!注! この記事は、湯浅×新海の比較文化論 〜湯浅政明の芸術論〜 【トイドラ的映画監督批評 後編1/2】 - 名大作曲同好会 の続編です。
「メッチャ共感できる~」は価値か
さて、後編1/2で書いたように、新海誠作品と湯浅政明作品の差は、
「解釈」を必要としたうえで観客の主観を取り込むかどうか
だと言えると思います。
ところで、前の記事で僕は
湯浅作品は、自分とそもそも違う考えや価値観を持つキャラクターにも積極的に感情移入させようとしてきます。
と書きましたね。
このように書くと、
「いや、新海作品こそ『メッチャ共感できる~』って感想よく聞くんだけど?」
と言いたくなる人もいると思います。
結論から言うと、それはその通りだと思います。
新海作品はいわゆる「共感できる」系のお話が多いですね。
ただ、これも前の記事で書いた通り、
新海作品に感情移入するためには、自分自身がそもそも登場人物に似ている必要があります。
というこの部分を僕は強調しておきたいのです。
新海作品に「メッチャ共感できる~」と首をブンブン縦に振っている人は、平たく言うとクソ陰キャオタク童貞です。
新海作品はクソ陰キャオタク童貞に極めて寄り添って書かれており、彼ら彼女らの価値観を1秒ごとに肯定します。
だから、クソ陰キャオタク童貞にしてみればこれ以上"共感できる"作品はない訳です。
が、この「メッチャ共感できる」って果たして良いことなのでしょうか?
例を挙げましょう。
黒人差別が慣習となっている村があて、その村でかわいそうな黒人たちが気晴らしに映画鑑賞会を開いたとします。
その席で、もし
「横暴な白人に虐げられるかわいそうな黒人を憐れむ映画」
が上映されたとしたら、それはさぞかし
「メッチャ共感できる」
ことでしょう。
自分たちの価値観や経験に沿っていますからね。
しかしながら、もし
「白人の横暴に屈せず抵抗し続け、ついには自由を勝ち取る黒人の映画」
が上映されたとしたら?
恐らく、賛否両論が巻き起こるでしょう。
なぜなら、映画を見た黒人たちは横暴に屈してただ耐え忍ぶ生活を送っているからです。
つまり、映画の内容が自分たちの価値観や経験に沿っていません。
でも、多分いくらかの黒人たちは
「俺たちもこの映画のように立ち上がるんだ!」
と思い立つことでしょう。
つまり何が言いたいかというと、「メッチャ共感できる~」は
「世界を変えない」
ということです。
ぼくが「ただの共感」をあまり重視していないのはこのためで、「ただの共感」では既存の価値観を打ち壊すことができません。
「芸術的表現」は世界を変えるエネルギーを持ちうるものですが、既存の価値観に寄り添うだけのものはいわゆる娯楽で、表現としての価値があるものではありません(娯楽が持つのは「実用的な価値」)。
もちろん、表現行為によってもたらされる変化は必ずしも良い方向への変化だけではないでしょう。
それでも、やはり僕たちは停滞していてはいけないと感じます。
何せ僕らを取り巻く環境は日々変わり続けてますからね。
まとめ(と不穏な次回予告)
というわけで、クッソ長かった本稿もついにまとめまでやってきました。
長く苦しい戦いだった……。
一言でまとめると、
湯浅作品は観客の主観を取り込み、人の価値観を変えようとしてるから芸術的
新海作品は観客の客観を呼び起こし、人の価値観を強化してるから娯楽的
という感じでしょうか。
ただ、最後の最後に強調しておきたいのが、
物事はそう一言まとめできるほど単純じゃない
ということなんですね。
自分で言ったことをすぐ覆すなよ……。
どういうことかというと、新海誠はクリエイターの中で見ればまだ我々の価値観に挑戦を挑もうと頑張っている方という気もします。
最新作の「天気の子」、僕は見る予定ないですが、見た人の感想を探すとかなり賛否両論です。
新海ファンの口コミでは、大方
「昔のあのクソ陰キャオタク童貞丸出しのキモキモ新海が帰ってきて安心した」
という感想が見受けられるので、どうやら「君の名は」の大衆迎合路線は回避したようです。
これってつまり、「君の名は」でファンを増やしてから「天気の子」で自分の世界観を陽キャ共に見せつけるという周到なテロなのでは……????
そして逆に、湯浅監督の最新作はこれです。
いィ~~~~~~や急にどうしたの?!?、??!、??
僕の記憶が正しければ新海はこんなサワヤカな作家ではなかったはずです。
一体どうしてしまったんでしょうか。
そこはかとなく嫌な予感がしますね。
というわけで、「君と波に乗れたら」を早急に観ないといけない気がします。
金ロー早くしろよ……。*1
*1:ちゃんと借りて観ます。