名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」騒動に見る・芸術の斜陽&現代の病

私たち名作同が活動している名古屋では、3年に一度大きなアート作品の展覧会があります。

国内外のアーティストを呼んで愛知県芸術文化センターで盛大に開かれるその祭典の名は、皆さんご存じ

あいちトリエンナーレ

です。

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草間彌生が参加したこともあった

2010年に第1回が開催されたばかりの比較的新しいイベントで、当時の愛知県知事・神田真秋氏が掲げていたマニフェストによって実現に至りました。

詳しくは下のWikipediaを参照。

ja.wikipedia.org

 

さて、最近になってこの「あいちトリエンナーレ」は急速に有名になりましたね。

それも悪い意味で。

今回は、そんな「あいちトリエンナーレ」の騒動の原因となった

「表現の不自由展」*1

について書いていこうと思います。

また、展示そのものだけではなく(むしろそれよりも)、この一連の騒動に対する僕の考えや分析的視点も交えて話を進めようと思います。

というのも、「表現の不自由展」に端を発する騒動を俯瞰すると、

「現代の日本で何が起こっているのか?」

「現代の日本でアートというものがどう捉えられているのか?」

そういったことが分かるからです。

 

先に結論を言っておくと、この騒動によって

 

現代日本ではアート全く理解を得られていない

 

という現実があらわになったと思います。

そして皮肉なことに、

 

「表現の不自由展」

 

よりも

 

「『表現の不自由展』にまつわる騒動

 

の方が、明らかにより芸術的な存在になってしまったのです。

 

【もくじ】

 

「表現の不自由展」騒動の概要

さて、「あいちトリエンナーレ2019」が今年8/1に開催されてから今まで、色んなことがひっきりなしに起こりました。

「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展」の画像検索結果

「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展」の画像検索結果

「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展」の画像検索結果

「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展」の画像検索結果

というわけで、この騒動の簡単な流れを書いてみましょう。

 

  1. 「あいちトリエンナーレ2019」で企画展示された表現の不自由展・その後が、日本に対するへイトスピーチだとして炎上する(8/1)。
  2. 名古屋市長の河村氏が「表現の不自由展・その後」を視察し、展示を即刻中止にすべきとの見解を述べる(8/2)。
  3. 「表現の不自由展・その後」の展示が中止される(8/3)。
  4. 表現の自由の侵害だとして炎上し、愛知県知事の大村氏が河村市長を批判する。
  5. 逮捕者が2名出る(8/7)。
  6. 当初予定されていた「あいちトリエンナーレ2019」への補助金の不交付が決まる(9/26)。
  7. 補助金不交付に対して、後出し検閲だとして炎上する。
  8. 大村知事らにより、「表現の不自由展・その後」が展示再開される(10/8)。
  9. 展示再開に対し、河村市長らによる抗議運動が行われる(10/8)。
  10. 河村市長の抗議活動を大村知事が批判する。

 

いやーカオスですね。

これを見ててまず思うこととしては、結局のところ何をやっても炎上してますよね。

「不自由展が→展示中止で炎上補助金不交付で炎上→展示再開で炎上→抗議活動で炎上

とまあ、もはや収拾のつきようがない気がします。

 

さて、ここまでが前置きでした。

ここからは、上で説明した一つ一つの出来事について、芸術の観点から分析しつつ見解を述べていきましょう。

この「芸術の観点から」というのが重要で、「あいちトリエンナーレ」は芸術の展覧会として開催されているはずですから、本来は芸術以外の観点から語られる必要がないはずなんですよね。

ピッチャーフライを見事に捕った野球選手に対して、

「手を使ったらハンドだ! 反則だろ!」

と怒鳴りつけるサッカー選手がいるはずないのですから。

にもかかわらず、これ以降の分析を見れば「あいちトリエンナーレ」騒動がいかに芸術と関係のないフィールドで勝手に肥大化していったかが分かるはずです。

 

「表現の不自由展」の内容

これ以降の議論では、当然「表現の不自由展」でどういった展示が行われていたかを知っておく必要がありますね。

ニュースなどの報道を見ると、大体

「韓国の従軍慰安婦などの展示に批判が殺到した」

としか説明されておらず、まるで慰安婦像だけが物議を醸しているかのように見えてしまいます。

これはメディアの仕事としては非常に雑ですね。

情報を伝えたいのか視聴率を取りたいのか、一体どっちなんでしょうか。

 

まず、「表現の不自由展」のコンセプトは以下の通りです(公式HPからの引用)。

「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する。

 

そして、実際の展示にはには次のような展示が置かれています。

 

  1. 慰安婦像(『平和の少女像』)
  2. 従軍慰安婦の韓国人女性らの写真
  3. 従軍慰安婦を批判する内容の絵画(『償わなければならないこと』)
  4. 昭和天皇の写真を焼いた灰とその映像(『焼かれるべき絵』)
  5. 旭日旗を連想させると指摘されたポスター(『暗黒舞踏派ガルメラ商会』)
  6. 皇室の写真に絵の具で描かれた絵(『空気』)
  7. 米軍基地を批判する内容の作品(『落米の恐れあり』)
  8. 憲法9条デモについて詠み込んだため入選にもかかわらず掲載されなかった俳句(『梅雨空に「九条守れ」の女性デモ』)
  9. 香港の政治事情を体現する作品(『アルバイト先の香港式中華料理屋の社長から『オレ、中国のもの食わないから。』と言われて頂いた、厨房で働く香港出身のKさんからのお土産のお菓子』)
  10. 東日本大震災に関する言葉が削除され、ピー音に置き換えられた動画(『気合い100連発』)
  11. 安倍政権やアメリカの軍拡を批判する作品(時代ときの肖像ー絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳ー

 

ざっとこんなもんです。

実はこんなに盛りだくさんの内容だったんですね。

 

「表現の不自由展」の『本当の』内容

さて、これらの作品を概観して分かることがあります。

これらの作品、明らかに反戦・反政権寄りですよね。

確かにどれも過去に「表現の不自由」を被った経験のある作品たちなのですが、全体に見て左翼的な作品(右派に弾圧された作品)が多いです。

具体的には、5・9・10以外は全てがそうですね。

どうも左っ側に偏っている気が……。

というかそもそも、「表現の不自由」って別に政治的右・左の文脈だけで起こることじゃなくないですか?

パッと思いつくものを上げれば、エロ・グロ・暴力とかだってさんざん「表現の不自由」を受けてますよね。

例えば「クレヨンしんちゃん」からはゲンコツシーンが削除され、萌えキャラを起用した自衛官募集ポスターには批判が殺到、「はだしのゲン」は全国の小中学校図書室から消えようとしています。

だから、そもそも政治的『表現の不自由』」に限定する理由がよく分かりません。

展示のコンセプトを見てみても、

日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識 

が展示のテーマだと明記してありますから、こういった政治以外の「表現の不自由」も展示していいはずです。

 

以上を鑑みるに、この企画展の「本当の」テーマは何だったのでしょうか。

単に「言論と表現の自由を守ること」だけが目的だったと考えるには、少々無理がありますよね。

明らかにこの展示は、

現政権を政治的に批判すること

影のテーマとしています。

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芸術監督を務める津田大介



 

「表現の不自由展」は(少なくとも)芸術ではない

さて、ここまで書くと読者の皆さんは、僕がさぞかし政治に熱心なのだと思うでしょう。

が、僕は別に

「現政権を批判するなんて許せん!」

と思っているわけではありません

というか僕は基本政治に興味がないので、勝手にやってくれって感じです。

個人がそれぞれの考えを持ち、主張するのは大事なことで、他人が口を挟むことではありません。

 

が、ここで一つだけ問題提起しておきたいことがあります。

それは、

「『表現の不自由展』は本当にアートなのか?」

ということです。

「あいちトリエンナーレ」は芸術的なイベントですし、美術館に展示される作品なら当然それは芸術でなければなりません。

しかし、僕にはどうもこの展示が芸術であるようには思えないのです。

「芸術」を定義するのは難しいことですが、ここからしっかり

表現の不自由展」はアートではない

ということを論証していこうと思います。

 

「芸術」の定義

普通に生きて普通に暮らしている人にとって、芸術という言葉はかなりふわふわしていてよく分からないものでしょう。

おや、「そんなことないよ」って顔をしていますね?

だったら、試しに芸術の例を挙げてみてください。

なるほど、「モナリザ」「ピカソ」「ゴッホ」「バッハ」「ベートーヴェン」「夏目漱石」「太宰治」「谷川俊太郎」「オペラ」「クラシック音楽」「サモトラケのニケ」「考える人」……

たくさんの例が出てきましたね。

しかし、たくさんの例を知っていたとしても芸術を分かっているということにはなりません。

なぜなら、大切なのは

「これらが芸術だと言えるのはなぜ?

という部分だからです。

 

ところで、僕は科学「美学(=芸術)」とを対極の概念だと考えています。

科学が重視するのは、現象の観察と一般的な法則の発見です。

だから、科学の方法論というのは

答えが分からない状態から、何とかして唯一の答えを見つけ出す

という方向性になります。

つまり、「真実はいつも一つ!」という某バーロー名探偵のような感じになるワケです。

対して芸術が重視するのは、対象の解釈と主観的な感覚の発信です。

だから、芸術の方法論というのは

唯一の答えがありそうに思える状態から、何とかして答えなんて存在しないということを導く

という方向性です。

芸術の営みというのは、常識(=唯一の答えっぽいもの)に対して

「お前それ本当に正しいのかァ?」

とケンカを売り続けることによって、未だかつてなかった地平を目指し続けることに意義があります。

今の私たちが当たり前に生きているこの世界は、実はそのようにして切り開かれてきた昔の非常識」があふれる世界です。

J-popが流行り、みんなが学校に行き、男女平等が謳われ、個性が大事にされ、道端で急に貴族に斬り殺されたりせず、若者言葉が流行り、少子高齢化が進み、社会の格差が広がり、軍拡競争は止まらず……

そういった世界は、実は昔の人たちがたゆみなく「芸術的(=美学的)」努力を積み重ねてきたことで今ここにあります。

(そういった努力がなければ、世界は未だに縄文時代のままです。)

それが良いことか悪いことかは置いておいて、「芸術」というのはこういう営みだ、と僕は考えているのです。

 

以上のことをまとめると、芸術」の定義は、

“一つの答え”否定するもの」

と言えると思います。

だいぶすっきりまとまりましたね。

 

「政治」≠「芸術」

さて、以上を踏まえて「表現の不自由展」を見直してみましょう。

果たしてこれはアートでしょうか。

答えはですね。

この企画展示は、明らかに

「今の政権はだ:平和な世界こそだ」

という

一つの答え

に基づいて企画されています。

つまり、この企画は芸術ではなく

政治

だということです。

 

政治芸術に入るのか?」

という議題は、しばしば語られて侃々諤々の議論を巻き起こします。

というのも、政治から生まれてきた芸術作品や文化というのは数多くあるからです。

ただ、僕の考えでは政治は芸術ではありません

この2つは一見似たことをやっているように見えるのですが、考え方の根本が微妙に違うのです。

 

政治も芸術も、

より新しい地平に向かって手法を更新し続けていく

という点は同じです。

しかし、その際の前提が異なっているのです。

政治は、

「現在の手法よりもっと良い方法があるはずだ」

という発想で先へ進んでいきます。

が、芸術はそもそも善悪の価値判断を含んでいません

つまり、

「現在の手法のその先があるはずだ」

という発想で先へ進んでいきます。

だから、

「あのアートは正しいがこのアートは間違い」

ということにはなりません

これが政治だと、

「あの政治は正しいがこの政治は間違い」

ということが自然と言えますよね。

現に、お役人様方は椅子に座って毎日どっちの政治が正しいのかヤジを飛ばしあっているわけです。

これが芸術政治」の違いなのです。

 

騒動全体のバカらしさ

大変長らく書き連ねましたが、以上のことを理解しておくと、この騒動が最初から最後までアートと全然関係ないフィールドで過熱していることがよぉ~く分かります。

順番に行きましょう。

 

まずは、

1.「表現の不自由展自体の炎上

ですね。

これは主に、慰安婦(『平和の少女像』)と天皇の写真を燃やす作品(『焼かれるべき絵』)の展示が批判を呼んだことで起こっています。

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平和の少女像

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焼かれるべき絵

が、批判している人たちの言い分を聞いてみると、単に

反日的で不快だ!」

天皇の御影を焼くなんてとんでもない!」

というだけの意見が目立っている気がします。

 

 

いやそんなことはどうでもいいよ。

 

どれだけ常識外れだろうがタブーだろうが他人を不快にしようが傷つけようが

「作品としての芸術性

があれば、作品は美術館に並ぶ権利があります

この点を河村市長も勘違いしていて、彼のコメントを見ると

 

「どう考えても日本人の気持ちを踏みにじるものだ」

「こんな日本人の普通の人の気持ちをハイジャックして。暴力ですよ」

 

などと言っていますが、別に日本人の気持ちをクソほど踏みにじるハイジャッキーな暴力だったとしても芸術が芸術であることは変わらないのです。

 

だから、表現の不自由展」を批判するときにやるべきだったことは、

 

芸術ではないものが美術館にあるのはおかしい

 

この一点の指摘だったんですよ。

 

 

が、結果として起きたことは一体何だったでしょうか

言うまでもありませんね。

全然「芸術」と関係のない善悪の議論が巻き起こり、挙句の果てには展示が中止されてしまいました

分からないですかねえ……。

 

これじゃあ津田芸術監督の思うツボなんですよ。

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津田芸術監督

 

表現の不自由展と題して行われた展示が、まるで題名を回収するかのように「表現の不自由」を被り、作品として完成してしまったのです。

この程度の展開を津田氏が想定していない訳がありません。

みすみす彼の政治的プロパガンダを成功させてしまった責任は、あまりにも芸術に対して無知だった多くの市民にあります。

もし「表現の不自由展」をちゃんと芸術としての観点から批判できていたら、こんなことにはならなかったはずです。

 

2.展示中止で炎上

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さあ、河村市長の意向もあって即座に中止された表現の不自由展、次にどうなるかなんてカタツムリでも分かりますね。

 

表現の自由はどうした!」

 

と、当然こうなるわけです。

事実、どんなにクソみたいな作品暴力的な言葉ドエロい絵画だったとしても、表現の自由がある限り誰にもそれを遮る道理はありません公共の福祉に反しない限りは)

だから、もし仮に「表現の不自由展」が

反日的な展示だったから」

という理由で中止されたとしたら、それは表現の不自由展」のテーマにまさしく沿った形の人権蹂躙と言えるでしょう。

 

ただ、先ほども言ったように僕はこの表現の不自由展を芸術だと思っていません。

芸術でないものが美術館にあるのはおかしい(ペットショップで牛肉を買おうとするようなもん)から、別に展示が中止になること自体は変に思いませんでした。

ただ、あの流れでの展示中止ではどう見ても表現の自由の蹂躙のように見えてしまいます。

事実、展示中止した後のメディア各社はクッソうるさかったですね。

表現の自由!」

表現の自由!」

表現の自由!」

と声高々に糾弾していました。

 

さあ、この表現の不自由展論争、この時点ですでに芸術と全く関係のない土俵に引きずり込まれて収拾がつかなくなっています

絶対に勝者が生まれない議論を続ける羽目になっているのです(敢えて言えば津田氏が勝者)。

どうして誰も気づいてやれなかったんでしょうか。

 

3.補助金不交付で炎上

こうして「あいちトリエンナーレ」は見事に砂漠化しました。

もう取り返しは付きませんね。

しかし、ここでこの砂漠に再びガソリンが撒かれてしまいます

当初予定されていた芸術助成金全額不交付になったのです。

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これに対して、多くのメディアが

「表現に対する検閲だ」

との批判を寄せて炎上しました。

 

からしてみれば、

芸術じゃないものに芸術助成金がつくわけないからまあ当然じゃねぇ?」

って感じですが、世間はとっくに(というか一度も)芸術の話なんかしてないので、当然あさっての方向に向かって議論を白熱させていきます

まあ、しょうがないですよ。もはや。

 

4.展示再開で炎上

これも、再開するくらいなら最初っから展示中止になんてしなければよかったんですよ。

一回中止してから再開するせいでもうなんかよく分からんことになるじゃないですか。

大村知事の働きかけで実現した展示再開ですが、河村さんと大村さんの考えがばっちりケンカしちゃってることがよく分かります。

 

5.河村市長の抗議活動で炎上

で、展示再開に対して河村市長が座り込みを行いました。

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実際に7分ほど座り込んだらしい

市長の身分でそこまで身を呈するのは普通にすごいですね。

が、彼は自分のやっていることがアートに対して何ら説得力を持たないと理解してるんでしょうか。

愛国心が先走りすぎで、この騒動における彼の行動は全て裏目に出てる印象です。

 

絶望的まとめ

さあ、どうでしたか?

ここまでの長~~いお話の中で、

 

 

登場人物の誰か一人でもアートを理解していたでしょうか。

 

 

本来なら、この騒動はここまで大きな事件になるようなことではありません。

津田氏が公金を使ってプロパガンダを打とうとしていた時点で、誰かが

 

「あーちょっとキミ。

 それは芸術じゃないよ。」

 

と言ってやるだけでよかったのではないでしょうか。

 

というわけで、こんな下らない些事に大勢が身をやつすことになったのは、間違いなく

 

今の日本がアートに対して無関心すぎたせい

 

です。

民衆もそうだし、市長も、知事も、も、美術館側も、国の行政も、誰一人としてこの事件を

芸術の観点から

捉えることができませんでした。

こんなんでいいんでしょうか……。

 

こういうありさまを見ると、僕も名作同の会長として

「まだまだ頑張ってアート表現を広めていかねばなあ……

と思わされます。

 

そして芸術になる

さて、こうして完全に収拾がつかなくなった表現の不自由展

ここで不思議な現象が起こります。

騒動全体を俯瞰してみてください。

 

 

 

 

 

 

 

ありとあらゆる人たちが、

ありとあらゆる立場から、

てんでんばらばらな見解を述べているではありませんか。

 

しかもそのどれもが

正解である

というようにも見えませんし、

間違っている

とも断定しがたい。

 

 

 

そう、なんとこの

『表現の不自由展』騒動

これ自体がアートになってしまったのです。

 

 

こんな展開誰が予想していたでしょうか。

あの天下の芸術監督・津田大先生とて全く予想していなかったことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

今の、笑い所ですよ。

 

〆の言葉

さあ、もうこんなお笑い種は終わりにしましょう。

こんなことは一度起こっても二度目はもうたくさんです

この世界に芸術」の光を届けたい、というのが僕らの願いですが、その理由はもういい加減分かってくれたんじゃないでしょうか。

 

というわけで、長々と書き連ねましたがお疲れさまでした。

明日からもどうか変わりない日々をお過ごしください。

 

 

 

 

 

 

 

 

いや変われよ世の中。

 

*1:正しくは、今回問題になっている展示の名前は「表現の不自由展・その後」である。過去に無印の「表現の不自由展」という別の企画があり、「その後」ではその流れを汲んだ最新の内容を扱っているとのこと(詳細)。