まず謝らねばなりませんが、僕は新海誠も嫌いです。
いきなり嘘をついてしまいました、どうかお許しください……。
しかしながら、この記事のタイトルにはちゃんと意味があります。
僕は個人的に新海誠はクソ嫌いですが、だからと言って彼をアニメ映画界から排除すべきとか、新海作品は全くの無価値だとか、新海ファンはアホンダラ野郎だとか言いたい訳ではありません。
彼のような映画監督がいても、それはアリだと思います。
話が逸れますが、最近「自分の個人的な好き嫌い」と「絶対的な善し悪し」とを混同する人が多過ぎて参ってしまいますね。
「これを見てオレは不快だ!傷ついた!」
という言い分でクレームを飛ばしてくる人に対しては、
「だから何?」
というスタンスでガン飛ばすのが正しいと僕は思ってます。
ですから、僕は確かに新海誠が嫌いですが、だからと言ってその価値観を全人類に強制するつもりはありませんし、新海誠作品にも一定の価値は認めています。
ただし「君の名は」、テメーは別だ。。。
目次
新海誠作品との出会い&批評
「君の名は」が若者たちの間で一斉にもてはやされたあの時期、僕は3本の新海誠映画を観ました。
僕は映画を見る頻度が多い訳ではありませんが、映画自体は好きで、時間がある時にたまに見ては批評なんかしています。
「君の名は」の流行り方は異様でしたし、僕もいずれ観なくてはならない、と当時から思っていました。
何より、ちゃんと観てからじゃないとちゃんとバッシングできないですからね。
流行り物を信用していない僕は、「君の名は」を批判したくて堪らなかった(悪い癖)のですが、まだ観ていなかったが故に頑張って沈黙を貫いていたのです。
そんな折、ついに某CM多過ぎほぼジブリ専門映画チャンネルにて「君の名は」が地上波初放送されるということで、家族そろってテレビの前に鎮座ましますことになりました。
ただ、「君の名は」に関してはその凄まじいブームを目の当たりにして
「本気で批評してやりてえ!」
と思っていたので、予習として昔の新海誠作品を3作観ておくことにしたのです。
僕が観たのは「言の葉の庭」「秒速五センチメートル」「星を追う子ども」の三作ですが、それぞれの感想を当時の僕の時系列に沿った心情と共に書いて行きたいと思います(特に「秒速五センチメートル」について)。
また、この三作を観ることで、僕は結果として新海誠の作風を掴むことができました。
「言の葉の庭」
少年が魅力的な女性と邂逅し、触れ合ったり靴作ったりして最後は別れを経験する話です。
出逢う場面はメチャクチャ美しく描かれ、新海誠の持ち味である「描き込まれた美しい風景描写」が出てきます。
女性はちょっと謎を秘めた感じで、少年に和歌を投げかけてきたり、ちょっと誘うような態度を取ったり、魅力的な大人の女性といった感じで描かれます。
とにかくやたらと物語が美しくエモく描かれていて、最後は少年が女性の家に上がって好意を伝え、でも子供扱いされて振られた感じになり、少年は飛び出して行って女性が堪らず追いかけて、実は両思いで……?みたいな感じになって結局はお別れします。
心情描写も丁寧だし、なかなか悪くはないと感じました。
ちょっと美化し過ぎで目がチカチカするけど。
ただ個人的には、この頃(「君の名は」以前)の新海誠の作画はとても嫌いです。
風景はまあラッセンの絵みたいに写実的で美しいんですが、それに比べて人間の作画がアニメ的過ぎて全く写実的ではありません。
人間と風景が同時に画面に収まると、正直違和感が否めない。
とは言え、僕は作画はそんなに重視しないので、「言の葉の庭」に関してはまあまあ楽しめました。
「秒速五センチメートル」
僕は三作を続けざまに観たので、「秒速五センチメートル」は「言の葉の庭」の直後に観ました。
結論から言うと、僕はこの「秒速五センチメートル」を見終わった瞬間に新海誠の作風をきちんと理解しました。
そして、絶望のあまり発狂しそうになったのです。
その理由を説明させて頂きましょう。
「秒速五センチメートル」は、三つの部からなっています。
まずは第1部「桜花抄」。
あらすじはWikipediaから引用させていただきます。
東京の小学校に通う遠野貴樹と篠原明里は精神的に似通っており、互いに「他人にはわからない特別な想い」を抱き合っていた。
クラスメイトたちのからかいを受けながらも一緒に時間を過ごすことが多かった2人だが、明里の父親の仕事の都合で小学校卒業と同時に明里は栃木へ転校してしまい、それきり会うことがなくなってしまう。
貴樹が中学に入学して半年が経過した夏のある日、栃木にいる明里から手紙が届く。
それをきっかけに文通を重ねるようになる2人。
しかし中学1年の終わりが近づいたころ(1995年)に、今度は貴樹が鹿児島へ転校することが決まった。
鹿児島と栃木では絶望的に遠い。
「もう二度と会えなくなるかもしれない……」
そう思った貴樹は、明里に会いに行く決意をする。
約束をした3月4日、関東では大雪となり、貴樹の乗った列車は途中で何度も長い時間停車する。
さらに、宇都宮線から両毛線への乗り換えの小山駅のホームで、明里に渡す手紙を風に飛ばされ紛失してしまう。
貴樹には、遅れている列車をホームで待っていたり、停まった列車の中で運行再開を待っていたりすることしかできず、時間だけが流れていった。
深夜になって、ようやく貴樹は待ち合わせの岩舟駅に到着する。
人気のない待合室で明里は待っていた。
貴樹と明里は雪の降る中、桜の木の下で唇を重ね、近くの納屋の中で寄り添って夜を明かした。
翌朝、明里は駅で「貴樹くんはきっとこの先も大丈夫だと思う」と言って貴樹を見送った。
明里も手紙を用意していたが、貴樹に手渡せなかった。
貴樹は走り去る列車の中、彼女を守れるだけの力が欲しいと強く願いながら、いつまでも窓の外の景色を見続けていた。
まず初めに僕が納得いかなかったのは、貴樹が明里とキスしたことです。
これはやってはいけない演出でした。
多分一般には、寧ろこのシーンこそ名場面とされるんだろうことは容易く想像できます。
が、ここで二人をキスさせてしまうことでメッセージ性が一気に安くなりますね。
僕の理解では、貴樹と明里の関係性は友人以上のもの、もっと言えば心で通じあっているものです。
周囲のクラスメイトは二人がいつも一緒なのをからかうわけですが、何故からかうのかと言えば二人が恋愛関係にあると思ったからです。
しかし、この二人は寧ろそれ以上の関係です。
「男と女」という関係性に関わらず、この二人の心は根底で通じ合っていました。
恋愛というのは「男と女」という性的関係性から生じるもので、欲望とか渇望といった動機づけが大きいですが、この二人は恋愛関係にあるというよりも、互いに親友とか理解者と言うべきでしょう。
だから僕は、貴樹と明里との描写を観て、
「ああ、新海誠は男女間にも深い友情や共感が存在し得ると言いたいのかな」
と思いました。
事実、彼の極めて繊細な心情描写を考えれば、男女間の友情など見事に描き切ってくれそうに思えました。
……しかし違った。
彼らは極限の状態にあって、無言で互いの唇を求め合ったのです。
てことは何だ、結局二人ともお互いに前々から好き同士だった訳でしょうか。
二人は心で通じ合っていただけではなく、実は「異性として」惹かれ合うことであんなに距離が近かったということになります。
しかもその晩、二人は無人の納屋の中で寄り添って寝ましたね。
賭けてもいいけど、絶対やる事ヤッてます。
いや、中1だから流石にそこまではないかも知れませんが、散々あれこれイチャつきまくったということだけは断定させてください。
これは正当な推論だと主張したい。
だって狭い納屋の中で二人して寄り添って寝て、目覚めるところまでちゃんと描写されてるんですよ。
この点に関しては異論がある人もいるでしょうが、僕はあくまで二人はそれなりの事に及んだと主張します。
ジブリの「もののけ姫」で、無防備に寝ているサンをアシタカが見つめるシーンがありますが、宮崎駿曰く
「描かなくても分かり切ってる!」
とのことです(何とは言わないが)。
これを論拠にする訳ではありませんが、新海誠の精緻な脚本構成を考えるとあのシーンの描写でただ寝て起きただけだというのは納得できませんね。
さて、何かだんだん僕が変態みたいになってきました。
結局何が言いたいのかというと、
「新海誠はこのシーンで何を描こうとしたんだ?」
ということです。
別に僕は、性的な交わりが汚らわしい悪だと思っているわけではありませんし、プラトニックな友情こそ至高だとも思いません。
が、貴樹と明里との「心の交流」を散々描いておきつつ結局「肉体の交流」をさせるのであれば、この二人の関係性に託された「作品としての『意味』」が失われてしまいます。
だってキスしたら普通の男女じゃないですか。
二人の繋がりが純然たる「心の交流」だった、というなら伝えたい事としてはアリですが、まあ以心伝心はしてるけど内心お互いに恋心も抱いてるよって事ならそれは普通の出来事です。
何らのメッセージ性も持ち得ません。
ただのよくあるコミュ障陰キャ男女をヤッタラメッタラ美化して描くことに何の「意味」があるのか……?
僕は疑問でしたが、この疑問はのちのち解消されることになります。
第2部の「コスモナウト」に話を移しましょう。
同じくあらすじは引用です。
1999年、 種子島の高校3年生・澄田花苗は、中学2年の春に東京から転校してきたクラスメイトの貴樹に恋をしていたが、その想いを伝えられずにいた。
しかも、卒業を間近に控えながら自身の進路も決められず、趣味のサーフィンでも波の上に立つことができないというスランプに陥っていた。
しかし、一つずつできることからやると決めてサーフィンに挑み、ついに波の上に立つことができた。
今を逃せば二度と気持ちを打ち明けられないと思った花苗は、秘めていた自身の想いを貴樹に告げようと決心する。
しかし、想いを告げようとした瞬間、貴樹から無言の圧力を感じた花苗は告白することができず、貴樹のやさしさを悲しく思いながら帰り道に泣き出してしまう。
そしてその時、2人の後ろで打ち上がったロケットを見た花苗は、貴樹が自分のことなど見ておらず、ずっと遠くにあるものを見つめているのをはっきりと悟るのだった。
結局その日の帰り道、花苗は何も言えずに告白を諦めてしまう。
そして彼女は貴樹への想いが一生報われなくても、それでもなお彼のことがどうしようもなく好きだという想いを胸に、泣きながら眠った。
第2部では時が進み、彼らは高校三年生になります。
話を要約すると、明里を忘れられない貴樹と貴樹に想いを伝えられない花苗がこの部では描かれていますね。
注目したいのは、花苗が貴樹を思う構図が第1部で貴樹が明里を想っていた構図と同じだということです。
貴樹は明里と(キスはしたものの)結ばれていませんし、想いも伝えず手紙も渡さずに最後の別れをしてしまいました。
こう言うと、
「いや、二人はキスしてるし両想いだったんだから結ばれてるっしょ?」
と思う人もいるかも知れませんが、多分そう思う人は陽キャかウェイかリア充でしょうね。
貴樹にとって、あの日のキスというのは二人の情熱が最高潮に高まった結果の祝福ではありませんでした。
お互いに極限の状態に置かれて、やっとの思いで死ぬほど想った人に出会えた、その奇跡に目眩して起きてしまった事故です。
つまり、平たく言えば「今まで我慢してたのが出ちゃった」感じでしょう。
大変繊細な感性を持つ貴樹にとって、その出来事を純粋にハッピーな出来事として記憶しておける訳がありません。
確かに夢のように甘い記憶ではあるでしょうが、それはあくまで現実味のない甘い夢であり、お互いに想いを直截に伝えないまま別れてしまったことで彼の心は全く満たされていません。
ここ重要。
貴樹は明里への想いを体ではなく心で満たしたかったのです。
でもそれは叶わず、結果として貴樹は5年も明里のことを引きずり続ける未練モンスターと化しました。
そして、花苗はその貴樹の雰囲気を漠然と感じ取り、自分の想いを結局は伝えられずに終わってしまいます。
しかも、「自分はこの先一生この恋を引きずるだろう」と予言するわけですね。
この予言はこの後、貴樹に対して見事に的中します。
彼は一生明里の影を追い続けることになるのです。
つまり第2部では何が起きているかというと、花苗を使って貴樹の明里への未練が再演されていることになります。
花苗は過去の貴樹を暗喩しているのです。
余談ですが、花苗はなぜ貴樹に恋をしてしまったのでしょうか。
理由は明らかですね。
貴樹に自分と同じ闇を感じたからです。
とても優しくセンシティブだが、いつもどこか遠いところを見つめている。
その遠いところとは、貴樹にとっては明里であり、花苗にとっては貴樹なのでした。
そして、ついに映画は終わりを迎えます。
最後の第3部「秒速五センチメートル」です。
東京で社会人となった貴樹は高みを目指そうともがいていたが、それが何の衝動に駆られてなのかはわからなかった。
ただひたすら仕事に追われる日々。
3年間付き合っていた女性からは「1000回メールしても、心は1センチくらいしか近づけなかった」と言われ、自身の心が彼女に向いていないことを見透かされてしまう。
貴樹も自分自身の葛藤から、若き迷いへと落ちてゆき会社を辞める。
貴樹の心はあの中学生の雪の夜以来ずっと、自身にとって唯一の女性を追い掛け続けていたのだった。
春のある日、貴樹はふと桜を見に外に出かける。
小学生時代に毎日通っていた場所だ。
踏切に差し掛かかると前方から一人の女性が歩いてくる。
踏切内ですれ違う瞬間、2人は何かを感じ取る。
踏切を渡り立ち止まり、貴樹と彼女がゆっくりと振り返った瞬間、小田急線の急行列車が2人の視界をふさいだ。
列車が通り過ぎると、そこに彼女の姿はなかった。
貴樹は大人になりますが、遂に明里のことを忘れることが出来ません。
ここまで来ると大したタマですね。
貴樹は煩悶し、未だに在りし日の明里の幽霊を追いかけ続け、日常生活に支障すらきたし始めます。
最後の場面は象徴的でエモいですよね。
もしかしたら踏切の向こうに明里が居るかもしれない、とあるはずもない奇跡を期待して……でもやはり奇跡は起きない。
多分貴樹は一生このままでしょう。
そしてエモい主題歌が流れ、エモいカットシーンが流れ、映画はエモエモなまま終わっていきます。
えっこれで終わり???
そうですこれで終わりです。
当時の僕は、ただただエモい映像を垂れ流し続ける画面を前に呆然としました。
いや何も終わった気がしねえんだが。
それでもエンディングテーマは鳴り止みません。
"いつでも捜しているよ……
どっかに君の姿を……" *1
いやエッモ、てか甘っ甘ったるこの歌と戸惑いながら、遂に僕は悟りました。
これが新海誠の意図か……!
新海誠の作風
誤解を恐れずにストレートに言うと、新海誠作品の意図はズバリ、
クソ陰キャオタク童貞の妄想を美化し正当化すること
です。
さあ、激しく抗議の野次が聞こえてきましたね!!
頼むから落ち着いてください。
ここからちゃんと説明していきます、てか説明させてください……。
まず、ここから先「陰キャ」「コミュ障」「オタク」「童貞」といったワードが飛び交いまくると思いますが、これらは全て悪口ではありません。
どれもニュアンスを上手く伝えるために若者言葉やスラングをそのまま使っているだけなので、どうか仲良くいきましょう。
一応定義しとくと、
陰キャ=引っ込み思案で内向的で自己肯定感が低めな人。
コミュ障=外向的なコミュニケーションが上手くない人。
オタク=特定のものに対して理想化した信念を抱き、それを崇拝する人。
童貞=女性経験がないせいで、女性に関して体験と結びついた正しい知識がない人。
という感じですね。
さて、まずは僕が「秒速五センチメートル」を観て、全く終わった気がしないと感じた理由から説明しなければいけません。
前述の通り「秒速五センチメートル」は3部構成であり、あらすじは上の通りでした。
この話を要約すると、
「自分にとって理想的だった異性を忘れられずに生きて行くのって辛いけど美しいよね」
という感じになります。
ここで一つの疑問が湧いてきます。
だっだから何!??!!
この映画には主張がありません。
映画を通して描かれるのは、とにかくセンシティブでナヨナヨしていて陰キャコミュ障極まりない主人公が、好きな女の子をこれでもかと理想化し、有り得ないくらい長い間それを引きずり続けて生きていく様子です。
そして重要なのが、それらの全てがやたらと美しく、エモーショナルに描かれるということです。
繰り返して言いますが、この映画には主張がありません。
確かに題材に関してはとても共感できます。
過去の理想化された何かを追い続けてしまうことは、多かれ少なかれ誰にでもあるでしょう。
しかし、それを正当化する真っ当な理由はどこにもありません。
過去の理想を追うことは決して美しいことではありませんし、そんな童貞的な理想は現実には果たされません。
でも新海誠はこの映画を、美麗に描き込まれた作画とエモいセリフ、エモい演出とエモい主題歌、とにかくエッモエモな諸物で満たして完成させたのです。
これでは、既存のもの(=理想を引きずること)を無批判に肯定してはいても、芸術的に新たなメッセージ性を主張していることにはなりません。
芸術は、作品のメッセージを相手に伝え納得させるためにあの手この手を尽くしますが、「秒速五センチメートル」がやったのはただクソ陰キャオタク童貞が共感しまくれるストーリーを用意して、それを万人受けする美しさで埋め尽くしただけ。
ストーリー展開には痛いほど共感できますが、その共感が頂点に達したところで突然物語が終わってしまいます。
僕としては、そこからついに主張が始まる、と思ったのに拍子抜けしてしまったという訳です。
ここから何が言えるかと言うと、
新海誠の作品で最も大事なのは「共感」
だということです。
作品を観ることで鑑賞者に作用しようとするものが芸術だとするなら、新海誠作品は鑑賞者に寄り添いこそすれ何らの作用を及ぼしません。
つまり、観る前と後とで、見た人の価値観は何も変わりません。
観て楽しめるけれども自分に特に変化を及ぼさない映画を何と呼ぶか、賢明な皆さんなら勘づいていますよね?
そうです、娯楽映画です。
そして、僕が気づいた以上のことは、何も「秒速五センチメートル」に限った話ではありません。
多分新海誠作品全てに共通した特徴だと思います。
「秒速五センチメートル」を見終わってからふと思ったのですが、ストーリー展開があまりにも「言の葉の庭」とカブってますよね。
主役の少年が居て、「理想」という文字がそのまま歩いてるみたいな女キャラがいて、両思いっぽいんだけど結局結ばれなくて、少年はその思い出を引きずりながら余生を生きる。
細かい展開こそ違いますが、大筋は正直手抜きに思えるくらい全く同じです。
つまり、これが新海誠の語法なのだと思います。
「過去の理想を引きずる少年を美しく描く」
これが新海誠の作風であり、一貫して描かれる新海誠の信念みたいなものなのでしょう。
恐らくは、彼自身がそういうセンシティブな感性で生きているのでしょうね。
さて、「秒速五センチメートル」を見終わってやり場のない怒りに打ち震えた僕は、続けて3作目「星を追う子ども」を見始めました。
正直内容をよく覚えてませんが、冒頭部分を見た段階で
「あ、これも同じ展開とオチだ」
いう直感に至ったので、自分を拷問にかけるのは止めて早々に視聴を断念しました。
「陰キャの娯楽」という魅力と価値
ここまでで、僕は新海誠作品をボロッカスに批判してきました。
しかし、あくまで忘れないで欲しいのが、以上の話は僕にとって新海誠作品が「個人的に嫌い」である理由を説明したに過ぎない、ということ。
もう少し分かりやすく書いていきましょう。
僕はここまでの内容で、いかに新海誠作品が芸術作品として無価値かということを力説してきました。
しかし、これは逆に言うこともできます。
つまり、新海誠作品は娯楽作品としては非常に高い価値を持っているということです。
彼の売りは、写実的に描き込まれた作画描写と、極めてドラマティックで感情的な台詞や展開、カットシーンだと思いますが、このクソエモパラダイス祭りを真似できる人は他にまずいないでしょうね。
要するに、深いこと考えなければ絶対楽しめるし、それはそれでアリだってことです。
そもそも、僕の文章を見てくれれば分かると思いますが、僕はあらゆる物事に対して意味やメカニズムを深く考えてしまう癖があります。
これは良くも悪くもあって、この癖があるからこそ僕は作曲家としてやって行けるのだと思いますが、一方で俗な物を無批判に楽しむことが出来ません。
僕の批評は、「特定のストーリー展開には特定の文学的意味があって然るべきだ」「芸術は善だ」という前提の元に進められていますが、これはあくまで僕の感覚であって、
「別に楽しければ何でも良くね?」
と言われたら僕はもはや反論できません。
「君がそれでいいなら良いんじゃない?」
としか言えなくなってしまうのです。
何が言いたいかというと、僕は別に新海誠作品そのものを全世界から糾弾したい訳ではありません。
「新海誠作品はクソ陰キャオタク童貞の妄想に過ぎない」という考えを取り下げるつもりはありませんが、
「確かに新海誠作品はクソ陰キャオタク童貞の妄想娯楽映画だが、俺はただこれを観てエモみを接種したいんだ!」
という意気込みで新海誠作品を観る人には何も言いません。
むしろ、
「君は分かってるね!
クソ陰キャオタク童貞として精進したまえ!」
と背中を押すところです。
さあ、ここまでは実は長い長い前置きなのでした。
ここからついに「君の名は」の批評に移っていきますが、これまでの批評と違って僕は「君の名は」だけはちゃんと糾弾したいと思っています。
つまり、個人的な理由ではなく、普遍的に適用できる大きな価値観から「君の名は」を批判したい、ということです。
何かまた凄まじい怒号が飛んできそうですが、ちゃんと説明するので勘弁してください……。
続きからいよいよ本編の始まりです!(長過ぎるわボケ)
*1:「実際には、この歌が終わった後で踏切のラストシーンに移るので、この時点で既に歌は流れていないはず」とのご指摘をいただきました。
観たのが昔なもので、曖昧な記憶を頼りに記事を書いており、実際の映画と多少食い違っていたかもしれません。
大変申し訳ない……。