名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

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ウクライナの作曲家入門編

ウクライナ

 知っての通りウクライナという国はロシアの侵略を受けている真っ只中である。ウクライナは私が幼い頃はソ連の一地方であったが、ソ連解体とともに独立国になった。
 とはいえ歴史的には様々な国や勢力の支配を受け、1917年にはじめてウクライナ人民共和国として世界に認知されたのだが、私はそんな頃に生きてないのでいつまでもソ連の一部だった所との認識が消えない。
 さてでは歴史ではなく音楽では私達はどれだけウクライナという国を知っているだろうか。実は何も知らないんじゃないだろうか。ということで今回はそのほとんど入門編として、中期の作曲家から現代の作曲家までで、知っておくべき作曲家を紹介してみたいと思う。

 

Yuri Alexandrovich Shaporin

 ユーリ・アレクサンドロヴィチ・シャポーリンは1887年に現ウクライナ領のフルヒフに生まれた。父親は画家で、本人も画家を目指していたが、キーフで初めて作曲の指導を受け音楽の道に入ったようだ。
 とりあえずサンクトペテルブルグ法律学を修め、その後やっとペテルブルグ音楽院出シテインベルク、チェレプニンに師事、卒業した。卒業後は劇場指揮者として活躍しモスクワに移住、モスクワ音楽院で教鞭をとり優れた弟子を排出する一方、こちらはスターリン体制に従順であり、その作風もロシア的であったことから、体制側とは大変良好な関係であったという。
 彼の作品は劇場指揮者の経験からか声楽曲、管弦楽曲が多い、しかし個人的にはピアノ曲にも傑作が多いと思うので、今回はピアノ・ソナタ第二番を聴いてみたいと思う。

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Boris Mykolayovych Lyatoshynsky

 ボリス・ミコライヨヴィチ・リャトシンスキーは1895年に現ウクライナ領ジトーミルに生まれ、幼少期から類まれなる音楽の才能を輝かせ、キーフ音楽院でグリエールに師事する。そしてその影響はすぐに現れ国民楽派的な精神を作風に持つようになる。
 一方世の中の革新化によってもたらされた半音階的な音楽をも吸収し、スターリン体制にあって革新さをもちながらも国民楽派的という独特の作風で体制側の作曲家として活躍した。
 この独特の作風をある意味受け継いだとも言えるのが、後に紹介する弟子のシルヴェストロフである。
リャトシンスキーは大きな編成の楽曲を多く書き、とりわけ5つある交響曲は名作のほまれが高い。今日は第3番を聴いてみよう。

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Viktor Stepanovich Kosenko

 ヴィクトル・ステパノヴィチ・コセンコは1896年にロシアのペテルブルクに生まれたが、程なくポーランドワルシャワに移った。そこで音楽の才能を発揮しはじめ、ワルシャワ音楽院に入学、さらにサンクトペテルブルグ音楽院でソコロフスキー、ミクラシェフスカに師事し、優秀な成績で卒業する。
 彼とウクライナの接点ができるのがこのあとで、現在ウクライナ領内にあるジトーミルの音楽学校で教職を得、そのまま校長になったのだ。この地で音楽活動を本格化させたコセンコは様々な演奏機会を得るが、最終的にスターリン体制を受け付けなくなり、キーウに逃れその後キーウ音楽院で教鞭をとった。
作品の多くは室内楽ピアノ曲であり、特にピアノ曲は素晴らしく、一つの時代を築いたとも言える。今日は彼のピアノ・ソナタ第1番を聴いてみようと思う。民謡的な旋法性とピアニズムが交錯する素晴らしい曲である。

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 このような中興の祖たちの仕事もあり、ウクライナの音楽というものはどんどん成熟していった。スターリン時代、ソ連邦崩壊など激動の歴史を経て、いまロシアによるまったく非道な侵略を受けている。
 この新たな混迷の中、どんな作曲家がウクライナの声を伝えているのだろうか。少しだけ見てみよう。

 

 

Nikolai Girshevich Kapustin

 ニコライ・ギルシェヴィチ・カプースチンは日本でも大ブームを起こした作曲家であり、その作風は各方面から賛否両論絶えないものの、それはもう一つのソ連を伝えるものでもあるといえる。カプースチンベラルーシ系とロシア系の家系に生まれているので純粋にウクライナ人とは言えないかもしれないが、ウクライナ出身ということで取り上げざるを得ない巨星であろう。
 彼は一貫してピアニストとしてのエリート街道をひた走り、モスクワ音楽院では超絶無比のピアニストとして知られたゴリデンヴェイゼルに師事し、ソ連的超絶技巧を我が物にした。しかしその頃ラジオでジャズに触れ、彼の考えは一気にジャズに偏っていく。モスクワ音楽院を卒業後はソ連で有名であったジャズバンドのオレグ・ルンドストレムのバンドに入り、凄まじい超絶技巧をきかしたピアニストとなる一方、同楽団を通じ自作の発表を始める。これが非常にユニークで、ジャズのイディオムを用いクラシックの形式論で書くという斬新極まりないものだった。
 こういった経験から作品の多くはピアノ曲とピアノを加えた管弦楽曲に偏っている。どの曲を聴いてもすぐ彼の曲とわかる個性があり、悩むところだが生前本人の演奏で収録された「即興曲」を聴いてみよう。ちなみに残念ながらこの混迷の起こる直前、2020年にカプースチンは旅立ってしまった。
https://www.youtube.com/watch?v=Yn9fTO7zp5Q

Valentin Vasylyovych Silvestrov

 ヴァレンティン・ヴァシリョヴィチ・シルベストロフは「ザ・ウクライナ」と言っても良い作曲であろう。1937年キーフに生まれ幼くして音楽に興味を持つが、その後一旦挫折、再度一念発起してキーフ音楽院でリャトシンスキーに師事する。師の影響は作品の中に垣間見られる、民謡性と半音階性であろうか、しかしシルヴェストロフ自身は師とは異なり反体制派の音楽家になっていく。
 雪解けと言われるスターリン体制の崩壊後、様々なソ連の地方から強烈な個性を持った作曲家が現れる中、シルヴェストロフもその一員とみなされ、極めて高い評価を受けることになる。若い頃は音列主義的な作風を採ったが、その後極めて静謐な音像と厳しさをたたえた音楽を書くようになる。
 まさにその音は今、世界に平和をと嘆く人々の姿に重ねられている。この混迷を見た彼はどのような筆を武器に作品を書くのか注目されるところでもある。今日はそんな彼の多くの作品の中から私が個人的に好きな交響曲第5番を聴いてみようと思う。

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 ウクライナウクライナらしさはやはり雪解け以降でないと見えてこないのかもしれない。しかしその先人たちも国民楽派の流儀に習い、ある意味で伝統的ウクライナクラシックを築いたと言える。
 さて最後に若い作曲家を2人紹介しよう。今をこの混迷を誰よりも直視しているだろう世代の音楽とはどんなものだろうか。

 

Alexander Stepanovich Shchetynsky

 オレクサンドル・ステパノヴィチ・シェチンスキーは1960年にハルキウに生まれ、ソ連時代に基礎的な音楽の教育を受け、ポーランドクラクフ音楽アカデミーに進んでいる。1990年代から頭角を現し、トレードマークの長髪をなびかせ様々なコンクールで賞を受賞する。作曲の初期は旋法性を持った作風だったそうだが、その後様々な作風を使い分けるようになっていった。
 まさにこの混迷を目の当たりにし、その音楽がどう変化するかという点では興味もあるが、まずは無事に生き延びてほしいと願うばかりである。
今日は彼の作品から最も今印象的な「レクイエム」を聴いてみようと思う。

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Svitlana Anatoliivna Azarova

 スヴィトラーナ・アナトリーヴナ・アザロワは1976年にウクライナに生まれイズマイール教育学研究所を卒業後、オデッサ音楽院に入学、クラソトフとツェプコレンコに師事した。その後ポーランドに渡るなどした後、オランダのハーグの永住権を取得しアムステルダム音楽院でローヴェンンディーに師事、修士号を取得して卒業した。
 現在も拠点をオランダにおいており、特に「モモと時間どろぼう」をオペラ化したことで、その名前を知られるようになった。
 オランダの地から祖国の侵略される様子をいかに見ているか非常に痛ましいが、それがテーマとなった曲が発表されるなら、じっくり耳を傾けてみたい。
 非常に音響に対して直感力の高い作風を持っており、今日はオーケストラのための小品である「Beyond context」を聴いてみよう。

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 というようにウクライナ音楽史の中盤から割に最近まで、重要と思われる作曲家をピックアップして聴いてみた。実際にはまだまだ多くの作曲家がおり、今回挙げたラインナップに不満の方もあるかもしれない。

 私は今回の記事を持って戦争についてとやかく言おうとは思わない。国の利害、独裁者の見るもの全てに興味がないからだ。
 しかし一つだけ芸術家として、武力を持って他国の文化を破壊し、作曲家の命の断片を破壊する行為には極め強い非難があるべきだと主張したい。

ウクライナの文化が守られ、少しでも犠牲者が少ないことを祈らずにはいられない。