続くコロナ禍のなかで音楽というコンテンツ自体にも、喜ばしい方向ではない変化が出てきている。その一つに作曲コンクールが挙げられるだろう。通常作曲コンクールは譜面審査を抜けた本選で、その作品をオーケストラが演奏し、聴衆と審査員がそれを聴いて審査を行い決定する。中には一人の作曲家がブラインド譜面審査を行って入賞者を決めるという変わったものもあるが、外国のレジェンド作曲家が来日できずリモート審査となるケースも増えているようだ。
我が国を代表する若手作曲家の登竜門的存在に「日本音楽コンクール」の作曲部門がある。数多くの有名作曲家がこの賞を受賞していることから、いまでもその権威として君臨しているコンクールである。しかし入賞者の顔ぶれを見ると必ずしもレジェンドと呼ばれる人ばかりの名が連なっているわけではなく、全く知らない作曲家の名もかなり多い。では、これらの作曲家についてわかることを調べてみるのはどうだろうと本企画を考えてみた。「日本の作曲家」企画の派生企画である。
第1回日本音楽コンクール作曲部門
第1回日本音楽コンクールは1932年に開かれた記念すべき回である。今とは少し様相が異なっており、順位をつけず入選と賞からなっていた。この方式は第2回まで採られたようである。
作曲部門を見渡すと以下のような受賞者がある。
・賞 益子九郎
・入選 池譲
・入選 大中寅二
・入選 岡本敏明
この中で名前を知っている、あるいは作品を知っているという人物が3人以上なら、あなたは相当の日本近代音楽史通と言えるだろう。ちなみに筆者は大賞の益子九郎以外は知っていたのだが、大賞受賞者が一番知名度が低いとは意外だった。
では入選者から順に、その横顔を見ていこうと思う。
・池譲
池譲は1902年2月17日に神奈川県に生まれた。中国で政治家秘書として活躍した父をもつ名家の生まれで、この時代の作曲家としてはそのキャリアの前半を海外で積んだ希少な人物である。
東京音楽学校で学びベルリン・シュテルン音楽学校に留学して、ウィルヘルム・クラッテに学んだ。またヴァイオリンについてもキャリアを積んでおり、演奏者としての力量も当時としては高かったのだろう。
帰国後はヴァイオリニストとしての経歴が先行する。デビューコンサートからオーケストラへのヴィオリストとしての参加など、なかなかに華々しい凱旋帰国と言えるのではなかろうか。
そうして培った知識を作曲に応用することで新興作曲家連盟に参加、本回の入選を勝ち取るなど軸足を作曲に移しつつ、、そのキャリアを持って東宝専属となり、映画音楽の世界へ入っていくことになる。
専属作曲家としての期間は短かったが、さらなる高みを求めて同社を去り、東京放送管弦楽団の指揮者に就任、放送音楽にも従事するようになる。
このように多くのキャリアを経験したが、戦争に招集されることとなり、一時的にキャリアは途絶えるものの、生還を果たし戦後は再度映画音楽を中心に作曲活動を展開、母校での指導者としても多くの門弟を排出し1990年5月12日に亡くなった。
代表作には「ヴァイオリン・ソナタ」や新邦楽作品等があるようだが、現在では歌曲の一部がひっそり知られるかどうかという状況になっている。
なお作品の音源はYouTubeでは見つけられなかった。
・大中寅二
大中寅二は1896年6月29日に東京に生まれた。クリスチャンであり、大阪で育った後故郷である東京の教会のオルガニストに。その後作曲に興味を持ち、山田耕筰に師事した後、こちらも渡独しカール・レオポルド・ヴォルフに師事した。帰国後は更新の育成に力を入れ、オルガン曲、賛美歌、童謡、唱歌と名作を書き、日本における教会音楽の礎を築いた。
こと童謡唱歌の作品では「椰子の実」など今でも歌い継がれる名作が多く、出版も多くなされている。なおご子息はやはり有名な作曲家となった大中恩である。1982年4月19日没。
上述のとおり、代表作は童謡や唱歌、そしてオルガン曲であるが今日聴かれるのは童謡が大半である。
YouTubeではオルガンのための「前奏曲」の音源が見つかった。
・岡本敏明
岡本敏明は1907年3月19日に宮崎で生まれたが、父の仕事の関係で全国を転々とする幼少期を過ごし福島中学卒業後、出来たばかりの東京高等音楽院に進み一回生として卒業した。
東京江東音楽院ではハインリッヒ・ヴェルクマイスターに学び、ドイツ留学も経験、帰国後はさらに成田為三に師事し見識を高めた。
その後玉川学園の創設に関わり教育者として仕事をする一方、合唱における指導を中心に、作曲活動も行うようになる。基本的にはこの様な経緯から合唱にかかわる曲が多いが、器楽曲、とくに変奏曲を残しており、名作会連動企画のRMCでも紹介した作曲家である。1977年10月21日没。
代表作は国民的な童謡「どじょっこふなっこ」や文部省唱歌の「かえるの合唱」の作詞でも知られている。
そして栄えある音楽コンクール賞受賞者である。
・益子九郎
第一回の賞に輝いた作曲家は益子九郎である。と言っても知らない人のほうが圧倒的に多いはずだ。私もその一人である。
益子は1899年10月27日に東京は湯島の士族の家系に生まれ、幼くして父の高いから家督を継いでいる。その後東京音楽学校へ進み、ピアノを学ぶ傍ら作曲は弘田龍太郎に師事した。またこの頃知人を介し信時潔を知り、こちらにも師事するようになる。
信時潔が日本に帰国し本格的に師事するが、すぐに学校を辞め静岡へ移住してしまう。しかし師との関係は継続していたようで、師の旅の際はその世話をしたようだ。
関東大震災罹災後に世田谷の上馬にまたも移り住み作曲に情熱を燃やし、本回に「管弦楽のための牧歌」を出品、見事賞受賞となった。その後は師の信時潔らと教育活動に勢力を注ぎ込み、教科書の編纂などの仕事をこなし、師の助手などを勤めた後、小田原に転居し余生を過ごした。1990年7月16日没。
この様な経緯で大賞を受賞した「管弦楽のための牧歌」についてもよくわからず、現在入手できる資料としては唱歌の類が僅かにあるのみと思われる。
なお作品の音源はYouTubeでは見つけられなかった。
以上「第1回日本音楽コンクール作曲部門」入賞者の略歴とその作品の紹介である。特に大賞受賞者の益子九郎については資料が少なく、また作品も多くは内容で極めて限定的な情報しかない状態である。これらの作曲家の作品がより知られるようになり、多くの人の再解釈を経て認知し直されることを望まずにはいられない。
なお本稿執筆のため以下の資料参考にしたので併記する
・日本の作曲家 細川周平・片山杜秀監修 日外アソシエーツ
・Wikipedia
・国立国会図書館デジタルコレクション
・日本音楽コンクール入賞者一覧
・信時潔研究ガイド - 作曲家 益子九郎について
・ピティナ調査・研究 - ジェームス・ダン第3回
2022/11/26 Erakko I. Rastas氏の指摘を受け一部改稿