彼女の名はChaya Czernowin、ハーバード大学の教授である。
1957年にイスラエルに生まれ、音楽の道へ進んだ。
今世界で最も権威ある作曲家である。
今回は最新の現代音楽シーンの中核である彼女を中心に書いてみようと思う。
はじめに断っておくが、今回の記事は非常に長い。
とりもとりあえずまず彼女の音楽を聴こう。
このブログの読者ならすでにお分かりだろうが、
一筋縄ではいかない音楽である。
あまり考えず、純粋に耳を傾けてみる事をおすすめする。
Jour 1/Chaya Czernowin
彼女の作風は一言で言えば「騒音」との関係性にある。
私の書いている現代音楽の歴史を軽く語るシリーズを読むと
音楽家はまず調性に立ち向かい、システムに立ち向かいと
それまでの既成概念を壊しては新しい潮流を作り出し、
そして自己破滅的にまた破壊を繰り返してきたことがわかるだろう。
それは芸術に宿命付けられた悲しい運命でもあるが、
しかしその運命に身を置き自ら破壊を主導することこそ
芸術家の本分とも言える。
その芸術音楽は「今」何に立ち向かっているのだろう。
その答えは彼女の音楽が雄弁に語っているではないか。
まさに「騒音」との関係性なのである。
従来の音楽は無調であっても「楽音」からは離れては来なかった。
楽器の音、音楽を演奏するための音とそれ以外を明確に区分し、
打楽器という抽象的な存在がその2つを隔てる境界を示していたのだ。
しかしその在り方は大きな転機を迎えた。
John Cageやその周辺の作曲家による実験音楽や、かつての未来派などには
すでに騒音を主とする音楽があったにはあった。
しかし彼女の音楽とそれらは、目指すものや哲学の面で大きな隔たりがある。
未来派の実験ではLuigi Russoloの騒音発生機が知られているが、
これはあくまで騒音を楽音として取り込んだものであり、
それ専用の楽譜を「演奏」することで楽音としての音楽を保っている。
John Cageらの実験では上記のような楽音を持たないものもあったし、
そもそも音がない曲まで書かれたわけだが、
それは「音」というものを作曲家の意図から解き放ち、
ヒエラルキーに押し付けられることなく
「アナーキー」に自由を求めるものにするという
考え方が根底にあるものだった。
では彼女の音楽はどうなのか。
Schott社が公開しているCzernowinのインタビュー動画を見てみよう。
Infinite Now: Chaya Czernowin Composer Portrait
彼女の作曲過程にはエンジニアの存在がある。
そして彼女は抽象的な騒音のイメージをエンジニアに伝え
エンジニアはそれをDAW上に再現していっている。
そして様々な処理を経て完成された騒音によるプロジェクトは
純音楽に落とし込まれることになる。
騒音から音楽へ。
まさにここが彼女の音楽の肝となる部分である。
専門的にはこの「還元作業」には様々な手法があり、
どのようなフィルターを通じて還元されるかには
作家の大きな個性が現れることになる。
そして出来上がった音楽自体も様々な特殊奏法が駆使され、
騒音に満ちている。
それは楽音としての騒音ではなく、騒音としての騒音が、
楽音としての楽音と対峙し、その境界を探し求めるかのようである。
そう調性の崩壊から始まった歴史は、楽音と騒音の境界を探し始めたのだ。
Czernowinの音楽はどこで形成されたのだろう。
少しだけ彼女の師事した作曲家についても見てみよう。
Dieter Schnebelは彼女の最初の師である。
詳しい読者であれば、この名前だけでも納得ができるものがあるだろう。
SchnebelはJohn Cageらのフルクサス運動にも共鳴し、
「勝者を作らない」音楽を標榜していた。
つまり音楽におけるヒエラルキーの否定の中で、
必然として騒音の取り込みが行われることになる。
Konzert für 9 Harley Davidson/Dieter Schnebel
Schnebelの作品からこの作品を紹介することには異論反論もあるだろうが、
あえてわかり易い例と考えた。
9台のハーレー・ダビットソンがかき鳴らす騒音と、
演奏者が演奏する音楽が一同に介している、非常に実験的な音楽である。
Czernowinの音楽の源流の一端を感じるのには十分すぎるだろう。
そして彼女は博士課程で決定的な出会いを経験している。
それは新しい複雑姓を生み出した巨匠Brian Ferneyhoughである。
Ferneyhoughの音楽についてはその潮流の名が示すとおり
非常に「複雑」であり、演奏困難さでも群を抜いている。
Ferneyhoughはプログラム演算を用い、
非常にシンプルな素材からカオスに近い複雑な組成を取り出し、
これを音楽の基本骨格に応用する手法を開発した。
La Chute d'Icare/Brian Ferneyhough
現在Ferneyhoughはスタンフォード大学で指導にあたっているが、
それ以前はカリフォルニア大学サンディエゴ校で教えており、
Czernowinはその時の教え子である。
なおその後Ferneyhoughの後任にCzernowinが就いたことは
彼女がFerneyhoughの正当な後継者とみなされたからであり、
優秀さと師の影響の大きさを示していると言えるだろう。
そしてカリフォルニア大学サンディエゴ校時代にはもう一人の師匠とも出会っている。
Roger Reynoldsである。
デトロイト生まれのReynoldsは非常に前衛的な作風であり、
騒音と楽音を追求するCzernowinの前身とでも言えるような音楽性を示している。
Quick Are the Mouths of Earth/Roger Reynolds
なるほど師匠からの系譜をみると彼女が如何に師の影響を受け、
そしてそれを自身の音楽性と結びつけながら深く理解し、
自らの言葉として取り込んできたのかがよく分かる。
かくして楽音と騒音との鬩ぎ合いは彼女を中心に世界へ発信され
その着想と手法は芸術に新たな視座と手法をもたらし、
それに続く若者たちに大きなマイルストーンとなって
新たな個性を導くことになったのだ。
次に彼女の影響について論じてみたい。
しかし彼女の影響はあまりに大きく、そして世界の隅々まで
その影響が行き届き、新たな才能を輝かせているので
このブログでそれを語りきるのは不可能だ。
そこで今回は少し恣意的ではあるが、
彼女の門から生まれ、騒音と楽音の関係性に着眼した
二人の女性作曲家を取り上げてみることにする。
一人目はAshley Fureである。
1982年生まれで2017年のRome Prizeにも輝いた若き才能である。
ハーバード大学で学んでおり、当然Czernowinに師事している。
しかもCzernowinだけではなく、
Brian Ferneyhough, Helmut Lachenmann, Lewis Nielson, Steven Takasugi,
Hans Tutscku, Julian Anderson, Joshua Fineberg, Bernard Rands, Harrison Birtwistle
と言った凄まじい顔ぶれが彼女の経歴には並んでいる。
なおSteven TakasugiはCzernowinの元夫で日系の作曲家である。
騒音と音楽に関係する作曲家意外には、テクノロジーを駆使した音楽を追求する人々
そしてポスト・ミニマルの潮流にある作曲家が並んでいるが、
一体どんな音楽を書くのだろう。
Something to Hunt/Ashley Fure
非常に難解に聞こえる音楽だが、ここまで読んでいただいた読者には
きっともうそれほど分かりづらくは感じないのではないだろうか。
はっきりと「騒音」の構築という背景が見え、
それを還元するモデルはCzernowinよりもう一歩騒音寄り、
更にテクノロジを自ら操っていることもわかる、
極めて電気的な騒音を感じる。
またLachenmannの影響と思われるエンディングや高揚を求めない
ナンセンスな構成法もまた彼女の表現の一部になっているように思う。
ちなみに彼女の名前Fureは「フューリー」と読むらしい。
なるほどCzernowinの示した音楽が極めて速い速度で、
かつ極めて高い能力をもって受容されており、
そこには確かに新しい潮流が芽生えたと感じさせるものがある。
次にこれが海外にまで及んだ例として
もうひとりの過激な前衛音楽家Malin Bångを紹介したい。
Malin Bångは1974年スウェーデン生まれ。
Kapellsberg's music school、Royal College of Music in Stockholmなどで学んだ。
師匠の欄には以下の名前が並んでいる。
Brian Ferneyhough, Gérard Grisey, Philippe Manoury, Philippe Capdenat, Chaya Czernowin, Walter Zimmermann, Friedrich Goldmann, Ole Lützow Holm, Pär Lindgren, Jan Sandström, Peter Lyne.
こちらもすごい顔ぶれである。
FerneyhoughとCzernowinはFureと共通であるが、それ以外の作曲家を見ると
Grisey、Manouryというスペクトル楽派の巨匠の名があることが特に印象に残る。
早速彼女の音楽を聴いてみよう。
ripost/Malin Bång
コントラバスと打楽器のドッペルコンチェルトの形で書かれているが
楽音らしきものは鳴りを潜め、
ソリストからもオーケストラからも騒音が響き渡るのみである。
更に打楽器も最早楽器ではなく、筒やプラスチックケース、ブラシといった
楽音を得るものではなく「騒音を発生させるため」のオブジェクトだけになり、
そこから発生した騒音をコントラバスが特殊奏法で模倣し、
オーケストラへ波及してゆくという構想である。
タイトルは「即答」や「リバウンド」を意味するようで、
確かに騒音に反応していくさまはタイトルの示すとおりと言えるだろう。
Czernowinよりも明らかに騒音に寄り、Fureよりは厚いテクスチャを用い
ややエンディングを求める伝統的な構成法の残滓もあると言える。
世界を隔てた音楽性というものはまだ国が閉じていたときの話である。
ドイツ式の重さがあり、フランスの甘美さがあり、北欧の冷涼さがあった。
もちろんそれらは民族の個性として残っているのだが、
かつて程の差はなくなってきたというのもまた事実である。
Czernowinの功績の一つはコンテポラリーのグローバル化だと言えないだろうか。
情報の得やすくなった現代は、辺境の国の個性にも活躍のチャンスを与えることになった。
そして才気あふれる若者はハーバードに集い、優れた師の下、最新の語法を身につけそれぞれの国に戻る。
かくて「騒音」は世界の隅々で「楽音」との鬩ぎ合いを始める事になった。
その代償として文化の個性が感じにくくなったことは仕方ないことだろうか。
あるいは代償として大きすぎたのだろうか。
いずれにしても時は止まらない。
これが今の音楽の一つの本流なのである。
最後に名作同のオルゴールコンサートに書いた私の「塑像」という作品が
これらの潮流の影響下に書かれたものであることを
ここにはっきり告白しておきたい。
そうすることで私が何に疑問を感じ、何を打破したかったのかがより具体的になるかもしれない。
そして名作同に集う「若者たち」は、このような歴史をどう感じ、明日への扉をどんな言葉で開くのだろうか。