!注! この記事は、新海誠は嫌いじゃないが「君の名は」は嫌いだ 〜新海誠の芸術論〜 の後編です。
いや〜荒れましたね前編。
正直荒れるだろうと思って書いた記事でしたが、ちゃんと荒れたので
「アッちゃんと荒れたなあ」
と思いました。
感情論レベルでの単なるdisりもあれば、僕の議論に欠けているものをビシッと指摘してくれるちゃんとした批判も意外とあって、色んな意味で面白い反響を呼べたと思います。
さて、今回の記事では、前回記事で僕が「嫌いだ」と一刀両断した新海誠の対抗馬として、同じくアニメ映画監督の湯浅政明氏を引き合いに出したいと思います。
僕は湯浅政明作品が好きであり、好きなだけでなく作品として価値があると思っています。
そして新海誠と湯浅政明とは、色々な意味で似つつも全く対照的な表現をしていると思うので、その点にもご注目ください。
湯浅政明とは
湯浅作品で1番有名なものは、もしかしたら劇場版クレヨンしんちゃんかも知れません。
初期の劇場版クレヨンしんちゃんは軒並み湯浅監督が手掛けています。
彼自身の初の長編映画作品は、2004年公開の「マインド・ゲーム」です。
その後、「ケモノヅメ」「四畳半神話大系」といったテレビアニメも制作し、アメリカの人気アニメ「アドベンチャー・タイム」の第80話の制作を手がけます。
それをきっかけにアニメスタジオ「サイエンスSARU」を設立し、「ピンポン the Animation」「夜は短し歩けよ乙女」「夜明け告げるルーの歌」「君と波にのれたら」など、今に至るまでにたくさんの作品を公開しています。
まさに今が上り調子のアニメーター、という感じですね。
湯浅作品との出会い
僕が彼の作品と出会ったのは、アニメ「アドベンチャー・タイム」を見ている最中でした。
「アドベンチャータイム(通称:AT)」は、アメリカでこの前最終回が放映された人気アニメで、日本でも密かに人気が出ています。
帽子をかぶった男の子が義理の兄弟である魔法犬と一緒に核戦争後の世界を面白おかしく冒険する
というぶっ飛んだ設定なのですが、話の内容はさらにぶっ飛んでいて、深い哲学性とゾッとするほど自然な登場人物たちの感性に裏打ちされたストーリー展開は、見た目に反してとても子供向けアニメとは思えません。
ちなみに、ATは僕が人生で2番目に好きなアニメでもあります(1番は「チャーリーブラウンとスヌーピー」)。
さて、そんなATですが、第80話の前半1話を実は湯浅政明が制作しています。
しかも、この第80話というのが非常に重要で、直前の第79話でストーリーは非常に衝撃的な展開を迎えるのです。
ネタバレになるので書きませんが、視聴者置いてけぼり展開直後の大事なタイミングで、本編とは一切関係のない話が1本挿入されます。
それこそが、湯浅政明監督がゲスト参加した特別な1話、「フードチェーン(food chain)」なのです。
話の内容は、タイトルの通り食物連鎖を題材にしています。
葉っぱを食べるイモムシやイモムシを食べる鳥について、主人公が
「うえ〜キモい」
と言ったばかりに、魔法使いのマジック・マンに魔法をかけられて食物連鎖の世界を身をもって体験させられる、というこれまたかなり衝撃の強い話で、話の最後は主人公が「The Food Chain Song」を歌って締めくくられます(周りの子供たちが歌の意味を全然理解してないのがまたリアルでいい)。
この話を見て、めちゃくちゃ斬新なアニメ技法やシュールながらもどこか真に迫るようなストーリー展開に僕は心を打たれました。
しかし、この時点では僕は「湯浅政明」という名前を意識してはいませんでした。
僕にとって本当の意味で湯浅監督の名前を刻みつけられた作品は、「ねこぢる草」でした。
「ねこぢる草」は2001年に発売されたOVA作品で、ねこぢるという女性漫画家によって書かれた「ねこぢる」シリーズを原案として作られた映画です。
誰かさんから影響を受けて「ねこぢる」を知った僕は、ほどなくしてこの「ねこぢる草」を観て感銘を受けることになります。
「ねこぢる」シリーズは大変にシュールかつ狂気的で、先の記事でも榊原会員がちょっと触れてくれていますね。
既にアニメ化もなされていたのですが、新海誠監督による「ねこぢる草」は単なるアニメ版とは全く一線を画する仕上がりで、グロテスクで異様な原作の雰囲気はしっかり再現しつつ、そこに加えて強い懐かしさ、幼少期のような不安感、くすんだ色彩感と歪んだ郷愁を感じます。
「ねこぢる草」は、「ねこぢる」を原案としながらも、湯浅監督にしかできない表現がふんだんに散りばめられていて、間違いなく彼の作品だという気がします。
この作品に触れて、
「こんな斬新で心に残る表現ができる人がいるのか……」
と衝撃を受けた僕は、そこで初めて湯浅政明という名前を記憶します。
そしてしばらく経ってから、あの「アドベンチャータイム」第80話を作ったのも湯浅監督だと知り、湯浅政明作品を観なければと強く思ったのです。
湯浅と新海を比べる意味
さて、湯浅作品の批評に入る前に、今回の記事は「湯浅×新海の比較文化論」ですから、その点について言及しておきたいと思います。
ただ湯浅作品を批評するだけではなく、ここでは新海作品と湯浅作品とを対比させて論を進めたいのです。
共通点
まず、新海と湯浅の間には割と共通点があります。
そこで、思いつく限りの共通点を列挙してみましょう。
1.アニメ映画監督である
まあこれはただの事実ですね。
二人ともアニメを中心に活動しています。
2.童貞性を題材にしがち
前回記事が荒れた根幹ワードと思しき「クソ陰キャオタク童貞」ですが、使い勝手がいいので今回もビシバシ使っていきます。
新海誠作品では前述の通りですが、湯浅政明作品にも割とクソ陰キャオタク童貞が主人公として出てくることがあります。
とはいえ、新海誠ほどあからさまにいつも出てくる訳ではなく、せいぜい作品の2,3割くらいに出てくる程度でしょうか。
湯浅監督は必ずしもクソ陰キャオタク童貞にフォーカスしているわけではなく、あくまでそれはメインディッシュにはならないのですが、しばしば登場人物の属性として取り入れているということは言えると思います。
3.恋愛を手段に表現しがち
二人の作品にはしばしば恋愛要素が出てきますが、単なる恋愛映画には留まりません。
恋愛が出てくるのはもちろんとして、その恋愛の顛末そのものよりも、プロセスに生じるあれこれを使ってストーリーの中に伝えたいことを混ぜ込んでいきます。
恋愛要素をストーリーの目的ではなく、手段として使うのがこの二人の共通点だと思うのです。
4.まさに今上り調子
二人とも、まさに今の時代にグングン伸びてきています。
これからのアニメ業界を担う可能性のあるアニメーターだということです。
5.作品を通して一貫したメッセージがある
この点が重要な気がするのですが、二人とも多くの作品を残していながら中心となるメッセージ性はいつも変わらない、というのが僕の見解です。
新海誠は、前回記事の通り「クソ陰キャオタク童貞の理想化された青春は美しいのだ」というのが一貫した態度です。
では、湯浅政明の一貫した姿勢とは何でしょうか。
先に言ってしまうと、それは「思うままに生きろ」ということなのです。
相違点
それでは、次は相違点について書いていきましょう。
という感じで書いていきます。
1.具体的/抽象的
これは作画の話であり、ストーリーの話でもあります。
新海誠の作画は、細部まで精細に描きこまれたラッセンのような風景描写が特徴で、これがファンを獲得する一要素になっていますね。
これに対し、湯浅政明の作画はやや粗く、細かい塗りこみや精細な描写はあまりありません。
いや、もっと正確に言うと、実は描き込みの落差が激しいと言えるのです。
このギャップをもって、湯浅監督の作画は「抽象的」だと言っているのですが、理由は後述。
とても独特な作画なのですが、この作画は湯浅政明の大きな魅力となっています。
また、ストーリー面での具体性/抽象性は、これも後述させてください。
2.内的で繊細/外的で力強い
新海作品は、登場人物の心情や人間関係といった「人間の中」のできごとを中心に話が進んでいきます。
「秘めた思い」とか「感情」、「未練」というのがキーワードになるのはそのせいですね。
それに対して湯浅作品では、無論「人間の中」のできごとは重要なのですが、それだけで物語が終わることはありません。
内的なできごとは必ず外部へと発信され、常にエネルギーをもって相互作用を起こします。
時には視聴者にとって何が起こっているのか分からないようなイベントすら起こりますが、これも「外部」を意識してストーリーが構成されているからだという気がします。
湯浅作品のキーワードは、だから「行動」とか「周りの人々」、「多様性」といったものです。
3.写実的/超現実的
余談ながら先に言っておくと、「超現実的」というのは「メッチャ現実的」という意味ではありません。
最近「超」の意味を誤解してる人が多くて笑ってしまいますが、「超」は「メッチャ」ではなく「〜を超える」という意味です。
つまり、「超現実的」とは「現実味がない」という意味です。
またひとつ賢くなりましたね。
さて、新海作品が写実的だというのは分かりやすいと思います。
作画は実際に写実的で、現実の写真と重ねてもほぼ一致してしまうらしいですね。
無論映画なので風景は常に美化・誇張されていますが、現実の風景を切り取ったものだという意味でとても写実的です。
一方、湯浅の作画は全く写実的ではありません。
「ピカソか?」
と思わされるような作画崩壊はかなりしばしば登場し、地平すら歪むことがままあります。
そしてやはり、この写実性に関してもギャップが激しいのです。
やはりここでもギャップが鍵ですね。
この特徴的な作画はとても重要な効果を発揮していると思います。
それについてもまた後述。
湯浅作品に見る「ギャップ」の魔法(後述タイム)
「後述多すぎ!」
と突っ込まれそうなので、そろそろ後述して差し上げましょう。
新海と湯浅は、戦っているフィールドは似ていながらも表現の方向性が全然違うということが分かったでしょうか。
簡潔にまとめると、新海作品は「写真的(=具体的)」、湯浅作品は「絵画的(=抽象的)」と言えるかと思います。
詳しく説明していきましょう。
新海作品の作画は、画面が均一に細かく描き込まれています。
もちろん、動かない背景と動かさねばならないキャラとの塗り込みには多少の差があるものの(これはアニメの必然ですね)、基本的に画面全体を等しく写実的に描こうという姿勢は見られます。
だから、彼の作画はまさしく写真のようなのです。
写真は、客観的な景色をそのまま映しますからね。
ピントが合っているところだけでなく、合っていないところも同じレヴェルの精細さで描き込むのです。
それに対して、湯浅作品はどうでしょう。
湯浅の作画は、全く均一でもなければ写実的でもありません。
新海が客観的な風景を描くのに成功している一方で、湯浅が描いているものはじゃあ何なのでしょうか。
結論から言うと、それは「主観的な風景」なのです。
例えば、この作画を見てください。
背景は割と細かく写実的に描かれている一方、中心の女性(明石さん)はほぼ線画に色を塗った程度の状態で、しかも色すらほぼありません。
白い服と白い肌、黒い鞄、唯一色がついているものは彼女の黒髪で、西日に照らされてオレンジ色になっています。
てか西日が頭おかしいくらい強いですよね。
背景は西日のせいでほぼ飛んで、一面が金色に塗りつぶされています。
明石さんの髪の毛も何本かは太陽を反射して銀色に輝いています(白髪ではないと主張したい)。
こんな現実離れした風景描写で、湯浅監督は何をしたかったのでしょう。
僕の見解では、この風景は決して客観的な風景(=写真)ではなく、あくまで手前の男性から見えている主観的な風景(=絵画)なのです。
このシーンは、この男性が明石さんに心惹かれるきっかけになるシーンなのですが、周りの風景は全て金色の西日に飲み込まれ、彼女がその中心で輝いているような印象を受けますね。
しかも、周囲が色飛びしているのに対して彼女の黒髪だけは逆に色づいて見えています。
この全く非現実的な作画は、しかし彼の心を反映した景色としては実に自然なのです。
しかも、「明石さんの描き込みが粗くほぼ線画状態である」ということは、視聴者である我々へのメッセージでもあります。
つまり、彼女の映る風景に関して想像の余地を残しておく、ということです。
視聴者にとって、このシーンでの背景というのは比較的どうでもいい部分です。
それに対して、構図の中心となる明石さんの存在はとても大事で、だからこそ普通は細部まで描き込みたくなります。
しかし、それは実は罠なのです。
それぞれ違う人間である視聴者たちに、一様に
「明石さんかわいいンゴ!!」
と思わせるためには、一定量の想像の余地、すなわち「抽象性」を残しておかねばならないのです。
この工夫により、僕たち視聴者はこのシーンで自然に主人公の男に感情移入できるようになります。
こうして見てみると、湯浅作品に内在する「ギャップ」というものの効果が分かってきます。
例えば、この2シーンを見てください。
上の2シーンは、「マインド・ゲーム」という作品の同じ一幕から取ってきた2つの画で、どちらも主人公の視点から見た描き方になっています。
上のシーンは、主人公が昔から片思いしていた幼馴染がその結婚相手の男と話しているシーンで、主人公は妬みつつ僻んでいます。
人物は極度に写実的・具体的(てか声優を実写取り込みしてる)ですが、背景はとても粗いですね。
また、画面に主人公が映っておらず、完全な主人公視点になっています。
一方下のシーンでは、主人公が突如現れたヤクザに撃ち殺されてしまいます。
抜け出したタマシイが自らの死体を眺めながら天に吸い込まれていくシーンなのですが、「写実ゥ?(鼻ほじ)」というレヴェルでシュールです。
背景に関しては輪郭すらおぼつきませんし、地面は魚眼レンズのように歪み、そもそも全面が鮮やかすぎる赤に爛々と輝いています。
主人公の顔はギャグマンガのように歪み、もう何だかよく分かりませんね。
さて、何でここまで人物の写実性に差が出るのでしょうか。
もうお分かりの通り、やはり主人公の視点からの景色を描いていることが原因なのです。
上のシーンでは、主人公は仲良さそうな2人をまじまじと眺めています。
等身大の自然な2人を見てしみじみと妬んでいるのですが、つまりここでは主人公は2人を客観的に(蚊帳の外から)眺めているのです。
だから、画面の2人はほぼ写真状態ですね。
ちなみに、画面の大半がこの2人に占められ、かつ背景が粗いことから、主人公にはこの2人以外目に映っていないことが分かります。
そして下のシーン、このシーンで主人公は自分の殺害現場を見るというこの上なく衝撃的な体験をします。
もう説明しなくてもわかりますね。
この真っ赤な画面こそが、その時の彼に見えていた景色なのです。
このように、
「ここは描き込むけどここは描き込まない」
「ここは写実的にするけどここは作画を崩しちゃう」
というようなギャップを設けることで、登場人物の主観的な視点がよりくっきりとメリハリをもって伝わってくるようになります。
それによって、視聴者はとても自然な形で登場人物に感情移入できるようになるのです。
……一方、新海作品の描き方はどちらかというと客観的です。
描き込み方や写実性にはあまり差がなく、作中での構図の切り取り方も、神の視点から俯瞰したようなものが多いです。
これによって、新海作品は「解釈をする必要」がありません。
第3者の視点からストーリーを風景として(自分の体験ではなく)追っていくので、彼の作品は必ずしも「解釈」する必要がなく、まさしく風景写真を見て「キレイだなー」と思う程度の楽しみ方が可能となります。
つまり、新海誠作品は「他人事」として楽しめるのです。
新海作品に感情移入するためには、自分自身がそもそも登場人物に似ている必要があります。
一方で、表現の「ギャップ」を効果的に使ってキャラクターの「主観」を自然に表現する湯浅作品は、自分とそもそも違う考えや価値観を持つキャラクターにも積極的に感情移入させようとしてきます。
この点が、新海作品と湯浅作品とのクリエイティブさに大きな差をつけているように思えるのです。
後編2/2に続く(長えよ)
さあ、この辺で僕の執筆能力に限界が来てしまいました。
いい加減手が疲れてきたので、続きはまた後日ということにさせてください。
いやーやっぱ今回もクッソ長い記事になってしまいましたね(まあご愛嬌ということで……)。
なお、今回も批評や反論は受け付けていますので、この時点まででご意見などありましたらビシバシ教えてください。
後編2/2執筆の参考にするかも知れません。
もう執筆しました。
続き→湯浅×新海の比較文化論 〜湯浅政明の芸術論〜 【トイドラ的映画監督批評 後編2/2】 - 名大作曲同好会