名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

5thコンサート曲解説-組曲「新栄」/なんすい

なんすいです。こんにちは。

春も麗らかに、過ごしやすくなってきましたね。

お花見とかしました?

 

定番の桜も綺麗だけど、私はチューリップが好きです。

あとこないだミツマタの群生地に行ってきたんですけど、それが凄く綺麗でしたね。


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うん、綺麗だ。花は良いですね。やっぱり…

 

 

 

 

 

でもね、

 

 

 

 

 

俺は…

 

 

 

 


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俺は、人間だから、

 

花じゃないから…

 

俺は、綺麗ではないんだ。

 

人間は、他のどんな生き物よりも汚れていて、醜くて、全く救いようが無い生き物だ。

だけど、そんな人間にも目蓋を閉じることが許されていて、そうすると、私達は夢を見ることが出来る。

夢の中で、ここにあるどんなものよりも美しい世界を創ることが出来る。こうやって、人間は自分で自分のことを救いながら、強く生きていくんだね。

 

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さて、「です・ます調」というのは、必ずまとまった内容があって、その後に「です」やら「ます」やら決まった定形の語尾を付けるために、どうも、書いた文章の内容を都度自らで反芻するような、丁寧で柔らかい印象とは裏腹の踏みしめるような頑丈さが出てしまうような気がする。

 

この記事では、私が5thコンサート「名古屋の作曲家たち」に寄せて書いた組曲「新栄」について書くつもりだ。

しかしこの曲の性格上、普通に解説っぽい解説をするのがなかなか難しくて、それよりはもっと自分の気持ちを湧いてきたそばから書き起こすように、自由に書いたほうが良いんじゃないかと考えた。

そうすると、「です・ます調」よりも「だ・である調」で書いた方が、何となく調子が良いような気がした。あまり頑丈な言葉を紡げない人間だから…。

なので、この記事では語尾を「だ・である調」にして以下書いていこうと思う。

 

 

 

 

ライトモチーフ、という音楽用語がある。

旋律断片であって、キャラクターやら感情やら特定の意味を持たせたモチーフのことだ。

音楽の中で使う「言葉」みたいなもの、とも言えると思う。言葉は、文字記号の羅列や人間が発した音声に特定の情報が載っかったものだと思うと、ライトモチーフの場合は旋律に情報が載っているもの、ということになる。

 

ライトモチーフの大きな問題点の1つとして、伝わりにくいという点が挙げられる。この旋律は炎を表してるんですよと言ったとて、聴いた人がそうと分からなければ、それは作曲者にしか読めない欠陥言語であると言わざるを得ない。

だから、ライトモチーフをそうと分かるようにするには、何かしら工夫が必要だ。

例えば、有名な曲のメロディを引用して、ライトモチーフとして使う。自分が「これは○○のテーマ!」と決めたモチーフを、一生涯作品で使い続ける。そういうことをして、ライトモチーフという言葉に「歴史」を背負わせる必要がある。普通の言語だって同じである。話者が居て、これはこういう意味なんだよと知られていなければ機能しないだろう。

 

それを踏まえた上で、私は、ライトモチーフというものがあまり好きでは無い。

音楽を使って自由な主張をするためには、そこに言葉を組み込んでいく必要がある。その手法として、少なくとも今の私は、ライトモチーフを使うか、そうでなくともライトモチーフのような、音楽の断片に情報を載せて制御していくやり方しか思い付かない。

だから、言いたいことや伝えたいことがあるなら、口で喋るか文章で書くのが最も確かに決まっている。敢えて音楽でやる必要は無い。

ライトモチーフのような、ちゃんと伝わるとも限らない言葉をガチャガチャ組合せて、何かしらの大きな主張に仕立て上げたとして、何の意味があるんだ。暗号でラブレターを書いて寄越すようなものだ。

 

だから結局、音楽で何かを主張したりするのは愚かというか、甘えた行為だと思う。自己満足に過ぎない。

加えてついでに言うなら、別に音楽でなくとも、何かを主張すること自体も好きじゃない。それは、そもそも私が啓蒙主義者では全く無いからだ。

 

じゃあ私には音楽で表現したいものが全く無いのかといえば、それは違って、もっと個人的な叫びのようなものが音楽として1つの形になるような、そういう創作をしたいと思っている。いや、思ってないかもしれない。私は叫びたいのか?誰かに聞いてほしいのか?それが音楽である必要性は?

このように、私は自分が何をしたいのか分からなくなって、悩み始めてしまった。

 

そうやって考えているうちに、もう1つ嫌いなものが増えた。それは論理である。

論理は人に何かを伝えるうえで必要不可欠なものである。論理によって示された答えは、皆が同じ道を辿れるものだし、そう簡単に否定出来ない強さがあるからだ。

論理を紡ぐことは、いわば複雑な現実世界の叢を掻き分けて1本の道を作ることである。無意味な木の塊に刃を入れて、要らない所を削ぎ落としてかわいい熊の置物を拵えることである。それは生産的だが、同時に残酷なものだと感じる。

私が音楽で何を表現したいのか、思考すればするほど、その思考の中で削ぎ落とされてしまった部分にこそ、多くの本質が隠れていたんじゃないかという気がしてきた。

 

 

 

 

ひとしきり悩み続け、2021年の暮れの段階での私が取り敢えず出した、その1つの答えが、組曲「新栄」である。

【オリジナル曲】組曲「新栄」 - YouTube

コンサートの曲作り期間が始まった頃が、ちょうど私は上述したような事についてめちゃくちゃに悩んでいた頃だった。

 

 

 

昨夏名作同でリリースしたDTMアルバム「YOURS HOURS」に提出した曲においては、古代社会の構造を引き合いに出して現代の風潮を否定してみせた。

‎名大作曲同好会の「YOURS HOURS」をApple Musicで

24曲目、アルバムの最後の曲でもある「Pray For 24th Artists」は、文化が失われていく現代のレクイエム、そして次代への無窮の祈りの音楽と位置付けた。

 

「文化を守るために大革命を起こすべきだ!」とかではなくて、あくまでただ祈るという行為に留めている辺り、やはり私は強い主張をするのには向いてないんだな、と思う。

一方で、自分が極めて無意味なことをやっている感覚もした。現代社会に一石を投じるのかと思ったら、結局投じたのは本当に小さな石ころ一粒きりで、私は本当にこんなことをやりたかったのだろうか?と悩み始めることになった。

 

 

 

組曲「新栄」は、そのDTM企画のやり直しとしての作品でもある。

 

DTM企画でやったのと同じように、やはり古代社会の構造を提示することから曲を始めた。

DTM企画の時と異なるのは、そうして始まった曲の全体の主張は、社会や他人では無く、作曲者の自分自身にその方向が向けられているという点である。

 

新栄のライナーノーツに「この曲は多層的な神話である」と書いているが、この神話における神というのは、他でもない、私のことだ。

古代社会において神として共同体に関わった職能、その中には琵琶法師や尺八吹きといった音楽家も居て、物語を語り歩く人達が居た。

あるいは物語を生み出す者、西洋における神とは創造主のことである。

そういう存在に、私自身の立場を置き換えてみることが、この曲の試みである。

 

まぁ、自分を神様に例えるだなんて調子に乗ってやがるよと言われてしまいそうだが、私はもちろんそんなつもりで「神とは私のことだ」なんて言ったわけなのである。

だって、人間なら誰しも神になりたいと思うだろう。私も例外ではなく、人一倍そう思っている。でも人間は神じゃないから神にはなれない。もちろん私もなれない。そして実はそれこそが、私の一連の悩み事の正体なのではないかと考えた。

 

論理も主張も言葉も人間のものだ。ならば芸術表現も本当は人間のものであるはずだ。神は芸術を必要としない。

でも表現者というものは、きっとどこかで神になりたいと強く思って、表面上神っぽいことをやれるようになり、その一方で、それ故に対峙する極めて人間的な問題への対処に一生苦しむことになるんだと思う。

だとすれば、組曲「新栄」がどういう風に結末することになるべきかはもはや明らかだった。

 

 

 

組曲の構造は次のようになっている。

 

最初に、クラリネットソロによる旋律、これは私自身を示すライトモチーフである。私が過去に書いた極めて個人的な曲の主題を引用したものだ。

続いて、古代社会を描写した1個の神話。ここまでが1楽章「栄」のまるまる全部に相当している。

次に、琵琶法師によって語られる神話。神話を語る琵琶法師の描写そのものが、また1個の神話となっている。2楽章「枇杷島」に相当する。

 

そして3楽章「新栄」。組曲冒頭のライトモチーフが再びソロで奏された後、色々あって、コラール的な強奏をもって終結する。この部分、実はコンサートでも編曲された榊原拓さんの作品「Night Walker」の主題を各声部に散りばめて隠してある。

 

そしてフェルマータの後に始まるアップテンポでポップな音楽は、組曲に付加されたエンディングのような立ち位置にあって、かつ「Night Walker」の私自身の解釈による編曲版のつもりでもある。そして更に、DTM企画のコンセプトを練り直した先の、新しい結末としての音楽でもある。

 

この部分のサビでは IV-III-Vl-I の所謂「丸サ進行」と呼ばれるコード進行を使っている。音楽理論をある程度学んだ人間は敢えて使いたがらない軽薄な進行だと思うが、この曲のクライマックスにおいて避けて通るわけには絶対にいけなかった。

 

神の真似事をしている私は、報いとして無意味に悩み果てることになっており、そこから逃避し続ける自分自身のバックグラウンドには、軽薄で俗っぽく使い古されていて、でもどうしようもなく好ましいと感じてしまう丸サ進行が全くぴったりなのだった。

 

悩みながら逃避する自分自身をそのままの姿で晒し、音楽自体は終わる。

 

そして、この曲のオチというのは、私がこの組曲「新栄」を作曲し、「名古屋の作曲家たち」と冠したコンサートのプログラムとして提出し、演奏したという事実である。

結局私は色々悩みつつも音楽を作っているし、神の真似事をしてしまうんだね(笑)というどうしようもない結論である。しかし、強い主張が苦手な自分にとってこんなにも心安らかな結末は無いだろうとも思うわけだ。

 

加えて、とっくに勘付かれているとも思うが、この組曲はほぼ全体に渡ってたくさんのライトモチーフや引用を複雑に組み合わせることによって作られている、ということも明かしておく。

汚いものや苦手なものから取り敢えず目を背けて綺麗な夢を見るのは、やっぱり人間の特権だなと思うわけである。

 

 

 

 

 

最後に、そんななんすいの曲、およびそれが含まれたコンサートがYouTubeで全部視聴出来るので、宣伝します。

名大作曲同好会 5thオンライン・コンサート「名古屋の作曲家たち」 - YouTube

 

それから、コンサートの曲の楽譜も無料公開してるのでぜひ見てみて下さい。ライナーノーツも読めます。(そんなにいい文章では無いけれど…)

楽譜無料公開! 5thコンサート「名古屋の作曲家たち」 | 名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)