新井素子という小説家を知っていますか。
高校生にしてSF作家デビューという所謂天才で、デビュー時にはあまりに特徴的すぎる文体のせいで、賞の審査員からブーイングを食らったものの、唯一べた褒めした星新一がごり押ししたおかげで受賞したというエピソードは僕の中であまりにも有名です。SF界でもそれなりに有名だと思います。「チグリスとユーフラテス」という作品は、星雲賞というSF界の名誉ある賞を受賞したので、これを知っている人はいるかもしれません。
で、その新井素子、「ライトノベルの元祖」と呼ばれているんですよ。新井素子がデビューしたのは1977年。古い。 多くの若人がライトノベルと聞いて想像するのは、電撃文庫やファミ通文庫などや、最近だとなろう小説とかだろうと思います(あんま読んでないから推測です)が、どこがどう「ライトノベルの元祖」なのでしょう? 現在のライトノベルとの共通点があるのでしょうか?
今回はそんな新井素子の初期作品「・・・・・絶句」(1983年)から、新井素子諸作品とライトノベルの共通項を探っていこうと思います。「絶句」から探る理由は最近読んだから。それでは始めます。
そのまえに
ライトノベルとはなにか?
これかなり基準が曖昧なんですよね。現在のライトノベルというと「なんか萌え萌えキュンなイラストが多めの本で、主人公がオタクの願望を叶えていく」というイメージが強い*1ですが、当然ながら元からそれが主流だったわけではないです。
んじゃどーしてこーなったのか? この説明がややこしくて面倒くさいのでクソ端折りますが、よーするに
- 絵はロリコンブームの火付け役である漫画家・吾妻ひでおなどが描いていたりしたので、別に昔からこんなかんじ。ただ、当時それらと共存していた油絵・水彩画家が、現在では淘汰され漫画絵・アニメ絵に画一化されてしまった。
- かつてヤングアダルト小説といわれていた中高生向けの小説群に、アニメや映画のノベライズ版が出たり、その逆もあったりして、小説的な表現から漫画的表現に移行していった。
という感じです。それに加えて現在は、一般作品のライトノベル化、ライトノベルの一般作品化など、文芸中でクロスオーバーしまくってるので訳がわかりませんことよ、おほほほ。となっているわけです。だから源流にまで遡り、ライトノベルの原型を見ることが、ライトノベル全体の理解に繋がったり繋がらなかったりするわけですね~。つながれ~。
気を取り直して
話を本筋に戻します。
まずは「・・・・・絶句」のあらすじを簡単に説明していきましょう。
第一部
新井素子(大学二年生)が小説「絶句」を書いていると、なんか変な声が聞こえたかと思いきや、サイキックスな小説の登場人物達=“絶句”連が現れる。なんやかんやで現実世界に適応した“絶句”連は、動物革命を標榜、動物を人類から解放しようと暗躍する。
その間に新井素子は家が燃えて家族全員死んだり、さらわれたり、死んだりする。
主人公が死んだので作中人物全員会議が始まり、作者の新井素子が、キャラクターの新井素子と会話する(←???)など、しばしシュールな光景。
第二部
動物革命が実行される。なんかストーリーに全然絡んでこなかった“絶句”連が二人ほど文字通り消失する。宇宙人と対決し、突然のデウス・エクス・マキナァァァァァァァァァァァ!!!!!!!
あれ動物革命は??!?!?終わり??!????
~END~
......メタ過ぎません? 作中人物全員会議が始まったときは我が目を疑いました。超ご都合主義展開のオンパレードであり、ストーリーにいらない人物は主要人物であろうと消され、途中で出てきた刑事は、何か絡んでくるのかな~と思いきやただの遠巻きで終わる。あまりにも雑すぎる!!?雑すぎるくない!?
でもキャラクターの動きが非常に生き生きとしてるのを見ると、何もかも許してしまおう、そんな気持ちにさせてくれる不思議な小説でした。幕引きもなかなか寂しげで良いんです、これが。
では、読んでみて現在のライトノベルっぽいな思ったことを書き出してみます。
- 前評判通りの文体
- セカイ系
- 展開が無茶苦茶
では順に見ていきましょう。
前評判通りの文体
新井素子、――文体がとっても特徴的。
大体、こんな風に、句点が多いし、主語の後ろの助詞、取っちゃう。*2――それに、「――(ダッシュ)」も多いし、よく使うの、倒置法を。ほかにも体言止めをよく使うから、あっと驚いた私。
......みたいな? これ書いてて思ったんですけど、この文体で文章作るの滅茶苦茶難しいです。そりゃ星新一も激賞するわけですね。*3
この非常に特徴的な文章は一人称視点の文章だと、非常に生き生きとした印象を感じます。実際、初期新井作品は、台詞の間がこの文体かつ一人称視点で描かれていることが非常に多いです。
いわゆるライトノベルと呼ばれる現在の諸作品も割と特徴的な一人称視点の口語で行間埋めまくってる作品が多いような気がします。「涼宮ハルヒの憂鬱」とか。あまり三人称視点で客観的に書くような作品は見た記憶が無いです。
これは一人称で書きまくるのが単純に書きやすくて感情移入させやすいからでしょうね。基本的に自分の主観まみれでキャラクターを動かせるのでこれを使わない手はないでしょう。ただ、それで終わってオタク無双してるだけの作品が多すぎるような気がしますが。
あとラノベ関係ないですが、Twitterにいるオタクって主語の後ろの助詞抜いたツイートしがちですよね。
例
君島大空、想像の100倍は良かった
— Điện Biên Phủ (@helixspiral1) November 18, 2019
「うっわなんだこいつの文章キッモ......。」と言われたら「あ、これ新井素子の文体模写なんで。ニチャァ」と言えば尊敬の眼差しで見られるかもしれない世の中がよかったですね~残念。
セカイ系
「・・・・・絶句」は小説から飛び出た人間と新井素子が世界の根幹を揺るがす大事件を引き起こしてしまうわけですが、これってつまりセカイ系に限りなく近い話ですよね。
セカイ系とは「『僕』と『君』の関係性が、なんか知らんが世界の存亡に関わる」とかなんとかいう作品群の総称で、エヴァンゲリオンを筆頭とした90-00年代のサブカルに多く見られたもの(なのでこれと時を同じくして興隆したラノベも当然セカイ系作品が多め)です。わからない人はエヴァンゲリオンのことだと思えば8割型合ってます。
で、そのセカイ系作品が90年代にはんえいし、「絶句」が1983年に発表されたことを考えると、新井素子の先見の明には驚かされるばかりです。
セカイ系作品のもう一つの特徴である、「やけに小難しい哲学チックな話」もクソ薄っぺらいながら、ちゃんと描かれてるので、もうこれセカイ系ぢゃん......、もとこっょぃ。
展開が無茶苦茶
小説のテイをなすためにも、ある程度ちゃんと筋の通ったストーリー展開をして欲しいものです。しかしこの「絶句」、そうはいきません。突然のデウス・エクス・マキナまでは
素子ピンチ
↓
素子覚醒
↓
素子TUEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE
という†黄金の図式†で物語が進行していきます。お前、なろう系の主人公か?
とまあこんな感じにある日突然無敵になった主人公が無双していくの、なろうっぽさを感じます。とはいえ、この無敵モノは特撮とか時代劇とか、そこら辺にもルーツを持ってる気はしますが、それ言い出したらキリがないわな。今は小説の話をしているのだ。
おわりに
とりあえず新井素子と現代ライトノベルとの共通項は、既に述べたとおりです。少なくとも「・・・・・絶句」を読んでわかるのは。
......と、言いつつですね、ライトノベル、思った以上に小説以外のサブカルチャーの影響を受けていて、新井素子要素を探そうにも結構変質してて共通項探すがかなり大変でした。まあ小説としての源流は新井作品にあるのは間違いなさそうです。おわり。