの中で飛び上がって喜ぶ猪瀬知事を見ながら何やら感動し、同じようにこの五輪の日を楽しみにしていたのである。それが、新型コロナウイルスなる出来損ない兵器のバカみたいな漏洩で世界が危機に瀕してしまった今、その考えは全てかき消えて、ただ中止を、国民の命を、自分の命を最も大切に考えているわけである。

 

 そこで今回のオリンピックを音楽の面から見てみようと考えた。

 

 オリンピックと言うとつきものなのがファンファーレであろう。そしてその中で最も有名なものは1984年のロサンゼルス五輪のために書かれたものではないだろうか。

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この名曲を書いたのは映画音楽の大巨匠であるジョン・ウイリアムズなのである。

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John Williams

 オリンピックの音楽には、その国を代表する作曲家が関与するのが一般的で、まさにアメリカのオリンピックで音楽を書くなら彼というのは間違いのないところだったと思う。しかし短い曲でもしっかり彼の音楽の持ち味や作風が出ている点は素晴らしいの一言だ。

 一方で海外のアーティストに音楽を任せる例もまた存在しており、例えば1992年バルセロナオリンピックでは日本人の坂本龍一が音楽を手掛け、開会式で自らタクトを握ったことが話題になった。曲のタイトルは五輪時は「バルセロナオリンピクス」だったが後に「El Mar Mediterrani(地中海のテーマ)」とされた。
抜粋ではあるがお聴きいただきたい。

 

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 作曲した坂本龍一は日本を代表する広範囲の創作を行う作曲家、マルチコンポーザーであることは説明の必要はないだろう。

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坂本龍一

 その反面、若い頃から突出した極左論者であり、その闘争の歴史はなかなか私などにはよく理解できないものであすらある。しかしその思考が、闘争が感動の押しつけであるオリンピックに向けられ、彼の言葉で語られたこの音楽は実にオリエンタルな要素、現代から古代の要素、更にはPopsの要素も加わった素晴らしい曲である。
 要はオリンピックへの皮肉が結実された音楽であり、不完全終止を愛する彼の完全終止音楽は、予定調和への当てこすりというふうにも考えられるのである。
その点で私はこの曲こそ彼の最高傑作ではないかと思ってすらいる。


 さて話を日本に戻そう。
 日本では今回開かれるであろうクソ大会を含めて今までに4回のオリンピックを経験している。(※1940年の幻のオリンピックを含まない)

すなわち

・1964年東京オリンピック(夏季)
・1972年札幌オリンピック(冬季)
・1998年長野オリンピック(冬季)
2020年東京オリンピック(夏季)

である。

 それぞれの大会は今般のものを除いて大いに盛り上がり、日本の歴史に刻まれるものとなった。まあある意味今回のものもすでに始まって以来のクソ五輪として歴史に刻まれているけれども。

 オリンピックが盛り上がる時、同時に上述のようにその音楽も話題になるのだが、日本の各大会ではどうだったのか見てみようと思う。


 1964年東京オリンピックではそのファンファーレは公募とされたそうである。
 そして見事にその公募に当選したのは、今井光也というよく知られていない人物の作品であった。

 

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今井光也

 今井は1922年11月1日に長野に生まれオーケストラ団員の父から手ほどきを受けて、一般業のサラリーマンをしつつアマオケに入り活動していたという。また作曲はちょくちょくしていたようで、このファンファーレ以外にも校歌や団歌にその名前が見られるようである。ちなみに2014年5月6日に91歳の天寿を全うされたとのことである。
 そしてこのファンファーレは知らないようで日本人なら誰もが耳にしたことのある曲である。聴けば納得の名曲であり、またファンファーレなのに短調で書かれている点も極めて珍しい。

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 これを聴くとアレ?と思う人もあるかもしれない。この後に本来は行進曲が続くはずと。しかしそれは間違いである。たしかにファンファーレとマーチはセットで演奏されることが多いが、この後に続けられる行進曲は朝ドラ「エール」のモデルとして話題になった古関裕而が書いたものである。

 

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古関裕而

 古関裕而は1909年8月11日に福島に生まれ、リムスキー=コルサコフに師事したとも言われる賛美歌の作曲家金須嘉之進に師事、その後は山田耕筰の薫陶を受け、主に歌謡曲、流行歌、軍歌のジャンルで多くの名作を残した。
 しかし実際に古関は、こういった商業音楽だけでなく、純音楽もかなりモダンに書きこなす力があったと言われ、交響曲を3つやコンチェルトなども書いたそうだが、いずれも紛失あるいは焼失してしまい、無調風の歌曲「海を呼ぶ」のみがそのモダニストの姿を唯一伝える曲となってしまっているのは、非常に惜しい。

 と言ったわけで古関裕而が書いたこの「オリンピックマーチ」を先程の今井のファンファーレとセットで聴きいただきたい。

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 極めて流麗でありながら軍歌を得意とした彼のマーチの上手さと、突出したメロディメーカーっぷりがはっきり分かる日本の顔たる名曲である。

 

 

 さて次は1972年の札幌オリンピックである。
 実は私は冬季オリンピックのほうが夏季オリンピックより好きなのだが、札幌リンピックにまつわる曲は先の東京オリンピックよりも素晴らしいと思っている。

 まずファンファーレを手掛けたのはなんとあの三善晃である。おそらく彼初の吹奏楽曲がこれだとも言われている。

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三善晃

 三善晃は1933年1月10日に東京に生まれている。その後は平井康三郎、池内友次郎に師事しながら東大仏文科に進む。そしてその途中でフランスに渡り勉強をしたがこれを中退し帰国後、ありとあらゆるジャンルの純音楽を天才的な筆で書く日本を代表する作曲になった。
 フランス和声を軸とした、決して調性を手放さないものの、極めて無調的に拡張された独特の音世界を構築、特に声楽、合唱の世界の大改革を行ったことは有名である。2013年10月4日に80歳で亡くなった彼の作品は膨大を極めているが、どれもすぐにそれと分かる突出した個性を持っており、これは彼の戦争経験に基づく死の匂いだとも言われているようである。

 そんな彼が手掛けたファンファーレ、ぜひ聞いてみよう。

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 おお!三善ワールドがこんな短い中にも詰め込まれている。特に終止の和音進行は素晴らしい。

 そしてこれに次ぐ行進曲はというとたくさん書かれているのである。
その中でもまた古関裕而が手掛けた「純白の大地」はオリンピック賛歌として清水みのるの詩がつけられている。

 

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 なるほどさすが古関と言ったところか。覚えやすいメロディに、よくなる和声、歌謡にしてはうますぎるオーケストレーションだ。

 

 先程今大会にはたくさんの行進曲が書かれていると言ったが、その他を見てみよう。


 合唱界の渋めの作曲家岩河三郎も関係曲である行進曲「虹と雪」を書いている。

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岩河三郎

 岩河三郎は1923年9月9日に富山の生まれ、2013年9月16日に90歳でなくなるまでに、保守的で教育的な作風で多くの合唱曲や歌曲、校歌を残しているが、少ない器楽作品でも意外なことに吹奏楽作品は数曲書いている。
そのひとつがこの行進曲なのである。聴いてみよう。

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 実にオーソドックスなコンサートマーチと言えるだろう。そして特筆すべきなのは、トリオのメロディだ。これはあれ?と思う人も多いだろう。
 そうこれはトワ・エ・モワの歌った「虹と雪のバラード」の引用である。なるほどユニークである。しかしこれだけ真っ直ぐにちゃんとマーチを書くというのは一周回ってすごいなと思う。やはり色々ひねりたくもなるものだが、そういった衒いが一切ない。

 

そして次は入場行進に使われたという曲である。
「白銀の栄光」と名付けられたこの曲は、山本直純の作曲である。

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山本直純

 山本直純は前にも触れたとおり、自分の活動の指名をクラシックの裾野を広げることと割り切って活動しており、純音楽作品は実は少ないのだ。その中でもこのマーチは彼の作風際立つ素晴らしい行進曲で、聴いているだけでワクワクしてくる。

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 いや直純節満点でスカっとする。書くならこういう気持ちの良い行進曲を書いてみたいものだ。

 開会式にはまた別の作品が用いられ、こちらは矢代秋雄が手掛けた。

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矢代秋雄

 矢代秋雄は1929年9月10日に東京に生まれ、若い頃から楽才を発揮フランスでナディア・ブーランジェにも師事している。濃厚で緻密、対位法と複雑なわせを組み合わせた作風は隙きがなく、完璧主義であることが用意に想像できる。それだけに作品数は少ないがそのどれもが大傑作と言われる。なお矢代は1976年4月9日に46歳の若さで急死している。

 そんな矢代が書いた曲は、吹奏楽のための祝典序曲「白銀の祭典」と題されている。聴いてみよう。

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 はじめはオーソドックスに感じるかもしれないが巧妙に仕組まれた和声と、響き合うファンファーレがユニークである。その後の部分も五度堆積和音の保続などなかなかの趣向を見られる、いやこれも傑作ではないだろうか。

 

 

 

 

 さて次は1998年長野オリンピックである。
 私は1978年生まれなので、唯一生まで見た日本のオリンピックである。毎日テレビにかじりつき、特に日の丸飛行隊の大ジャンプには感動して泣いた記憶が鮮明に残っている。その大会のファンファーレを当時もう音楽の道に入っていた私は楽しみにしていた。そしてその楽しみは裏切られなかった。

 長野オリンピックのファンファーレは日本の大巨匠湯浅譲二によって手がけられた。

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湯浅譲二

 湯浅譲二は1929年8月12日に福島県に生まれた。ほぼ独学であったが、独習だけではだめだと痛感して、基礎的な理論を中田一次に習っている。その後は実験工房のメンバーとして日本の前衛を牽引し、方眼紙で作曲に当たる方法論を採用、アメリカを拠点に世界的な影響を与えたのである。
 極めて難解な語彙を用いる作曲家であり、ナラティヴィティとコスモロジーを自らの作風の説明として用いるなど、一筋縄で行く人ではない。そんな湯浅が一体どんなファンファーレを書いてくるか楽しみでしょうがない。早速聴いてみよう。

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 「冬の光のファンファーレ」と題されており、不協和音が煌めきを持つように書かれ、最後まで独特の音楽世界を貫徹している。これはファンファーレ単体としても凄まじい傑作ではないかと思う。終止の音さえドミナントを含むというのは驚きである。

 

 続いて入場の曲であるが、開会式での小澤征爾指揮するところの第九が印象的すぎて、開会式全体はあまり記憶にない。実際には石井眞木が監修をし、石井眞木、田中贒、藤田正典、松下功の4名がそれぞれ別の曲を担当する形で書かれたようだ。また子どもたちが歌う歌はアンドリュ・ロイド・ウェーバーが手掛けたとのことだ。

よくわからないので開会式の映像を貼ってみようと思う。

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 なるほどいずれもとらぬ現代の巨匠の仕事である。ちゃんとそこに日本があるのが誇らしい。

 

 

 では今大会はどうなのだろうか。
 はっきり言って開催反対の私はその信念として今大会を観ようとは思わないし、沿道に出ようとも思わない。家の中で静かに時がすぎるのを待ちたいと思う。
 アスリートには罪はないが、自分の主張をするのもまた人としての尊厳であると信じるからである。しかしすで大会前にしてこの開会式を手掛けるコーネリアスこと小山田圭吾の過去が掘り返され、謝罪するに至るなどグダグダな雰囲気である。

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小山田圭吾

 そんな批判の嵐の中でアーティストがしっかりとアートできるのか甚だ疑問である。五輪反対という思想は分かるが、だからといって何でも叩けば良いとは思わない。小山田のしたことは許されないかもしれないが、五輪がなければ、今の形で強行されてさえいなければ、ここまで騒がれただろうか。私は一アーティストとして、微力だがアーティストのへのクソミソの批判には反対する。彼は極めて優秀な日本の財産であり、つまらない政争の具にされるような人物ではないと思うからだ。

 しかし一方で、開会式の音楽担当が彼だと聞いてがっかりもした。更にメダル授与の音楽は劇伴で有名な佐藤直紀が担当するということも聴こえてきている。

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佐藤直紀

 これもある意味がっかりである。
 みんな表面をなぞるだけで、本来の日本の文化伝統というものを理解していない。過去のオリンピックを見てみろ、素晴らしいではないか。それが何だ、今大会の体たらくは。ただの感動の押し売りに成り下がり、メディアのおもちゃとなった大会に高い文化を求めることなどできようはずがない。期待ハズレも良いところだ。強行してまで開催され、感動を与えたいなどと首相が述べる様な五輪に感動すると本気で思っているのだろうか。もしそうなら完全頭のイカれたクズである。
 感動の押し売りがいかに馬鹿らしいかということを、感動ポルノがいかに無意味かを、24時間テレビがずっと示しているではないか。五輪という素晴らしい大会が24時間テレビ並みの俗な低級ショーにまで堕ちたのは明白だ。


さあ今からでも遅くない。直ちに中止を決断するのだ。