音楽というものは、あるいは芸術というものは一般専門的な訓練を要し、一生を捧げた道でその人なりのスタイルを確立し、表現し続けるものであり、それは英才教育に始まる門閥教育の賜物である。
くだらない話である。
芸術というものはそもそも志したものすべてが自由な表現を行うことができるもので、それを「利益誘導」と「社会的ステイタス」のために、学閥や門閥などという狭苦しく汚らしい小部屋に押し込めたに過ぎないのである。
とはいえ、何でも自発に任される自由なものかというとそうではない。
世の中に言う、センスと理論の二分論がこのあたりに出てくるのである。
私のこれまでの経験から言えば、この二分論はどちらも致命的に誤りである。
どうしてそう言えるか。
それはそのそれぞれを強く標榜する音楽家にあって、それぞれの見地からの楽曲をじっくり聞いた経験があるからだ。
まあ児戯にも劣るどうしようもない音の羅列に過ぎなかった。
なぜ、そうなるか。
センスを標榜するものは、とかく音楽は自由であるという。
そしてそれは理論の統制を受けることを原理的に受け付けないはずだと。
この説、実に簡単に反証できる。
音楽理論というのは、実のところ体系づいているようで、そうとも言い切れない曖昧なものでもある。
そしてそのせいで内容は難解な部分が多々あり、独習者には向かないという側面がある。
そこに人に習うことに2つの抵抗を持った者が現れたらどうか。
1.コミュ障でまず他人との関係構築に非常に強いストレスがある
2.プライドが高く、他人の教えを乞うのは恥ずかしい
そうすると、内的な音楽を作りたい衝動と、それらのバランスを図るべく心理が動き、習うことからは逃避して、不出来なものを褒めてもらいたいという幼い心理が
他者への批判の形で表に現れてくる。
その最たる敵は「理論」そのものとなるのだ。
しかしそれではすぐに見抜かれ論破されてしまうので、まずは同じ考えで売れたミュージシャンの名前を用いて補強する。
次にはセンスにおけるロジック建てをし始めるのだ。
今まで耳にしたお粗末極まりないロジックにこんな物があった。
1.私がアートそのものなのだから、私が感じたとおりに作るればすなわちそれがアートだ。
2.センスが脳から筋肉を伝って音になる。つまりセンスがすべてを支配していることに疑いようがない。
見事な逃避、見事な自己防衛。
そして美しいまでのズレっぷりはネタの領域に達しているのではないだろうか。
なるほど、センスだけではどうにもならない事はわかる。では理論に偏るものはどうしてだめか。
こちらも簡単。要はマニュアル人間と同じ理屈で、手引や手本がないと音楽が書けなくなるのだ。
理論というのは、過去の多く人の研究とセンスをまとめた定跡書なのであって、
そのとおりにやって音楽ができるというものではない。
理論に拘泥するものは、要は表現者としての根幹をなす「表現」自体に自信がないので、他人の威光の結集であるところの理論をすべてと崇拝して、それを絶対の指標とし振りかざすだけの人になるのだ。
両者のバランスは、お互いがお互いを深く理解して共存し、
すべてが表現の下に整然と並べられることが望ましいのだが、
どうやら多くに人はこの最序盤で失敗してしまうのだ。
この二分論は何もアマチュアのつまらん水掛け論だけで起こっているわけではない。
プロの世界ではこれらの共存は当たり前の常識のはずだが、形を変えて、アカデミズム、反アカデミズムという形で表出してきてしまう。
この名作同、私はたしかに専門的な訓練を受けて来たかもしれないが、会自体は在野の集団である。
では在野の集団は専門的な音楽をやってはいけないのか?
話は頭に戻る。
そんなことはあるわけもない。
私はこれまで音大進学組、プロの音楽家、アマチュア、全くの素人と沢山の人間を指導してきた。
そして特に自分の指導は、在野の音楽家教育を特色にしていると思っている。
つまらない門閥、学閥のしがらみを脱し、自らの学びたい欲のまま多くの人と交わり、様々に音楽を吸収、研究できるという言う意味では、狭い組織に押し込められるよりはるかに理にかなった音楽教育が実践できると本気で思っているのだ。
無論そのためには先端的な音楽の研究を教師自身が絶やしてはならないなど、専門機関の存在なしには具現化出来ない側面があるのは事実である。
しかし専門機関の研究を、在野から学ぶことも何ら問題があるとは思わない。
それに、英才教育組の実情というのも、日本においてはそれほど美しく、かつ専門的ですら無いのも知っている。
良い例がクラシックの教師にありがちなことだが、弟子がちょっと変わった曲、あるいはPOPSなどを演奏しようものなら烈火のごとく怒り出す先生の存在だ。
ベートヴェンや、バッハ、モーツァルトだけが音楽なのだろうか?
生徒が自分の深めたい研究をしてなにか悪いことはあるのだろうか?
そもそも師とはどんなものが来ても、たちどころにそれを理解し、咀嚼し、稽古をつけられる存在ではないのか?
疑問と怒りは尽きないのである。
特に私が我慢ならないのが「生徒の将来」という部分においての、音楽教育のあまりの無意味である。
たしかに伝統の護持、伝統の探求は必要である。
しかしそれと「生活をする」というのは共存の中になくてはいけないはずだ。
高い金を出して音楽大学に進学しても、結局食い詰めて楽器をやめてしまう背景には、才能の不足、技術の不足よりも、こうしたアンチ授産の考えがあるからと言う方が大きな割合を締めてるのではないだろうか。
すなわち、音楽大学は授産施設ではなく、芸術家の養成機関であるという態度だ。
だからイロモノと言っては失礼だが、変わった曲すら扱おうとしない「差別主義者」が
芸術家の顔をしてしたり顔で権力に居座ることができる場所になってしまうのである。
食い詰めた人はもっと師匠を、学校を恨めば良い。
そしてたまには裁判でも起こればいいのだ。
師匠は高い金を奪うだけで、その金銭に見合う内容のレッスンをしているのか?
レッスン内容の評価が外部からなされない機構である以上、その価値を証明することは困難であり、
生徒自身がシビアにそれを見つめる以外にないと言えるのではないか。
そして師匠はその金銭と引き換えに、弟子に足してどれだけの責任をとっているのか?
私が最も疑問に思うのはそこである。
専門機関、専門職として技術を伝承するだけでなく、仕事をしていくものとして、仕事の仕方を教える必要を感じないのだろうか。
もっともそんな事考えたこともなく「オトナ」になってしまったゴミが大半なのだろうから、考える能力のある先生はすでに実践しておられることだろうが。
私は個人的にどちらの世界も見てくることが出来た。
門閥、学閥の良さも悪さも知っているし、
専門機関と在野のそれぞれの長所短所も知っている。
だからこそ、いまここに師の責任を問いたいのだ。
そして、作る側の一音の責任をもまた同時に問いたいのだ。
こうやってアマチュアの世界、プロの世界をよくある二分論から眺めてみると、
音楽はその魅力、その深淵とはかけ離れた、実にお粗末極まりない「業」によって蝕まれてしまっている事がよく分かる。
あなたが、音楽を志すなら、何を選びますか?