名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

HIROSHIMA - FUKUSHIMA

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原爆投下

 8/6は広島に原子爆弾が投下された日である。続いて8/9には長崎にも原爆が投下された。日本人なら誰もが知る痛ましい歴史の1ページである。
 そしてこのことが日本を唯一の被爆国とならしめ、平和憲法とともに右に左に様々に語られ、利用されている。

 はじめに断っておきたいのだが、私は音楽に政治色が入ることが嫌いでならない。音楽は文化であり、表現であり、行動であるのは間違いないが、一方で娯楽でもあるものだ。そんなところに大層な題目で政治が入り込んできたら、楽しんで聴けようはずもないし、私は聞きたくもないと思っているからだ。もちろん、政治と無縁では語れない名曲が山のようにあることも承知している。
 ショスタコーヴィチフレンニコフ、モソロフやカバレフスキーもそうだし、退廃音楽の烙印を押された名曲たちだって政治とは切っても来れない。それでも、私は自分のポリシーとして政治的な曲を書こうとは思わない。無論、言葉や行動で政治活動はする。しかしそれとこれとは分けておきたいものなのだ。
 政治を楽曲の命題にするということは、はっきり言って安直であり、そうしておけば偉そうに大上段の芸術ぶった顔ができる。そういった側面がある以上、反吐が出るような気持ちにさせられる。

 

 そこで今回はあえてHIROSHIMAにまつわる曲を色々聴いてみようかと思っている。

 

 ヒロシマとクラシックというとまっさきに思いつく作品は、先に亡くなったペンデレツキの書いた「広島の犠牲者に捧げる哀歌」であろう。

 

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ペンデレツキ

 第二次ポーランド楽派を代表する作曲家、クシシュトフ・ペンデレツキが弦楽オーケストラのために書いた楽曲で、不定量記譜を用い、秒数制御された合図によってトーン・クラスターや特殊奏法によるノイズが展開する。
 前衛音楽の代表と認識されている曲だが、実のところこの作品も詳しく見てみると、伝統主義者である作曲者の考えが生かされており、大きな三部形式ソナタ形式のような図式で書かれていることが分かる。
 鳴らされる音こそ厳しいが、その根底には西洋人としての伝統を重んじる諸法が徹底されているのは興味深い。
 この曲はヒロシマの原爆の惨状を描いたとも言われるが、実際はじめからこのタイトルだったわけではない。そういった意味で、楽曲とタイトルは直接の結び付きがあるものではないのだが、西洋から見たヒロシマの惨状を描いた名作として不動の位置をキープしている。

 

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 では、本邦の作曲家たちはどの様な音楽を書いたのだろうか。

 まずこの命題で最も多く取り上げられるのは、細川俊夫の書いたヒロシマレクイエム」であろう。

 

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細川俊夫

 細川俊夫は1955年に広島に生まれたのち、国立音楽大学に進学も、中退、入野義朗のすすめでヨーロッパに渡り尹伊桑、ブライアン・ファーニホウに師事、そして重鎮クラウス・フーバーに教えを受け国際的に名声を獲得していった。
 日本では武満徹との親交が厚く、彼の音楽を深く理解した一人とも言われている。また後進の指導にも熱心で、ヨーロッパの新しい音楽を日本に紹介し、秋吉台世代と呼ばれる世代を牽引した作曲家である。
 現在でも世界中で活躍するが、その言説は極めて左翼的であり、それは彼自信が広島生まれであることと無関係であるはずがないと思われる。「ヒロシマレクイエム」として1989年に書かれたオーケストラ曲は新たに改定されヒロシマ・声なき声」と改題されている。夜の音楽から始まり梵鐘の声に至る5楽章構成の作品で、細川らしいゆったりとした時空間の流れに、水墨画調にたなびくサウンドが支配している。そしてその中にナレーションが加えられることで、ヒロシマの悲劇をドキュメンタリータッチと言ってもいい方法で描ききっている。日本人の生んだ反戦作品の代表と言われる作品である。

 

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 一般の人たちが触れる作品としては、合唱作品に有名な曲がある。
 黒沢吉徳が栄谷温子の詩に付けた楽曲で「消えた八月」というものがある。

 

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黒澤吉徳

 黒澤吉徳は1945年東京生まれ、芸大で学び多くの合唱曲、とりわけ児童向け作品を多く書いている作曲家である。作風は保守的で、激しいモダニズムを押し出すことはないが、ナチュラルに歌詞の内容を表現するストレートな作風は多くの合唱愛好家に愛されている。

 「消えた八月」は原爆で石像になり、影になった僕ときみを主題とした音楽であり、特に美しかった夏の風景を描いた中間部と、原爆によって台無しにされてしまった夏の対比が凄まじく、胸突き刺さる合唱の名作だ。
 なるほどそういう意味ではコロナ禍で消えてしまった、楽しい夏休みとも被ることで、時代を超えた感覚を共有できるような気もするのである。

 

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 合唱曲を上げたのでもう少し合唱におけるヒロシマを見てみよう。
 平成16年のNコン高等学校の部課題曲として大江健三郎の詩に信長貴富が曲をつけた「『新しい人』に」という曲もよく演奏されているようである。

 

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信長貴富

 信長貴富は今最も人気のある合唱作曲の一人である。1971年兵庫県の生まれであるが、ヒロシマとは縁が深いことはあまり知られていない。彼の両親はふたりとも広島の出身であり、母親は被爆者である。
 信長は変わった経歴の作曲家としても知られていて、世田谷区の職員として働いており、その間に趣味として合唱を楽しみ、曲も書いていた。この楽曲がコンクールに相次いで入賞するなどし、役人の仕事を辞して作曲家に転じた。
 ポップスの語彙を用いて自在な作品を書く作曲家で、その作風には自分が愛好していた、三善晃や鈴木輝昭の影響が強く感じられる。

 「『新しい人』に」は護憲反戦派の旧先鋒であるところの作家大江健三郎が、NHKの委嘱で書いた非常に珍しい詩に付けられている。信じることができた私が、ある日信じると言えなくなったという内容で語られ、戦争による分断と、原爆によりガスになってしまった自分が生まれる四十年前の子供を主題に書かれている。
 時折Popな和音が絶妙な効果を上げながら、深刻なシーンはピアノによる4分音符の音形に乗せられ、ある種軍靴の音を想像させる方法で書かれていると言ってもいいだろう。非常に効果的な書法は見事であるが、私はなんとなく違和感を禁じえない。
その違和感はあとに語ることにしよう。

 

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 合唱曲とヒロシマといえば、欠かすことのできない曲がある。
 原民喜の詩に林光が曲をつけた「原爆小景」である。この曲は我が国を代表する原爆をテーマにした合唱のの傑作と言われ内外からの評価は非常に高い。

 

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林光

 林光は1931年に東京に生まれ2012年に不運にも自宅で転倒し、予後悪く惜しまれつつ他界した。父の親友であった尾高尚忠に師事し、その後池内友次郎にも師事、その後は日本語オペラの可能性を追求しオペラシアターこんにゃく座音楽監督などを歴任した。
 戦後左翼作曲家の代表格の一人と言われ、その作品は一貫して労働者の目線、弱者の目線を意識したもの、社会的な事件を題材にしたものが多い。その中でもこの「原爆小景」が突出した名作として語られる。被爆者詩人の原民喜の体験に基づくおどろおどろしいまでの原爆の実際を、まさに魑魅魍魎が如く叫び、呻く群衆の声として表現したシリアスな作品である。

 

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 さて合唱の世界から離れてもう少し大きな規模の作品を見てみよう。

 林光と同じく左翼の作曲家として有名な大木正夫の代表作交響曲第5番ヒロシマを忘れることはできない。

 

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大木正夫

 大木正夫は1901年に静岡に生まれ、幼い頃から尺八を嗜んだほかは音楽とは無縁の経歴をたどる。一般職を経て教職へ、その後上京し未来派を標榜する異端の作曲家石川義一にわずかに師事し、殆どを独学で学び独特の力強い作風を手にした。はじめはロマン主義的な作風で、思想も右側であったようだが、満州へ渡り戦争を経験したことで、その考えを改め左翼に転じた。その後は反戦作品を中心に多くの作品を生み出したが、ことにヒロシマを題材としたこの交響曲第5番とグランドカンタータ「人間をかえせ」は反戦作品としてその評価が高い。
 極めて重厚な筆による作風と題材が見事に一致しており、強い説得力とインパクトを持って聴くものに迫る。

 

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 團伊玖磨ヒロシマを題材とした交響曲を書いている。

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團伊玖磨


 團伊玖磨1924年に東京に生まれ2001年に中国で亡くなっている。
 男爵の息子として裕福な生まれで、血盟団事件で祖父をなくすなどしたことが芸術を志すきっかけになったようだ。東京音楽学校に進み、下総皖一、橋本國彦、細川碧に師事、また山田耕筰にも作曲を習ったという。さらに諸井三郎に師事し、その後は芥川也寸志黛敏郎と「三人の会」を結成、日本を代表する大作曲家となっていった。その活動は特に幼少期の経験もあり、日中友好活動に軸心を起き、大アジア的音楽を標榜している。
 伊福部昭との直接の関係はないが間接的な影響は、中音域に見られるオスティナートや、ロマン派的作風の中にはっきりと現れる日本的な表現に感じられる。
 とくにオペラには力を注ぎ「夕鶴」は代表作として多くの再演が行われる大名曲として知られている。そんな團伊玖磨の書いた交響曲第6番は「ヒロシマと題されており、能管や篠笛の響きが印象的な序奏から始まり、一転しっかりとしたロマン派的な音楽が展開、しかし随所に日本的旋律が登場する非常に精緻な筆致で書かれた楽曲である。また最終楽章にはエドマンド・ブランデンの詩が歌い上げられるなど、平和への希求をテーマとした楽曲となっている。

 

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 次の曲は様々な事情から紹介だけに留めることにするが、ゴーストライター問題で話題となった佐村河内守も広島の出身であり、それに基づく構想を新垣隆に託し交響曲「HIROSHIMA」を発表している。
 一時この曲は非常に注目され高い評価を受けたが、例の問題ですっかりタブー視されるようになってしまったが、楽曲に罪はないはずであり、これは文化損失だと個人的には思っている。
ともあれ、いろいろな事情がある曲なので深く触れず聴くだけにしよう。

 

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 とここまで見てくると大分重いものが多くなってしまった。
次に一つのピアノ曲を聴いていただきたいと思う。

 それは糀場富美子の書いたピアノ曲「未風化の7つの横顔」である。

 

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糀場富美子

 糀場富美子は1952年ヒロシマ生まれの作曲家で、その代表作は「広島レクイエム」である。東京藝術大学で、矢代秋雄間宮芳生、野田暉行に学び、反戦作品、そして日本の音を素材とした作品を多く手掛けている。これはもちろん作曲者がヒロシマの生まれであることに関係している。
 「未風化の7つの横顔」は広島が風化してしまわないようにとの願いを込めて書かれたピアノ曲であり、現代における戦後レジームの代表的設定の音楽であると言える。
しかし広島というものは本当に風化してしまったのだろうか、あるいは風化させてはいけないのだろうか。私には全くわからない。しかしこのことは多くの日本人のDNAに刻まれた傷であることは間違いないだろう。しかし、広島だけが傷だろうか、長崎だけが傷だろうか。
ともあれ、まずこのピアノ曲を聴いていただきたい。

 

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 近年、戦後日本は阪神大震災オウム事件東日本大震災、コロナ禍など様々な傷を受けてきた。
そしてそれらはいつも同じ論調で語られるのである。

 

「復興」

 

 先般の五輪も下らないことに基本的には「復興五輪」となるはずだった。ところがコロナ禍が訪れ、すっかりその波に飲まれ復興どころではなかった。しかし阪神大震災を傷んで天野正道が書いた「おほなゐ」という吹奏楽曲には近年新たに楽章が追加されたことをご存知だろうか。それが「おほなゐ~その後」である。
 この曲は地震とその悲惨な光景を描いた作品から時が経ち、復興に寄せて書かれた楽章であるという。

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天野正道

 天野正道は1957年秋田出身の作曲家である。国立音楽にて学び、ジャンルに囚われない仕事をする作曲家として知られている。こと劇伴分野での仕事は顕著で、これらを吹奏楽編曲したシリーズは人気を博している。シリアスな語彙からPopsの語彙まで自由自在に使い分け、その作品の幅は広い。

 そんな天野正道はクリスチャンであり、大の平和希求家で有ることが知られている。そういった思想に基づいた作品も多く書かれているが、その天野が自身の過去の作品に追加する形で、復興を成し遂げた阪神の街に曲を送ったことはまさに印象的だ。

 

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 同じ様な例がもう一つある。
 東日本大震災のショック冷めやらないころに、NHKがある曲を発表した。それは映像作家として知られる岩井俊二の詩に、菅野よう子が曲をつけ、国民皆で歌おうと呼びかけ発表された「花は咲く」である。

 

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菅野よう子

 菅野よう子は1963年宮城県仙台市の生まれである。なるほどこの曲を書くのに適任であったということが言えるだろう。非常に幼い頃から学祭を発揮、物心つく頃にはすでに作曲をしていたという。ヤマハのオリジナルコンサートで川上賞を受賞し、芥川也寸志の薫陶受け、また一時芥川に師事することができた。
 その後は早稲田大学に進みこの頃から音楽業界で仕事をするようになる。その後はゲーム音楽、歌謡曲、劇伴と裏方の仕事を中心に、超がつく売れっ子になり、あまりの器用さに器用貧乏と言われることすらあったという。

 そんな菅野よう子は自身の名前が表に出る仕事をあまり受けないことでも知られているが、この国民的な歌「花は咲く」は別であった。
 おそらくそこには出身地の災害ということから、特別な思いがあったのだろう。そしてこの曲は一般人にはちょっとむずかしいメロディラインであるにも関わらず、あっという間に国民的な歌となった。

 

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 たくさんの芸能人がワンフレーズを歌うMVと素敵なアレンジに仕上げられたこの曲に、感動したものも多いだろう。私もその一人であった。しかし時は経ち東日本大震災の傷跡もまたどんどん変わってきている。
 そんな中、この曲に新しい歌詞が書き加えられたのを知っているだろうか。震災から4年がたったときに、それまで亡くなった人の目線で書かれた「わたしは何を残しただろう」という部分を最後の一回のみ「わたしは何を残すだろう」と変更したのだ。
 こうやって「復興」の歌は新しいニュアンスを獲得し、震災その時から一歩進んだ人々の力を描き出す歌に変わったのだ。そして今年2021年にはピアノの伴奏に多くの芸能人による朗読でこの曲を語る映像が作られた。
 ときはコロナ禍真っ只中、ふたたびこの曲また別の力を持ち始めたのだろう。
せっかくなので最後にこの映像をご覧いただこう。

 

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 そう、本来悲劇と人との関係は、その克服の時間とともに変化してゆくものなのだ。そしてそのことを「おほなゐ~その後」や「花は咲く」が示しているのである。

それなのにヒロシマはどうだろうか。

 糀場富美子先生の作品はたしかに素晴らしい、しかし風化させてはいけないということと、そこにしがみついていなければならないというのは全く異なることではないだろうか。
 戦災と災害は違うという批判はあるだろうが、それなら戦災は失恋と同じなのだろうか。そこに留まり続けて良い悲劇など無いのだ。ときはそれでも進む。それならば我々は常に次の一歩を歩まねばならないではないか。たとえそこに道がなくとも進まねばならねばないではないか。

 

戦争から80年ともいわれる今、まだしがみつくのだろうか。
私の違和感の正体はまさにそこなのである。