名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

「君が代」はハ長調ではない 〜日本音楽の真実を暴く〜 その①

どうも、会長のトイドラです。

今更気づいたんですが、僕今んとこブログに音楽関連の記事を何一つ上げてないんですよね。

作曲同好会の会長のクセに、音楽系の記事を書けないと思われるのはマズい。

というわけで、そろそろ会長っぽい記事を書くことにしましょう。

今回の内容は、まさに僕が研究領域としている

日本民謡の真実」

についてです。

 

 

〈もくじ〉

 

 

国歌「君が代

日本には、国家として君が代という歌がありますね。

僕はこの「君が代」が大好きです。

というのも、別に「君が代」の歌詞が好きなわけでは全然なく(僕は政治的右翼思想はこれっぽっちも持ってません。その辺の話は面倒なので、誤解なきよう……)、その極めて日本的な響きが好きなのです。

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他国の国家を聞いてみても特に国ごとの個性を感じられない気がするのですが、「君が代」からはビンビンに日本を感じませんか?

実は、それもそのはず。

君が代」のメロディラインには、日本特有の音階・陽旋法が使われているのです。

 

陽旋法とは、別名「ヨナ抜き音階」とも呼ばれる日本民謡の音階です。

「ヨナ抜き」の名の通り、

「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」

という普通の音階から4番目と7番目の音を抜いた

「ド・レ・ミ・ソ・ラ」

の5種類の音からなる音階です。

演歌にとてもよく使われる音階で、温かく野暮ったい田舎のような雰囲気がありますね*1

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さて、それを踏まえて「君が代」のメロディを見てみると……

「君が代」の楽譜

確かに、「ド・レ・ミ・ソ・ラ」の5音だけしか使われていませんね*2

つまり、国家「君が代」は日本に固有の音階陽旋法に従って書かれた歌なのです。

 

ハ長調」で浸透した国歌

さて、ここで先ほどのオーケストラ版「君が代」をもう一度聞いてみましょう。

 

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 いやー美しい響きですね。

個人的には、「千代に八千代に」あたりの滑らかなハモリが好きです。

最初はメロディが一本に結集した単旋律から始まって、「千代に」からブワアーっとハーモニーが生まれていって、最後の「むすまで」で再び単旋律に収束していく構成は見事だと思います。

 

話は変わりますが、この「君が代」は言うまでもなくハ長調です。

言い方を変えれば、「ド(C)を主音とするメジャー・スケール」とも言えます。

ともかく、このことはハモっているところを聞けば特に分かりやすいと思いますし、楽譜を見ても調号は付いていませんから当然ですよね。

もしあなたが突然

君が代って実は嬰ヘ短調なのでは??????」

などと思い始めたとしたら、多分耳鼻科か精神科か脳外科にでもかかった方がいいでしょう。

 

ところが……

 

ハ長調」という罠

ここで思い出してください。

ハ長調とは、いったいどういう音階だったでしょうか?

答えは僕が上に書いた通りですが、

(C)を主音とするメジャー・スケール 

これが当然ハ長調の定義です。

さて、ここで注目してほしいのが、「ドを主音とする」という部分です。

 主音とは、ある音階の核になるような音で、一般的にメロディは

主音から始まって主音に終わる

ことが多いです。

さあ、ここで改めて「君が代」の楽譜を見てみると……

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えっ全然がないじゃん…

そもそもドの音がを打ったたった4か所にしかない上、メロディの最初や最後というより大体なんか中途半端な場所にあります。

ハ長調のはずなのになんで???

 

いや、それより気になるのが……

 

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なんか多くねえ?????

 

 

君が代」の主音は〈レ〉

というわけで、なんと君が代」の主音はドではなくでした

そんなこと言われても信じられないかもしれませんが、そんなあなたは好きなだけ楽譜とにらめっこしてください

曲の始まり、終わり、そして各フレーズの始まりや終わりに至るまで、キリのいいところに高確率でが置かれていますよね。

この事実を前にすれば、どんなに信じたくなくても

「ドではなく

という現実は認めざるを得ないでしょう。

 

さらに、ここでもう一つ思い出してください

……

最初はメロディが一本に結集した単旋律から始まって、「千代に」からブワアーっとハーモニーが生まれていって、最後の「むすまで」で再び単旋律に収束していく構成は見事だと思います。……

 

勘がいいあなたは気づいてしまいましたね。

 

そうです。

 

オケ版「君が代」の編曲者もうすうす感づいていたのです。

 

でなければ、どうして曲の最初と最後を単旋律で済ませるのでしょう。

「中間部分はハモりでごまかせたけど最初と最後はダメだった

という編曲者の声が聞こえてくるかのようです。

 

……ところで、僕は上で

オケ版君が代

という書き方をしましたよね。

 

そうなのです。

 

あまり知られていないのですが、実は僕らが慣れ親しんでいるオーケストラ版の「君が代」は原曲ではないのです。

原曲はこっち。

 

 

www.youtube.com

 

 

 

 

 

いやクッソ和風だなあ

 

 

 

 

 

 

次回予告

さあ、謎は深まるばかりですね。

いったいどうして「君が代」の主音はレなのでしょうか

そしてこのクッソ和風な「君が代いったい何なのでしょうか

次回までの繋ぎとして、この言葉を残しておきましょう。

 

 

――現代の日本で、陽旋法曲解を受けている

――勘違いされた”陽旋法”は歌謡曲などに乱用され、いかにも”日本古来の”顔をして居座っている

――真の〈陽旋法〉は、僕らの常識から全く外れた力学で動く。

 

――――それは、「日本和声」と呼ばれる。

 

 

 

はい次回予告終わり。

 

 

 

つづき→

 

nu-composers.hateblo.jp

 

*1:第4音(ファ)と第7音(シ)とを抜いたことで、ミ:ファ間とシ:ド間の半音が解消されて音がぶつからなくなったため、このような響きになる。

*2:例外として、4小節目に1度だけ「シ」が使われている。この原因は、瞬間的に主調(ニ陽旋1)からⅤ調(イ陽旋1)に転調しているからである(調名は小山清茂著『日本和声』準拠)。ただ、日本和声において主調とⅤ調とは緊密な関係にあるので、聴感上あまり転調を感じさせない。

音楽発信とTwitter

みなさんこんにちは、sawapyです。こちらのブログでははじめましてですね。

 

 

 

・・・ところでみなさん、Twitter使っていますか?

 

今やアカウント数は日本だけでも延べ4000万、多くのユーザーを抱えるSNSに成長しました。

何を隠そう、名作同も僕もTwitterを情報発信に活用しています。

今回の投稿では、そんなTwitterと音楽、中でも作曲の関わりにスポットを当ててみようと思います。

 

さて、少し前の音楽の発信と言えば、テレビやラジオの音楽番組か、CDやMD、レコードといったハードの媒体が主流でした。しかも、そこで発信できる中心になるのは限られた人だけ。

 

しかし。

 

時代は変わり、音楽もインターネットを通じて、誰もが“個人で”、そしてリアルタイムで音楽を発信できる時代が訪れました。

 

そこで、今やアカウント数3億に上るSNSであるTwitterと作曲活動について考察し、最後にTwitterで出会った素晴らしい作曲者の方々を数名紹介したいと思います。

 

ボカロの爆発的ヒットに貢献したニコニコ動画YouTubeといった動画配信サービスはもちろん、SoundCloudなどの音楽に特化した配信サービスも誕生しています。

Twitterも例外ではありません。むしろ、“個人単位での宣伝”という役割においては前述のサービスの効果を上回っているのではないでしょうか。また、作曲者(以下、本業趣味問わず、作曲をしている人を作曲家と呼ぶことにします)同士の交流という役割でもTwitterが活躍しています。

 

さてここまで個人というワードを強調してきました。

というのも、インターネットやSNSの普及により、レーベルなどに所属しているかに拘らず、作曲者が自分の好きな時に好きなように音楽を発信できるようになったこと。これが一番のポイントだと思います。

この変化に対応し、大きな影響力を持ったのが、Twitterだったのではないでしょうか。

お仕事として書いた曲、趣味として書いた曲…様々な作曲がありますが、作った作品を気軽に投稿できる場が誕生したのです。Twitterで作曲関連のタグが数多く見受けられるのも、このことを裏付けているように思われます。(DTM(パソコン上での音楽制作)に関連するものが多いですね)

 

さて最後に(むしろここからが本番だったりしますが)そんなTwitterを通して僕が出会い、影響を受けてきた曲と、その作曲者の方々を紹介したいと思います。会長から好きな曲を語って良いって言われたもんね

 

・片時雨/かしわ丸餅

 

僕が演奏動画の投稿を始めて間もないころにリツイートで回ってきて出会ったピアノ曲。それまではポピュラーソングばかり聴いていましたが、この曲の”エモさ”に魅了され、聴く音楽の幅が一気に広げられました。とにかくエモい。楽譜を見れば(YouTubeで楽譜も公開されています-【ピアノソロ】片時雨【オリジナル曲】 - YouTube)その和音の複雑さには眼を見張るものがあります。そして、とにかくエモい。何度でも言う。とにかくエモい。

耳によく残る主題で、特に2’06あたりの駆け上がってからの静かな主題への入り方で悶絶させられます。エモい。

 

~作曲者紹介~

北海道出身。作編曲が趣味の猫好きな一般人。学生時代にエレキベース、ピアノを始め、のちに作曲を独学する。近年ピアノソロによるアレンジやオリジナル曲をTwitterYouTubeに投稿し始め、キャッチーで情緒あふれる作風で人気を集める。

 

 

・雪と恋のワルツ/しょご(Shogo Nomura)

しょごさんが初めてSoundCloudに投稿した曲。受験勉強に疲れていた時に、この曲もリツイートが回ってきて出会いました。優しさと暖かさと、どこか切なさが勉強で疲れた身に染み入ったことをはっきり覚えています。特にセンター前の追い込みの時期には何回聴いていたことか…曲名にある通り、冬という季節にも合っていたのかもしれませんね。

この曲では多くの楽器が入れ替わり立ち替わり登場するのですが、それぞれの使い方がとても上手で、今も曲を作る時にはめちゃめちゃ参考にさせて頂いております…

 

~作曲者紹介~

愛知県立芸術大学に在学中。ニコニコ動画に演奏してみた動画を投稿していて、アニメ等のセリフを和声付きでピアノで弾いた動画が話題になる。特殊奏法等を用いた現代音楽を専門とするが、より多くの人に自身の作品を聞いてもらいたいという思いから、ポップな音楽を作るようになる。現在は太鼓の達人等の音楽ゲームへの楽曲提供や、しょご名義でのアルバムを2枚リリースしている。

 

 

・蒼色冒険記/きみどりルクス(Meldear’s Craft)

DTMを始めるきっかけとなった曲。曲名にもある通り、冒険のワクワク感がとてもよく伝わってきて、僕のDTMという未知の世界への冒険が始まりました。僕の初の作曲作品、「始まりの村で」は、がっつりこの曲の影響を受けています。また、この曲で登場するオカリナ(?)とバイオリンとアコースティック系のギターという組み合わせに惹かれ、そこからケルト系などの民族音楽に出会うきっかけになりました。

どこか可愛らしさのある曲で、僕は飼い猫が家から抜け出して近所を大(?)冒険する…そんな情景が浮かびました。ほのぼの、のんびり、癒しを与えてくれますね。

 

追記:曲中で使われている笛のような楽器はKontact付属のソプラノリコーダーだったようです。

 

作曲者紹介

任天堂の「大合奏!バンドブラザーズ」という携帯ゲームに作曲機能があったことをきっかけとして作曲を始める。ゲームミュージック、特に作曲家浜渦正志からそのルーツを辿るように、ニューエイジ・ミュージックとクラシックを好むようになる。ジャンルを問わず、幅広く曲を作る。DTMを始めて間もない2012〜2013年頃、友人に誘われるようにして同人活動を始め、その頃に個人サークルMeldear's Craft名義で、東方アレンジCD『ねがいごと』『とおりみち』をリリース。また同時期に東方アレンジコンピレーションアルバム『花華茶会』に楽曲を提供。

2014年頃、一度作曲活動そのものをほぼ辞めて、音楽に関する勉強や研究などに約1年半没頭。2016年から作曲活動を再開し、インストゥルメンタル曲集&素材集の『Rollenspiel Reminiszenz』、ピアノと室内楽の曲集『Clear Palette』をリリース。このことなどがきっかけとなり、主に成人向け同人ゲームに楽曲提供をするようになる。

 

 

 

この記事では完全に僕の独断と偏見で、Twitterでの音楽との出会いを振り返りながら3曲紹介しました。皆さんも、インターネットで趣味として作曲をしている方々の作品を聴いてみてはいかがでしょうか。思わぬ出会いが待っているかもしれません…

渋谷系の時代② 小山田圭吾編

~前回の記事~

どうも榊原です、ご機嫌麗しゅう。

さて、書いた本人すら存在を忘れかけていた不定期すぎてもはや不連載が再開します。

 

 

 今回は小山田圭吾編ということで、フリッパーズ解散以後の小山田圭吾の軌跡を辿っていきます。それではレッツゴー。

 

ソロデビュー~3rd Album

 

1st Album

1994/2/25 「THE FIRST QUESTION AWARD」

 

フリッパーズ解散から幾年か間をあけて、ソロユニットCorneliusとしてデビュー。

本当はその間にMO'MUSIC名義でなんかやってたり、レーベル立ち上げたりしてるけどめんどくさいのでカット。レーベルの話はそのうちする予定です。

 

肝心のアルバムの感想ですが、フリッパーズ路線をそのまま踏襲したなというくらいで、とくにこれと言って物申すことはありません。むしろヘッド博士の世界塔よりおとなしいんじゃないかな?という感じ。

 ただ随所にブラックミュージック的要素が現れているため、単純にフリッパーズの踏襲とは言い切れない。

 

先ほど述べた通りフリッパーズを踏襲=時代感が強いので、聴くと「アッ!1993年だ!!」となります。1993年知らんけど。

 

Corneliusでは一番素直で聴きやすいアルバムで、これはこれで好きです。

 

2nd Album

 

 1995/11/1 「69/96」

 

......??

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ヘヴィメタやってる顔には見えない

この顔から最も縁遠そうなヘヴィメタ(っぽい)路線に走ってしまいました。我らが小山田圭吾、どこへゆく。

 というか、このアルバム南国風味もあり、サイケもあり、大麻談義ありと、何でもありの内容となっております。

 

なんでもありといえばギミックも満載で、アルバムタイトルにちなんで96トラック69分収録、69トラック目と96トラック目にはボーナストラックが収録されていてとてもお得!

 

その記念すべき96曲目がこちら


cornelius ~ welcome to the jungle

 

木魚、モクギョ、もくぎょ、MOKUGYO......

ピチカートファイブスチャダラパーといった大ネタから、わけのわからない小ネタまで、盛りだくさんのサンプリング内容となっております。途中YMOが出てくるらしいですが、僕にはわかりませんでした。誰か教えて。

 

そう、前作では息をひそめていたサンプリングが今作では三面六臂の活躍を見せています。

アルバム2曲目の「Moonwalk」なんてアウトロがKISSの「Love Gun」まんまですからね。

2:14あたりからそのまま持ってきている。

 

あと「HOW DO YOU FEEL?」という曲も収録されてるんですが、そのAメロがThe Beatles「She Said She Said」のAメロに似てる。曲の雰囲気的に中期ビートルズリスペクトだと勝手に思っている!以上!
 

技術面

当時珍しかったハードディスクレコーディングを採用してます。
これがなかなかに画期的で、従来のレコーディングでは困難だった非破壊編集が可能なのです。つまりどういうことかというと、録った音をいくら弄っても元データが劣化しないということです。
これ以後のCorneliusの音楽は病的なまでにめためたに編集されることになります。

 

 

ちなみに

さっき悪魔コスしてましたが、この頃の小山田は文字通り悪魔です。

 

~悪の所業~

 

1.テレビ放送で、カヒミカリィ(当時の恋人)とひとしきりいちゃつきながら日本全国で家で一人でテレビを見ている可哀想な人たち、メリークリスマスと言う

 

......という映像が消去されていました。

 嗚呼、哀しきかな情報化社会。手に入りやすいということは、容易く消えてしまうということと同義であるのだ......。

 

ふざけんじゃねえぞ!野郎ぶっ○してやる!!

ところで、若き日の小山田の声とSEKAI NO OWARIFukaseの声クソ似てません?

この映像とかトランシーバー(?)持ってるし完全にドラゲナイですよね。(映像が消えたのでもう誰にも伝わらなくなってしまった文章)

 

 

 

2.レコード屋で万引きしまくってたことテレビで言っちゃう

 

これも映像がなくなってるんですが、STAR FRUIT SURF RIDER発売時にHEY HEY HEYに出演した時のトークだったはずだ!俺は覚えている!(発言がクズ過ぎて)

 

 

3.いじめ経験をインタビューで言っちゃう

 

小山田圭吾アンチの99.9%はこれをアウト判定してるんだろうなあと思うほどにかなりひどい内容。ネット中に転がってるので暇な人は見てみよう。これに関しては擁護ができない。

 

 

…てな具合にですね、悪魔なわけですよ。

明らかに普通の人間ならしないことを平然とやってのけちゃうので、多分頭のネジ数本抜けてるか、なめこに差し変わってるかのいずれかであるとは思います。

が、多分このぶっ壊れ具合が音楽やるうえでは超プラスに働いてしまっているとおもわれます。

というのも彼の音楽は異常(誉め言葉)だからです。

これに関しては言葉で説明するよりも、聴いて感じてもらいたいですね。

つまり先へ進みます。

 

3rd Album

1997/8/6「FANTASMA
超名盤の登場です。丁度この時代は日本のポップスが海外に輸出されてたので、その波に乗ってCorneliusも海外デビューすることとなりました。
どんな曲があるかというと


!!!??!?!???
当然一般ウケすることはなく、おもに海外音楽オタクからの支持を集めていくことになります。Beckとか。
ただこのとき海外で死ぬほどライブを行ったおかげか、今でも海外公演とかできてるようです。若いころの土佐周りって大事ですね。
 
肝心のアルバムの内容ですが、カオス・多幸感・サイケ・サンプリングの嵐です。

 
カオスにはなっていますが、前作までと比較すると曲の構造自体はすごくシンプルになってますね。
たとえば収録曲「Star Fruit Surf Rider」はAメロ~サビが2コードの繰り返しの上に三回繰り返されるだけです。

サビは「Star Fruit Surf Rider」しか言ってませんね。なんだこれ。
このシンプルさがあってこそ、ここまでカオスなバッキングが映えるわけで、絶妙なバランス感覚の元成立した曲といえるでしょう。
 
また今回も例によってサンプリングしまくってますが、サンプリングしすぎて権利関係がめちゃくちゃ大変だったらしいです。(当時のアメリカは既にサンプリングが厳しい)これが相当面倒くさかったらしく、FANTASMA以降はサンプリング・元ネタがほとんどなくなりました。


ちなみに

このころからプロデュース業が本格的に開始されました。
ちびまる子ちゃんのOPとかは知ってる人も多いんじゃないでしょうか。
さくらももこ氏はコーネリアスファンだったようで、氏の熱烈なオファーの結果

こうなりました。

 

 

 

ちびまる子ちゃんってぇ、こんなコケティシュな世界観でしたっけぇ...

 

 


4th Album 「POINT」以降

3rd Albumと4th Albumで前後を分けたのには理由がありまして(後述)、とりあえず一旦聴きましょう。

 

ひどくこざっぱりとしてはる。


渋谷系のしの字もねえ。
いや、アルバム最後の曲はかすかに渋谷系の残り香を感じなくもないですが。
 

どうしてこうなった

以降インタビューから拾えるものを抜粋して紹介。

 

 

1.音詰め込みすぎて疲れた

 

前作FANTASMAでは当時のDAWの限界まで音を詰め込んだが、30歳にもなってそれをやるのはさすがにしんどかった様子。人間年とると過激さが減るとは言いますが、小山田も例外ではなかった様子。

 

......とはいえ過激さも多少は欲しいようで、アルバム一枚にだいたい一曲、こういう超ハードな曲が入ってます。

何の脈絡もなく突然爆音が鳴るのでみんな気をつけような!

 

2.音の鳴るタイミングずらすと面白いことに気づいてしまった

 

先ほどの曲「Point of View Point」はリズムが特徴的ですが、これは「途中で拍がずれたけど面白いからそのまま使った」とのこと。そうなんだ......。

この辺で小山田は「楽器が鳴るタイミングずらすの面白くね?」という悪魔的発想をしてしまいます。

結果、彼はライブでメンバーが苦しむ代わりに唯一無二の音楽性を得ることになります。

 

なお、この気づき*1以降「音をずらす」ことに異常な執着を見せるようになり

こうなって

 

最終的にこうなってしまった。

 

この「あなたがいるなら」、ブルースロックっぽい甘くていい曲なんですが、いかんせん表拍がわからない*2。何回聴いてもわからない。

曲の構成要素すべてがキモすぎる(褒めてる)。

 

 

3.歌が「歌」しなくなった

 

JPOP的文脈で「歌」といえば、意味のある歌詞がそれなりに流れるようなメロディに乗ってサビでいい感じに高揚すると思います。

ですが、POINT以降の小山田圭吾だと

こうなる。

 

音節・文節で断絶された意味不明の歌詞が抑揚の少ないメロディに乗ってサビで高揚しないな~!!?!

 

JPOP的文脈ではセオリー無視ともいえる暴挙ですが、歌を「歌」ではなく「楽器」とみれば合点がいきますね。合点がいってください。おそらく本人もそのように歌を使っているはずです。

 

こうなった結果

 

とまあPOINT以降オリジナリティの塊になってしまったので、クリエイティボな方々から引っ張りだこなようで、

 

攻殻機動隊とか

僕がコーネリアスだと意識して聴いた曲はこれが最初なのでとても懐かしいです。

パン振りまくってて気持ち悪いですね。酔いそう。

 

デザインあとか

幼少期にデザインあのテーマ聴きながら育った子供ってやばくないですか?音楽に関する感性がぶち壊れてそう(偏見)

 

東京オリンピックのエンブレムPRとかで活躍してます。

東京オリンピック関係者、何人の首が飛ぶのか今から楽しみですね。

 

 なんかめっちゃ金もらえそうな仕事ばっかでいいな~~!!!!

売れるとでかいな、うん。

 

 

おわりに -小山田的渋谷系の終焉

 

さて、ここまで読めばなんとなくお分かりかと思いますが、4th Album以降は渋谷系ではないですね。

途中で「3rd Albumと4th Albumで前後を分けたのには理由がある」と言ったのはそのためで、このアルバム間では大きな断絶があります。

 

渋谷系ムーブメントの中心人物でもあった小山田圭吾が、引用や過剰さに支えられたアイデンティティを捨て、真の意味でのアイデンティティを手にする。これは同時に小山田的渋谷系の終焉を意味しますが、この流れが僕はとても好きです。

 

さて、次回は逆に渋谷系にとらわれてしまった小沢健二に焦点を当てていきたいと思います。次回はいつ来るのか?

 

 

 

*1:実際はBlurのTenderのremix時に気づいたが、ややこしいのでここではそういうことにしている

*2:本人曰く「ドラムが表拍」。なおユザーン(リズムに詳しい人)もわかってなかったのでたぶん誰もわからない

月の光ものがたり

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日本には月を楽しむ風情ある文化があります。
中秋の名月
十六夜
「朧月」
月にまつわる言葉もたくさんあって、どれもとても雰囲気がありますね。

そういえば今日は今年の中秋の名月に当たるそうですね。

 

月を見あげて様々に思いを巡らせるのは日本人の特権
…と言いたいところですが、実は世界的に月は様々な思いで見上げられているのです。

 

では芸術作品、特に音楽においても月をテーマにした曲があるのではないか?

もちろん沢山あります。

 

え?知ってる?
では、そこの君、言ってご覧なさい。

 

「ベートヴェンの月光ソナタ

盛大なる拍手を…と言いたいところですが、残念それは間違いです。

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Ludwig van Beethoven

「月光ソナタとして知られるベートヴェンの「ピアノ・ソナタ第14番」に本人が付けた副題は「幻想曲風ソナタで、「月光」の愛称は、この曲の演奏解釈の表現として音楽評論家が言った言葉が元で広がったものなんですね。

 

ともあれせっかく出たので聴いてみましょうか。

 

www.youtube.com

Sonata No.14/Ludwig van Beethoven

 

他にはありませんか?

お、そこの赤いシャツの女の子、言ってみましょう。

ドビュッシーの月の光」

おおおお素晴らしい!そのとおりですね。

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Claude Debussy


月をテーマにした不朽の大名作の一つ、ドビュッシー「月の光」「ベルガマスク組曲の第3曲にあたるピアノ曲で、ドビュッシーらしい美しいハーモニーと物憂げなテーマがまさに月を思い起こさせますね。

www.youtube.com

Suite Bergamasque - 3.Clair de Lune/Claude Debussy

 

ではここで一旦「月の光」というタイトルに限定してみましょう。

 

同じフランスの作曲家フォーレの書いた「2つの歌」の2曲目が「月の光」というタイトルです。

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Gabriel Fauré



この歌曲はヴェルレーヌの詩につけられた非常に美しい歌曲になっていますが、あまり聴いたことのある人は多くないのかもしれません。

www.youtube.com

2 Songs - 2.Clair de Lune/Gabriel Fauré

 

もしかすると勘の良い人は気がついたかもしれません。
そう、ドビュッシーの曲も同じヴェルレーヌの詩に影響を受けて書かれたものなんですね。

 

次にあまり有名ではない例を一つあげましょう。
ドゥコーという作曲家が書いた4曲からなる「月の光」という曲集です。

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Abel Decaux



聴いてみるとわかりますが、非常に難解で現代的な響きがします。
しかしこの曲が書かれたのは1900-1907年であり、当時としては非常にモダンな内容であったことがわかります。

 

www.youtube.com

Clairs de Lune/Abel Decaux

 

このようににフランスには「月の光」と題された曲が沢山あります。
しかしその大半が忘れ去られ、全く見向きもされない状態になっていることはとてももったいない気もします。
名作同でもこういった「失われた作品」「忘れられた作品」の音源化プロジェクトが出来たらいいなと思ったりします。

 

ではそんなほぼ失われた例の一つを、フランス以外の国からご紹介します。

 

ロシアの作曲家、ニコライ・シチェルバチョフの書いた「ソリチュード」と題された3曲からなるピアノ曲の最後が「月の光」と副題が付けられています。
1853年ロシア生まれ、1922年になくなっていますから、かなりロシアの作曲家と言っても古い時代、5人組と同じ世代の人です。
まったく忘れ去られていて、この音源も有志の方のおそらく打ち込みによるものと思われます。

 

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Les solitudes - 3.Clair de Lune/Nikolai Scherbachov

 

しかしこう聴いてくると、西洋ではやはり月というのは、ただ美しいだけでなくどことなく悪魔的なニュアンスを感じさせるようにも感じます。

 

月と悪魔というのはたしかに西洋的な宗教観からみてしっくりと来るものであり、現にはっきりそのことをテーマにした曲があります。

 

その最たるものはシェーベルクの書いた月に憑かれたピエロでしょう。

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Arnold Schoenberg



シェーンベルクがアルベール・ジローの詩を元にハルトレーベンがドイツ語訳したものにつけたメロドラマであり、特に歌唱にあっては「語り歌い」とも言われる「シュピレヒシュティンメ」が多用されているのが特徴です。
なお、この曲は12音技法発見前の自由な無調音楽として書かれています。

 

www.youtube.com

Pierrot lunaire/Arnold Schoenberg

 

もう一つ少し不気味な月の姿を描いた例を紹介しましょう。
アメリカの作曲家ジョージ・クラムの書いた「4つの月の夜」という室内楽です。

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George Crumb



この曲はフェデリコ・ガルシア・ロルカの詩につけられ、アルト、アルト・フルート、バンジョー、電気増幅されたチェロと打楽器という凄まじい編成によって書かれています。

 

www.youtube.com

Night of the Four Moons/George Crumb

 

いかがだったでしょうか。
今回は様々な月の表現を聴いてみました。

 

「自分だったらこんなふうにするのにな」
と思ったりしたあなた、作曲してみましょう!


まったくピンとこなかったあなた、詩を書いてみましょう!

 

きっかけは何でもいいものなんですよ。

 

最後に日本人が書いた月の音楽を一つご紹介します。
この曲は先入観なしに、ただ聴いてみましょうか。

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三善晃

三善晃中原中也の詩につけた組曲「月夜三唱」です。

 

www.youtube.com

月夜三唱/三善晃中原中也

湯浅×新海の比較文化論 〜湯浅政明の芸術論〜 【トイドラ的映画監督批評 後編1/2】

!注! この記事は、新海誠は嫌いじゃないが「君の名は」は嫌いだ 〜新海誠の芸術論〜 の後編です。

nu-composers.hateblo.jp

 

 

 

いや〜荒れましたね前編。

正直荒れるだろうと思って書いた記事でしたが、ちゃんと荒れたので

「アッちゃんと荒れたなあ」

と思いました。

感情論レベルでの単なるdisりもあれば、僕の議論に欠けているものをビシッと指摘してくれるちゃんとした批判も意外とあって、色んな意味で面白い反響を呼べたと思います。

 

さて、今回の記事では、前回記事で僕が「嫌いだ」と一刀両断した新海誠の対抗馬として、同じくアニメ映画監督の湯浅政明氏を引き合いに出したいと思います。

僕は湯浅政明作品が好きであり、好きなだけでなく作品として価値があると思っています。

そして新海誠湯浅政明とは、色々な意味で似つつも全く対照的な表現をしていると思うので、その点にもご注目ください。

 

 

 

湯浅政明とは

ja.wikipedia.org

湯浅作品で1番有名なものは、もしかしたら劇場版クレヨンしんちゃんかも知れません。

初期の劇場版クレヨンしんちゃんは軒並み湯浅監督が手掛けています。

彼自身の初の長編映画作品は、2004年公開のマインド・ゲームです。

その後、ケモノヅメ」「四畳半神話大系といったテレビアニメも制作し、アメリカの人気アニメ「アドベンチャー・タイム」の第80話の制作を手がけます。

それをきっかけにアニメスタジオ「サイエンスSARU」を設立し、ピンポン the Animation」「夜は短し歩けよ乙女」「夜明け告げるルーの歌」「君と波にのれたら」など、今に至るまでにたくさんの作品を公開しています。

まさに今が上り調子のアニメーター、という感じですね。

 

湯浅作品との出会い

僕が彼の作品と出会ったのは、アニメ「アドベンチャー・タイム」を見ている最中でした。

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アドベンチャー・タイム

「アドベンチャータイム(通称:AT)」は、アメリカでこの前最終回が放映された人気アニメで、日本でも密かに人気が出ています。

帽子をかぶった男の子が義理の兄弟である魔法犬と一緒に核戦争後の世界を面白おかしく冒険する

というぶっ飛んだ設定なのですが、話の内容はさらにぶっ飛んでいて、深い哲学性とゾッとするほど自然な登場人物たちの感性に裏打ちされたストーリー展開は、見た目に反してとても子供向けアニメとは思えません。

ちなみに、ATは僕が人生で2番目に好きなアニメでもあります(1番は「チャーリーブラウンとスヌーピー」)。

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子供向け(大嘘)

さて、そんなATですが、第80話の前半1話を実は湯浅政明が制作しています。

しかも、この第80話というのが非常に重要で、直前の第79話でストーリーは非常に衝撃的な展開を迎えるのです。

ネタバレになるので書きませんが、視聴者置いてけぼり展開直後の大事なタイミングで、本編とは一切関係のない話が1本挿入されます。

それこそが、湯浅政明監督がゲスト参加した特別な1話、「フードチェーン(food chain)」なのです。

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話の内容は、タイトルの通り食物連鎖を題材にしています。

葉っぱを食べるイモムシやイモムシを食べる鳥について、主人公が

「うえ〜キモい」

と言ったばかりに、魔法使いのマジック・マンに魔法をかけられて食物連鎖の世界を身をもって体験させられる、というこれまたかなり衝撃の強い話で、話の最後は主人公が「The Food Chain Song」を歌って締めくくられます周りの子供たちが歌の意味を全然理解してないのがまたリアルでいい)

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この話を見て、めちゃくちゃ斬新なアニメ技法やシュールながらもどこか真に迫るようなストーリー展開に僕は心を打たれました。

しかし、この時点では僕は「湯浅政明」という名前を意識してはいませんでした。

僕にとって本当の意味で湯浅監督の名前を刻みつけられた作品は、ねこぢる草」でした。

 

ねこぢる草」は2001年に発売されたOVA作品で、ねこぢるという女性漫画家によって書かれたねこぢるシリーズを原案として作られた映画です。

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ねこぢる

誰かさんから影響を受けてねこぢる」を知った僕は、ほどなくしてこのねこぢる草」を観て感銘を受けることになります。

ねこぢる」シリーズは大変にシュールかつ狂気的で、先の記事でも榊原会員がちょっと触れてくれていますね。

nu-composers.hateblo.jp

既にアニメ化もなされていたのですが、新海誠監督によるねこぢる草」は単なるアニメ版とは全く一線を画する仕上がりで、グロテスクで異様な原作の雰囲気はしっかり再現しつつ、そこに加えて強い懐かしさ、幼少期のような不安感、くすんだ色彩感と歪んだ郷愁を感じます。

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通常のアニメ版

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湯浅版「ねこぢる草」

ねこぢる草」は、「ねこぢる」を原案としながらも、湯浅監督にしかできない表現がふんだんに散りばめられていて、間違いなく彼の作品だという気がします。

 

この作品に触れて、

「こんな斬新で心に残る表現ができる人がいるのか……」

と衝撃を受けた僕は、そこで初めて湯浅政明という名前を記憶します。

そしてしばらく経ってから、あの「アドベンチャータイム」第80話を作ったのも湯浅監督だと知り、湯浅政明作品を観なければと強く思ったのです。

 

湯浅と新海を比べる意味

さて、湯浅作品の批評に入る前に、今回の記事は「湯浅×新海比較文化論」ですから、その点について言及しておきたいと思います。

ただ湯浅作品を批評するだけではなく、ここでは新海作品と湯浅作品とを対比させて論を進めたいのです。

 

共通点

まず、新海と湯浅の間には割と共通点があります。

そこで、思いつく限りの共通点を列挙してみましょう。

 

1.アニメ映画監督である

まあこれはただの事実ですね。

二人ともアニメを中心に活動しています。

 

2.童貞性を題材にしがち

前回記事が荒れた根幹ワードと思しき「クソ陰キャオタク童貞」ですが、使い勝手がいいので今回もビシバシ使っていきます。

新海誠作品では前述の通りですが、湯浅政明作品にも割とクソ陰キャオタク童貞が主人公として出てくることがあります。

とはいえ、新海誠ほどあからさまにいつも出てくる訳ではなく、せいぜい作品の2,3割くらいに出てくる程度でしょうか。

湯浅監督は必ずしもクソ陰キャオタク童貞にフォーカスしているわけではなく、あくまでそれはメインディッシュにはならないのですが、しばしば登場人物の属性として取り入れているということは言えると思います。

 

3.恋愛を手段に表現しがち

二人の作品にはしばしば恋愛要素が出てきますが、単なる恋愛映画には留まりません

恋愛が出てくるのはもちろんとして、その恋愛の顛末そのものよりも、プロセスに生じるあれこれを使ってストーリーの中に伝えたいことを混ぜ込んでいきます。

恋愛要素をストーリーの目的ではなく、手段として使うのがこの二人の共通点だと思うのです。

 

4.まさに今上り調子

二人とも、まさに今の時代にグングン伸びてきています。

これからのアニメ業界を担う可能性のあるアニメーターだということです。

 

5.作品を通して一貫したメッセージがある

この点が重要な気がするのですが、二人とも多くの作品を残していながら中心となるメッセージ性はいつも変わらない、というのが僕の見解です。

新海誠は、前回記事の通りクソ陰キャオタク童貞の理想化された青春は美しいのだというのが一貫した態度です。

では、湯浅政明の一貫した姿勢とは何でしょうか。

先に言ってしまうと、それは思うままに生きろということなのです。

 

相違点

それでは、次は相違点について書いていきましょう。

新海誠の特徴/湯浅政明の特徴

という感じで書いていきます。

 

1.具体的/抽象的

これは作画の話であり、ストーリーの話でもあります。

新海誠の作画は、細部まで精細に描きこまれたラッセンのような風景描写が特徴で、これがファンを獲得する一要素になっていますね。

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とにかく精細

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精細……

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妥協がない

これに対し、湯浅政明の作画はやや粗く、細かい塗りこみや精細な描写はあまりありません。

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画が荒い

いや、もっと正確に言うと、実は描き込みの落差が激しいと言えるのです。

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景色はメッチャ細かいのに車内はメッチャ荒い

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背景は細かいのに人物が極度に荒い(色すらほぼない)

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中心以外情報量がほぼない

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同じ映画の中でも……

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ここまで画の細かさにギャップが

このギャップをもって、湯浅監督の作画は「抽象的」だと言っているのですが、理由は後述
とても独特な作画なのですが、この作画は湯浅政明の大きな魅力となっています。

 

また、ストーリー面での具体性/抽象性は、これも後述させてください。

 

2.内的で繊細/外的で力強い

新海作品は、登場人物の心情や人間関係といった人間の中のできごとを中心に話が進んでいきます。

「秘めた思い」とか「感情」、「未練」というのがキーワードになるのはそのせいですね。

それに対して湯浅作品では、無論「人間の中」のできごとは重要なのですが、それだけで物語が終わることはありません。

内的なできごとは必ず外部へと発信され、常にエネルギーをもって相互作用を起こします。

時には視聴者にとって何が起こっているのか分からないようなイベントすら起こりますが、これも「外部」を意識してストーリーが構成されているからだという気がします。

湯浅作品のキーワードは、だから「行動」とか「周りの人々」、「多様性」といったものです。

 

3.写実的/超現実的

余談ながら先に言っておくと、「現実的」というのは「メッチャ現実的」という意味ではありません。

最近「超」の意味を誤解してる人が多くて笑ってしまいますが、「超」は「メッチャ」ではなく「〜を超える」という意味です。

つまり、「超現実的」とは「現実味がない」という意味です。

またひとつ賢くなりましたね。

 

さて、新海作品が写実的だというのは分かりやすいと思います。

作画は実際に写実的で、現実の写真と重ねてもほぼ一致してしまうらしいですね。

無論映画なので風景は常に美化・誇張されていますが、現実の風景を切り取ったものだという意味でとても写実的です。

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文字通り写真みたい

一方、湯浅の作画は全く写実的ではありません。

ピカソか?」

と思わされるような作画崩壊はかなりしばしば登場し、地平すら歪むことがままあります。

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背景は写実的なのに人物は作画崩壊

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地面も歪む

そしてやはり、この写実性に関してもギャップが激しいのです。

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クソ写実的(ちなみに上と同じ作品の別シーン。落差……)

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全体的には写実的なのに人物がおかしい

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メチャ写実的なのに、遠近法がおかしい上に主人公らが全然写実的じゃない

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同じ人物とは思えない写実性の差

やはりここでもギャップが鍵ですね。

この特徴的な作画はとても重要な効果を発揮していると思います。

それについてもまた後述

 

湯浅作品に見る「ギャップ」の魔法(後述タイム)

「後述多すぎ!」

と突っ込まれそうなので、そろそろ後述して差し上げましょう。

新海と湯浅は、戦っているフィールドは似ていながらも表現の方向性が全然違うということが分かったでしょうか。

簡潔にまとめると、新海作品は「写真的(=具体的)、湯浅作品は「絵画的(=抽象的)と言えるかと思います。

詳しく説明していきましょう。

 

新海作品の作画は、画面が均一に細かく描き込まれています。

もちろん、動かない背景と動かさねばならないキャラとの塗り込みには多少の差があるものの(これはアニメの必然ですね)、基本的に画面全体を等しく写実的に描こうという姿勢は見られます。

だから、彼の作画はまさしく写真のようなのです。

写真は、客観的な景色をそのまま映しますからね。

ピントが合っているところだけでなく、合っていないところも同じレヴェルの精細さで描き込むのです。

 

それに対して、湯浅作品はどうでしょう。

湯浅の作画は、全く均一でもなければ写実的でもありません

新海が客観的な風景を描くのに成功している一方で、湯浅が描いているものはじゃあ何なのでしょうか。

結論から言うと、それは主観的な風景」なのです。

 

例えば、この作画を見てください。

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四畳半神話大系」より

背景は割と細かく写実的に描かれている一方、中心の女性(明石さん)はほぼ線画に色を塗った程度の状態で、しかも色すらほぼありません。

白い服と白い肌、黒い鞄、唯一色がついているものは彼女の黒髪で、西日に照らされてオレンジ色になっています。

てか西日が頭おかしいくらい強いですよね。

背景は西日のせいでほぼ飛んで、一面が金色に塗りつぶされています。

明石さんの髪の毛も何本かは太陽を反射して銀色に輝いています(白髪ではないと主張したい)。

 

こんな現実離れした風景描写で、湯浅監督は何をしたかったのでしょう。

僕の見解では、この風景は決して客観的な風景(=写真)ではなく、あくまで手前の男性から見えている主観的な風景(=絵画)なのです。

このシーンは、この男性が明石さんに心惹かれるきっかけになるシーンなのですが、周りの風景は全て金色の西日に飲み込まれ、彼女がその中心で輝いているような印象を受けますね。

しかも、周囲が色飛びしているのに対して彼女の黒髪だけは逆に色づいて見えています。

この全く非現実的な作画は、しかし彼の心を反映した景色としては実に自然なのです。

 

しかも、「明石さんの描き込みが粗くほぼ線画状態である」ということは、視聴者である我々へのメッセージでもあります。

つまり、彼女の映る風景に関して想像の余地を残しておく、ということです。

視聴者にとって、このシーンでの背景というのは比較的どうでもいい部分です。

それに対して、構図の中心となる明石さんの存在はとても大事で、だからこそ普通は細部まで描き込みたくなります

しかし、それは実はなのです。

それぞれ違う人間である視聴者たちに、一様に

「明石さんかわいいンゴ!!」

と思わせるためには、一定量の想像の余地、すなわち抽象性を残しておかねばならないのです。

この工夫により、僕たち視聴者はこのシーンで自然に主人公の男に感情移入できるようになります。

 

こうして見てみると、湯浅作品に内在する「ギャップ」というものの効果が分かってきます。

例えば、この2シーンを見てください。

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マインド・ゲーム」より

上の2シーンは、「マインド・ゲーム」という作品の同じ一幕から取ってきた2つの画で、どちらも主人公の視点から見た描き方になっています。

上のシーンは、主人公が昔から片思いしていた幼馴染がその結婚相手の男と話しているシーンで、主人公は妬みつつ僻んでいます

人物は極度に写実的・具体的(てか声優を実写取り込みしてる)ですが、背景はとても粗いですね。

また、画面に主人公が映っておらず、完全な主人公視点になっています。

一方下のシーンでは、主人公が突如現れたヤクザに撃ち殺されてしまいます

抜け出したタマシイが自らの死体を眺めながら天に吸い込まれていくシーンなのですが、「写実ゥ?(鼻ほじ)」というレヴェルでシュールです。

背景に関しては輪郭すらおぼつきませんし、地面は魚眼レンズのように歪み、そもそも全面が鮮やかすぎるに爛々と輝いています。

主人公の顔はギャグマンガのように歪み、もう何だかよく分かりませんね。

 

さて、何でここまで人物の写実性に差が出るのでしょうか。

もうお分かりの通り、やはり主人公の視点からの景色を描いていることが原因なのです。

上のシーンでは、主人公は仲良さそうな2人をまじまじと眺めています。

等身大の自然な2人を見てしみじみと妬んでいるのですが、つまりここでは主人公は2人を客観的に(蚊帳の外から)眺めているのです。

だから、画面の2人はほぼ写真状態ですね。

ちなみに、画面の大半がこの2人に占められ、かつ背景が粗いことから、主人公にはこの2人以外目に映っていないことが分かります。

そして下のシーン、このシーンで主人公は自分の殺害現場を見るというこの上なく衝撃的な体験をします。

もう説明しなくてもわかりますね。

この真っ赤な画面こそが、その時の彼に見えていた景色なのです。

 

このように、

「ここは描き込むけどここは描き込まない」

「ここは写実的にするけどここは作画を崩しちゃう」

というようなギャップを設けることで、登場人物の主観的な視点がよりくっきりとメリハリをもって伝わってくるようになります。

それによって、視聴者はとても自然な形で登場人物に感情移入できるようになるのです。

 

……一方、新海作品の描き方はどちらかというと客観的です。

描き込み方や写実性にはあまり差がなく、作中での構図の切り取り方も、神の視点から俯瞰したようなものが多いです。

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第3者視点から俯瞰してる

これによって、新海作品は「解釈をする必要」がありません。

第3者の視点からストーリーを風景として(自分の体験ではなく)追っていくので、彼の作品は必ずしも「解釈」する必要がなく、まさしく風景写真を見て「キレイだなー」と思う程度の楽しみ方が可能となります。

つまり、新海誠作品は「他人事」として楽しめるのです。

新海作品に感情移入するためには、自分自身がそもそも登場人物に似ている必要があります。

一方で、表現の「ギャップ」を効果的に使ってキャラクターの「主観」を自然に表現する湯浅作品は、自分とそもそも違う考えや価値観を持つキャラクターにも積極的に感情移入させようとしてきます

この点が、新海作品と湯浅作品とのクリエイティブさに大きな差をつけているように思えるのです。

 

後編2/2に続く(長えよ)

さあ、この辺で僕の執筆能力限界が来てしまいました

いい加減手が疲れてきたので、続きはまた後日ということにさせてください。

いやーやっぱ今回もクッソ長い記事になってしまいましたね(まあご愛嬌ということで……)

 

なお、今回も批評や反論は受け付けていますので、この時点まででご意見などありましたらビシバシ教えてください。

後編2/2執筆の参考にするかも知れません。

もう執筆しました。

 

続き→湯浅×新海の比較文化論 〜湯浅政明の芸術論〜 【トイドラ的映画監督批評 後編2/2】 - 名大作曲同好会

 

nu-composers.hateblo.jp

 

『プリンセスチュチュ』のススメ~クラシックと仲良くなるために~

はじめに

こんにちは、gyoxiです。

 

突然ですが、皆さんはクラシックはお好きでしょうか。

「勉強のお供によく聴いてるよ!」とか「寝るときに聴くと落ち着くわ~」って人もいると思いますが、「むつかしそうだなぁ」「なんか...聴けるようにはなりたいけど...聴くモチベが湧かねぇ...」なんて人も多いんじゃないか、と思います。

 

自分もそんな人間の一人で、「音楽は好きだけど、クラシックはあんまよくわかんないなぁ」といった感じでした。このアニメを見るまでは

 

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 今回は「クラシックと仲良くなる」ためのアニメとしてプリンセスチュチュを取り上げたいと思います。

プリンセスチュチュとは

プリンセスチュチュ」は2002~2003年にかけてキッズステーション等で放送されていた子供向けアニメだ。全26話で、「卵の章」「雛の章」の前・後編に分かれている。原案は伊藤郁子さんセーラームーン作画監督などを担当)、総監督は佐藤順一さんセーラームーンシリーズディレクターARIAの監督などを担当)が担当している。

 

なんだよ子供向けかよォ…」と思う人もいるかもしれないが、これがなかなか面白い。ストーリはちょっとダーク深みがあるストーリーだ。まあ、いかにも”子供向けアニメ”って感じのノリの場面があったり、第二話では主人公がアリクイとバレエでバトルしたりと、人によってはなかなか慣れない場面もあるんですけどね…それでも、独特の世界観魅力的なキャラクターとストーリーが多くの視聴者の心を掴み、今でも演奏会などのイベントが行われている。

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2018年に開催された15周年のコンサートの看板

 

肝心のあらすじだが、すいません、あの、文章力と説明力があまりにも無さ過ぎてうまく説明できそうにありませんでした...ゆるして…Wikipediaさんの力、お借りします。

金冠町という町の金冠学園バレエ科の落ちこぼれ生徒・あひるは、憧れの先輩・みゅうとと一緒にパ・ド・ドゥを踊ることが夢。人の心を持たず、いつも寂しげなみゅうとの役に立てればと願うあひるに、謎の老人・ドロッセルマイヤーが力を授け、あひるはプリンセスチュチュに変身して、みゅうとに失った心のかけらを返してあげることができるようになった。

しかし、みゅうとの親友・ふぁきあやガールフレンド・るうは、なぜかみゅうとが次第に心を取り戻してゆくことを拒否し、あひるが心のかけらを集める事を妨害しようとする。謎めいた女性・エデルはあひるに何かを教えてくれるが、あひるには難しすぎてよく分からない。やがてドロッセルマイヤーの眠っていた物語『王子と鴉』が目覚め、彼らは否応なくその物語の渦に巻き込まれてしまう。

次第に自分の真の姿に気づいていくあひるは、自分の境遇や物語の王子様だったみゅうとの幸せを思って苦悩すると共に、周りの人達の思いにも心を向けるようになる。そこに敵役・プリンセスクレールが登場して、物語の歯車は一気に回り始める。

 はい、「卵の章」のあらすじはこんな感じです。が、この最後の「物語の歯車は一気に回り始める」ってところが結構ものすごい回り方なので。「雛の章」でも後半は雰囲気がガラッと変わって、もう物語の歯車が滅茶苦茶ブン回りますので。おそらくこれを読んでいる何人かにはブッ刺さるストーリーだと思いますよ。

 

現在プリンセスチュチュは、HuludアニメストアバンダイチャンネルFODプレミアムで配信している。もし現在これらに加入している人がいたら、何かの片手間でもいいので視聴してみてはいかがでしょうか。

プリンセスチュチュの音楽について

さて、そのプリンセスチュチュの音楽についてだが、この作品ではバレエとクラシックが作品のエッセンスとなっているそれは上記のあらすじにもあるように物語の中心人物たちがバレエを習っているというところにも表れているし、クラシックの名曲がドイツ語表記で各話のサブタイトルに使われていることを見れば一目瞭然だ(例えば第一話のサブタイトルは"Der Nußknacker:Blumenwalzer"、すなわち『くるみ割り人形:花のワルツ』となっている)。

 

そしてそれはサウンドトラックの面においても例外ではない。

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こちらのページに去年発売された全曲集の収録内容が載っているのでぜひ見てほしい。CD6枚組、122曲入りの全曲集だが、入っている曲は数曲を除き全部クラシックとそのアレンジなのだ。 そう、なんとこのアニメ、クラシックの名曲がアニメのBGMとして使われており、このアニメを見れば自然とクラシック曲を摂取することができるのである!!!!!

 

クラシックに慣れ親しむのにベストな視聴方法は、現時点で流れている曲を逐一チェックしながら見る方法だ。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/4896/tutumusic.html

こちらのサイトではどの場面で何の曲が使われているかが非常に纏められていた。が、Yahoo!ジオシティーズのサービス終了に伴い閲覧できなくなってしまった。しかし、こちらのインターネットアーカイブを使用すれば閲覧可能なので、視聴の際は是非活用をオススメしたい。

web.archive.org

 

一度このアニメで自然とクラシックに慣れ親しんでしまえば、もうあとは何も怖くはない。クラシックに対する聴かず嫌いの感情は消え、自ずと興味も湧いてくるだろう(自分はそうでした)。

 プリンセスチュチュは貴方をクラシックの世界へ自然と誘ってくれるアニメなのだ。

プリンセスチュチュ劇中曲を聴いてみよう

折角なので、劇中で使われている曲を何曲か紹介したい。

チャイコフスキー - バレエ組曲くるみ割り人形」より「花のワルツ」


チャイコフスキー : バレエ組曲「くるみ割り人形」 花のワルツ

恐らく聴けば誰もが知っているあの曲

くるみ割り人形」はこのアニメでは一つのテーマ曲のようになっており、「小さな序曲」や「行進曲」のアレンジが至る場面で使われている。

「花のワルツ」は第一話のクライマックスで使われており、プリンセスチュチュが窓から落ちそうになるみゅうとを、ブワーーーーーっと花畑を出して助ける場面はまさに圧巻。また、最終話のクライマックスでも使われており、自分が「花のワルツ」を聴いて感情がブチ上がる原因となっている。

 チャイコフスキー - 幻想序曲「ロメオとジュリエット」


Tchaikovsky: Romeo & Juliet / Gergiev · London Symphony Orchestra · BBC Proms 2007

ロミオとジュリエットといえば『モンタギュー家とキュピレット家』(s〇ftbankCMのアレ)だろ、と思う人がいるかもしれないが、そちらはプロコフィエフ作曲だ。

この曲は若干演奏時間が長いが、ロミオとジュリエットのあらすじに沿った結構分かりやすいストーリー展開があり、その解説を見つつ聴くと「ああ~、このパートはこういう場面を表現してるのか~」となって意外とすんなり楽しめてしまう一曲だ。

tsvocalschool.com

特に聴いてほしいのは、ストーリー展開でいう「両家の争いのシーン」(上の動画の5:30~)や「クライマックスのシーン」(15:30~)。マジでかっこいい、ヤバい、マジで

プリンセスチュチュ本編では第8話のテーマ曲となっている。これまでと、前編のラストへ向かうこれからとで雰囲気がガラッと変わる回であり、8話のクライマックスではこの曲の「両家の争いのシーン」が使用されている。ストーリーと音楽が一体となって畳みかけてくる、緊迫した場面は必見

エリック・サティ - ジムノペディ 第一番


サティ ジムノペディ 第1番

お、落ち着く.........

この曲は『涼宮ハルヒの憂鬱』の劇場版である『涼宮ハルヒの消失』においても使われているため、ハルヒで聞いたぞ!というアニメファンもいるだろうし、そもそも結構有名な曲なのでこれこそ「入眠のお供にしてるぜ」って人がいるんじゃないでしょうか。

チュチュ本編ではプリンセスクレールのテーマとして各所で使用されている。ジムノペディは第3番まであるがそれぞれに指示が出されており、第1番には「ゆっくりと苦しみをもって(Lent et douloureux)」と指示が出ている。プリンセスクレールの妖艶さを演出しつつも、その心中や境遇を静かに暗示している一曲だ。

サン=サーンス - 組曲「動物の謝肉祭」より「水族館」


Saint Saens: Carnival of the Animals~Aquarium

なんとも幻想的で怪しげな雰囲気だ。プリンセスチュチュ本編でも各所で使用され、とても印象的に残る曲となっている。

「動物の謝肉祭」は14の曲からなっている。各曲はそれぞれ動物の名前が付けられ、その動物を描写した曲となっている。一曲一曲が短く、全曲を通して分かりやすく楽しみやすい組曲なので曲の解説を見つつ聴いてみてはいかがだろうか。

ワーグナー - オペラ「ローエングリン」より「第三幕への前奏曲


ワーグナー 歌劇《ローエングリン》第3幕への前奏曲 コンドラシン指揮MPO 

テンポも速く、とても華やかな一曲。イントロの”パパパパーン!”って部分でもうテンション上がっちゃいますよね、ハイ。

チュチュ本編では「卵の章」のラストである第13話にて、ふぁきあがプリンセスクレールと戦う場面で使用されており、この曲が場面を非常に盛り上げている。そのシーンに続く「白鳥の湖」のシーンも鳥肌モノで、いかにもクライマックス!といった感じだ。

ローエングリン」もまた白鳥が物語のカギを握る物語だ。こちらもなかなか面白いストーリなので調べてみるといいですよ。

ja.wikipedia.org

バレエについて

少しバレエについても触れておきたい。

バレエに関しても「何か難しそうやな~~~」という印象を抱いている人が多いと思うが、実は難しく考える必要はない。バレエは言葉を使わず、音楽踊り、そして「マイム」というジェスチャーを使って物語を表現している。そのため、ストーリーさえ把握しておけば誰でも楽しむことができるのだ。バレエの動画は動画サイトになんぼでも落ちているし、その気になれば県内でバレエの講演も年に何回か行われているので、この機に見てみるのはいかがだろうか。

「マイム」はプリンセスチュチュ本編でも登場するので、見る前に少し調べておくとより楽しむことができますよ。

ballet-p.com

おわりに

さて、ここまでクラッシックへのアプローチの一つとしてプリンセスチュチュを紹介してきました。もしこれがきっかけで、「クラシックを楽しめるようになったよ!」という方がいたら是非動画サイトやCDショップでクラシックをどんどん掘ってみてくださいきっと今までなら触れることのなかった、素敵な曲たちに出会うことができると思いますよ!

 

それでは、貴方の音楽ライフがこれからより充実することを願って。

 

鬼畜系漫画に触れるまで

プロローグ

高校二年生の春。

次の年に受験を控えてはいましたが、モチベーションが1ミリもなく、というより微塵も沸いてきませんでした。とはいえ、志望校もないままズルズル3年生になったところで、受験しても落ちるのは目に見えているのも事実ではありました。

 

落ちるのは困る。

 

仕方が無いので、名大祭のパンフレットを見ることにしました。面白くも何ともありませんでした。

しかし、その中に一つだけ輝いて見えた文字列があります。

そう、「特殊音楽研究会」です。

忘れるといけないので、とりあえずツイッターアカウントをフォローしました。

 

そして時が経ち高校三年生。

もれなく発狂していた私は、こんな投稿を目にします。

 

 

記号で埋め尽くされた背景、完全に目がイッてる猫という奇天烈かつ不気味なこの絵に魅了されてしまいました(一時期LINEのアイコンにしていたほど)。

 

この絵を描いたのがねこぢるです

 

ねこぢる

ねこぢる知らない人のために一応ざっくり説明しておくと、素朴なタッチでエグい描写を描く女性漫画家です。夫も漫画家です。

あまりに適当で怒られそうなので、Wikipediaのリンクも貼っておきます。


ja.wikipedia.org

 

とまあ、ねこぢるはそれなりに有名なので、アイコンについて言及されたりもしました。

先輩「それねこぢるだよね?」

僕「しらねえよ(そうですね)」

 

知らないままなのも癪なので、ねこぢるについて片っ端から調べました。決して受験勉強から逃避したわけじゃないですよ、ええ決して。

 

その過程でねこぢるにハマったりなんだりしました。


NEKOJIRU-SOU/CAT SOUP (ねこぢる草) - FULL MOVIE [ENG SUB]

 

(幻想的な描写など、湯浅政明の演出がかなり効果的で、一見の価値はあると思います。)

 

そんでもって色々調べた結果、月刊漫画ガロという雑誌、ねこぢるの夫である山野一の漫画に一旦行き着きました。

 

月刊漫画ガロ

世の中では「少年ジャ○プ」などの「友情・努力・勝利!! 売れない漫画は打ち切りな!!!!」みたいな陽キャのための漫画雑誌が蔓延っている訳ですが、「俺はこういうのもいいと思うズェ...(ニチャァ)」みたいな、クソ陰キャオタク童貞のための漫画雑誌も少なからずある訳です。その極北が月刊漫画ガロでした。

ja.wikipedia.org

 

ガロでは「面白ければなんでもOK(意訳)」という編集方針の下、商業性のカケラもないヤベー作家が世に放たれます。蛭子能収とか。

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このブログ二度目の登場のサイコ漫画家

僕はガロを二冊ほど所有しているのですが、全編通してアバンギャルド、ナンセンス、アートが渋滞しています。世界は広い。

 

ただ、そんな漫画雑誌が売れるわけがないので、原稿料はゼロです。

 

とはいえ自由を求めて連載する作家は多かったようです。

そんな作家の中に山野一もいました。

 

山野一

 

山野一ねこぢるの夫です。

彼もガロに連載をしていました。ガロが漫画界の極北ならば、山野一極北の極北でした。例によって詳しくはWikipediaを参照してくれ!

 

いやぁWikipediaは便利だなあ~!!

 


ja.wikipedia.org

 

購入、そして完全に心が壊れる

受験生だった僕は発狂していたとはいえ、そこらにいる人をボコスカに殴るわけにもいかず*1、なんらかの鬱憤のはけ口を探していました。そして受験生は金が貯まる一方です。

もうこれは買うしかない!漫画の登場人物よ、俺のために死ね!そう思い、ジュンク堂に足を運んだのです。(ジュンク堂に行けば新書なら大抵置いてあるという偏見)

 

ジュンク堂はすごい。他の書店にはなかった山野一著「四丁目の夕日」がありました。

無論即決で購入し、無事、鬼畜系漫画との邂逅を果たしたのです

 

四丁目の夕日

なんだか三丁目の夕日みたいな題名ですね。きっと下町情緒あふれるハートフルヒューマンドラマなんだろ~な~!

 

現在最も手に入りやすいのはこちらの扶桑社文庫版のもの。

 

四丁目の夕日 (扶桑社コミックス)

四丁目の夕日 (扶桑社コミックス)

 

 

帯を見ると「読むと心が傷つくように感動する。素晴らしい漫画だと思います。」という推薦文が書いてあります。

 

さ~て、どこがどのように素晴らしい漫画なのかな~?

 

主人公の別所たけしは都内の進学校に通う高校三年生。印刷業を営むやや貧しい実家で、両親や弟妹と共に平凡に暮らしていた。成績優秀・恋人持ちと、それなりに順風満帆な人生を送っていたが、喫茶店で「二人で思い出をつくりたい」と切り出した恋人の願いを無下にし、別れを告げられる。

 たけしは飛び出していった恋人を追う際に暴走族と揉め、ボコボコにされる。大企業の御曹司である友人・立花にお金の力で助けられ家に帰り着くが、そこでは母親がごみの焼却中にスプレー缶を爆発させ、全身に大けがを負っていた。

 父は費用を捻出するため、仕事量を以前の三倍に増やした。しかしある日、過労がたたってふらついた拍子に輪転機に体を巻き込まれ、全身をぐちゃぐちゃに切り刻まれ死ぬ。

葬式中にサラ金業者が取り立てにやってきて、父が経営の為に多額の借金を背負っていたことが発覚。たけしは受験を諦め、実家の印刷業を継ぐことを決意するがあっさり倒産。たけしは退学して弟妹と共にボロアパートへ引っ越し、二人を養うために鉄工所の工員として働きはじめる。

 鉄工所に入ったたけしは、職場で陰湿ないじめを受けるようになり、慣れない労働や劣悪な環境での生活もあいまって徐々に精神を追い詰められていく。立花と再会しても異様な言動が目立つなど、過去の姿は見る影もなくなっていた。

 それでも貧しいながらもまだそれなりに平穏な暮らしを送ることができていたが、弟の誕生日会に階下のキチガイジジイが乱入。たけしを残して惨殺する。たけしはついに発狂し、ジジイをはじめ近隣住人を無差別に殺害。刑務所にぶち込まれる。

数十年後、かつての恋人は平凡な主婦に、立花は社長として悠々自適な生活を送る中、たけしは清掃員として社会復帰する。さあかけがえのない第二の人生の出発だ。

https://bibi-star.jp/posts/4880 より抜粋。一部加筆修正。

 

いや素晴らしい。最高ですね。

ここまで明確な悪意を持って、かつ淡々と不幸の無間地獄を描ける人間はそうそういないと感心しました。

当時受験生だったのもあるんですが、塾でよくある「頑張ればできる」みたいな努力崇拝が本当に嫌いで、いや頑張っても無理なものは無理だろ燃やすぞ、と常々思ってたわけです。

その状況でどうあがいても不幸になる主人公家の力で大成する友人を描ききった本作を読んだので「これだよこれ!」と声を上げたいほど共感しました。

 

さて、ここで問題が生じます。

「頑張ってもどうにもならないよ」という後ろ盾を得たのは良いのですが、現実はそんな論理を適用するわけにもいきません。

規模は矮小であるものの、1984年さながらの二重思考をする羽目になり、徐々に心は蝕まれていきました。てか壊れました。

あれから1年半経過し、さすがに立ち直りはしましたが、「頑張ってもどうにもならない」というのは、ニーチェが言うところの消極的ニヒリズムなわけで、これは早急に矯正する必要があるなあと思います。消極的ニヒリズムは何も生まないので。

 

とはいえ、四丁目の夕日が私に強烈なインパクトを残したのは事実であり、これ以降蛭子能収根本敬丸尾末広などによる鬼畜系と呼ばれる作品に触れることになったのです。

 

というところで今回は終わりです。

次回は山野一の諸作品を軽くレビューしたいと思いますが、なんか他の記事(渋谷系の時代① フリッパーズ・ギター編 - 名大作曲同好会 の続き)を書かないといけない気がするので、いつになることやら......。

 

まあさっさと書けって話なんですけどね

 

 

*1:結局ボコスカに殴りました。