名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

新井素子著「・・・・・絶句」に見る、ライトノベルの源流

新井素子という小説家を知っていますか。

高校生にしてSF作家デビューという所謂天才で、デビュー時にはあまりに特徴的すぎる文体のせいで、賞の審査員からブーイングを食らったものの、唯一べた褒めした星新一がごり押ししたおかげで受賞したというエピソードは僕の中であまりにも有名です。SF界でもそれなりに有名だと思います。「チグリスとユーフラテス」という作品は、星雲賞というSF界の名誉ある賞を受賞したので、これを知っている人はいるかもしれません。

 

 

で、その新井素子、「ライトノベルの元祖」と呼ばれているんですよ。新井素子がデビューしたのは1977年。古い。 多くの若人がライトノベルと聞いて想像するのは、電撃文庫ファミ通文庫などや、最近だとなろう小説とかだろうと思います(あんま読んでないから推測です)が、どこがどう「ライトノベルの元祖」なのでしょう? 現在のライトノベルとの共通点があるのでしょうか?

 

今回はそんな新井素子の初期作品・・・・・絶句」(1983年)から、新井素子諸作品とライトノベルの共通項を探っていこうと思います。「絶句」から探る理由は最近読んだから。それでは始めます。

 

……絶句(上)

……絶句(上)

 
…絶句〈下〉 (ハヤカワ文庫JA)

…絶句〈下〉 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

そのまえに

ライトノベルとはなにか?

これかなり基準が曖昧なんですよね。現在のライトノベルというと「なんか萌え萌えキュンなイラストが多めの本で、主人公がオタクの願望を叶えていく」というイメージが強い*1ですが、当然ながら元からそれが主流だったわけではないです。

んじゃどーしてこーなったのか? この説明がややこしくて面倒くさいのでクソ端折りますが、よーするに

  • 絵はロリコンブームの火付け役である漫画家・吾妻ひでおなどが描いていたりしたので、別に昔からこんなかんじ。ただ、当時それらと共存していた油絵・水彩画家が、現在では淘汰され漫画絵・アニメ絵に画一化されてしまった。
  • かつてヤングアダルト小説といわれていた中高生向けの小説群に、アニメや映画のノベライズ版が出たり、その逆もあったりして、小説的な表現から漫画的表現に移行していった。

という感じです。それに加えて現在は、一般作品のライトノベル化、ライトノベルの一般作品化など、文芸中でクロスオーバーしまくってるので訳がわかりませんことよ、おほほほ。となっているわけです。だから源流にまで遡り、ライトノベルの原型を見ることが、ライトノベル全体の理解に繋がったり繋がらなかったりするわけですね~。つながれ~。

 

気を取り直して

話を本筋に戻します。

まずは「・・・・・絶句」のあらすじを簡単に説明していきましょう。

 

第一部

新井素子(大学二年生)が小説「絶句」を書いていると、なんか変な声が聞こえたかと思いきや、サイキックスな小説の登場人物達=“絶句”連が現れる。なんやかんやで現実世界に適応した“絶句”連は、動物革命を標榜、動物を人類から解放しようと暗躍する。

その間に新井素子は家が燃えて家族全員死んだり、さらわれたり、死んだりする。

主人公が死んだので作中人物全員会議が始まり、作者の新井素子が、キャラクターの新井素子と会話する(←???)など、しばしシュールな光景。

 

第二部

動物革命が実行される。なんかストーリーに全然絡んでこなかった“絶句”連が二人ほど文字通り消失する。宇宙人と対決し、突然のデウス・エクス・マキナァァァァァァァァァァァ!!!!!!!

あれ動物革命は??!?!?終わり??!????

 

 

 

~END~

 

......メタ過ぎません? 作中人物全員会議が始まったときは我が目を疑いました。超ご都合主義展開のオンパレードであり、ストーリーにいらない人物は主要人物であろうと消され、途中で出てきた刑事は、何か絡んでくるのかな~と思いきやただの遠巻きで終わる。あまりにも雑すぎる!!?雑すぎるくない!?

でもキャラクターの動きが非常に生き生きとしてるのを見ると、何もかも許してしまおう、そんな気持ちにさせてくれる不思議な小説でした。幕引きもなかなか寂しげで良いんです、これが。

 

では、読んでみて現在のライトノベルっぽいな思ったことを書き出してみます。

 

  • 前評判通りの文体
  • セカイ系
  • 展開が無茶苦茶

 

では順に見ていきましょう。

 

前評判通りの文体

新井素子――文体がとっても特徴的。

大体、こんな風に、句点が多いし、主語の後ろの助詞、取っちゃう。*2――それに、「――(ダッシュ)」も多いし、よく使うの、倒置法を。ほかにも体言止めをよく使うから、あっと驚いた私。

 

......みたいな? これ書いてて思ったんですけど、この文体で文章作るの滅茶苦茶難しいです。そりゃ星新一も激賞するわけですね。*3

この非常に特徴的な文章は一人称視点の文章だと、非常に生き生きとした印象を感じます。実際、初期新井作品は、台詞の間がこの文体かつ一人称視点で描かれていることが非常に多いです。

いわゆるライトノベルと呼ばれる現在の諸作品も割と特徴的な一人称視点の口語で行間埋めまくってる作品が多いような気がします。「涼宮ハルヒの憂鬱」とか。あまり三人称視点で客観的に書くような作品は見た記憶が無いです。

これは一人称で書きまくるのが単純に書きやすくて感情移入させやすいからでしょうね。基本的に自分の主観まみれでキャラクターを動かせるのでこれを使わない手はないでしょう。ただ、それで終わってオタク無双してるだけの作品が多すぎるような気がしますが。

 

あとラノベ関係ないですが、Twitterにいるオタクって主語の後ろの助詞抜いたツイートしがちですよね。

 「うっわなんだこいつの文章キッモ......。」と言われたら「あ、これ新井素子文体模写なんで。ニチャァ」と言えば尊敬の眼差しで見られるかもしれない世の中がよかったですね~残念。

 

セカイ系

 「・・・・・絶句」は小説から飛び出た人間と新井素子が世界の根幹を揺るがす大事件を引き起こしてしまうわけですが、これってつまりセカイ系に限りなく近い話ですよね。

セカイ系とは「『僕』と『君』の関係性が、なんか知らんが世界の存亡に関わる」とかなんとかいう作品群の総称で、エヴァンゲリオンを筆頭とした90-00年代のサブカルに多く見られたもの(なのでこれと時を同じくして興隆したラノベも当然セカイ系作品が多め)です。わからない人はエヴァンゲリオンのことだと思えば8割型合ってます。

で、そのセカイ系作品が90年代にはんえいし、「絶句」が1983年に発表されたことを考えると、新井素子の先見の明には驚かされるばかりです。

セカイ系作品のもう一つの特徴である、「やけに小難しい哲学チックな話」もクソ薄っぺらいながら、ちゃんと描かれてるので、もうこれセカイ系ぢゃん......、もとこっょぃ。

 

展開が無茶苦茶

小説のテイをなすためにも、ある程度ちゃんと筋の通ったストーリー展開をして欲しいものです。しかしこの「絶句」、そうはいきません。突然のデウス・エクス・マキナまでは

 

素子ピンチ

素子覚醒

素子TUEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE

 

という†黄金の図式†で物語が進行していきます。お前、なろう系の主人公か? 

とまあこんな感じにある日突然無敵になった主人公が無双していくの、なろうっぽさを感じます。とはいえ、この無敵モノは特撮とか時代劇とか、そこら辺にもルーツを持ってる気はしますが、それ言い出したらキリがないわな。今は小説の話をしているのだ。

 

おわりに

とりあえず新井素子と現代ライトノベルとの共通項は、既に述べたとおりです。少なくとも「・・・・・絶句」を読んでわかるのは。

......と、言いつつですね、ライトノベル、思った以上に小説以外のサブカルチャーの影響を受けていて、新井素子要素を探そうにも結構変質してて共通項探すがかなり大変でした。まあ小説としての源流は新井作品にあるのは間違いなさそうです。おわり。

 

 

*1:僕もラノベ所有してる(バカテスなど)ので殴らないでください

*2:本来ならば、「主語の後ろの助詞『を』取っちゃう」とすべき。

*3:星新一は簡素な文章で小説を書くが、「誰でもかける文章」という批判が多かった。当然、誰もかけなかった。星新一は、かつての自身の境遇を新井素子に重ねたのかもしれない、そう考えると面白いですね。

授産と音楽教育 - 在野で戦うということ

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レッスン風景

 音楽というものは、あるいは芸術というものは一般専門的な訓練を要し、一生を捧げた道でその人なりのスタイルを確立し、表現し続けるものであり、それは英才教育に始まる門閥教育の賜物である。

 

くだらない話である。

 

 芸術というものはそもそも志したものすべてが自由な表現を行うことができるもので、それを「利益誘導」「社会的ステイタス」のために、学閥や門閥などという狭苦しく汚らしい小部屋に押し込めたに過ぎないのである。

 

とはいえ、何でも自発に任される自由なものかというとそうではない。

世の中に言う、センスと理論の二分論がこのあたりに出てくるのである。

私のこれまでの経験から言えば、この二分論はどちらも致命的に誤りである。

 

どうしてそう言えるか。

 

 それはそのそれぞれを強く標榜する音楽家にあって、それぞれの見地からの楽曲をじっくり聞いた経験があるからだ。

まあ児戯にも劣るどうしようもない音の羅列に過ぎなかった。

 

なぜ、そうなるか。

 

センスを標榜するものは、とかく音楽は自由であるという。
そしてそれは理論の統制を受けることを原理的に受け付けないはずだと。

 

この説、実に簡単に反証できる。

音楽理論というのは、実のところ体系づいているようで、そうとも言い切れない曖昧なものでもある。
そしてそのせいで内容は難解な部分が多々あり、独習者には向かないという側面がある。

 

そこに人に習うことに2つの抵抗を持った者が現れたらどうか。

1.コミュ障でまず他人との関係構築に非常に強いストレスがある
2.プライドが高く、他人の教えを乞うのは恥ずかしい

 

 そうすると、内的な音楽を作りたい衝動と、それらのバランスを図るべく心理が動き、習うことからは逃避して、不出来なものを褒めてもらいたいという幼い心理が
他者への批判の形で表に現れてくる。
その最たる敵は「理論」そのものとなるのだ。

しかしそれではすぐに見抜かれ論破されてしまうので、まずは同じ考えで売れたミュージシャンの名前を用いて補強する。
次にはセンスにおけるロジック建てをし始めるのだ。

 

今まで耳にしたお粗末極まりないロジックにこんな物があった。

1.私がアートそのものなのだから、私が感じたとおりに作るればすなわちそれがアートだ。
2.センスが脳から筋肉を伝って音になる。つまりセンスがすべてを支配していることに疑いようがない。

 

見事な逃避、見事な自己防衛。
そして美しいまでのズレっぷりはネタの領域に達しているのではないだろうか。


 なるほど、センスだけではどうにもならない事はわかる。では理論に偏るものはどうしてだめか。

こちらも簡単。要はマニュアル人間と同じ理屈で、手引や手本がないと音楽が書けなくなるのだ。

理論というのは、過去の多く人の研究とセンスをまとめた定跡書なのであって、
そのとおりにやって音楽ができるというものではない。

理論に拘泥するものは、要は表現者としての根幹をなす「表現」自体に自信がないので、他人の威光の結集であるところの理論をすべてと崇拝して、それを絶対の指標とし振りかざすだけの人になるのだ。


両者のバランスは、お互いがお互いを深く理解して共存し、
すべてが表現の下に整然と並べられることが望ましいのだが、
どうやら多くに人はこの最序盤で失敗してしまうのだ。

 


この二分論は何もアマチュアのつまらん水掛け論だけで起こっているわけではない。

 

プロの世界ではこれらの共存は当たり前の常識のはずだが、形を変えて、アカデミズム、反アカデミズムという形で表出してきてしまう。

この名作同、私はたしかに専門的な訓練を受けて来たかもしれないが、会自体は在野の集団である。

 

では在野の集団は専門的な音楽をやってはいけないのか?

 

話は頭に戻る。

そんなことはあるわけもない。

 

私はこれまで音大進学組、プロの音楽家、アマチュア、全くの素人と沢山の人間を指導してきた。
そして特に自分の指導は、在野の音楽家教育を特色にしていると思っている。

つまらない門閥、学閥のしがらみを脱し、自らの学びたい欲のまま多くの人と交わり、様々に音楽を吸収、研究できるという言う意味では、狭い組織に押し込められるよりはるかに理にかなった音楽教育が実践できると本気で思っているのだ。

無論そのためには先端的な音楽の研究を教師自身が絶やしてはならないなど、専門機関の存在なしには具現化出来ない側面があるのは事実である。

しかし専門機関の研究を、在野から学ぶことも何ら問題があるとは思わない。

 

それに、英才教育組の実情というのも、日本においてはそれほど美しく、かつ専門的ですら無いのも知っている。


良い例がクラシックの教師にありがちなことだが、弟子がちょっと変わった曲、あるいはPOPSなどを演奏しようものなら烈火のごとく怒り出す先生の存在だ。


ベートヴェンや、バッハ、モーツァルトだけが音楽なのだろうか?

生徒が自分の深めたい研究をしてなにか悪いことはあるのだろうか?

そもそも師とはどんなものが来ても、たちどころにそれを理解し、咀嚼し、稽古をつけられる存在ではないのか?

 

疑問と怒りは尽きないのである。

 

特に私が我慢ならないのが「生徒の将来」という部分においての、音楽教育のあまりの無意味である。

 

たしかに伝統の護持、伝統の探求は必要である。

 

しかしそれと「生活をする」というのは共存の中になくてはいけないはずだ。

 

 高い金を出して音楽大学に進学しても、結局食い詰めて楽器をやめてしまう背景には、才能の不足、技術の不足よりも、こうしたアンチ授産の考えがあるからと言う方が大きな割合を締めてるのではないだろうか。

すなわち、音楽大学授産施設ではなく、芸術家の養成機関であるという態度だ。

だからイロモノと言っては失礼だが、変わった曲すら扱おうとしない「差別主義者」
芸術家の顔をしてしたり顔で権力に居座ることができる場所になってしまうのである。

 

食い詰めた人はもっと師匠を、学校を恨めば良い。
そしてたまには裁判でも起こればいいのだ。

 

師匠は高い金を奪うだけで、その金銭に見合う内容のレッスンをしているのか?
レッスン内容の評価が外部からなされない機構である以上、その価値を証明することは困難であり、
生徒自身がシビアにそれを見つめる以外にないと言えるのではないか。

そして師匠はその金銭と引き換えに、弟子に足してどれだけの責任をとっているのか?

私が最も疑問に思うのはそこである。

専門機関、専門職として技術を伝承するだけでなく、仕事をしていくものとして、仕事の仕方を教える必要を感じないのだろうか。

もっともそんな事考えたこともなく「オトナ」になってしまったゴミが大半なのだろうから、考える能力のある先生はすでに実践しておられることだろうが。


私は個人的にどちらの世界も見てくることが出来た。

 

門閥、学閥の良さも悪さも知っているし、
専門機関と在野のそれぞれの長所短所も知っている。

だからこそ、いまここに師の責任を問いたいのだ。
そして、作る側の一音の責任をもまた同時に問いたいのだ。


こうやってアマチュアの世界、プロの世界をよくある二分論から眺めてみると、
音楽はその魅力、その深淵とはかけ離れた、実にお粗末極まりない「業」によって蝕まれてしまっている事がよく分かる。

 

あなたが、音楽を志すなら、何を選びますか?

トリップへようこそ~サイケデリックトランスの世界《前編》

はじめに

こんにちは、gyoxiです。

 さて、今回はサイケデリックトランスについてのお話になります。

nu-composers.hateblo.jp

過去の榊原さんの記事でもちらっと取り上げられていたのを覚えていらっしゃる方がいるかもしれませんね。

 

で、私、高校時代

 

「はあ...いろいろと辛い......せめて合法でトリップできたなら......そうだ!脳内で快楽物質作り出せるようになったら良いんじゃないか!!

 

というのがきっかけでサイケデリックトランスを聴くようになり(結局作り出せるようにはなれませんでした)、一時は音楽プレイヤー内のデータがフリーDLのサイケで埋まる、という高校時代がありました。

 

...で、音楽雑食人間と化した今ではあんまり聴かなかったりする訳ですが、曲がりなりにもサイケデリックトランスが好きだった自分、この魅力を是非伝えたい、ということでサイケデリックトランスに関して独断・偏見を織り交ぜつつ語っていきたいと思います。

そもそもどういうジャンルなんじゃい?

はい、いつもの如くwikipediaさんの出番です

サイケデリックトランス: psychedelic trance)は、ゴアトランスから派生したよりサイケ色が強まった140BPM前後のビートのトランス1990年代初頭からこのジャンルに属する音楽が出始めた。イギリスイスラエルゴアブラジル、そして日本で盛んな音楽である。サイケデリックトランスミュージックは、「フルオン」、「ミニマル」、「ダーク」および「ダークフルオン」、「プログレッシヴ」、「モーニング」、「アンビエント(サイビエント)」などに分類される。

はい、引用おわり。過去のブログ記事でも書かれていたように、Tranceのサブジャンル内でもことさらキマッてるジャンルですね。まあそもそも、Tranceというジャンルが、

そのリズムやメロディは、さも脳内の感覚が幻覚催眠を催す「トランス状態」に誘うかの様な様式からトランスと呼ばれている。

Wikipediaで説明されているように、ドラッグ・カルチャーと近しいジャンルな訳でありますが、そのTranceがヒッピーの聖地であったゴアに持ち込まれて独自発展を遂げ、そこからさらに発展と進化を繰り広げたものがサイケデリックトランスという分野になります。で、その発展がとにかく多色で面白いんですが、まあ、細かなサブジャンルに関しては後々。とりあえず「キマッてる音楽なんだな」と覚えておいていただければと思います。

どうやって楽しむものなんじゃい?

 ま、長々と説明してもアレなのでとりあえず一曲聴いてみましょうか。


X-Dream - Children Of The Last Generation

「いやいや、こんな音楽どうやって楽しめやいいんだよ!」

と思う方がいるかもしれない。それはそう、かく言う自分も最初は何が良いのかさっっっぱりわかりませんでした...なのでここではサイケデリックトランスをどう楽しめばよいのか?について書きたいと思います。

”摂取”してみる

展開を重視している曲やカッコよくてノレる曲もあるが、催眠的な繰り返しがサイケデリックトランスの魅力の基本となっている。その単調さをどう楽しむか、ということなのだが、とっておきの聴き方を伝授したい。

 

今回はイヤホンで聴くことを想定する。音量はいつもより少し~かなり大きめに設定する。次に頭の中に空洞があるのをイメージする。そして耳から入ってくる音がその空洞へ届き、空洞の中で広がり、反射し、音で満たされるイメージを持つ。ただそれだけ。他は何も考えない。ただ頭の中で音楽が響いていると考える...考える......

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耳から入った音楽は脳内で反響する(イメージ図)

 

するとだんだん気持ちよくなってくる。最高。多幸感。

 

サイケデリックトランスに限らず、ハウスやテクノでもこの聴き方は応用できるので是非この聴き方を試してみて欲しい。ただこれ、体調の悪い時にやるとたまに気分が悪くなったり頭痛がひどくなったりするのでご注意を。

作業用BGMに使ってみる

上のような多幸感を求める聴き方もあるが、サイケデリックトランスはその単調さゆえに作業用のBGMとしても適している。「とりあえず集中したいけど、なんか音楽流しておきたいな~」なんて時に少し小さめの音量で流しておくと、耳を満たしつつ作業に集中できるのでオススメ。

クラブに行って聴いてみる

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2016年 栄のaboutさんでのイベントにて

ある程度サイケデリックトランスに耳慣れてきたら、クラブイベントに行って音楽を体感する、というのも楽しむ一つの手段だ。このようなイベントでは会場がサイケデリックに飾り付けられていたり、レーザーやVJの映像演出なども相まって、家で聴くのとは全く違った臨場感があって最高ですよ。

 

イベントを見つける方法としては、サイケデリックトランスのDJさんのTwitter等をフォローするというのがとても有効だ。本人が出演するイベントの他に、その人の知人DJが出演するイベントやその人が応援しているイベントに関する情報が流れてくるので、イベントに関する情報収集がしやすいというメリットがあり、オススメだ(その他のジャンルのイベントについてもこの情報収集がとても有効)。

 

また、TRANCE LIFEさんを利用するのも手段の一つだ。主に東京でのイベントが中心となっているが、時々名古屋でのイベントについても掲載されており、出演するDJさんの情報等についても掲載されているので、イベントについて調べるときの一つの糸口となるだろう。

 

trancelife.net

《番外編》「クラブ」について

クラブという場所について、「チャラそう」「行ってナンパでもするのか?」ということを言う人がいるが、自分の経験の限りでは、クラブでナンパをしている・されている場面というものを見たことがない。というのは、クラブイベントが多彩化してきており、さらに自分でそこから行くイベントを選んでいるからだ。もちろん、ナンパが横行しているようなクラブもあるし、踊ってると白い目で見られるようなハコもあるらしいが(自分は行ったことないし行きたくもない)、サイケ専門イベントはもちろんのこと、音楽ゲーム曲にフューチャーした「音クラ」や、アニソンがかかる中オタク達がオタ芸打ってるような「アニクラ」、とにかくみんな踊りまくってるハードコアテクノ専門イベント、はたまたノイズミュージックやドローンアンビエントLIVE演奏があるイベント等々...「俺たちはこういう音楽が大音量で聴きたいんだ!」という思いのもとに人が集まっているイベントがたくさんあるのだ。なので、クラブといっても様々なイベントがあることを覚えておいてほしい。

 

そういったイベントでは、不特定多数というよりは「ある程度特定の多数」が客になっているので、クスリの売人がフラッとやって来てクスリが密売されていれば速攻でグループの中でバレて摘まみ出されてしまう。すなわち、「クラブではドラッグが蔓延している」というウワサも偏見に過ぎないのだ。まあ、完全にゼロという訳でもないだろうが、自分自身については、国内のクラブでクスリを売られたようなことは一度もなかったし(ドイツの超巨大なハコではありました)、遭遇率はゼロと考えて良いだろう。

 

ただ、その「ある程度特定の多数」というのがまた厄介で、イベントによっては”内輪ノリ”が大きいところもあり、場合によってはとんでもないアウェー感を感じることもある。なのでもし初めてクラブに行くのであれば、「そのイベントに行ったことのある友達と一緒に行くこと」は何よりの安全策であるし、そんな友達が居なくても上で述べたような「SNS等を用いた事前の情報収集」はある程度やっておいた方がよいだろう。

 

あとよく言われることは「クラブ行って何すりゃいいか分からない」というものもある。それについては簡単、ただ音楽に身をゆだねて身体を揺らしていればいい。中にはカッコよくおどっている人もいるが、そんな人はほんの一握りだ。音楽を聴き、軽ーく頭や身体を揺らし、たまに軽くステップを踏んでみたりして音楽を全身で楽しむ。これこそクラブの一番の楽しみ方だ。また、他のお客さんと話してみるのも良いだろう。わざわざイベントに足を運ぶ人は、基本的にはそこでかかる音楽が好きでそのイベントに来ている訳なので、きっと音楽に関する話題も合うだろう。

おわりに

さて、番外がかなり長くなってしまいましたが、今回はサイケデリックトランスがどんな音楽なのか、そしてそれをどう楽しめばいいのか、ということについて述べてきました。さあ、そろそろ聴いてみたくなってきたでしょう?次回は、サイケデリックトランスの中のサブジャンルについて、例を挙げつつ見ていきたいと思います。

 

《次回に続く》

湯浅×新海の比較文化論 〜湯浅政明の芸術論〜 【トイドラ的映画監督批評 後編2/2】

!注! この記事は、湯浅×新海の比較文化論 〜湯浅政明の芸術論〜 【トイドラ的映画監督批評 後編1/2】 - 名大作曲同好会 の続編です。

nu-composers.hateblo.jp

 

 

 

 

「メッチャ共感できる~」は価値か

さて、後編1/2で書いたように、新海誠作品と湯浅政明作品の差は、

解釈」を必要としたうえで観客の主観を取り込むかどうか

だと言えると思います。

 

 

ところで、前の記事で僕は

湯浅作品は、自分とそもそも違う考えや価値観を持つキャラクターにも積極的に感情移入させようとしてきます

と書きましたね。

このように書くと、

「いや、新海作品こそ『メッチャ共感できる~』って感想よく聞くんだけど?」 

 と言いたくなる人もいると思います。

結論から言うと、それはその通りだと思います。

新海作品はいわゆる「共感できる」系のお話が多いですね。

ただ、これも前の記事で書いた通り、

新海作品に感情移入するためには、自分自身がそもそも登場人物に似ている必要があります

というこの部分を僕は強調しておきたいのです。 

新海作品に「メッチャ共感できる~」と首をブンブン縦に振っている人は、平たく言うとクソ陰キャオタク童貞です。

新海作品はクソ陰キャオタク童貞に極めて寄り添って書かれており、彼ら彼女らの価値観を1秒ごとに肯定します

だから、クソ陰キャオタク童貞にしてみればこれ以上"共感できる"作品はない訳です。

 

が、この「メッチャ共感できる」って果たして良いことなのでしょうか?

例を挙げましょう。

黒人差別が慣習となっている村があて、その村でかわいそうな黒人たちが気晴らしに映画鑑賞会を開いたとします。

その席で、もし

「横暴な白人に虐げられるかわいそうな黒人を憐れむ映画」

が上映されたとしたら、それはさぞかし

「メッチャ共感できる」

ことでしょう。

自分たちの価値観や経験に沿っていますからね。

しかしながら、もし

「白人の横暴に屈せず抵抗し続け、ついには自由を勝ち取る黒人の映画」

が上映されたとしたら?

恐らく、賛否両論が巻き起こるでしょう。

なぜなら、映画を見た黒人たちは横暴に屈してただ耐え忍ぶ生活を送っているからです。

つまり、映画の内容が自分たちの価値観や経験に沿っていません

でも、多分いくらかの黒人たちは

「俺たちもこの映画のように立ち上がるんだ!」

と思い立つことでしょう。

 

つまり何が言いたいかというと、「メッチャ共感できる~」

「世界を変えない」

ということです。

ぼくが「ただの共感」をあまり重視していないのはこのためで、「ただの共感」では既存の価値観を打ち壊すことができません。

「芸術的表現」は世界を変えるエネルギーを持ちうるものですが、既存の価値観に寄り添うだけのものはいわゆる娯楽で、表現としての価値があるものではありません(娯楽が持つのは「実用的な価値」)。

もちろん、表現行為によってもたらされる変化は必ずしも良い方向への変化だけではないでしょう。

それでも、やはり僕たちは停滞していてはいけないと感じます。

何せ僕らを取り巻く環境は日々変わり続けてますからね。

 

まとめ(と不穏な次回予告)

というわけで、クッソ長かった本稿もついにまとめまでやってきました。

長く苦しい戦いだった……。

一言でまとめると、

湯浅作品は観客の主観を取り込み、人の価値観を変えようとしてるから芸術的

新海作品は観客の客観を呼び起こし、人の価値観を強化してるから娯楽的

という感じでしょうか。

 

 

 

 

ただ、最後の最後に強調しておきたいのが、

物事はそう一言まとめできるほど単純じゃない

ということなんですね。

自分で言ったことをすぐ覆すなよ……。

 

どういうことかというと、新海誠はクリエイターの中で見ればまだ我々の価値観に挑戦を挑もうと頑張っている方という気もします。

最新作の「天気の子」、僕は見る予定ないですが、見た人の感想を探すとかなり賛否両論です。

新海ファンの口コミでは、大方

「昔のあのクソ陰キャオタク童貞丸出しのキモキモ新海が帰ってきて安心した

という感想が見受けられるので、どうやら「君の名は」大衆迎合路線は回避したようです。

これってつまり、「君の名は」でファンを増やしてから「天気の子」で自分の世界観を陽キャ共に見せつけるという周到なテロなのでは……????

 

 

 

そして逆に、湯浅監督の最新作はこれです。

 

 

 

 

 

 

 

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「君と波に乗れたら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いィ~~~~~~や急にどうしたの?!?、??!、??

 

僕の記憶が正しければ新海はこんなサワヤカな作家ではなかったはずです。

一体どうしてしまったんでしょうか。

そこはかとなく嫌な予感がしますね。

 

 

というわけで、「君と波に乗れたら」早急に観ないといけない気がします。

 

 

 

金ロー早くしろよ……。*1

*1:ちゃんと借りて観ます。

なんだかんだ言って子供向け番組が一番シュールな番組が多い

第一部「みんなファイテンションシリーズを見ていたのにファイテンションシリーズのことを忘れて今を生きている」

 こんにちは、榊原です。他人の幸福を許しません。

 

突然ですが、この前Twitter「アイ・フィールド」という短編アニメを見つけまして

 

関節が死んでるキャラクター、一瞬で終わる話、超早口で繰り出されるシュールなギャグの数々。

これを見て「ファイテンションシリーズっぽいなあ!」と思ったのでした。

 

ファイテンションシリーズとは

2007年7月7日から2008年3月29日まで、テレビ東京系およびBSジャパン他(BSジャパンTVQ九州放送は時差放送)にて毎週土曜日7:00 - 7:30に放送された子供向け番組の事です。Wikipediaからコピペしました。

20歳前後の人間には心当たりがある奴も多いのではないでしょうか。

子供向けのギャグ、明らかに親狙いのギャグ、下ネタが飛び交っていた、ヤバいflashアニメを放送しまくってた番組。それがこれ。

忘れたとは言わせぬぞよ?

 

まあそんなことはどうでもいいので、貴重な本編映像でもご覧になりやがれください。

 


ファイテンション☆テレビ(09年3月28日)

生身の人間のくそつまらん話はどうでもいいんですが、アニメーションが凄く良いですね。

 

有名どころだと、鷹の爪団でおなじみ蛙男商会の作品なんかがよく放送されてました。

 

関節が動かないキャラクターがバッタバッタ動きながら早口でシュールなギャグを連発する、そういう作品が彼の持ち味ですね。

 

元からそういうジャンルがあったのを知らないだけかもしれませんが、というか低予算アニメってこんなもんな気がしますが、僕は2007年からファイテンションシリーズの事を毎秒毎秒噛み締めながら生きてきたので、こういう作風=蛙男商会=ファイテンションシリーズっていう図式が出来上がっちゃってるわけです。それはもう日本人=スシ=ニンジャ=ゲイシャみたいなもんです。偏見だよ。

 

曲も良い

アニメも良かったですが、合間に流れる曲もバカバカしくて良かったですね。かなり思い出補正入ってますけどね。まあそういうもんでしょう。

筋肉学園の曲とか完全にバカですよね。めちゃくちゃ小学生が好きそう。僕の精神年齢は小学生と同等なので、僕はこれが好きで好きでたまりません。

「ちゃんちゃらおかP音頭」とか、多少マイルドになっているものの、よくもまあこんなど下ネタの曲を朝から流そうという気になったなと思いますね。さすがテレ東大好きですぅ......。

 

「ピン子の秘伝カリー」も捨てがたいですね。歌詞が教育上最悪なのがたまらなく良いです。僕は精神年齢が小学生で成長が止まっているのでこういうのが大好きです。

 

もったいないのがこの曲の数々のほとんどがCDはおろか、配信すらされていない事。

 おかしいだろ?おかしいって言ってくれよ......。

 

「はなけろサンバII」とか、ネーミングがマツケンサンバIIのどパクリで安直すぎるし、はなけろサンバIが存在しないのになぜIIがあるのかという疑問が残る割には曲自体は結構好きなんですが、着うた(2016年サービス終了)でしか配信されてなかったから、もう二度と正規ルートで聴くことができないんですよ......?

 

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はなけろ「おっけろ~!!」

 

何もおっけろじゃねえんだよ。

 

これが現実。

俺はニコニコ動画で「はなけろサンバII」を聴くたびに「いつか削除されるんじゃないか」という不安に襲われて夜しか眠れないの。全然ニコニコできねえよ。

でも画面の向こうのはなかっぱもどきは永遠におっけろおっけろ言ってるってワケ。はーやってらんねえよ。死ね。

 

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はなかっぱもどき「おっけろ~!!」

 

第二部「カオスな子供向け番組はウゴウゴルーガに通ずるが、カオスな子供向け番組を子供は見ない」

 

ファイテンションスクールはウゴウゴルーガの系譜(?)

僕にとってはファイテンションシリーズが原点なわけですが、世の中にはもっと前からカオスな子供向け番組が存在しているわけです。

で、その原点にして頂点がウゴウゴルーガという番組。


ウゴウゴルーガ 1992/12/15

当時最先端の技術を駆使したCGと実写の融合(拡張現実=AR)や、意味のわからない2Dアニメが特徴です。

 

ちなみにこのCG映像はAmigaというパソコンで作られていて、あの平沢進のマジキチMVたちもこのAmigaで作られています。


平沢進 世界タービン [60fps]


P-MODEL「夢見る力に」1995

 

話を戻すと、この番組なかなか凄くて、何が凄いかというと先ほど言ったようにARガシガシ使いまくってるんですよ。しかも電脳コイルとかポケモンGOの20年30年前に。

先見の明すげー。

  

僕はファイテンションシリーズの系譜を辿っていくとこのウゴウゴルーガにたどり着くような気がしてならないのです(子供番組ガチ勢ではないのであんまり知らないだけで、他にあるような気もしますが)。

バラエティパートとアニメーションパートが混在していること、全編通してシュールなことなど、共通点もそれなりにあるので、あながち間違いではないと思っています。

 

この番組の影響はどうやらすさまじかったらしく、ファイテンションシリーズ云々を抜いても、色んな番組が真似をしているらしいですね。

 

彼らの遺伝子は今どこに生きているか

ガチャガチャポン!なる番組が流れを正統にくんでるらしいんですが、全く思い出せない上に調べてもガチャガチャの話しか出てこないのでここでは触れないことにします。名前は知ってるので当時見てたと思うんですが......。情報提供求む。

 

どぅんつくぱという深夜帯大人向け子供向け風番組(意味不明)は、確実にウゴウゴルーガをオマージュしています。しかもシュールさを極限まで引き上げて。

僕はたまたま最終回だけリアルタイムで見てしまったのですが、クリス・ハートが普通にクリスマスソングを歌ったかと思えば、髪の長いベーシストが子供達の前で童謡のメタルアレンジを演奏してました。


どぅんつくぱ - かっこよくアレンジしてみよう「どんぐりころころ」KenKen

特に度肝を抜いたのが、最のコーナースクリーンセーバー新垣さん」(首から上だけの新垣隆寺田心ら出演者の質問に棒読みで答えるコーナー。意味不明)で、突然番組終了が宣言された。急にメタいのやめろ。なお番組表には(終)の字はなかった。

 

新垣「大人のさまざまな事情があります。番組は視聴者に愛されてもやむにやまれず終わる事もあります。みんな、わかってください」

 

俺は一体30分間何を見ていたのだろうと思うと共に、尖った番組は理解されないんだなあと悲しくなったのでした。

 

じゃじゃじゃじゃ〜ン!という番組はウゴウゴルーガの立ち上げメンバーにより、現在進行形で放送されている番組です。なので実質ウゴウゴルーガみたいなものですが、全然話題になりません。なぜなら土日の朝4時5時にやってるから。

そんな時間に起きてられるかっちゅーの!

ここで主に映像を作っている藤井亮というクリエイターが凄い、凄いカオスです。


#4 からだざつお

どことなくノスタルジーで教育テレビ特有のシュールな雰囲気を感じますね。

 

藤井亮の作品は、世間的には石田三成のCMストップ恋愛・ゼッタイダメが有名ですかね。


石田三成CM<第一弾>

 

vimeo.com

 

実は彼は僕と出身地が同じで、高校の同級生の叔父/伯父らしいです。世間は狭いですね。

 

最後に、皆さんご存知のポプテピピックという養殖クソアニメを紹介しますが、これも実はウゴウゴルーガが意識されています。

ポプテピピックといえば声優の乱用や再放送、ボブネミミッミなどに注目が行きがちですが、それに加えてクレイアニメ作家やフェルト作家、サンドアート作家など様々なクリエイターが参加したのが印象的です。


ボブネミミッミ2話


LET'S GROOVE TOGETHER

原作のクソさのせいであまり真面目に語られることは少ないですが、これって深夜アニメ枠にしてはかなり実験的ですよね。

ウゴウゴルーガのアニメーションも前述したとおり、当時としては斬新な映像表現を駆使していました。

ポプテピ製作陣はこの実験精神を大いに参考にした、とのことです。

 

がしかし、これらの番組深夜か早朝にしかやってないんですが、子供に見せる気あるんでしょうかね?多分ないんでしょうね。こういうのを見て育った子供がどういう大人になるのか興味があるので、ちゃんとそれっぽい時間に放送してください。

 

終わりに

ということで、子供番組はあながちバカにできないのでみんな見ましょう。おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして俺はらむりんを消したベネッセを許さねえからな......。

しまじろう、テメーを絶対潰す。

 

音楽のギネス記録?

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ギネス

小学校で音楽の基本、つまりは楽譜の基本を習ったときに皆さんは気になりませんでしたか?

 

え?何がって?

 

音楽のギネス記録ですよ!!

 

f(フォルテ)が2つになるとff(フォルテシモ)になり、さらに3つになればfff(フォルテシシモ)になります。さすがにそれより先はないものだと思っていましたか?

p(ピアノ)だってそうです、ppp(ピアニッシシモ)より先はないんでしょうか?

 

なんか百、千、万、億、兆、京、垓、𥝱・・・と数の単位を覚えたのに似ていますね。

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命数法

fやpだけが記録とは限りません。

音符も気になりませんか?

全音符より長い音符って無いんでしょうか?

六十四分音符より短い音符って無いんでしょうか?

付点て1つしかつかないんですか?

 

そんな素朴な疑問に答えてくれるサイトがあるんです。

homes.sice.indiana.edu

 

今日はこのサイトに紹介されている中からいくつかを、実際の譜例とともに音源を紹介してみようと思います。たまには音楽の内容ではなく、こんな記録を追って聴いてみるのも面白いんじゃないでしょうか。それに雑学として結構色んな場面で使えますよ。

 


でははじめにfやpの数についてみてみましょうか。

上記のサイトの「Dynamics」の項に触れられている例を紹介します。

 

まずはp(ピアノ)の方。

 

世界記録は「pppppppp」のp8個だそうです。

 

使ったのは現代ハンガリーを代表する大作曲家、ジェルジ・リゲティです。

彼の「ピアノのための練習曲 第一巻の第4番」と「同 第二巻の第9番」に使用例があるそうです。

今日は前者の方を見てみます。

同郷の偉人バルトークを強く意識した曲集ですが、この楽章はその色合いが特に強くにじみ出ているように思います。

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pppppppp


そしてこれが「pppppppp」登場の瞬間です!

うーん、どうやって弾くんでしょうか。音出せるんでしょうか?

 

 

それでは聴いてみましょう。

www.youtube.com

 

強弱記号は実際にはとても相対的なものなので、絶対的な強弱を必ずしも表していませんが、演奏は気を使いそうですね。

 

 

それでは続いてfの記録を見てみましょう。

といってもこれも同じ作曲家の同じ曲集「第二巻の第13番、第14番」にある「ffffffff」なんですよね。

 

この曲集は強弱記号のコレクションブックかなにかなのでしょうかね。

 

せっかくなので今回は後者をみてみます。

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ffffffff

これが「ffffffff」登場の瞬間です。

 

早速聴いてみましょう。

www.youtube.com

 

やはり思ったほどの衝撃はありません。しかしイメージ的に突き指しそうですよね。

 

 

楽譜の表記に比して、相対的な符号である強弱記号はあまりインパクトがありませんでしたが、音符の長さはどうでしょうか。

これもテンポというもう一つの緩急の要素があるので、実際に早いかどうかは相対的なものであろうと想像できますが、それでもなかなかインパクトはあります。

上記サイト「Rhythm and Single-Note Duration」のShortest notated durationにあるのが短い音符の記録です。

 

最も短い音符を使ったのはアンソニー・フィリップ・ハインリッヒというボヘミア生まれの作曲家です。1700年代の人なので結構古い時代からこんな例が有ったのかと思うと面白いですね。

 

そしてその音符とは「二千四十八分音符」です!

Toccata Grande Cromatica from The Sylviad, Set 2という曲に使用例があり、その旗の数は9本に及びます。

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2048th

最後のあたりに出てきますね。もうなんだかよくわかりません。

聴いてみたいのは山々なのですが、音源が見つかりません。

ほらそこのピアニスト!こういう曲をレパートリーにするのも面白いかもしれませんよ!!

 

ちなみに長い方は何小節にも渡ってタイを書けばどんどんながくなるということで、ヴェルディのオペラ「オセロ」の例などが載っていますが、これはちょっと求めていたものと違う気がします。

 

そこで代わりに豆知識として全音符より長い音符についての名前をご紹介しましょう。

 

全音符の2倍の長さを持つ音符を「倍全音符」と言います。

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全音

これは別名「ブレーヴェ」「ブレヴィス」とも呼び、ネウマ時代の名残で、下のような別の表記もあります。

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Brevis

え?これで終わりかって?とんでもない!

四倍全音符(ロンガ)もあるんですよ。

 

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Longa 1

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Longa 2

ついでに八倍全音符(マキシマ)なんてのも。

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Maxima 1

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Maxima 2

区別がつかなくなってきますよね。

 

 

気を取り直して今度は付点についてみてみましょう。

 

付点とは音符につけられる「点」のような記号で、つけられた音符の半分の長さを足すというものです。

なので四分音符につけると「1+0.5=1.5」の長さになって付点四分音符と呼ばれます。

 

実は付点とは1つしかつけられないわけではなく、もう一つつければ元の音符の1/4を更に足す意味になります。

 

そして実際の音楽の例では、四つまでつけられた例があるようです。

さらにその例は非常に沢山あるようです。

 

有名なものはハンガリーの大作曲家フランツ・リスト「ピアノ協奏曲」の第2楽章ですが、今日はちょっとマニアックな例を紹介しましょう。

 

現代フィンランドの巨匠、エイノユハニ・ラウタヴァーラ「イコンズ」という作品の例です。

 

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複々々付点

これがその例。複々々付点二分音符とでも呼ぶのでしょうか。

多分タイを書いて楽譜が読みにくくなるのを避けるために点を打ちまくったのではないでしょうかね。

 

早速聴いてみましょう。

www.youtube.com

 

最後に拍子の例を見てみましょう。

最も分母が短い音符の拍子についてです。

用いたのはアメリカの現代の巨匠、ジョージ・クラムです。

彼の代表作である電気増幅された弦楽四重奏のための「ブラック・エンジェルズ」の第5セクション「死の踊り」7/128拍子が登場します。

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7/128

このシーンはテンポの指定自体が「三十二分音符=240」なのでここまで細かい拍子の表記が登場することになりました。

非常に不気味で悪魔が踊っているような表現に出会える場面でもあります。

 

全曲の楽譜付き動画がありますのでご紹介します。

せっかくなので楽譜を追いながら、神と悪魔の対決を描いた名作を味わってみてください。

www.youtube.com

 

では長い方の分母はというと、実は先程のサイトではテレマンの24/1拍子の曲が紹介されているのですが、私が個人的に知っている別の例があるので紹介したいと思います。

 

ドイツの巨匠、カール・オルフの代表作カルミナ・ブラーナ」の第一幕第5曲「Ecce gratum」に登場する4/0.5拍子がそれです。

 

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4/0.5

この曲の拍子の表記は分母に音符そのもの、そしてその個数を分子にして五線の上部に書かれます。

このシーンでは「倍全音符が4つ」と指示されていることから、4/0.5ということになり、分母の大きい拍子としては記録になるのではないでしょうか。

ただし版によっては倍全音符を無視して4/1と表記することもあるようです。

www.youtube.com

 

最後の最後におまけを一つ紹介します。

拍子の分母について、音符の種類を書くことから1,2,4,8,16,32,64,128しか使ってはいけないと思っていませんか?

 

ではこの拍子はどういうことでしょう?

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謎の拍子

これはイギリスが生んだ鬼才、ブライアン・ファーニホウ「想像の牢獄第1番」の一部です。

 

なんと2/12、3/10などという拍子が並びます。

 

これは拍子というものの定義を改めて私達に教えてくれるものと言っても良いかもしれません。

 

拍子の分母とはそもそも一小節を「等分するもの」を表しており、例えば2/12なら一小節を12等分するもの、つまり8分音符の三連符を表しています。

この「8分音符の三連符1つ分の音符」が2つからなる拍子なので2/12としているわけです。

 

ではもう一つの3/10はどうでしょうか。

一小節を10等分するわけですから、8分音符の五連符になります。

結果として「8分音符の五連符1つ分の音符」が3つからなる拍子ということですね。

 

ファーニホウはこのような拍子の表記を多用した人でもあります。

わかりにくいので同じ意味の拍子を別の書き方をした人もいるのですが、これ以上踏み込むと長くなるので今日はこのあたりにしましょうか。

 

え?音源聴いてみたいって?

わかりました。

こちらです。

www.youtube.com

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」騒動に見る・芸術の斜陽&現代の病

私たち名作同が活動している名古屋では、3年に一度大きなアート作品の展覧会があります。

国内外のアーティストを呼んで愛知県芸術文化センターで盛大に開かれるその祭典の名は、皆さんご存じ

あいちトリエンナーレ

です。

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草間彌生が参加したこともあった

2010年に第1回が開催されたばかりの比較的新しいイベントで、当時の愛知県知事・神田真秋氏が掲げていたマニフェストによって実現に至りました。

詳しくは下のWikipediaを参照。

ja.wikipedia.org

 

さて、最近になってこの「あいちトリエンナーレ」は急速に有名になりましたね。

それも悪い意味で。

今回は、そんな「あいちトリエンナーレ」の騒動の原因となった

「表現の不自由展」*1

について書いていこうと思います。

また、展示そのものだけではなく(むしろそれよりも)、この一連の騒動に対する僕の考えや分析的視点も交えて話を進めようと思います。

というのも、「表現の不自由展」に端を発する騒動を俯瞰すると、

「現代の日本で何が起こっているのか?」

「現代の日本でアートというものがどう捉えられているのか?」

そういったことが分かるからです。

 

先に結論を言っておくと、この騒動によって

 

現代日本ではアート全く理解を得られていない

 

という現実があらわになったと思います。

そして皮肉なことに、

 

「表現の不自由展」

 

よりも

 

「『表現の不自由展』にまつわる騒動

 

の方が、明らかにより芸術的な存在になってしまったのです。

 

【もくじ】

 

「表現の不自由展」騒動の概要

さて、「あいちトリエンナーレ2019」が今年8/1に開催されてから今まで、色んなことがひっきりなしに起こりました。

「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展」の画像検索結果

「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展」の画像検索結果

「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展」の画像検索結果

「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展」の画像検索結果

というわけで、この騒動の簡単な流れを書いてみましょう。

 

  1. 「あいちトリエンナーレ2019」で企画展示された表現の不自由展・その後が、日本に対するへイトスピーチだとして炎上する(8/1)。
  2. 名古屋市長の河村氏が「表現の不自由展・その後」を視察し、展示を即刻中止にすべきとの見解を述べる(8/2)。
  3. 「表現の不自由展・その後」の展示が中止される(8/3)。
  4. 表現の自由の侵害だとして炎上し、愛知県知事の大村氏が河村市長を批判する。
  5. 逮捕者が2名出る(8/7)。
  6. 当初予定されていた「あいちトリエンナーレ2019」への補助金の不交付が決まる(9/26)。
  7. 補助金不交付に対して、後出し検閲だとして炎上する。
  8. 大村知事らにより、「表現の不自由展・その後」が展示再開される(10/8)。
  9. 展示再開に対し、河村市長らによる抗議運動が行われる(10/8)。
  10. 河村市長の抗議活動を大村知事が批判する。

 

いやーカオスですね。

これを見ててまず思うこととしては、結局のところ何をやっても炎上してますよね。

「不自由展が→展示中止で炎上補助金不交付で炎上→展示再開で炎上→抗議活動で炎上

とまあ、もはや収拾のつきようがない気がします。

 

さて、ここまでが前置きでした。

ここからは、上で説明した一つ一つの出来事について、芸術の観点から分析しつつ見解を述べていきましょう。

この「芸術の観点から」というのが重要で、「あいちトリエンナーレ」は芸術の展覧会として開催されているはずですから、本来は芸術以外の観点から語られる必要がないはずなんですよね。

ピッチャーフライを見事に捕った野球選手に対して、

「手を使ったらハンドだ! 反則だろ!」

と怒鳴りつけるサッカー選手がいるはずないのですから。

にもかかわらず、これ以降の分析を見れば「あいちトリエンナーレ」騒動がいかに芸術と関係のないフィールドで勝手に肥大化していったかが分かるはずです。

 

「表現の不自由展」の内容

これ以降の議論では、当然「表現の不自由展」でどういった展示が行われていたかを知っておく必要がありますね。

ニュースなどの報道を見ると、大体

「韓国の従軍慰安婦などの展示に批判が殺到した」

としか説明されておらず、まるで慰安婦像だけが物議を醸しているかのように見えてしまいます。

これはメディアの仕事としては非常に雑ですね。

情報を伝えたいのか視聴率を取りたいのか、一体どっちなんでしょうか。

 

まず、「表現の不自由展」のコンセプトは以下の通りです(公式HPからの引用)。

「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する。

 

そして、実際の展示にはには次のような展示が置かれています。

 

  1. 慰安婦像(『平和の少女像』)
  2. 従軍慰安婦の韓国人女性らの写真
  3. 従軍慰安婦を批判する内容の絵画(『償わなければならないこと』)
  4. 昭和天皇の写真を焼いた灰とその映像(『焼かれるべき絵』)
  5. 旭日旗を連想させると指摘されたポスター(『暗黒舞踏派ガルメラ商会』)
  6. 皇室の写真に絵の具で描かれた絵(『空気』)
  7. 米軍基地を批判する内容の作品(『落米の恐れあり』)
  8. 憲法9条デモについて詠み込んだため入選にもかかわらず掲載されなかった俳句(『梅雨空に「九条守れ」の女性デモ』)
  9. 香港の政治事情を体現する作品(『アルバイト先の香港式中華料理屋の社長から『オレ、中国のもの食わないから。』と言われて頂いた、厨房で働く香港出身のKさんからのお土産のお菓子』)
  10. 東日本大震災に関する言葉が削除され、ピー音に置き換えられた動画(『気合い100連発』)
  11. 安倍政権やアメリカの軍拡を批判する作品(時代ときの肖像ー絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳ー

 

ざっとこんなもんです。

実はこんなに盛りだくさんの内容だったんですね。

 

「表現の不自由展」の『本当の』内容

さて、これらの作品を概観して分かることがあります。

これらの作品、明らかに反戦・反政権寄りですよね。

確かにどれも過去に「表現の不自由」を被った経験のある作品たちなのですが、全体に見て左翼的な作品(右派に弾圧された作品)が多いです。

具体的には、5・9・10以外は全てがそうですね。

どうも左っ側に偏っている気が……。

というかそもそも、「表現の不自由」って別に政治的右・左の文脈だけで起こることじゃなくないですか?

パッと思いつくものを上げれば、エロ・グロ・暴力とかだってさんざん「表現の不自由」を受けてますよね。

例えば「クレヨンしんちゃん」からはゲンコツシーンが削除され、萌えキャラを起用した自衛官募集ポスターには批判が殺到、「はだしのゲン」は全国の小中学校図書室から消えようとしています。

だから、そもそも政治的『表現の不自由』」に限定する理由がよく分かりません。

展示のコンセプトを見てみても、

日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識 

が展示のテーマだと明記してありますから、こういった政治以外の「表現の不自由」も展示していいはずです。

 

以上を鑑みるに、この企画展の「本当の」テーマは何だったのでしょうか。

単に「言論と表現の自由を守ること」だけが目的だったと考えるには、少々無理がありますよね。

明らかにこの展示は、

現政権を政治的に批判すること

影のテーマとしています。

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芸術監督を務める津田大介



 

「表現の不自由展」は(少なくとも)芸術ではない

さて、ここまで書くと読者の皆さんは、僕がさぞかし政治に熱心なのだと思うでしょう。

が、僕は別に

「現政権を批判するなんて許せん!」

と思っているわけではありません

というか僕は基本政治に興味がないので、勝手にやってくれって感じです。

個人がそれぞれの考えを持ち、主張するのは大事なことで、他人が口を挟むことではありません。

 

が、ここで一つだけ問題提起しておきたいことがあります。

それは、

「『表現の不自由展』は本当にアートなのか?」

ということです。

「あいちトリエンナーレ」は芸術的なイベントですし、美術館に展示される作品なら当然それは芸術でなければなりません。

しかし、僕にはどうもこの展示が芸術であるようには思えないのです。

「芸術」を定義するのは難しいことですが、ここからしっかり

表現の不自由展」はアートではない

ということを論証していこうと思います。

 

「芸術」の定義

普通に生きて普通に暮らしている人にとって、芸術という言葉はかなりふわふわしていてよく分からないものでしょう。

おや、「そんなことないよ」って顔をしていますね?

だったら、試しに芸術の例を挙げてみてください。

なるほど、「モナリザ」「ピカソ」「ゴッホ」「バッハ」「ベートーヴェン」「夏目漱石」「太宰治」「谷川俊太郎」「オペラ」「クラシック音楽」「サモトラケのニケ」「考える人」……

たくさんの例が出てきましたね。

しかし、たくさんの例を知っていたとしても芸術を分かっているということにはなりません。

なぜなら、大切なのは

「これらが芸術だと言えるのはなぜ?

という部分だからです。

 

ところで、僕は科学「美学(=芸術)」とを対極の概念だと考えています。

科学が重視するのは、現象の観察と一般的な法則の発見です。

だから、科学の方法論というのは

答えが分からない状態から、何とかして唯一の答えを見つけ出す

という方向性になります。

つまり、「真実はいつも一つ!」という某バーロー名探偵のような感じになるワケです。

対して芸術が重視するのは、対象の解釈と主観的な感覚の発信です。

だから、芸術の方法論というのは

唯一の答えがありそうに思える状態から、何とかして答えなんて存在しないということを導く

という方向性です。

芸術の営みというのは、常識(=唯一の答えっぽいもの)に対して

「お前それ本当に正しいのかァ?」

とケンカを売り続けることによって、未だかつてなかった地平を目指し続けることに意義があります。

今の私たちが当たり前に生きているこの世界は、実はそのようにして切り開かれてきた昔の非常識」があふれる世界です。

J-popが流行り、みんなが学校に行き、男女平等が謳われ、個性が大事にされ、道端で急に貴族に斬り殺されたりせず、若者言葉が流行り、少子高齢化が進み、社会の格差が広がり、軍拡競争は止まらず……

そういった世界は、実は昔の人たちがたゆみなく「芸術的(=美学的)」努力を積み重ねてきたことで今ここにあります。

(そういった努力がなければ、世界は未だに縄文時代のままです。)

それが良いことか悪いことかは置いておいて、「芸術」というのはこういう営みだ、と僕は考えているのです。

 

以上のことをまとめると、芸術」の定義は、

“一つの答え”否定するもの」

と言えると思います。

だいぶすっきりまとまりましたね。

 

「政治」≠「芸術」

さて、以上を踏まえて「表現の不自由展」を見直してみましょう。

果たしてこれはアートでしょうか。

答えはですね。

この企画展示は、明らかに

「今の政権はだ:平和な世界こそだ」

という

一つの答え

に基づいて企画されています。

つまり、この企画は芸術ではなく

政治

だということです。

 

政治芸術に入るのか?」

という議題は、しばしば語られて侃々諤々の議論を巻き起こします。

というのも、政治から生まれてきた芸術作品や文化というのは数多くあるからです。

ただ、僕の考えでは政治は芸術ではありません

この2つは一見似たことをやっているように見えるのですが、考え方の根本が微妙に違うのです。

 

政治も芸術も、

より新しい地平に向かって手法を更新し続けていく

という点は同じです。

しかし、その際の前提が異なっているのです。

政治は、

「現在の手法よりもっと良い方法があるはずだ」

という発想で先へ進んでいきます。

が、芸術はそもそも善悪の価値判断を含んでいません

つまり、

「現在の手法のその先があるはずだ」

という発想で先へ進んでいきます。

だから、

「あのアートは正しいがこのアートは間違い」

ということにはなりません

これが政治だと、

「あの政治は正しいがこの政治は間違い」

ということが自然と言えますよね。

現に、お役人様方は椅子に座って毎日どっちの政治が正しいのかヤジを飛ばしあっているわけです。

これが芸術政治」の違いなのです。

 

騒動全体のバカらしさ

大変長らく書き連ねましたが、以上のことを理解しておくと、この騒動が最初から最後までアートと全然関係ないフィールドで過熱していることがよぉ~く分かります。

順番に行きましょう。

 

まずは、

1.「表現の不自由展自体の炎上

ですね。

これは主に、慰安婦(『平和の少女像』)と天皇の写真を燃やす作品(『焼かれるべき絵』)の展示が批判を呼んだことで起こっています。

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平和の少女像

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焼かれるべき絵

が、批判している人たちの言い分を聞いてみると、単に

反日的で不快だ!」

天皇の御影を焼くなんてとんでもない!」

というだけの意見が目立っている気がします。

 

 

いやそんなことはどうでもいいよ。

 

どれだけ常識外れだろうがタブーだろうが他人を不快にしようが傷つけようが

「作品としての芸術性

があれば、作品は美術館に並ぶ権利があります

この点を河村市長も勘違いしていて、彼のコメントを見ると

 

「どう考えても日本人の気持ちを踏みにじるものだ」

「こんな日本人の普通の人の気持ちをハイジャックして。暴力ですよ」

 

などと言っていますが、別に日本人の気持ちをクソほど踏みにじるハイジャッキーな暴力だったとしても芸術が芸術であることは変わらないのです。

 

だから、表現の不自由展」を批判するときにやるべきだったことは、

 

芸術ではないものが美術館にあるのはおかしい

 

この一点の指摘だったんですよ。

 

 

が、結果として起きたことは一体何だったでしょうか

言うまでもありませんね。

全然「芸術」と関係のない善悪の議論が巻き起こり、挙句の果てには展示が中止されてしまいました

分からないですかねえ……。

 

これじゃあ津田芸術監督の思うツボなんですよ。

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津田芸術監督

 

表現の不自由展と題して行われた展示が、まるで題名を回収するかのように「表現の不自由」を被り、作品として完成してしまったのです。

この程度の展開を津田氏が想定していない訳がありません。

みすみす彼の政治的プロパガンダを成功させてしまった責任は、あまりにも芸術に対して無知だった多くの市民にあります。

もし「表現の不自由展」をちゃんと芸術としての観点から批判できていたら、こんなことにはならなかったはずです。

 

2.展示中止で炎上

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さあ、河村市長の意向もあって即座に中止された表現の不自由展、次にどうなるかなんてカタツムリでも分かりますね。

 

表現の自由はどうした!」

 

と、当然こうなるわけです。

事実、どんなにクソみたいな作品暴力的な言葉ドエロい絵画だったとしても、表現の自由がある限り誰にもそれを遮る道理はありません公共の福祉に反しない限りは)

だから、もし仮に「表現の不自由展」が

反日的な展示だったから」

という理由で中止されたとしたら、それは表現の不自由展」のテーマにまさしく沿った形の人権蹂躙と言えるでしょう。

 

ただ、先ほども言ったように僕はこの表現の不自由展を芸術だと思っていません。

芸術でないものが美術館にあるのはおかしい(ペットショップで牛肉を買おうとするようなもん)から、別に展示が中止になること自体は変に思いませんでした。

ただ、あの流れでの展示中止ではどう見ても表現の自由の蹂躙のように見えてしまいます。

事実、展示中止した後のメディア各社はクッソうるさかったですね。

表現の自由!」

表現の自由!」

表現の自由!」

と声高々に糾弾していました。

 

さあ、この表現の不自由展論争、この時点ですでに芸術と全く関係のない土俵に引きずり込まれて収拾がつかなくなっています

絶対に勝者が生まれない議論を続ける羽目になっているのです(敢えて言えば津田氏が勝者)。

どうして誰も気づいてやれなかったんでしょうか。

 

3.補助金不交付で炎上

こうして「あいちトリエンナーレ」は見事に砂漠化しました。

もう取り返しは付きませんね。

しかし、ここでこの砂漠に再びガソリンが撒かれてしまいます

当初予定されていた芸術助成金全額不交付になったのです。

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これに対して、多くのメディアが

「表現に対する検閲だ」

との批判を寄せて炎上しました。

 

からしてみれば、

芸術じゃないものに芸術助成金がつくわけないからまあ当然じゃねぇ?」

って感じですが、世間はとっくに(というか一度も)芸術の話なんかしてないので、当然あさっての方向に向かって議論を白熱させていきます

まあ、しょうがないですよ。もはや。

 

4.展示再開で炎上

これも、再開するくらいなら最初っから展示中止になんてしなければよかったんですよ。

一回中止してから再開するせいでもうなんかよく分からんことになるじゃないですか。

大村知事の働きかけで実現した展示再開ですが、河村さんと大村さんの考えがばっちりケンカしちゃってることがよく分かります。

 

5.河村市長の抗議活動で炎上

で、展示再開に対して河村市長が座り込みを行いました。

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実際に7分ほど座り込んだらしい

市長の身分でそこまで身を呈するのは普通にすごいですね。

が、彼は自分のやっていることがアートに対して何ら説得力を持たないと理解してるんでしょうか。

愛国心が先走りすぎで、この騒動における彼の行動は全て裏目に出てる印象です。

 

絶望的まとめ

さあ、どうでしたか?

ここまでの長~~いお話の中で、

 

 

登場人物の誰か一人でもアートを理解していたでしょうか。

 

 

本来なら、この騒動はここまで大きな事件になるようなことではありません。

津田氏が公金を使ってプロパガンダを打とうとしていた時点で、誰かが

 

「あーちょっとキミ。

 それは芸術じゃないよ。」

 

と言ってやるだけでよかったのではないでしょうか。

 

というわけで、こんな下らない些事に大勢が身をやつすことになったのは、間違いなく

 

今の日本がアートに対して無関心すぎたせい

 

です。

民衆もそうだし、市長も、知事も、も、美術館側も、国の行政も、誰一人としてこの事件を

芸術の観点から

捉えることができませんでした。

こんなんでいいんでしょうか……。

 

こういうありさまを見ると、僕も名作同の会長として

「まだまだ頑張ってアート表現を広めていかねばなあ……

と思わされます。

 

そして芸術になる

さて、こうして完全に収拾がつかなくなった表現の不自由展

ここで不思議な現象が起こります。

騒動全体を俯瞰してみてください。

 

 

 

 

 

 

 

ありとあらゆる人たちが、

ありとあらゆる立場から、

てんでんばらばらな見解を述べているではありませんか。

 

しかもそのどれもが

正解である

というようにも見えませんし、

間違っている

とも断定しがたい。

 

 

 

そう、なんとこの

『表現の不自由展』騒動

これ自体がアートになってしまったのです。

 

 

こんな展開誰が予想していたでしょうか。

あの天下の芸術監督・津田大先生とて全く予想していなかったことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

今の、笑い所ですよ。

 

〆の言葉

さあ、もうこんなお笑い種は終わりにしましょう。

こんなことは一度起こっても二度目はもうたくさんです

この世界に芸術」の光を届けたい、というのが僕らの願いですが、その理由はもういい加減分かってくれたんじゃないでしょうか。

 

というわけで、長々と書き連ねましたがお疲れさまでした。

明日からもどうか変わりない日々をお過ごしください。

 

 

 

 

 

 

 

 

いや変われよ世の中。

 

*1:正しくは、今回問題になっている展示の名前は「表現の不自由展・その後」である。過去に無印の「表現の不自由展」という別の企画があり、「その後」ではその流れを汲んだ最新の内容を扱っているとのこと(詳細)。