一人の現代作曲家の音楽を深く聴き込み、分析を試みる当企画はとにかく準備が大変で全く回を重ねられないままになっていたが、やっと重い腰を上げて一本書いてみようと思い、かねてからの懸案だった作曲家、ガリーナ・ウストヴォーリスカヤを取り上げることにした。
まずは彼女の経歴を簡単に紹介しよう。
ガリーナ・ウストヴォーリスカヤは1919年にロシアのペトログラードに生まれた。ロシア人はミドルネームに父の名を持つので、彼の父はイワノフであったことがわかる。
レニングラード音楽院にてショスタコーヴィチに師事し、その後母校に奉職し自らも教鞭をとった。
彼女の作風は極めて独特なもので、一撃にかける音楽とかハンマーを持った貴婦人などとも呼ばれ、その激しい表現性がしばしば話題になる。社会主義リアリズムを強制された時代にあって、そういった音楽には目もくれず独自の道を進んだが、その個性は西欧的なものとはみなされず、例外的な作曲家として攻撃されることはなかった。その代償として取り上げられることもなく、マニアックな作曲家として国外には全く知られていなかったが、ソビエト連邦崩壊後、特異な作曲家としてにわかに注目を浴び、カルト的人気を博すようになった。そして2006年87歳でその生涯を閉じた。
外向性に乏しく、個人的な音楽を書き続けた彼女だが、その作品は少なく、晩年は足を患い車椅子での生活を余儀なくされていた。
ウストヴォーリスカヤの音楽を語る上で欠かせないのが、師であったショスタコーヴィチの存在である。この師弟は非常に密接な関係をもち、交際していたという噂がある。実際にそれは事実なのだろうが、ウストヴォーリスカヤ自身はそれについて問われても、否定も肯定もせず、多くを語らなかったため確実な証拠はない。
しかしショスタコーヴィチは「君が私の影響を受けているのではない。私が君の影響を受けているのだ」との言葉を残しているのだから、その関係が一線を越えたものであったのは想像に難くない。
残念ながらこの交際は終わりを告げたようで、ウストヴォーリスカヤは師の影響を微塵も感じさせない独自の作風を貫き「私の音楽は一切他のどんな作曲家とも繋がりはない」というに至った。
-それは本当だろうか。
ここでウストヴォーリスカヤの最初期の作品を一つ聴いてみよう。1946年に書かれた「ピアノ協奏曲」である。なおこの曲はいわゆる公的な作品としての性質を持って書かれた作品であることは付け加えておきたい。
Piano Concerto/Galina Ustvolskaya
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一聴にして師の影響が全面に満ちていることが聴き取れる。
このように初期作品には師の影響がはっきり現れており、特にこの曲の主要動機となっている以下の部分は、師の名作交響曲の出だしを思わせる。
Symphony No.5/Dmitri Shostakovich
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ショスタコーヴィチの交響曲第5番が書かれたのは1937年であり、ウストヴォーリスカヤのピアノ協奏曲は1946年の作品なので、一部に見られる師が影響を受けたという理解は間違っていると言えるだろう。
さてウストヴォーリスカヤは母校で教鞭をとったと書いたが、ショスタコーヴィチとウストヴォーリスカヤの両名に師事した弟子がいる。
それはボリス・ティシチェンコである。
1939年に生まれレニングラード音楽院で両名に師事し、やはりその後母校に奉職した。2010年に亡くなるまで、彼の作風はこの二人の師の影響を色濃く反映するものだった。このことは逆に言えば両師の作風に一定の共通点があったことを間接的に表しているとも言え、また二人のことについてよく知る作曲家であったことも想像に難くないため、その作品は師の作品研究における重要な傍証となり得るといえる。
ここでティシチェンコの作品を一つ聴いてみよう。
Piano Sonata No.6/Boris Tischchenko
一聴にして二人の師の影響を感じられるし、その世界観が実は近しい関係にあるということをある意味で証明してくれる作品だろう。特に以下のような部分はウストヴォーリスカヤの影響が顕著と言える。
1音に賭ける打撃という意味では、横軸の時間の流れが強く働いているので似てはいないが、クラスターの使い方はリゲティや初期のペンデレツキのようなものとはかけ離れ、ウストヴォーリスカヤ的としか形容し難い。そして横への発展法はそのテーマづくりが骨ばって感じられる点や、対位法的処置が見られることからショスタコーヴィチ的と感じられる。非常に変わったな混合であり、やや大味かもしれないが、極めてユニークと感じられる。
と、このように列挙してくると、ウストヴォーリスカヤが誰の影響も受けていないという事は言えず、またその語彙は引き継がれ、三代に渡るユニークな系譜を形作った事がわかる。
それとよく勘違いされていることだが、ウストヴォーリスカヤはショスタコーヴィチとの別れの後、孤独を貫いたというものがあるが、これは明確な誤りである。彼女には43年間連れ添った夫コンスタンチン・バグレニン(1947-)がおり、彼女の死後もその財産を管理している。ちなみに夫のバグレニンも作曲家であるそうだが、残念ながらその作品を聴ける資料は探し出せなかった。
以上がウストヴォーリスカヤの前期の創作姿勢と、その影響をざっと見たものであるが、多くの聴手にとって衝撃的と思われる作品は後期に集中していると言っていいだろう。過渡期と思われる時期もあるにはあるが、作風形成に至る時間は短く、すぐにあの強烈な作風を確立している。
ここで後期作品の代表的な特徴を持ったものを2つ聴いてみよう。
Composition No.2/Galina Ustvolskaya
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Piano Sonata No.5/Galina Ustvolskaya
「コンポジション第2番」はコントラバス群とピアノ、それに箱を叩く打楽器という面妖極まりない編成で書かれていて、強靭な響きと「ハンマーを持った貴婦人」の名にふさわしい曲となっている。
この曲は「Dies Irae」の副題が示す通り、不吉な匂いに満ちていて、彼女の作品における重要な要素が極端に表出している作品として知られる。ちなみに1973年の作曲である。
もう一つの「ピアノ・ソナタ第5番」は一連のソナタ群の中でも人気があり、演奏回数もかなり多い曲である。1986年と最晩年の作風を示している。
作風はより強靭さと怒りを増し、激しいピアノの殴打と時折現れる弱奏部がコントラストを成している。
これらの後期作品から彼女の作風の特徴のうち重要なものを取り出してみたい。
1.トーン・クラスター
彼女が「ハンマーを持った貴婦人」と言われる所以の一つがこのトーン・クラスターの多用である。彼女のトーン・クラスターは前に書いた通り、ジョルジュ・リゲティやクシシュトフ・ペンデレツキのそれのような帯による響きを作るために使われているのではない。激しい怒りの象徴として、一音一音塊としてぶつけられる表現的な使われ方である。
このように激しく一つずつ音をぶつけるようにと、1拍子の指示が加えられている。またその中にあって強調すべき音にアクセントが付加されていることからこの音群には強調したい中心的な音が存在することがわかる。これはズレ音からなる集合体ともみなすことが出来、ハンマーのような強靭な怒りであると同時に、メロディ性を内包させている。
一旦強調されるべき音を抜き出して上記例を要約してみよう。
案外シンプルな構想である。全体になんとなくDies Irae的な響きを帯びているが、これは右手の反行形になっている左手のフレーズがそれを感じさせてしまっているとも言える。ここでこのフレーズにおける重要な点は、音列的素材が原型であるということだ。
今度はその音列を右左別に取り出してみよう。
右手の音列はDの音に向かう短い調の音階の一部である。左手はその音列の反転からなる更に一部である。Dの音に中心を持ちつつ、それを怒りのクラスターで押しつぶし、反行系で更に覆い尽くし、また隣り合うDes(Cis)に見た目の中心おいて強打させる。この手法は調性を内包しているにも関わらず、それを全く無に帰してしまうほどに強烈だ。
しかしここで不思議なことにいがつく。なぜ本来の中心はDなのか、そしてそれを叩き壊そうとしているのはなぜか。この点は後にもう少し詳しく掘り下げる必要があるといえる。
とにかく強烈な音を殴りつけるような表現がピアノソナタには大きな要素となって現れている。ではそれがオーケストラ(といい切れるかどうかは分からないが)となるとどうなるか。
もう一つの曲「Composition No.2」で見てみると、箱をハンマーで叩くという指示のある打楽器パートが現れる。まさにハンマーを本当に使って、ゴツゴツと四分音符を一つずつ叩きつけるわけである。
つまるところ、ピアノ作品等のトーン・クラスターの描写は、このハンマーを用いて叩く箱と同一の表現とみなすことができるのではないか。これには単純に「最後の審判」の一言を連想させる力がある。本人の怒りと最後の審判が同じ手法に結び付けられているのはかなり奇っ怪ではあるが、これも後にもう少し掘り下げてみたい。
2.半音階的メロディ
先程のクラスターの単純化でも見えてきたメロディのラインは、半音階的であった。
これが大抵彼女の曲の中では、クラスターの次の要素として、しばしば対位法的に現れる。
一つずつの音を殴打しろという指示は相変わらずだが、ここにはクラスター的素材はなくむき出しの音列が現れる。また対位法的につけられた左手のフレーズはここでも反行形を基本としていることがわかる。
更に言うなれば、この不思議なメロディも一部をズレとみなせば案外単純明快な民族的とも言える旋律に還元できる。それ自体が自分がロシア人であると言っているようにも聴こえるし、更にいうとこの不思議な音列に現れる要素がまた意味深であるとも言える。
こちらでも大分激しい轟音とはなっているが、半音階的メロディを見つけることができる。そして両曲ともに同じような音列構成をしており、これも意味深さを感じ取ることができるのである。
と、まとめてみるとトーン・クラスターの後には半音的メロディが現れるということは一貫した彼女の作風というか、構造的規則であり、これをどんな編成でも貫いているということが言えるだろう。
3.コラール
ここまで彼女の手法は激しい表現性を伴うものばかりだったが、意外なことにもう一つの要素はその真反対、敬虔で静謐な時間を感じさせるコラールである。ここには彼女の宗教観が表現されていると考えられ、祈りやあるいは神そのものの象徴として登場するのではないかと考えられる。
相変わらず響きは厳しいが、ここまでの暴力的な表現性の中にこのセクションが置かれると、全く厳しさは知覚できなくなり、ただただ静かな祈りのひとときを感じさせられる。
余分な音を削って原型の進行に還元してみよう。
このようにしてみるとDes(Cis)を基準としながら下降形のバスに極めて機能的にハーモニーがつけられており、その響きは静謐と言えるのではないか。相変わらずここでもDesの音が微妙に幅を利かせている点も意味深ではある。
もう一つの作品でもこの奇っ怪な編成の中に、静かに演奏されるシーンが有る。しかしここではピアノが相変わらずクラスターを伴って鳴らされ、急に衝動的な強奏が挟み込まれている。祈りと怒りの混合は彼女の中の2つの精神性を象徴しているように感じられる。それが「神に対する敬虔さと怒り」「神へ怒りをぶつけたことへの贖罪」ではないかと思う。
彼女はロシア郊外の荒野に一日佇むことを日課とし、その地で得たインスピレーションを曲にしていたのだと語る。何もない場所で天空に向かって「私はなぜ孤独なのか?」と問い続けていたという彼女に、しかし神は「なんの返答もしなかった」のだそうだ。
孤独への苦しみを神に問い、返答がないことに強く憤り、そして神へ怒りをぶつけたことに対して許しを請う。そんな構造が彼女の作品の骨格をなしていることが見えてきた。キリスト教文化圏的二分論がここにもしっかりと感じられるのである。
このように彼女の曲の重要な要素を見てみると、その音楽の本質的な部分が見えてくるのだが、同時に彼女はその孤独の原因をもう知っていたのではないかという疑念も湧いてくる。
次にその点について例を並べてみよう。
これは彼女の最後のピアノ・ソナタにして、怒りの表現が頂点に達した凄まじい作品である。作曲年は1988年。恐ろしいまでの暴力性がピアノを破壊してゆく。
しかし例によってこの怒りの表現は彼女自身に表出した感情でしかないことは言うまでもない。
そしてトーン・クラスターに彩られた中の本質を見ると、音列が見えてくる。
この中で重要なのはEs-DとC-Hの部分であり、これは有名な音列D-Es-C-Hすなわち、DSCH=Dmitri SCHostakovichを表している音列ではないか。
この音列は本人がショスタコーヴィチ本人が署名的に用いた音列であり、それを強く想起させる形でウストヴォーリスカヤの作品に現れるのはいささか不気味である。
上記下段の部分もほぼこの音に加えて、またDesの音が強調されている。
彼女にとってピアノ・ソナタ5番、6番にDesを強調させたのには意味があるとしか考えられない。Des音と、Dies Iraeの関係性を指摘する事もできるかもしれないが、単純にショスタコーヴィチのイニシャルがD.Sで有ることのほうが説得力があるのではないか。すなわちそのイニシャルをくっつけてDS=Desとしている可能性はないか。
加えてピアノ・ソナタ第5番にはこんなメロディが突然現れる。強烈なスキップリズムによるこの音形ははじめに紹介した初期作品のピアノ協奏曲の主要動機に似ている。ということはこれはショスタコーヴィチの代表作交響曲第5番の第1楽章のモチーフとも類似関係にあることが示唆されるのである。到達音はDesであり、左手にはH-C-D-E-Fという音形が見られ、これもDSCHを意識させるのに十分である。
ここまで要素が揃うとこれはもはや師ショスタコーヴィチとの関係が、私の孤独の根源なのだと言っているようなものと思えてならない。あえて言えばこれらはすべてショスタコーヴィチを示すライトモチーフとして機能していると類推できるのではないか。
強烈なクラスターによってそれを聴き取ることは甚だ難しいが、ここにこのピアノ・ソナタ第6番の音源を貼っておこう。
Piano Sonata No.6/Galina Ustvolskaya
さて最後に見てみるのは彼女の最後の筆となった交響曲第5番「アーメン」である。副題が示す通り、神への敬虔な姿勢を示す曲ではあるが、彼女は震える手でこの作品を書ききり、以降その死まで一切の作曲行為をやめてしまった。もちろん健康上の理由もあるのだろうが、ある意味自分の人生の意味を悟り、これ以上に書くことに意欲を失ったとも言えるのかもしれない。ちなみに1990年に完成された作品であるから、彼女が作曲活動をやめた期間は死の歳から逆算して16年間にもなる。
答えを知ってもルーチンを変えず、荒野に佇んでいた彼女にはその後何が聞こえたのだろうか。いや、相変わらず何も聞こえなかったのだろう。
とにかくまずその音楽を聴いてみよう。
Symphony No.5"AMEN"/Garina Ustvolskaya
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え?と思われた方も多いはずだ。「交響曲」と題されているのに室内楽と思う楽器の少なさだ。そこに朗読といつものハンマーが登場する。こんなに面妖で深刻な音楽があって良いのだろうか。驚きを超えて沈痛さに打ちのめされそうである。
これがこの曲の初めである。Tubaの低いC音、そしてハンマーで叩かれる審判の不気味な音、主要動機はD-Esの繰り返しである。
そしてそこに乗せられる語りは、本人によるディレクションの映像で、虚空に向かって叫ぶようにとされている。内容は「天にまします我らが父よ」である。師の名を敷き詰め、神に赦しを請う。これが彼女の到達した世界なのだ。
この最後の作品では1拍子にこだわっていた彼女が複数の拍子を使って書いているし、いつものような激しい描写は少し抑えられて、簡素さを増している。さらに語りが「神よ!!」と叫ぶ裏では不気味にトリルを書けられた描写が登場する。恐れおののき、神にすがるしかないロシア人女性の叫びそのものだ。
神に怒り、許しを請い、それでも神を捨てることが出来ず、その原因には師との関係が横たわっている。おそらく許されない関係を持ってしまったことで神の怒りを買い、その結果癒やされぬ孤独を抱えてしまったことで、彼女は神に怒り、そして贖罪を願い、最後の審判を恐れ続けたのだろう。
ここまで見ても「ショスタコーヴィチとはなんの関係もない」といい切れるだろうか。私は全くそうは思わない。彼女にとってそれがロマンティックであったのか、苦しみの原因であったのか、あるいはその両方かは今となってはわからない。しかし少なくとも彼女はその過激な表現性の中に、生涯語らなかった師との関係を告白し続けていたことだけは確かではないだろうか。暴力性ではないのだ、苦しみから逃れたい敬虔なロシア人女性の悲痛なる叫びだったのだ。
我々はとかく表面を追いがちである。その表面的事象を知っただけで、曲を理解した気になり、それより先の探索を忘れがちなのである。
音楽は尊いものだ。ここにウストヴォーリスカヤの音楽に秘められた、痛々しい彼女の懺悔を明らかにしたが、そこまで読んで初めて音楽なのではないだろうか。
ろくろく譜面も読めないであーだこーだとSNSに流す前に、乗っ取られる程にその作品群に挑んでみてはどうだろう。
ウストヴォーリスカヤの音楽は、音楽の個人性ということを語っているのは間違いないが、そこに思い至って演奏されることが少ないようにも思う。レーウやリュビモフという良き理解者を得たことは幸運だったが、パフォーマンスに終始する演奏が溢れてしまったことは、彼女としては本望ではなかっただろう。
同じことは他の作曲家の作品にも言えるのだ。
貴方はちゃんと楽譜を読んだのか?