名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

コンテンポラリーの回廊 俺の視聴部屋3

コンテンポラリーの回廊

 

 皆様あけましておめでとうございます。旧年は三の酉ということもあり、SNSではたびたび炎上、バカばかりが雨後の筍がごとく現れ切っても切ってもきりがない実に不毛な時間を多く経験しました。しかしその中から拾ったものは大きく、新たに知り合えた仲間の心強さは私にとって代えがたいものになりました。
 この勢いをさらに加速させ尖り倒し、既得権益の巣窟である楽壇中央とは徹底的にやりあっていきたいと思いを新たにいたしました。今年の抱負はずばり「闘い」、作品でも実生活でもトラブル上等でやっていこうと思います。

 

 さて年初一発目の私の担当記事は様々な前衛作品を、このくそ遅れた国に紹介するこのシリーズです。


初めに紹介するのはこんな曲です。

 

1.Black Bottom/Nkeiru Okoye

Nkeiru Okoye

 ンケイル・オコイエは1972年にアメリカに生まれた作曲家であり、名前からもわかる通りアフリカ系で、父親がナイジェリア人である。もちろんそのルーツに迫る楽曲もあるが、むしろ彼女はアメリカの伝説などを題材にした作品が多い。彼女はジャマイカの作曲家であるノエル・ダ・コスタに師事しており、この点からもむしろAfro-Americanとしての意識が作品の中枢にあるようである。
 今回紹介する「Black Bottom」も彼女の作風、コンセプトをはっきりと打ち出した作品といえるだろう。独唱者は民族的な歌い方による歌唱を行い、ドラムやエレキベースも使われ、とてもPopsの色彩が強い。一方シリアスさもちゃんと持っており、これが現代のアートであることを思い起こさせる。全体に11の部分からなっており、この言い方がよいのかはわからないが黒人的な音楽と感じる。それは例えば私がアメリカに暮らして、音楽を書いてもアジア性は消えないのと同じことではないかと思う。とかくこういった題材は歴史的に政治的になりがちだが、むしろ陽気さがあって湿っぽさを吹き飛ばしていくようですらある。
 日本人の悪いところにバブルの幻影にいまだ縛られているところがある。すでに日本は先進国ですらなく、滅びゆく国なのにいまだにプライドは当時のままだ。差別などどこぞの話で自分たちは歓迎されるべき人種だと思い込んでいる。否、すでに黄色い猿に成り下がった私たちは、むしろオコイエのような眼差しこそ学ばなければならないのではないだろうか。

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さて二曲目に行きましょう。

 

2.Furtive Movements/Ted Hearne

Ted Hearne

 テッド・ハーンは1982年シカゴの生まれ。少年時代から聖歌隊に参加し音楽経験を積み、ニューヨークに出てからもそのまま音楽の本格的な勉強を始めることになる。そしてアメリカの一つのゴールデンパターンであるイェール大学に進み、デイヴィッド・ラングに師事することとなる。これはBang On a Canの影響下に入ったことを意味し、この時点で彼の言語の基礎がポスト・ミニマル的になったと言って良いだろう。そしてあらゆる編成のための作品を書き、自らヴォーカリストとしても活動していく中で、当然コンテンポラリーとPops、特にエクスペリメンタルを融合させ独自の境地へ至ったのは何ら不思議はない。
 このFurtive Momentsはその姿勢がわかりやすい作品で、チェロの独奏とドラムセット(打楽器)のために書かれており、明瞭にロックの影響を感じさせる。なるほど弦楽器のSul Ponticelloのサウンドはギターを軽く歪ませた音に近い。Bernhard Ganderがメタルとコンテンポラリーの融合から独自の音楽を行い異端と言われたのとは対象的に、アメリカではこういった折衷は異端ではなく、むしろファッショナブルな最新の音楽である。
 あえて攻撃的に言わせてもらえば、日本でその経歴に詐称が多いと言われている某作曲家は、ミニマル的手法を「現代音楽の歴史で否定された方法論」と言っているが、そういった姿勢こそ「否定」されるべきであり、こうやってアメリカンカルチャーの両翼を担う方法論としてひとつの折衷のなかにファッショナブルなコンポラリーとして脈々と生きている姿は我々の思う「前衛」がすでにカビの生えた古臭いものであることを強く示唆しているのではないだろうか。

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さて3曲目のご紹介に進もう。

 

3.Sad Songs/Clemens Gadenstätter

Clemens Gadenstätter

 クレメンス・ゲーデンシュテッターは1966年生まれで、ここまでの中ではすでに有名で、大家の作曲家の一人と言えるだろう。オーストリアに生まれ、エーリッヒ・アーバンナーに師事し、その後大巨匠ヘルムート・ラッヘンマンについて大学院を卒業後、自らも教壇に立って更新の育成に努めている。当然ゴリゴリの現代音楽エリート路線で来た作曲家なのでその作風は政治的であることはもちろんながら、本人の作曲命題として「知覚する音楽」という物があるようだ。知覚し、理解することで、それらが政治的な意図を持つという点に至らしめようとする姿勢は大師匠からの系譜に違わぬ、強い作曲家としての闘争を意味している。いわゆる「モダン」の姿勢であり、私はもういささか古いと断ぜざるを得ないと思っている音楽の在り方である。
 「Sad Songs」は聴けばそれが「泣く」という人間的行動であり、悲しみのために泣いていることの背景を知覚させ、メッセージとして発信していることがわかる。しかしその響きはおそらく実際に幾種類かの「泣き声」のサンプリングがベースになっていると思われ、これを響きにするために電子音、エレキギターを含む変わった室内楽編成となっている。泣くという行為とその周囲にある人間の動きや行動を抗議の象徴としてまとめ上げており、また構造的にも師の影響が感じられ再帰的ではないが、非常によくまとめられある意味で知覚しやすくされているように思う。
 いわゆる現代音楽ではあるが、日本で声高にゲンオンを叫ぶ多くの作曲家に、ここまでのサウンドを書く人がいないのはなんだか滑稽ですらあると思わせてくれる作品である。

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つづいて4曲目だ。

4.Tendon/Eliav Kohl

Eliav Kohl

 エリアフ・コールはイスラエルの作曲家。1983年に生まれニューヨークで学んだ売出し中の若手である。これまでにジェーソン・エッカルト、ジェフ・ニコルズ、ルーベン・セルッシ、ジョセフ・バルダナシヴィリ、アムノン・ウォルマンらに師事している。マスタークラスで学んでいる頃から積極的に作品を発表しており、世界中のアンサンブル団体などからの委嘱を受けている。
 「Tendon」は天丼のことではもちろん無く、「腱」や「編み込まれた構造を持つもの」の意味だそうだ。弦楽四重奏のために書かれ、いわゆるポスト・モダン世代の最新前衛の形態をとっている。なかなかに難解で演奏も甚だ難しいだろう。おそらくタイトルの示すところはこの音楽の基本的な構造を示すものであり、プログラム演算を応用した、新しい複雑性を帯びたような構造を「編み込まれた構造」としたと考えられる。ノイズも多く用いられ、極めて先鋭的だが、なかなかに構造的に面白く、この手の曲では飽きが来にくい。
 大海を知ったものの音楽と言えるだろうが、個人的にはなにか強く訴えるものがあるタイプというよりは、作品の生成過程を美と捉える旧来のモダニズムの色彩が強く見え隠れしてしまい、今後の作品がどう成熟していくかが楽しみである。

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さてあっという間の今回のラストだ。

5.Countryside Landscapes/Özkan Manav

Özkan Manav

 オズカン・マナフはトルコの第二世代を代表する作曲家といえるだろう。サイグンやウスマンバスの影響を強く受け、さらにリゲティの影響が顕著な初期の音楽スタイルからだんだんと伝統と前衛を結んだ新しいスタイルへ移行していく。
 マナフは1967年に生まれ、バレーダンサーだった母の手ほどきで音楽に触れると才能を表し、エルシヴァン・サイダム、アドナン・サイグン、イルハン・ウスマンバスに師事した後、さらなる境地を求めてロンドンにわたる。ボストン大学ではルーカス・フォス、マージョリー・メリーマンに学び故郷へ戻ると自ら教壇に立つようになった。初期の作風は先述の通りだが、徐々にトルコの伝統音楽の要素を持ち込んでいくようになると、微分音への関心も強くなっていった。
 今回紹介するのは2007年に書かれた弦楽オーケストラのために書かれた「田舎の風景」と題された作品だ。楽譜や響きはペンデレツキのそれを彷彿とさせるが、これを単なるアレアトリックな前衛作品とみるべきではないだろう。響きに純粋に耳を傾けると聞こえる鳥の声や郊外の雰囲気に身を任せ、その響きにいざなわれるように聞けばたちまち作曲者の見た風景の一因になれるのである。
 いささか旧時代的語法ではあるが、そこにトルコ人の音声分解能の高さと伝統意識が加わりとても文化的な作品に仕上がっている。
 日本はグローバリズムを外国人になりきることと勘違いした国である。本来は国際環境の中でナショナリズムを保つことがその本質だったのに、実に情けなく恥ずかしい。そして日本の現代音楽界隈ではいまでもその勘違いが残存しているのはもはやネタでしかない。その意味では伊福部先生の眼差しはどれだけ先見の明があったのか感心せざるを得ない。同じようにマナフの音楽もまさにグローバリズムの体現の仕方を私たちに教えてくれるようである。

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と、新年早々興味深い海外の作品を5曲紹介したが、我々がこれらの曲に学ぶところは非常に多いのではないだろうか。


プロフィールを盛ることに何の意味があるのか。
海外の人になりきることにどれだけの意味があるのか。
そして今、日本人とは何かが改めて問われている気がする。
高すぎるプライドを持つ前にプロがすべきことがあるだろう。