名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

「現代音楽=無調」は本当に過去のものになったのか?

Superscriptio/Brian Ferneyhough

 

 先日本ブログに当会の発起人であるトイドラくんが面白い記事を書いた。曰く、彼は梅本佑利のコンサートを聴き、彼の作風の変遷に触れ、そこで「現代音楽=無調」の時代は終わったと感じたというものであった。
 ちなみに、これは余談だが、トイドラくんは名古屋在住、コンサートは神奈川県で行われ、東京から横浜まで移動して聴きに行ったそうだが、その日の東京は凄まじい豪雨に見舞われており、さらにその豪雨をもたらした雨雲は横浜市へと南下したので、彼は、嵐に揉まれながら会場に行ったことになり、早くに行動を開始したにも関わらず、1時間の遅刻となってしまったという。正直言って、東京在住の私からしても例のないような豪雨災害となった日で、彼が災害に巻き込まれなくて本当に良かったと思った。

 

トイドラくんの過去記事を本記事を読む前にもう一度読んでみてほしい

 

nu-composers.hateblo.jp

 

 ここでフィーチャーされているのは当然ながら日本の若手作曲家の期待の星、梅本佑利(2002-)であることは言うまでもない。彼の作風は一般的な意味で言われるところの現代音楽作品から、オタク文化を取り込み、音MAD的な手法を用いて、それを芸術かと歴史に問い、さらに自身のクリスチャンとしての側面をさらけ出した作品群へと変遷、さらに最新作ではトイドラくんの感想によれば、完全に平易な調性音楽へと進んでいるということであった。
 梅本くんはトイドラくんのやっているYoutubeチャンネル「音楽ガチ分析チャンネル」にゲスト出演するなど、若手作曲家同士交流があり、また同世代、よく言われるZ世代としての共感もあって、親しみをもっていることは間違いなく、またトイドラくん自身も最近無調作品への興味を失いつつあり、単に格好の良い曲を書いて何がおかしいか無理に無調にする必要がないといった思考を取り始め、特にPops作家としての側面に軸足を移し始めている中での梅本くんの新作との邂逅は、それは大きな衝撃と、自身のぼんやりとした憤懣に対する確証を得た思いであったことは当該記事を読めば明らかである。
 またトイドラくんの師匠として長年教えてきた身からすると、梅本くんに対しての憧れや親近感を持っているなと感じるケースも多く見てきたこともここに補足しておきたい。

 そこで、トイドラくんがこの記事で書いた「現代音楽=無調」本当に終わったのか、私は確かにZ世代に位置づけられる作曲家は顕著に、それまでのモダンコンテンポラリーの文脈の音楽の中でも聴きやすさ、個人的な美学の追求になんの衒いもなくなったと感じてはいたが、たった一点の抽出サンプルでは抽出例が偏ってしまい、結果として答えが自分の思いと呼応する方に流れてしまっているのではないかという疑問を持ち、それを結論づけるのは拙速なのではと感じたので、彼の考えはとても理解できるし、共感する所も多いものの、それが国際的な潮流に照らし合わせたときにも言えるものなのかを差し出がましく検証してみようと思った次第である。それも以下の条件を加えて、なるべくバイアスや答えありきの論にならず、フェアに好奇心からの調査となるように注意するようにしてみたつもりである。

今回の条件
・活躍の度合いは問わない
・国籍、活動地も問わない
・2000年以降の生まれであること
・なるべく最近作であること
・それらの音楽の包括的な作風比較から、前説の国際的な潮流との比較をすること
・反対意見に的を絞らず、肯定的な意見となることも排除せずフェアな抽出とすること
・作品のリストアップにはあえてAIを共同作業者にし、人間的恣意性を排除して抽出すること
・挙がった作品の分析はAIや他者に頼らず、作曲家としてそれぞれを自分の知識と経験において分析比較する

 

 これだけの条件をつければ、一つの答えありきで対論を書くという、なんの意味もない行為になることからは逃れられ、単純に若い同世代の国際的な作風の潮流がどうなっているのかを比較できるだろう。そしてその結果がトイドラくんの説を裏付けるか、はたまた否定するかを、私の個人的な考えに影響されずに検証できるはずだ。

 まず作曲家の抽出だが、実はこれは案外大変な作業で、共同作業を複数のAIで行ったが、AI自体も弱音を吐く作業となった。なぜなら、最近作曲家が自分の出自や生年を書かないケースが標準化しつつあるからだ。これはグローバリゼーションと個人の意識、さらにプライバシーについての考え方が変化してきて、私は私であるだけで、バックボーンも年齢も先入観を与える要素に過ぎず、意味がないものだと考えるものが世界的に増えているからであるといえる。このため詳しい来歴すらわからないということもしばしばだ。翻って表現者としてはその姿勢は理解できるものの、50近いおっさんからすると、個で勝負する前にその個は確固たるものなのかの証明の手段を軽々に手放すのは、いささか拙速な戦略とも映る部分であるとも感じてしまう。
 まあZ世代的にはそれを代表するフレーズで言えば「うっせーわ」の一言なのだろうが、まあまあ私も「ガタガタ言ってんじゃねぇ!」の気持ちで行きたいと思う。

 と、そんなおっさんの愚痴を憤懣として感じている中、一応の作曲家のリストアップが完成した。その中から、恣意的に作品抽出をしてしまっては意味がないので、バックボーンの明らかなものを抽出し、更にそこからランダムに選んだもので抽出比較してみよう。

 

1.Kai Kubota-Enright

Kai Kubota-Enright



 一人目に選ばれたのは奇しくも日系カナダ人の作曲家Kai Kubota-Enrightである。彼のフルネームはKai Shinnosuke Kubota-Enrightであり、ロサンゼルスを拠点として活躍する若手作曲家であるが、出身はカナダのブリティッシュコロンビア州バンクーバーであるとのことだ。
 研究テーマは音と空間環境、個人の記憶と主観性がそれらとどのような相互作用をするかだと言い、2025年のグラハム・ソマー・コンペティションの最優秀賞を受賞したことで脚光を浴びるようになった。現在は南カリフォルニア大学修士課程に在籍していて、将来の活躍が嘱望されるホープだということ。作曲はMelissa Huiに師事しており、生年は非公表ながら受賞歴等から考えて少なくとも2000年の生まれ、若ければ2007年生まれまでの可能性があることがわかっている。

 さてそんな彼はどことなくLGBTQ的なニュアンスも持っている、なかなかおしゃれな若者である。こういった中庸性も国際的のこの世代に増えたキャラクターと言っていいだろう。そして彼の作品は、個人経験と音楽の空間との関連性において、ここでもバックボーンに自分自身の個人的世界観が下地になるというもので、世代間としてZ世代的な潮流に相違がないように思われる。
 ちょうど今年2025年に大きな賞を受賞したことで注目され始めており、その作品は「spatial communication of dripstone 」と題された作品である。日本語に訳すとやや難解だが「鍾乳石の空間コミュニケーション」ということになり、空間と鍾乳石から放たれる音、おそらくは水の滴る音に対する個人的な印象と、その空間が示すものは鍾乳洞という非常によく響く空間のことを指すのだろうか、そういった関連性を掘り下げようとした室内楽であると思われる。とりあえずこの曲を聴いてみよう。

www.youtube.com

spatial communication of dripstone/Kai Kubota-Enright

 

 聴きやすい作品だが、調性的とは言えない。どちらかというと、ポスト・ミニマル的なリズムの繰り返しに、ノイズとスペクトルをあわせて得られたような響きを特徴としているように感じる。
 ピアノも内部奏法を多く用いているし、他の楽器も印象的なサウンドを出すためにJet Wistleや弦の噪音を巧みにレイヤーし、印象的で確かに空間描写的な音楽となっていると言えるだろう。
 ただ、その後法の源流を探ると様々で、彼自身がライブパフォーマンスも行っていることから得られる、Pop性や、倍音に見られるスペクトルの揺らぎ、さらに三和音が表出しても構わないという無調ありきではない姿勢が感じ取られ、その言語は折衷的と言っていいように思う。
 また彼は日系人らしく「蝉」という作品も2023年に発表しており、こちらでも同様の響きを聞くことができる。こういった折衷性は今回のような比較研究ではキーポイントになる点だろう。私は彼の作品に非常に親近感と、ある種の強い共感を覚える。なぜなら、私が好んで試す音楽の形態と酷似しているからである。こういった折衷的な語法こそ、折に触れてテーマに合わせた変形ができる最も便利なスタイルだと思うからだ。

 さてこの曲をみても、無調は終了したとは言い切れないのかもしれないと思ってしまう。続けて例を見てみよう。

 

2.Finn Mattingly

Finn Mattingly

 次に挙がったのは、Finn Mattinglyである。
 2004年アメリカはボストン出身の作曲家であり、ニューイングランド音楽院でRodney Lister電子音楽Aaron Smithに師事、現在ロンドン王立音楽院で学んでいるという。
彼のテーマは音素材、自然音響、そしてユニークなのは山根明季子さんのように、幾何学模様を自身の作曲の源泉と位置づけていることである。
 こういった「形」「触感」「空間的体験」というのはこの世代に極めて大きなテーマとなって突如現れたものであり、個人が造形から何を感じるかという点について深堀りを試みる作曲家が増えているのは国際的にも面白い共通点ではないだろうか。
 彼は2004年生まれだから梅本くんよりさらに下の年齢ということになるし(ほぼ同じではあるが)、国際的に名前が聞かれる作曲家の中でも特に若い世代の一人ということができるだろう。
 そんな彼の新しい作品として、大アンサンブルのために書かれた「Thistles」という作品がある。タイトルは「アザミ」という意味であり、2025年発表の最近作である。
とりあえず聴いてみよう。

soundcloud.com

Thistles/Finn Mattingly

 

ちなみに彼はスコアを公開しており同曲のスコアがここで読める。

drive.google.com

 

 弦楽八重奏曲として書かれた本曲は、素材は非常に薄い物となっている。同音やそれにまとわりつく近い音への執着と、そこから徐々に注意深く広げられてゆくハーモニー的な世界観が印象的である。こちらもひところのモダン作品に比べてわかりやすく、とても聴きやすい。
 彼の関心の一つに音響的な不条理というものがあるそうで、アザミという花を媒介に、編成の大きさをあえて狭める語法と倍音を偏重する作風によって、ここでも個人の感覚的記憶が投射される作品となっているように感じる。
 こういった素材限定的な作風もこの世代、あるいはもう一世代前から急に増えてきた語法であり、そういった意味ではポスト・ミニマルの影響は免れないものではないかと思える。語法はポストモダン的なもので埋め尽くされており、自分にとっての美しい音色がどのような形で表現されようが、それは個人の範疇の記憶の顕現化であって、無理にモダンにしようという考えは不自然と主張するような内容である。
 1つ目の例より語法は限定的ながら、こちらも調性や無調といった区分は設けていないだろうし、個人的な音空間を重要視している点でも同世代性はハッキリ現れていると言えると思う。

 

3.Sofia Jen Ouyang

Sofia Jen Ouyang

 3つ目に挙がったのはSofia Jen Ouyangである。全く知らなかったが台湾出身の作曲家で2001年生。漢字表記では欧阳真真と書いている。
 コロンビア大学に学び、Andrew NormanAmy Beth Kirsten等に師事し、同大学院博士課程に在学中ということである。
 作曲テーマは、音楽・文学。哲学の衝突や交差、カテゴリ同士の曖昧性やその境界性であり、ジェンダーやアイデンティーについても同様な境界性や曖昧性があるもとして追求しているようだ。このあたりも世代間を全面に押し出している観念と言える。
 彼ら世代の音楽には闘争の形がイデオロギーから反イデオロギーに変化していっているというニュアンスを強く感じ、それは多様性であったり、境界の不存在性への言及、さらには世代間闘争やイデオロギー闘争に対して、単に個人として挑もうとする視点であり、中庸性の暴力的な顕在化とも言える新しいアイデンティティーの表明があると強く感じるところがあり、このこともまたこうやって見ると国際的にも当たり前になってきている概念なんだなと痛感するのである。国体護持も学生運動も古いってさ団塊世代しらけ世代等と言われる日本のジェネレーションにあっては、彼らから国際的にも古臭いと烙印を押されているようにも見える。昭和どころか、20世紀は遠くなったのかもしれない。

 それでは彼女の曲を聴いてみよう。「Entangled」という大アンサンブルとソプラノための曲を2024年に発表しており、彼女が特に歌唱を取り込んだ作品に重点を置いているという点からこれを聴いてみたい。

www.youtube.com

Entangled/Sofia Jen Ouyang

 

 なお、この動画は楽譜付きとなっているので、音楽を聴きながら楽譜も読める。

 これまで並んだ作品の中ではいわゆるモダンな現代音楽と言われる雰囲気が一番濃い作品と言えるのではないだろうか。明らかに無調であり、特殊奏法も多く、歌唱も様々な特殊唱法を駆使しており、キャシー・バーベリアン以降積み上げられてきたいわゆる「声芸」みたいな技が平易に採り入れられていると言える。その一方で、音の衝突は注意深く設計されており、スペクトル演算を用いている感じがするし、リズムの導出にもパラメータ演算を用いていると感じられる部分が多々ある。いわゆるポスト・チェルノウィン的な語法が中心を占めているのかなと感じる。
 また、その他の作品を聴いてみても、これは中国圏の作曲家が多くテーマにすることでもあるが、Violinのソロがまるでピンインをなぞるようなラインを取ったりすることから、言語と音楽の境界を曖昧にしようとする企てがハッキリ読み取れる。その反面、連続五度の響きを多く用いることで、響きの安定感が増す点では、モダニズムの時代には遠ざけられた手法であり、そういったことにも抵抗がないのは、世代性を表している署名的な書き方なのかなと思ったりもする。
 うーん折衷的といっても東洋的な語彙と現代音楽の境界を今一度見つめ直そうとすると表現したほうが良い手法であり、無調否定論には繋がらない作風であるが、ハッキリとしたメロディ性をもつ作品が多いのは、前時代語法へのアンチテーゼとも取れるかもしれない。

 

4.Szymon Golec

Szymon Golec

 今度はポーランド出身の若手作曲家である。
 Szymon Golecは2002年ポーランドクラクフの出身、クラクフ国立音楽院に学び、作曲はMarcel Chyrzyńskiに師事したという。
 彼の活動はコンテンポラリーの範囲に留まらないものであり、今回最もこの世代のジャンルを意識しない活動を見られる一人かもしれない。電子音響、即興、視覚芸術にユダヤ神秘主義、心理性などを作品の源泉と捉えていて、作品にはいわゆるサンプリング素材を使うことさえあるというのはまさに若い音楽家の特徴そのものだと言える。案外静かな音響空間を好む作風だということだが、国内ではすでに受賞歴を重ねており、まもなく国際シーンにも名前が出てくるであろう存在と言えよう。
 彼の作品だが、ここは特徴的なもの2つを紹介しようと思う。まずはモダンな作品として2025年に書かれた「State of suspennsion」という室内楽である。これまた難しいタイトルであり、日本語に翻訳するなら「保留状態」ということができるだろうか。一時停止しているものを観察するという試行がなされていると考えられる作品と言えるかもしれない。
早速その作品を聴いてみよう。

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State of suspension/Szymon Golec

 

 お聴きの通り、極めてモダンな作品であり、語法も前衛的なものに限局されている。今回で最も旧来のモダニズムよりの作風かもしれない。噪音、特殊奏法、そして点描的な静謐が作品に通底している点でもこれまでの潮流からの変化が少ないと言えるかもしれない。
 こういった器楽作品での彼のサウンドメイクについては、もう一つ知っておくべきバックボーンがあるようで、それが電子音楽による作品群ということになる。彼のようにジャンルをまたいで横断的活動をするものはそれぞれのジャンルの制作方法が自身の活動と共ににその垣根を乗り越え、他ジャンルに移入されることはしばしば見られる。そういった点を踏まえ彼の電子音楽作品もちゃんと聴いておかねばならないと思う。

www.youtube.com

OTHER DIMENSIONS/Szymon Golec

 

 2023年に制作されたアニメーションを伴う作品で、アニメーションと音楽をSzymon Golec自身が手掛けた作品である。
 なるほどこうしてみると彼が、彼の美学として何を根幹に据えているかは一気にわかりやすくなる。神秘主義幾何学、さらに心理性というものを映像が強く示しているし、音楽もたしかに先程の器楽曲と同じようにラニューラーシンセによる不可解な音響群として表現される一方で、最後に突如登場するメロディーの断片が印象的であり、メロディを拒絶する姿勢は彼の中にないということが伺える。
 音響作品というのはメロディというものをしばしば邪魔なものと捉える傾向にあり、そういった意味では演算によってもたらされるであろう音響の中に、通常の旋法的メロディーが嵌入してくるのは論理性を破壊しかねない感覚的操作とみなされていたということなのだが、彼にはその矛盾はないようである。それは翻ってみると、やはり折衷的な語法の一種であり、前例の器楽曲にもメロディーへの拒否感はないということが伺えるのは同一の視座として語られて良いものであろう。しかし当然のようにここでも前衛語法、無調は重要なテクスチャとして採用されていることは疑いようもない事実である。

 

5.Alma Deutscher

Alma Deutscher

 本日最後に挙がったのはなんと2005年生まれの作曲家である。現在、国際的知名度も上がっておりすでに多くの受賞歴、また委嘱を受けている。実に20歳になったばかりの若手だが、16歳でレオナルド・ダ・ヴィンチ国際賞を受賞したことで知られるようになったようだ。そしてこれまでの作曲家とは明らかに違う系譜であり、また幼少期から活躍したという点で前時代的な天才の像を表しているとも言えるだろう。
 わずか7歳で作曲したオペラがあり、ヴァイオリン協奏曲も9歳で作曲とその才能のほどが知れるエピソードは枚挙にいとまがない。
 作曲については幼い頃からオンラインレッスンの形で、Tobias Crammという人物に学んでおり、彼女の作風を決定づける事になったと言える。というのはこのTobias Crammという人物は18世紀様式の即興演奏の研究者であり、それに基づく理論体系を整備した人物であることから、彼女もこの教えを叩き込まれ、18世紀様式の即興を得意とし、作曲する曲もいわゆる現代音楽からは距離をおき、18世紀的な作品を書くと表明するに至っている。
 さらにTobias Crammの研究を受け継ぐ、ノースウェスタン大学名誉教授のRobert O. Gjerdingenにも作曲の助言を求めるなどしており、その指導層はRudolf Lutz以来の18世紀音楽の研究家の系譜に限定されている点でも他の作曲家とは趣を異にしている。そんなわけで彼女の曲は古典派からロマン派のそれそのものであり、モダニズムや無調の影響など微塵もない純粋な調性音楽になっている。この点だけを見れば無調は終わったどころか、滅びきったとも言えそうだが、ここまでの例でも彼女のほうが特殊な位置にいるということは明らかであり、偏った抽出がバイアスとなる落とし穴がここでもはっきり見えてくると言ったほうが良さそうだ。
 ともあれ、彼女の天才っぷりを聴くとしよう。12歳のときに作曲されたピアノ協奏曲をここでは取り上げてみようと思う。

www.youtube.com

Piano Concerto/Alma Deutscher

 

 ちなみに彼女は英国出身。ちょっと姓に疑問を覚える向きもあるかもしれないが、これは父親がイスラエル出身の言語学者であることが原因である。
 またアルマという名前から、音楽史を多少なりとも知っているものとすればアルマ・マーラーの名前を思い出すだろうから、なるべくして作曲家になった天才と言ってもいいのかもしれない。とはいえ、彼女がアルマ・マーラーのような激しい人生にならないことを祈るばかりではあるが。
 そんなわけで、ちょうど最後に抽出された例が完全調性音楽を書く作曲家だったのは面白いことだ。再三になるが、抽出は複数AIによる無作為抽出を行っていることを、もう一度ここで表明しておきたい。

 


 以上、今回は広く抽出層を求め、付加条件を多く設けたうえで、更に公平性とできるだけバイアスを除く方法論を構築し複数例を見てきたが、結果として何が言えるだろうか。
 一つは「無調は終わった」とまでは言えず「無調が相対化した」のではないかということだ。
 この点はトイドラくん記事においての抽出例が梅本作品とその類似先例としてのBen Nobutoという偏った系譜のみになってしまったこと、加えてトイドラくんの思いとの共感がある種同じような系統の意見のなかでエコーチェンバーとなってバイアスになってしまったことを示唆しているように感じる。
 しかしもう一点は、全体にこの世代の作曲家は潮流や時代なんて関係なく個人の言語を個人の思いとして発信することに抵抗感がないという指摘については、これら抽出例からも支持されたと言って良いものであり、これは世代観自体が、連帯や団という点から、それに対しての個の闘いになっていることと、他者や過去に対する目線すらも冷笑的で、そうあらなければならないという一種の呪縛に縛られなくなっていることを強く示していると言える。
 この点についてはトイドラくんという人物や、彼が例示した梅本くんらの例とも相違なく、一つの大きな世代性と考えてよいだろうと思う。
 私自身は遥かに上の世代であるが、そういった彼らの個の闘争を、アンチイデオロギストとして強く支持したいと思うし、ある意味氷河期世代として生まれたものの特殊性と符号点も多いのかなと感じる。入口は違ってもたどり着いた解が同じということは往々にしてあるものだと思うが、まさにこのケースもそういった側面を持っているのだろうと思う。
 こういったことから見えるのは、若い世代にとってすでに連帯的闘争や、群としてものを言おうという姿勢は過去のものとなり、個が個として己の美学を自由に表現することは何もおかしくないどころか、それ自体が彼らなりの闘いの方法論にすらなっていること、また無調だとか調性だとかそういう区分はなく、それぞれの作曲方法が等価の物となっており、選択肢の一つとなっていること、なにか一つの方法論に縛られることの愚かしさを表していると言ってよいのだろうと思う。
 「無調が終わった」というのは極論的であり、一種の誤謬かもしれないが、一選択肢として花形の言語ではなくなったということは、彼の指摘通りで良さそうである。
 彼らがこれからどういう作品を、冷笑性と個人主義の中から生み出していくのかは引き続き見ていきたいし、常にその支持者として支えていきたいと思っているが、私自身は世代の違うものとして彼らの真似をしてはいけないとも再自覚する結果となったと言える。なぜならば、私たちが私たちの世代の言語で音楽表現を続けていかなければ、彼らの新規性を邪魔するだけになるからだ。文化を停滞させるくらいなら身を引いた方が良いとさえ思う。そしてこの先、もしも彼ら世代が表現することへのニヒリズムに陥ったときには、それでも書き続けろと励ませるくらいにはパワフルで有り続けたいと思いを新たにした。

 最後に研究というものあり方について一言だけを書いておきたい。
 研究は事実の列挙が基本である。つまり抽出例も多い方が良いし、答えを先に設定して資料集めてはいけないということが最も重要であるということだ。
 感想と論は違うものだ。だから単なる感想を論調として書いてはいけないし、その反対もそうなのだろう。また何かを考え深めることを面倒くさがるなら、表現活動はすべて止めるべきだし、研究を深めることを娯楽的な軽薄さに頼るようになったら、もはやそれは新聞テレビ以下の価値しかない文字のゴミに成り下がると言っておかねばならない。
 何かが気になったり、自分の中に一つの疑問が生じたら、なるべく広い世界の事実を収集することから始めたら良い。身近な例で済ませてしまったり、エコーチェンバーに身を置くことはとてつもなく危険であり、それは彼ら世代の個としてなにを成すかという個人主義的な生き方、考え方とも矛盾を生じているし、なによりバイアスなどに価値があるわけはないからだ。
 もちろん、陰謀論が語りたいならそれでよいのかもしれないが、反科学や反医学、もっと言えば反知性主義難色を示すというなら、自分が同じ穴に落ちていないかどうか、常に注意深く観察していなければならないのではないだろうか。

 とはいえ、トイドラくんの問いかけで、私もまだまだ売出中の世界の若い作曲家を知ることができ、ある種彼らの傾向は国や地域を超えた類似性を見せているという気付きにつながったことは素直に非常に勉強になった。良い題材を示してくれたことに感謝し、私に知識の入口を与えてくれたことを喜びたいと思う。