名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

自作解説「塑像 ~オルガニート独奏のための~」

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塑像

|作曲動機

 

「オルゴールのコンサートがしたい」

会長のレッスン中の一言がこの曲を書く動機の最も原初のものであるのは間違いない。


トイドラは私の作曲の弟子である。

そして彼は現代芸術に理解を示し

類まれな音楽への才能を武器に

新たな音楽の地平を切り開こうとさえしている。


そんな彼の期待に応え

いやあるいはその期待を超え

裏切り

さらに表現の表現たる奥深さを示し

聴衆に「それが芸術である」

と訴えることができるか。

 

作曲行為というのは時に謎掛け、禅問答のそれである。

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-現代芸術とはなにか
-現在の主流とは
-それが最も嫌うものは
-類例はないか
-なぜそれが存在しうるか

 

私の頭の中はいつもこういった一見不毛な問いかけで満ちている。

 

オルガニート(αオルゴール)のための作品は試作を含めて数曲経験をさせてもらった。
そこで今回はその

表現の地平

を超えようと試みることから思考実験を開始した。

 

|現在の作品として

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Helmut Lachenmann

 現在コンテンポラリーミュージックの世界は大きく二分してると言えよう。

その一つはエレクトリックアコースティックの流れをくむ潮流で、

その源流の一つにはドイツの巨人

Helmut Lachenmann

の名が登場するのは間違いない。


彼の登場以来

音楽の言語に音響作法として様々な可能性が体系付けられて整えられ

更に非常に苛烈な特殊奏法の山を用いて
「伝統の異化」という表現方法が定着していくことになった。


彼は伝統を愛すること

そして理解することを下敷きにそれを全く別の姿に歪曲させ

伝統が積み上げてきた語法を歴史のそれに習い

根本的な否定の連鎖に落とし込んだ。


その考えの一つに「楽器を別のものとして扱い直す」という眼差しがある。


私もこれに習ってオルガニート単なる箱と位置づけて、

児戯の如く遊ぶことからこの楽器の地平を超えてみようと企んだ。


その結果、大量の特殊奏法が得られたので

それらを少しずつカテゴライズして群に分けることにした。

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大量の特殊奏法

異化の度合いが濃くなるようにこれらを数直線化して並べ直し

境界には逡巡のフィルターを施すことで滲みを得ることにした。


かくて無意味な行為を含む「オルガニート自体」から発せられるノイズは

それを本来「回すだけ」だったはずの演者を、
舞台上で「箱と格闘する狂人」へと変質させた。

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ノイズ発生機



当然「調律された音を奏でる」はずのオルガニート

「ただのノイズ発生機」と化していくことになる。

偉そうにいっちょ前に異化をまとって

一流の現代音楽の顔をし始めたわけである。

 

|ラディカル

しかし面白い。

本来既成概念を、伝統を破壊してなおラディカルであり続けようとしたはずのLachenmannの哲学
多くの支持と熱狂的な信仰を生み

権威へとのし上がってしまっているではないか。

私はここで正しくLachenmannの一言を思い返そうと思う。

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ラディカル?

 

「ラディカルであり続けること」

 

であるなら異化を否定しなければただの模倣ではないか。
そんな類例に過ぎないものには芸術としての存在価値など無いに等しい。

 

葬ろうではないか。

 

オルガニート本来の奏で方を用いて。

 

しかしそれとて普通の姿で用いても過去へ帰るだけの懐古趣味だ。


用意されたシートを無限に繰り返せるようにするために

はじめと最後をテープ止めして輪にしてみよう。

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輪っか



そして通常一定の速度で回すはずのレバーを、

全くでたらめな回し方をしてみたら何が聞こえてくるのだろう。

 

過去を取り戻したかのように見えて、

もともと演奏法を知らなかった者が

おずおずと試した原始的な瞬間。


それは歴史的な原初ではなく

いくつも分岐していたであろうパラレルワールドの一つを覗いた

という意味での原始だ。

 

無意味と意味の再獲得をまったく経験のない手法上で展開するとどうなるか。


演奏者は無意味に途方もない疲労を感じ、

まったくに音の出ない練習に打ちのめされるだろう。


まさに「塑像」となるのだ。

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有名な塑像



その塑像を目撃する聴衆もまた、

非日常を楽しみに来たはずのコンサートの空間で
箱と格闘する男を見させられ、

それが音楽だと理解しようと必死になり、

やがて「塑像」に成り果てるだろう。


かくて権威は「ナンセンス」な解体によって「塑像」となり、

それを実行した作曲者もまた連鎖の中で「塑像」となることが約束される。

 

|残滓

偉そうに語る急進改革のシュプレヒコールはいつの時代も同じである。


それが権威になればどれも等しく色あせて行くものだと

はじめから分かっているのに、

奴らはいつもそのことを見て見ぬふりなのだ。


馬鹿馬鹿しい。


この世には

「塑像」

「塑像になることが決まっているもの」

しかないだろうに。