名大作曲同好会

“音楽”を創る。発信する。

私達のコンサートのメッセージ

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バトンタッチ

いよいよその日が近づいてきた。
 達成率100%以上となったクラウドファウンディングとういう大きな支援を頂いて、私達のコンサートが始まろうとしている。

 前回私のブログの担当週ではそのコンサートからストラヴィンスキーの「春の祭典」、そして伊福部昭の「ピアノ組曲」について、祭儀性と土俗性という2点から少し考えてみた。

 

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 そして私の個人プロジェクトを元とする「忘れられた音楽」で取り上げた淸一二については、特集記事を以前に書かせていただいている。

 

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 また各会員による新曲の説明については以下のように特集を組んでいる。

 

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 となれば残りの作品に対する解説をしないとどうにも片手落ち感が否めないのも事実だ。たしかに一切の解説なく、自らの主観と出会いの瞬間によって音楽聴取の恍惚に触れるのも良いことだろう。
 しかし私達はプログラムというものも芸術表現の一環であると考えていて、その中で会員による侃々諤々の議論と分析をもって選び出された楽曲たちと、その配置には大きな意味が隠されているのである。

 

 少し苦言を言うなら、昨今クラシックのプログラムと言うと十年一日の内容で、さらにプログラム自体への洞察や解釈もされていないものが多いように思う。
 曲というものは生まれた背景がかならずあるものだ。そしてその曲には少なからず作曲家の身を削る思いそのものが注ぎ込まれている。技術だけに長けたものは、何曲であってもその譜ヅラをさらっと演奏してみせることも可能だろうし、オケなどでは観客の反応が良い曲ばかりを並び立てるのはビジネス効率が良いのだろう。
 しかしそんないい加減な姿勢で生命の雫と言っても良い作品に臨んでいてよいのだろうか。
 私は全くそうは思わない。だからこそプログラムにこだわり、さらに演奏者にも深い解釈を求めていたいのである。自分が何らかの形で制作に関わる演奏会やサロンプログラムでも、これまでこの姿勢は一貫して貫いてきたつもりである。
 今回ももちろんその姿勢は変わらず、また多くの会員にそのことを理解してもらえたことは、実に大きな実りであった。

さて話をもとに戻して残る曲を見てみたいと思う。

・A Summer Journal/Robert Muczynski
・Veiled Autumn/Joseph Schwantner
・春の風景/長生淳
・日本の四季/中田喜直

上記の4つが未だ未解説になっている楽曲である。抜粋ではあるがこれらから作品を演奏させていただく。


A Summer Journal/Robert Muczynski

 ロバート・ムチンスキーはポーランドアメリカ人で1929年にシカゴに生まれている。その後ピアノと作曲に熱中し、どちらの道に進むか悩んでいたようであるが、ドゥポール大学で師に作曲の道に進むように助言され、そのことで人生を決定したのだという。このことからも分かる通り彼自身がかなり優秀なピアニストでもあったわけで、彼の作品群にピアノ曲が多いのもうなずけるのである。
 今回取り上げる「A Summer Journal」という作品は彼の前中期の頃の作品で、1964年に書かれ、作品番号は19番となっている。本来は7曲からなる組曲で夏の風景を描写した小品群からなっている。今回はこの中から、Morning Promenade、Park Scene、Midday、Night Rainの4つを取り上げる。

 ムチンスキーの作風というのは当時のアメリカの作曲家の一つの典型例にあたるものということが出来るだろう。つまりJazzのイディオムを取り込んでいる点である。
 またアメリカのクラシック音楽というのはそもそも歴史が短く、その定義を作り出したのはアーロン・コープランドであり、民衆の音楽として、市民の音楽として存在しようとするという特徴を示している。
 ムチンスキーの音楽はコープランド的なメロディとJazz的な掛け合いを特徴とするとよく論評されるが、実際どうなのかMorning Promenadeから検証してみようと思う。

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終止和音

 これはMorning Promenadeの終止和音である。
 見ての通り左手にはE♭の和音、右手にはE♭mの和音という長短混合のハーモニーで曲を閉じている。これはバークリーセオリーというJazzの理論で言えばテンションハーモニーという部類のもになり、この和音はE♭(#9)と書かれるハーモニーと言える。典型的にJazzの匂いのする和音として頻繁に用いられているものだが、ムチンスキーのそれとバークリーセオリーのそれには大きな隔たりがあるのだ。

 というのもバークリーセオリーで見たときにはこの和音は(Bluesの一種を除いて)機能はドミナント、つまり属和音でないといけないことになっている。
 ムチンスキーの場合、上記の例を見ても明らかのように終止和音としてこの和音を選んでいることから、これはトニック、つまり主和音として捉えていることがわかる。つまりクラシックの和声を拡張するときにラヴェル的に非和声音を多く含む形に変容させる手法の一つとして、長短混合和音を選んでいることが伺えるのである。

 

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冒頭の進行

 これはMorning Promenadeの冒頭部分の和音進行を抜き出したものである。専門的ではあるが、これらの和音は実に機能和声を彼自身の方法や、様々なイディオムによって拡張しているものだとわかる。

 はじめの和音も長短混合和音であり、ムチンスキーはこの和音の和声主体は下方に置かれた長和音が主導すると考えているようなのでこれはIということになる。続いて出くる和音は完全四度の堆積からなる和音であり、ダリウス・ミヨーのような語彙を感じさせる。四度堆積和音はその軸をどの構成音にでも取れるのだが、ここではDisに置かれていると考えられる。そうするとこの和音は↑Vという半ズレ和音の亜種であると見ることが可能になる。反復進行が行われ2回目の↑VはVIへ進行するが、VIの和音には上部に非和声音の拡張が行われていて、コードで書くならEm7(9)となる。次のC#m7(b9)は少々難解だが、おそらくは「↑↑vi/V9」と捉えられ、これを反復し2回目に登場するときには同じ音を「↑vii/V9」と読み替えている。続いてF7(13)になるがこれは次のF7(#9)とセットで次のBbm7(9)へのドミナント、つまり「○-iii/V9」と捉えられる。
 このようにズレと非和声音の拡張が彼の持ち味であり、フランスから輸入された、つまりラヴェル、ミヨーの影響下で生じたハーモニー構成が主体になっていると言えるのではないだろうか。

 この楽章にすると朝の慌ただしさと、その後のホッと一息と言った情景に対して、その気だるさの表現として長短混合和音が有効に用いられていると言えるだろう。また気だるさというのは気温や湿度にも関係してくる。
 彼の持つ和音特性が、そういった気象特性を意識して用いられることで、この組曲を通じて極めて暑く気だるい夏の表現の主体として働いていると読むことが出来るだろう。全楽章に通じてこの特性は現れてくるので、風景表現の音楽として、目を閉じて夏の情景を想像しながら聴くと極めて印象的な時間になるだろう。

 

 

Veiled Autumn/Joseph Schwantner

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Joseph Schwantner

 ジョセフ・シュワントナーは1943年にムチンスキーと同じシカゴに生まれた。幼い頃からギターに親しみ、フォーク、ジャズに親しんだことが、彼の作品形成の根源にあるのは間違いなさそうである。その後はスクールバンドでテューバを演奏し、吹奏楽の名門ノースウェスタン大学修士号と博士号を取得したことは、明らかに彼の作品群に吹奏楽作品が多いことと無関係ではないだろう。
 彼の作風はよくフランス的でドビュッシーメシアンの影響があり、またミニマリズムやアフロミュージックの影響、そしてバルトークの影響があると論じられている。実際にそれは響きが美しく、折衷的な語法で変化に富む色彩を持っていることからそのように言われているのだろうが、専門的に見るとすこし様相は違うように思う。
 しかしシュワントナーの音楽はモードセオリーに力点が置かれており、その説明にはピッチクラスという分析方法の心得がないと難しいので、ここではそこまでは踏み込まないことにしようと思う。
 簡単に言うと、旋法を主体としていて、これを数理構造的に変化させることで音楽に変化を起こし、複合的に移旋されたものを積み上げて行われるマトリックスという手法を用いてレイヤーされることで、時層コントロールをも行おうとしている。
 たしかにそういった意味ではメシアンの影響下にあることは否定できない、しかしそのモードの中心はメシアン的なものではなく、むしろ幼いころから親しんだJazz的なものであり、特にリディア旋法を中心に編み上げられる響きを特徴としていると言って良い。

 今回演奏するVeiled Autumnは彼の非常に珍しいピアノ独奏曲である。実際に彼はこれまでピアノ独奏曲は2曲しか発表しておらず、この曲は子供向けの曲集の中に収録されている。

 はじめから彼の語彙とわかる旋法性を打ち出し、これを小規模に変化させながら響きを変えてゆくように変化していく。変奏を主体としているとも言えるが、大雑把に見ると楽曲の形式は古典的なものをベースにしており、ロンド形式の援用であろうと思われる。ロンド形式はその性質上、主題と主題の間に副主題を挿入して進む形式であるから、彼の作曲方法であるモードセオリーによる変化の音楽と相性が良い。

 

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冒頭

 これはこの曲の冒頭部分であるが、非常に緩やかでありながら金属質の光沢を持つ美しい響きが立ち上がってくる。第一小節目の構造を見てみると、次のような特徴があるのがわかる。

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第1小節


 この音形には3度6度5度という要素、加えて2度と7度という要素が見られるのだが、音楽的には3=6、2=7、4=5なので、ある規則を持って構成されていることがわかるだろう。このうち2=7についてはそれほど意味をなしているとは言えないものの、3度と5度については次の小節ではっきりと意味づけがなされる。

 

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第2小節

 この金属質で美しい音列はやはりはじめの小節同様の音程的特徴が見られ、更にはじめの3音と終わり3音はP5移行形となっている。これら数的な秩序を持たされた音を平均化して並べ替えてみると以下のようなリディア旋法を主体と見ることが出来るようになる。リディアであると断言するのは実は少々難しい検証が必要だが、調的中心から判断できるものである。

 

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リディア旋法に還元できる

 彼の生まれたシカゴは四季があって、秋はその中でも非常に短い季節であるそうだ。「ベールに包まれた秋」という詩的なタイトルから、どんな秋を想像するのだろうか。或いはそれは想像の中の秋なのかも知れない。

 

 さてここまで外国人による作品二つについて見てきたが、実は一見日本と無関係と思われるこれらの曲には、日本と非常に大きなつながりが隠されている。シュワントナーについては、日本の吹奏楽界でもよく演奏されるおなじみの作曲家であるということと、旋法性を用いるスタイルから名作同の会員の作品と精神的に親しい関係があるといえる。また「秋」をテーマに出来る地域の出身であることは大きなつながりと言えるだろう。

 ムチンスキーに関してはどうだろう。ジャズの影響、近代フランス的な和声構造、コープランドの築いたアメリカ音楽の中にある点など、あまり日本との関係は感じられないかも知れない。しかし彼の作曲の師を知れば、通人ならなるほどと思うだろう。彼の作曲の師は「アレクサンドル・チェレプニン」である。

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Alexander Tcherepnin

 チェレプニンといえば日本の作曲家の作品からユニークなものを取り上げ、自身で演奏、出版、録音を行い世界に紹介した日本クラシック発展期の大恩人である。
そして今回のプログラムにある伊福部昭は実はこのチェレプニンコレクションに選ばれた作曲家の一人なのである。こうやって実は緻密に構成されたプログラム。残る日本人作品の曲に移っていきたい。

 

 

春の風景/長生淳

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長生淳

 長生淳は1964年に茨城県に生まれた。幼い頃から音楽に親しみ、東京藝術大学で永冨正之、野田暉行に師事している。吹奏楽やアンサンブル関係の作品も多く、特に須川展也率いるトルヴェール・クアルテットとのコンビは彼の出世の一つとなったのは間違いない。
 極めて色彩的で、Popな感覚に溢れた作品はこういったSaxとの交わりの中で培われたのだろう。そしてオーケストレーションの達人としても知られ、ルイ・アンドリーセンが審査員であった2000年には武満音楽賞を見事受賞している。
今回はこの組曲である「春の風景」より第1曲目の「春の夜の夢」を演奏する。

 

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冒頭部分

 これはこの曲の冒頭の楽譜である。左手で演奏されるテーマが実はこの曲の主要動機となっていて、これを定旋律のようにして様々な脚色が施される、パッサカリアにも似た構成をとっている。

 

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中間部分

 このフレーズは曲の途中で現れる下降型のフレーズである。これも何度か繰り返される音形であるが、上記二つよりなんとなく想像するのがメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」である。

 

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メンデルスゾーンの冒頭

 これはメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」の冒頭のハーモニーだが、この曲の主要動機と雰囲気が幾分似ているようにも感じる。

 

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メンデルゾーン下降形旋律

 また「夏の夜の夢」にも重要なテーマとして下降形の旋律線が出現するのも面白い。メンデルゾーンの「夏の夜の夢」はオーケストラ曲として知られているが、実はもとはピアノの連弾曲であった。フェリックスが姉と演奏するためにシェークスピアの作品を題材に17歳の時に書いた作品である。
 そしてこのシェークスピアの作品には「妖精パック」が登場するのだが、このパックをテーマにしたドビュッシー前奏曲がある。

 

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ドビュッシーのパックの踊り

 それがこの「パックの踊り」であるが、このメインメロディに感じられる日本的なムードは五音音階を中心システムとして採用していることから起こってくる。
これは長生の曲の主要動機後半部分の形と部分的に似ていなくもない。

 これらはおそらく偶然の一致であろう。

 しかしそういった関連付けをして読んでいくのは音楽の文化的な楽しみの一つではないだろうか。実際にこの「春の夜の夢」もジャズのイディオムをまといながら官能的なクライマックス向かって突っ走ってゆく。そしてその情熱的な春の恋は、夢うつつの中に消えてゆくのである。


さて最後の一曲だ。

 

 

日本の四季/中田喜直

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中田喜直

 中田喜直は1923年に東京の渋谷に生を受けた。多くの歌曲や童謡を残しており、その多くは多くの人に愛され歌い継がれている。父は作曲家の中田章、兄に同じく作曲家の中田一次がおり、兄に作曲の手ほどきを受け、今の藝大の前身である東京音楽学校を卒業している。戦中の混乱期であり、卒業は特別の繰り上げで、そのまま戦地に赴き特攻隊員として終戦を迎えたという。
 意外なことに若いときにはジャズピアニスト志望であったという。今回はそんな中田が書いた四手連弾の組曲であるこの組曲から最後の一曲「冬がきて雪が降りはじめ、氷の世界に、やがて春の日差しが」をお送りする。
 美しいタイトルであり、また「春夏秋冬」のどれかに四季を固定するのではなく、冬から春へという動的に移り変わる切れ目なき四季を描いているのが特徴だ。タイトル通りの情景を実に丁寧に描写した本当に心から美しいと思える曲だが、この曲が四季のどこか一点をとって描かなかったのは理由があるのだろう。

それは万物流転、円環思想の現れと言っていい。

 そう、実は我々のコンサートこの「円環」の思想こそがテーマになっているのである。この中田の名作でそのことを打ち出して、後半の会員による新曲のステージに繋がるのだが、新曲はどれもどこか一つの四季に拘泥したものはない。日本人の四季観というものは、その死生観とも符合し、まさに流転と次代へのバトンタッチなのである。

 この死と円環という思想を最も色濃くテーマにしていたのは三善晃であった。しかし今回その作品の姿はない。我々はどうしてそこにその姿を置かなかったのか。それは秘密にしておこう。


言葉が多ければ味わいを損なうものである。
たまには黙ってみようではないか。

 

 はてなブログに投稿しました #はてなブログ

 ということでプログラム順に見てみると、

 「春の祭典」では処女が神に捧げられる原始の姿、そして「春の夜の夢」では官能的で儚い出会いが、「A Summer Journal」ではある母の日常の中の夏を。そして夏の訪れは生命の根源を揺り動かす大地の胎動を伝え、秋の匂いがベールに包まれ訪れ始めると、月の光に満ちた秋の夜長に舞い踊る。やがて雪が降り出し、踊るような雪を眺めていると再び春の日差しが現れる。一人の人間の成長と四季の流転を並行させ、円環の思想のもとに次代へのバトンを繋ぐ。


我々のピアノコンサートの主題はこんなところにあるのである。

 

 せっかくのオンライン配信なので、かしこまらずお酒を片手にゆっくりと楽しんで頂けたら幸いである。そして表現の、あるいはプログラムの在り方に、一石を投じることが出来たなら、私はこれ以上なく嬉しい。