名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

坂本龍一の死と彼の偽オリエンタリズム

坂本龍一

 去る2023年4月上旬、コロナ禍も下火の春にそのニュースは国民に飛び込んできた。
教授こと坂本龍一が3月28日に大腸がんに倒れ亡くなったと。
 ある世代にとっては志村けん同様、彼の死も一つの原風景の消失であろうし、思想を同じくする者にとっては大江健三郎に続く坂本の死は、自らの人生の糧を失いかねない出来事であっただろう。皮肉っぽく言うなら、マスコミ関係者にとっては自らの反日思想をうまく広報してくれる偉人の相次ぐ死は、極めて痛手となったであろうことは想像に難くない。現に一柳慧の死のときはクラシック番組の一番組の半分だけを使って、とりあえず追悼しましたというだけの態度だったNHKは、坂本の死にあっては特番をやるという。この違いはなんだろう、私は腹が立って仕方がない。

 

 さて坂本龍一とは何者なのか。そして彼の作曲法の一つのあらましについては、我が弟子の冨田くんが番組を作っている。

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 そしてそのチャンネルの生放送で榊原くんと私が出演し、坂本について忌憚なく語った。

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 今日の話は上記の動画を観て理解しているという前提で書いてみようと思うので、まずはじめに視聴を強くおすすめする。そこでわからなかったら、この本文は読む必要はないだろう。もちろん、見栄を張って上の動画に異論を申し立てたい人、わかった気になってプライドを守りたい李徴どもは当然読み進める必要はない。プロ、アマ、評論家、評論家気取り、プロ気取り、頑なにプロより優れていると言いたいアマチュアのすべての馬鹿野郎どもにも読んでほしくはない。もとい、そういう連中は音楽に触れてほしくもない。

 宣言をした上で、生放送で語った「偽オリエンタリズム」について、ごく専門的になるからと生放送では避けた点について、譜例を示し少し語ってみようと思う。なお、このテクニックは坂本が作り出し、今や劇伴や商業音楽を書くマナーとして当然のものになっており、制作から「教授風に」という言葉で注文されるようになったものであり、そういう仕事をする人には必須のテクニックにもなっている。良し悪し、好き嫌い、意見の有無それぞれあったとしてももうこれは確立したマナーであり、そんなクソ意見は求められていないと言っていい。つべこべ言わずに習得しろというのがその実際である。口をとがらしててめえの浅薄な御託を並べるようなやつは、もはや仕事ができないと言っているのと同じなので、さっさと筆を置く方が良い。

 

 オリエンタリズムの取り扱いには2種類の焦点の当て方があり、その更に下方分岐に様々な作曲への取り込みがなされるものである。

・真オリエンタリズム
・偽オリエンタリズム

 前者は実際に民謡素材や土俗性をそのまま取り入れた作品と言えるのに対し、偽オリエンタリズムはオリエンタルに聞こえつつも、それは作られたものであり直接引用でもなければ民族的アイデンティティに根ざすものではないという違いがある。簡単に言い換えてみれば、前者はある意味ではナショナリズムの発揚を根源とし、後者はグローバリズムの中でのノスタルジーと言ったらわかりやすいだろうか。もうすでにお好きな筋からは異論が出そうだが、私はこの理解には絶対の自信があるので異論が間違っていると断言して良いと思っている。

 こういった、真-偽、あるいは新-偽という関係はかつては以下のものもよく語られていた。

新古典主義
・偽古典主義

 新古典主義とはヒンデミットプロコフィエフの作品に登場する、古典様式を用いつつも古典の模倣にはならない音楽を指す。そしてアルヴォ・ペルトや原博など古典の完全な焼き直し(に聴こえる)ものを偽古典主義などと呼んでいた。

 これらのそれぞれにはある共通した哲学の対立がある。

 それはそのままイデオロギー的対立を意味していて、闘争として用いられる語句はいつも「偽~」の方なのである。だからといって左翼的闘争が偽物だなどいう意味ではなく、階級闘争の音楽上の実践において「真~」を取れば、闘争不成立となり保守として扱われることになるから、これは当たり前にそうならざるを得ない性質のものである。
ここにも異論の挟みようはないと確信する。

 

 では実際に闘争の方法と商業的成功を坂本の場合においてうまく折衷たらしめた、彼の「偽オリエンタリズム」について、坂本マナーとともに覗いてみよう。

 

戦場のメリークリスマス(Merry Christmas Mr.Lawrence)のばあい

戦場のメリークリスマスの冒頭

 上記は坂本のもっと有名な曲「戦場のメリークリスマス」のメインテーマである。これを知らない日本人はいま産声を上げた子どもたちくらいだろう。坂本の代表曲で、それ以降の坂本の作風を固定させてしまった曲とも言える。この曲は大島渚監督作品で自ら主演もした。このことが坂本を映画の世界に向かわせることとなり、坂本自身が大島監督の葬儀の弔事で、その事に触れ「あなたがいなければ今の私はいない」と言ったほどである。
 この曲は多くの人が知っている通りメインメロディは基本的に五音音階を用いている。そのはじめの四小節を詳細に見てみると、五音音階のメロディと縦に五音の堆積、そして五音を反転させた四度のハモリと四度の堆積でできている。
 なるほど日本的、アジア的試みであり、オリエンタリズムを多く人は感じるだろう。またMerry Christmasにこの響きを当てたことで、その効果は倍増するということが手にとるようにわかる。
 しかしそれ以外を見てみると、丸を付した音は五音音階外の音、更に四度のハモリは中国的、汎アジア的とも見えるが、ルネッサンス期の並行オルガヌムでもある。またこの部分の和音進行はBbm(VI-(-VII)-I)と循環しており、これはその後ゲーム世界、同人世界の「東方系」で乱用されることになった進行であり、その2つの事実により汎アジア的進行と意味づけられてしまったものである。
 この和音進行に対して坂本が行った処置を見てみると、はじめのVIの和音には付加六を、次の-VIIには9thのテンションを、Iにはm7th及び付加四を付けている。この事により和音には濁りが生じて茫洋とするという効果と同時に、中心音同時存在性が出現してくることになる。つまりこれらの和音を以下のように読み直せてしまうようになる。Bbm(IV7-iii/V9-I+4) これは最後のIがEbsus4にも捉えられ、また軸のない四度堆積となることで完全なIのTonicを巧妙に避けていると読み取ることができる。
 一方でそれ以外の箇所には西洋の手法が敷き詰められており、四小節目では汎アジア性は吹き飛んで、単なる西洋的な断片となっているわけだ。
 この様に枯れは自身の階級闘争への考え方と、偽オリエンタリズムを用いることで、一般性の中に自らのイデオロギーを忍び込ませることに成功している。
もともと映画音楽というのはコープランドによれば大衆芸術の象徴であり、階級闘争と平等の象徴なのであって、映画音楽でこそこういった闘争の文脈を仕掛けることは理にかなっていると思う。しかし、これは本当のオリエンタリズムでないことも確かだ。同じ方法論は多くの作品で採られているので次を見てみよう。

 


・A Flower is A Not Flower

 台湾生まれの二胡奏者Kenny Wenのために書かれたシンプルで物憂げな曲でありながら、多くの疲れた人々の心に染み込む名作と知られるこの曲については、冒頭触れた通り冨田くんの解説動画が秀逸である。ここに偽オリエンタリズムをなす正体を見ることができるので少し補足してみようと思う。これは生放送でも話した内容であることは、はじめの動画二本を観ていただいた読者ならわかるだろう。

A Flower is A Not Flower冒頭部

 この曲にはまず日本的に聴こえる仕掛けと、五度堆積を嫌って四度堆積にすることでオリエンタルなイディオムを表出させつつ、非西洋的に書くことでのクラシック音楽事態へのアンチテーゼを含んでいることは先の動画のとおりだ。しかしはじめの四度堆積を隠した和音、つまりA-Bb-D-F-G(内部堆積はA-D-G)は明確に我々日本人には民謡に多く現れる「陰音階」を感じさせるものである。ここで日本音楽の代表的な響きが四度の骨格の中に立ち上げられ、それが機能和声法的には違反であるI9の第四転回系をなしている。この時のメロディは二回のリフレインを伴い確定化して耳に残させるようにされた単純な四度の下降形からなるものだ。
 二個目の和音は更に縦に長くBb-C-E-A-D(内部堆積はBb-E-A-D)という音で和音としてはC7の第三転回型となり、次は本来であればF/Aの響きに向かわねばならない和音だ。ここでこの和音の堆積には変化が加えられていることに気が付きたい。完全四度ではなく、一つだけ増四度を含んでいる。この堆積を取り出したBb-E-A-Dはまたしても日本の陰音階の構成音である。つまり骨格の和音は変化していないと見ることができるのだ。しかしそれがこの曲に貫かれているコンセプトなら、丸をつけた旋律音の存在はおかしい。また上行する半音のベースもおかしい。なぜならこのメロディ音はそれまでの四度のパターンから外れ、次のC音まで含むと五音音階ですらなくなってくる。
 また低音の上昇は明らかにフランスのラヴェルの手法であり、このことは坂本自身「ラヴェルの影響-民謡との接近」としてかつてNHKで語っていたことと符合する。つまりここでも表向き汎アジア的な響きを緻密に作っておきながら、その実西洋の技術、ここでは特にラヴェルの手法を織り込むことでバランスを図り、大衆的にしているわけである。これはやはり真実のオリエンタリズムではなく、偽オリエンタリズムというほかないことである。坂本はこのようにして一貫性ではなく、ふわりと立ち上がるなんとなくの空気感や哲学を口にし、さも一般大衆を鼓舞するかのごとく振る舞ったが、それは彼の本質ではなくまたそれ自身が彼にとっての首尾一貫したメッセージですらなかったのだろう。


ここで一旦坂本の経歴を見てみようと思う。

 

 坂本龍一は1952年1月17日東京生まれ、三代続く共産党の家系であったという。東京藝術大学に入学し音楽を学ぶ傍らライブ活動ににめり込み、実は学校にはあまり行っていなかったそうだ。あまり語られないが、作曲は松本民之助に師事していた。師の松本とはあまり影響など論じられないが、松本自身が和の要素を取り込んだ楽曲をよく書く作曲家でもあり、このあたりでオリエンタリズムに触れたのかもしれない。
 卒業作品は「反復と旋」という変則オーケストラ作品で、非常に難解なリズムカノンを中心としたミニマリズムが仕掛けられており、ポップの活動から得た知識の移入がみられるように思う。
 その後の活動はみなさんのよく知るところであり、どのようなタイプも器用に書き、そしてその音楽語法の中にうまく戦後左翼的闘争の示唆を含ませることに長けていた。
若い頃には反権威とばかりに武満徹の作品を批判し、ビラ配りをするなどしていたが、それを見た武満に「良い耳をしてるね」と言われ、改心したという政治姿勢も一貫しないところがあった。これは後年もそうでYMOという電気の恩恵を受けた活動をしていたもかかわらず反原発運動を展開、その際原発の代案はと問われると「それは政治家が考えることで、私たちは声を上げれば良い」と平然と応えた。
 子供が増えるにつけ、未来の地球を案じるようになり、ロハスやエコといった活動にも参加、SDGsにも熱心であった。

 なるほど面白いぶれ方をする人だ。そしてそれは大衆のイメージに応えようと、自分の闘争事態を商売道具にしてしまったきらいがある。そして自身その自覚があったことは最後に書きたい。


さて次の曲を見てみよう。

・M.A.Y. in the Backyard

M.A.Y in the Backyardの基本フェーズ

 私の好きな坂本の曲の一つであるが、このM.A.Yと言うのはどうやら彼の住居の庭に来る猫の名前の頭文字をとったものであったそうだ。非常に明快なコンセプトだが、この曲は明らかなミニマリズムの手法で書かれている。
 ミニマリズムをことさらに押し出した作品に、いやらしいくらいに日本を代喩した「5」のキーワードが出てくる。この曲の基本フェーズをなす恩恵は完璧な五音音階でなっており、伴奏も空虚五度の反復のみからなる。あからさまに「5」を印象付けていて、曲は何度もこのフェーズを反復するように書かれている。

同中間部のキメの部分

 猫の吠え声と思われる音が挟まれるが、この非東洋的な構造の和音にも、陰音階を思い出させる二度の衝突と五度が隠されていて、ここにもこの曲で通されたコンセプトがはっきり現れている。しかしミニマルとはアメリカ音楽の文脈であって、これを偽日本的素材で書くというのはなかなかに坂本らしいではないだろうか。これは今までのタイプの偽オリエンタリズムと違い、移入ではなく輸出と言っていい方法論であると感じる。


 最後に純音楽ではどうだったか見てみたい。はっきりと彼の主張が見られるのではないか。

 

・ピアノ組曲

「ピアノ組曲」より第三曲の冒頭

 これは1970年に書かれたかれの純音楽で「ピアノ組曲」と題されている。あまり聴く機会も演奏機会も多くない曲だが、この曲の第三曲の冒頭が上記のとおりである。普段の物憂げな世界とは異なり、刺激的なリズムと不協和音に埋め尽くされたかなりシャープな曲である。
 しかしこの中にも坂本の語彙が見られる。グレーの破矢印は5度の関係、緑の破矢印は4度の関係を表していて、緑の矢印は五音音階を内在している箇所を意味する。こうやって見てみると巧みにこの様相を内在させながら、それ以外の要素から取られた集合である和音を組み合わせ、ちょっとした12音技法のような方法で書かれている。明らかに五音音階的集合とそれ以外の音からなる集合を組織して書かれている事がわかる。
この結果表出する和音はかなり厳しい響きになるが、これを非常に卓越した感覚で制御し、あまり破綻なく構成している点は素晴らしい。そしてこの書き方はストラヴィンスキー春の祭典の書法が下敷きになっているのは間違いないだろう。坂本はストラヴィンスキーに衝撃を受け、バッハとドビュッシーの影響を受けたと公言しているのだから、その影響がシリアスな純音楽のとき、ポップや劇伴の仕事では足りていた彼の引き出しの足らなさを炙り出してしまい、知っている語句で書いた結果がこれなのであろう。日本素材におけるストラヴィンスキーを狙った作品と評して良いと思われるこの曲だが、曲の表情こそ違っても底にはぶれながらも闘いをやめることはなかった坂本の従来の尖った考え方が見られて面白い。

 

 というようにいくつかの例で見てきた通り、彼の音楽はいつもオリエンタリズムではなく偽オリエンタリズムで満ちていた。そしてメディアが祭り上げてきた左翼的思想も時と場合により形を変え一貫してはいなかったのだ。
 生放送内で私は坂本を「大衆の左翼的偶像を引き受けた作曲家」と述べた。左翼のアイドルである。そしてそのことがマスコミの餌となってしまい、彼の晩年の売り物になってしまったがために闘いを貫徹し得ない原因となってしまったのではないかと思う。

 現に彼は自伝に「私は音楽史を変えるような作品を書けなかったし、偉大な革命家にもなれなかった」というようなことを書いている。彼は分かっていたのだ。自分の闘いが叶わないものであることも、大衆のイメージを引き受けたことも、そして全てが偽であることも。

 それでも私は坂本は坂本マナーという立派な様式を構築した人だと思っているし、大衆音楽のあり方を変えた人だと考えている。なので彼の死に深い感謝と哀悼を込めて最後にこう言いたい。

 

「偉大なるニセモノの人生に乾杯」と。

 

坂本龍一
2023年3月28日永眠