さて今回から始める新シリーズは、すでに進行中の「俺の視聴部屋」シリーズとは違い、もう少し専門的に一人の作曲家を掘り下げてみようと言うものである。もちろんアイキャッチとシリーズ名は某FM局の某番組のパロディである。
記念すべき新シリーズの第1回目はスウェーデン出身の作曲家「Malin Bång」を取り上げようと思う。
ということでまずこの曲を聴いていただきたい。
www.youtube.com(splinters of ebullient rebellion/Malin Bång)
まず聴いてみての率直な感想はどんなものだろうか。タイプライターやオルゴールの音が印象的で、それ以外はノイズに包まれ全くオーケストラ作品とは思えなかった。まあそんなところではないだろうかと思う。
そして「The 現代音楽」と感じる人が多く、何が何だかといぶかる人の顔が容易に想像できる。
果たしてそんなに聴きづらい曲だろうか。
ここで彼女の経歴について軽く見てみよう。
1974年スウェーデンに生まれ、現在も同地のストックホルムに住んでいる。ピテオ音楽院、ベルリン芸術大学、ストックホルム王立音楽院、イェーテボリ大学などで作曲をブライアン・ファーニホウ、ジェラール・グリゼー、フィリップ・マヌーリ、フィリップ・カプデナ、ハヤ・チェルノウィン、ヴァルター・ツィンマーマン、フリードリヒ・ゴールドマン、オーレ・リュツォ・ホルム、ペア・リンドグレン。ヤン・サンドストレム、ピーター・ラインらに師事。
そして最先端の現代音楽を演奏するキュリアス・アンサンブルの創設メンバーとして、同アンサンブルのコンポーザー・イン・レジデンスとして作曲、演奏の両面で関わってゆく。なおこのアンサンブルには日本人の宗像礼も参加している。
彼女の音楽は世界中で演奏され、多くの賞を受賞するなどしており、ノイズを主体に「摩擦の量」をテーマに動きとエネルギーの関係を探っている。
ということで、まず師匠たちの顔ぶれがすごい。おおよそ今の音楽を形作る要素を作り出したレジェンドばかりだ。とりわけブライアン・ファーニホウとハヤ・チェルノウィンという複雑性とノイズをテーマとする二人の作曲家、更にジェラール・グリゼーやフィリップ・マヌーリと言ったスペクトル楽派の作曲家の名が印象的である。
たしかに彼女の音楽には、こういった師の影響が強く現れており、特にチェルのウィンの影響が顕著に感じる。
少々脱線するがこの師のなかのチェルノウィンの作品を一つ聴いてみようと思う。
www.youtube.com(Ayre:Towed/Chaya Czernowin)
いかがだろうか。影響の大きさがはっきりわかるのではないだろうか。チェルノウィンの音楽は楽音と非楽音の境界線を見直すことに主題が置かれているのだが、そのあたりは過去記事を参照いただけると良いかもしれない。
しかしチェルノウィンの音楽とボングの音楽には決定的な違いがあるように思う。それはボングの音楽のほうがより私的で実体験的であり、更に言うなら現実感を伴う妄想性の音楽観を感じる点と言えるのでは無いだろうか。
チェルノウィンはファーニホウの弟子だが、いわゆるポスト・ラッヘンマン的な側面があり、さらにその弟子であるボングはポスト・チェルノウィン世代と言っていいだろう。その音楽性はラッヘンマン的な異化に満ちていたり、あるいはそれをさらに反転させたりなどを構造の中に併せ持ち、響きはチェルノウィン的なノイズに満ちている。
ラッヘンマン的異化ということを今述べたが、ラッヘンマンの異化の概念については過去記事で触れているので合わせて読んでいただけると幸いである。
ではそんな彼女の作品が放つ印象を少し深掘りしてみようと思う。
音楽の三要素とはなんであっただろうか。
1.メロディ
2.ハーモニー
3.リズム
小学校の音楽で必ず習うはずのものだが、まずこの三要素を考えた時この曲にそれが当てはまるのだろうか。
1.メロディ → 途中で鳴るオルゴールがそれっぽいかな
2.ハーモニー → ハーモニカの音がしたかも
3.リズム → なくはないけど複雑でわからなかった
大方の印象というのはこんなところではないだろうか。しかしここにラッヘンマンの異化のテクニックを持ち込んで考えてみよう。
1.メロディ
はじめから鳴らされるタイプライターの音をメロディーではないかと考えてみよう
ランダム性が強く、メロディとは感じられないかもしれないが、過去のぬくもりある時代の人間の発する音として、昔の人々の象徴として導入されていると思われる音で、これ自体が一つの主題になっている。
2.ハーモニー
これは通常の意味での美しい和音という概念から離れなければならない。和音とはもともと3つ以上の音が重なってそうされる現象を指すのであって、それが通常の音である必要性は定義されていない。ここではノイズが一つの音として機能し、これらを重ね合わせることで、ノイズによるハーモニーを作っていると考えることができないだろうか。
3.リズム
これは随所に散りばめられているので比較的わかりやすく知覚できるだろうが、例えばリズムが存在する証拠に一つのリズムの音価を変えて複雑にレイヤーしている場面がある。
こういった現象はリズムの存在無くしては作り得ないものである。
そうしてみるとこの楽曲は見え方が随分変わってくる。ある一定のリズムの変奏の上に、ノイズによるハーモニーが鳴らされ、主題たるタイプライターがソリスティックなメロディを演奏しているのだ。
そして他の作曲家との違いも生じてくる。ラッヘンマンは深い伝統への敬愛を持ってその逆張りをすることで前衛を作り出し、音響作法という方法論を主張した。しかしボングの場合は異化の考え方を取り入れているが、音楽の三要素をきっちり守っていると言える。
チェルノウィンは楽音と非楽音の境界線を再探究するにあたって、ノイズによるスペクトル合成を主とした方法を用いる。ボングは同じようなノイズに満ちているが、実はそれらが「新しいハーモニー」を作り出す要素として機能している。
こういった相違は何を意味しているのだろう。
マリン・ボングは伝統主義者ではないだろうか。
ちょっととんでもないことをいい出したと思われるかもしれないが、ちょっと楽譜を見てみながら話を進めよう。
このタイプライターの主題を第一主題としてみる。
その後に展開される音価を変えながらノイズハーモニーを作るこのパターンを第二主題としてみる。
それらが同時に混合され、他の要素も加えた部分が出てくる。これは展開部に見える。
この骨組みの裏に声を出しながら演奏されるシーンが登場する。これは実はタイプライターの主題に対するシビアな作曲者の現代人への見方、つまり本来の人間性が文明によって遮蔽されているという対の概念を示しているようにみえる。音楽で言う対の概念は一種のオブリガートと見ることもできるだろう。
再びタイプライターが再帰してくる。どうやら再現部のように見える。
変奏されてはいるが、第二主題の再帰も確認できる。
そして印象的なオルゴールの音がランダムに速度を変速させながら鳴らされるシーンだ。強く「記憶」というキーワードを思い起こさせるシーンだ。自分の幼いときのぬくもりある風景を感じ取れる。
その後急速に音の厚みをましてエンディングを希求するシーンが現れる。
全ては粉々になって沈黙へ消えて行く。
いかがだろうかこれはソナタ形式では無いだろうか。そしてラッヘンマンは反構造主義であり、チェルノウィンもまたそうである。さらに言えばエンディングを希求するのが音楽の宿命と言って逆にそれを希求しないスタイルを貫くのがラッヘンマンだとするなら、ボングの音楽は明らかに伝統的にエンディングを希求している。
こう考えると彼女の音楽の正体が見えてくる。
チェルノウィン的非楽音とファーニホウてき複雑さ、そして各要素にはラッヘンマン的異化を用いながらも、それを伝統的な形式、構造のなかに戻しているのだろう。このことでポスト・ラッヘンマン的、ポスト・チェルノウィン的な表現として世に問うていると見てもよいかと思う。伝統の中でも前衛は行えるという力強いメッセージと、この曲は人間と文明の在り方を個人的な眼差しと感じ方で表現し、現代を良いものとは感じていないという主張を内在させている。非常にメッセージ性があるが、それは彼女の極めて個人的な世界であり、非常にショッキングな音楽だが、それを形作る要素は儚いものでできている。実に個性的、実にポスト・モダン的と言える作風である。
最後に似たテーマ性を持つ曲だが私のお気に入りの彼女の曲をもう一つ上げて、今回は北欧の前衛の担い手の一人の音楽を日本に紹介しつつ、私なりの分析を行ってみた。異論反論はあるだろうが、こういった見方もできるのではないだろうか。
(Jasmonate/Malin Bång)