名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

土俗性と祭儀性について

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祭儀

 来る6/26にはいよいよ我々名作同のおくる第4回ピアノコンサートがライブ配信される。

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 また、これに関わるクラウドファウンディングもおかげさまで達成し、現在ネクストゴールチャレンジとなております。
御礼を申し上げるとともに、さらなるご支援を是非お願いいたします。

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 さてその名作同のピアノコンサートで取り上げる曲に以下の2つの楽曲があるのだが、この楽曲を代表として名作同の飲み会配信のときにも言った「土俗性」と「祭儀性」について少し考えてみようと思う。

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 はじめにまずストラヴィンスキーの「春の祭典を聴いていただきたい。
とりあえずは原曲のオーケストラで。

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そして作曲者の手による4手連弾版

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異教徒の祭り

 この曲に私は「祭儀性」を感じると表現した。
 この曲はよく言われるように何か特定の祭典を取材して音楽化されたわけではない。
作曲者本人の見た幻影すなわち「輪になって座った長老たちが死ぬまで踊る若い娘を見守る異教の儀式」に着想を得て作られた。

 

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イーゴリ・ストラヴィンスキー

 しかしこの幻影というのは作曲者の中に知識として備わっていた「古代の異教徒の野蛮な儀式」のイメージ化にほかならない。
 確かに人類の歴史の中には「生贄」を神に捧げ、五穀豊穣を祈ったりするものがあったことは広く知られている。
 しかしその頃のそうした祭りで歌われていた音楽は、ほとんど絶えてしまっていることから収集しづらい。
 そこでストラヴィンスキーはこの序奏に出てくる素朴な民族旋律を自国の民謡に求めた。
 バルト三国の一つである「リトアニア共和国」の民謡を用いた。なるほど言われてみると旧ソ連圏の各地にあった民謡の雰囲気を感じなくもない。
 しかしストラヴィンスキーはこの民謡の提示に極めて異様なオーケストレーションを用いた。


 このことはフランスのサン=サーンスに酷評され、後年同じくフランスのブーレーズにも「最も異様で興味深い」と評された。
 なぜならファゴットのソロで奏でられる民謡は非常に高い音域に設定され、ファゴットの常用音域を大きく超えるもので極めて演奏が難しい。
 手法だけ見るとたしかにこれは異様だが、ストラビンスキーはリトアニア民謡が裸で用いられることで、生贄たちの踊る古代の儀式の異様さが表現されなくなることを憂慮したのではないだろうか。
 その結果、ファゴットの超高音を用いることで、極めて人声に似せ、さらに不安定さを誘発することで、はるか古代の印象を与えたのではないだろうか。
 更に複調処理を施すことで、極めて異様な雰囲気を作り出し出だしから物々しさと怪しさを醸し出し、異教徒の祭祀の雰囲気を作り出したのだろう。

 そしてその異様な序奏に続き、生贄の踊るシーンが続く。
複調の技法をオスティナートにも用い、極めて打楽器的で野蛮な響きを構築し、一般のそれとは大きく違うリズム拍動を与えて儀式性を作り出し、メロディーはまるでその儀式の群衆の囃し立てる声にすら聞こえる。
 複数の調性が同時に鳴ることで厳しい響きになるのだが、実はその調性構造は三全音関係の配置であり、緻密な計算と伝統的な方法論の援用がされているのは流石といったところではないだろうか。

 我々の演奏会ではこの2つの部分の抜粋のみとしたのは、これが春になって異教徒が火でも焚きながら、歌い神に捧げる生贄が乱舞するという祭儀性の観点から捉えた春の躍動を表していると感じられるからである。
 またここで「祭儀性」という重要なコンテクストを得たことで、この後に出てくるもう一つの楽曲と極めて重要な関係を構築することに成るのだ。


 もう一つの楽曲というのはすなわち伊福部昭の「ピアノ組曲である。
 この楽曲はその後様々な形に編曲され、特に大オーケストラのための編曲において「日本組曲とタイトルも変え、その様相は更に荒々しいものとなった。

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伊福部昭

 伊福部の、或いはその弟子たちに脈々と引き継がれていくオスティナートと日本風の旋律による音楽の構築法は「土俗性」という言葉で形容されることがしばしばある。
とりあえずこの音楽を聴いてみよう。

 

まずは「ピアノ組曲」である。

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そしてこれのオーケストラ版「日本組曲」だ。

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 我々のコンサートではこれも抜粋で最終楽章の「佞武多」のみを取り上げるが、オーケストラ版ではむしろ「盆踊」のシーンに注目が集まる。
 はじめから極めて分厚いオーケストレーションで迫りくる音楽はどこまでも盛り上がり続け、完全なトランス状態になって踊り狂うようなラストにまでもっていかれる。

 「日本人作曲家は西洋の作曲家と違う音楽観を持たなければならない」とした伊福部は弟子たちだけでなく、日本の音楽のあり方に大きな影響を与えた。
 そしてそのために伊福部が注目した手法こそ「オスティナート」である。
 伴奏に執拗に繰り返されるリズムの伴奏などを指す言葉で、伊福部の音楽には大抵これが聞こえる。
 そしてこれらを継承した作曲からもこのオスティナートの手法をその基本としてゆく。それらを少し聴いてみよう。

 

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芥川也寸志

芥川也寸志「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」

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池野成

池野成「ラプソディア・コンチェルタンテ」

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和田薫

和田薫「オーケストラのための協奏的断章 鬼神」

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 こうやって聴いてみると「和太鼓」という楽器の存在がクローズアップされてくる。
 和田の作品はそのまま和太鼓が用いられているが、我々が和太鼓の地打ちを聴く時の民族的高揚、或いは祭りのお囃子の鳴り物にみられるリズムの高揚がどうやらこの「土俗性」の正体であり、伊福部が日本人として美学の中心としておいたものであったのではないだろうか。

 

鬼太鼓座による演奏

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 確かに和太鼓というものは何故か我々日本人の血潮を滾らせる音を出すことに異論はない。それならこの和太鼓というものはどこからやってきたのだろうか。

 伝説によればすでに縄文時代には存在していて、日本神話の世界にもそれを示すと思われる記述があるのだそうだ。
 つまり日本人にとって極めて原始の象徴であり、また戦国時代にかき鳴らされた陣太鼓の異常な興奮はまったくこれら伊福部一派の音楽のそれが表しているものにほかならない。
 そしてそれが江戸時代には祭礼に取り込まれて行き、段々と一般化して最終的にエンターテインメントと化していったようだ。

 かくして伊福部の主張する音楽の根幹をなすオスティナートは和太鼓のそれではないのかという仮設が成り立ち、和太鼓こそ日本人の美学中の美学、DNAに刻まれたトランス状態を作り出すエネルギーに他ならないと言うことが出来るのではないだろうか。

 

 冒頭のストラヴィンスキーの項で触れた「祭儀性」と伊福部の「土俗性」この2つは西洋的なアニミズムと東洋的な原始主義という対立をもっており、古代における血潮の東西の違いにその原点を見いだせる点は極めて面白い。
 しかしよくよくそれなの本質を調べ上げてゆくと、結局の所それらは「土俗的祭儀」という原始の祭祀の興奮という点で共通しており、人間のルーツは一つのところに落ち着くという和合を描く点でも興味深い。
 またそれらの音楽は洗練とは真反対のベクトルもっていることも重要であり、これらをまさに現代を生きる若い音楽化がどう切り取り、解釈し音にするのか、ますます興味が尽きない。

 そしてこの古代の血脈というものは如何にしてコロナ禍をくぐり抜け、未来へバトンとして繋がれるか、一人の東洋人として非常に気になるところである。