お久しぶりの冨田です。
久々にブログを書きます
最近、音楽における「意味」について考えていました。
意味とはつまり、「その音楽がこの世に存在する意義」のことです。
作曲をするうえで、存在意義のない曲を書くのはツラいですからね。
音楽における意味は、そのまま価値に繋がっていくんじゃないか?と自然に思ったわけなのです。
しかし、考えていくうちにドツボにはまりました。
端的に言って、無意味/有意味はまったく反対なようで、実は隣り合わせになっているのではないか?という考えに至ってしまったのです。
つまり、
こうではなくて
こうではないか?
だとすると、音楽における意味は価値と結びつかないことになってしまいます。
けっきょく音楽の価値とは何なのでしょうか。
今回は、有意味と無意味の螺旋を探索してみようと思います。
芸術音楽の有意味性(そして無意味性)
名作会では、現在とある演奏企画を企画中です。
詳しくはまだ言えないのですが、そこで演奏するための曲を私・冨田も作曲しました。
内容には芸術的なコンセプトをふんだんに盛り込み、概念芸術的な世界に踏み込んで、そうして完成した楽曲は――――・・・・・・
10分間ピアノをドカスカ叩くだけの曲です。
とまあ、こういうことが芸術音楽の領域では大変よく発生します。
挙げれば枚挙にいとまがないでしょう。
こうした概念芸術的な作品たちは、大変強い芸術的意義、つまり有意味性を持っています。
有意味性の純度が高いあまり、もはや「耳で聞いたとき気持ちいいかどうか」はほとんど考慮されていません。
「気持ちいい」ということの意味よりも、それを超える濃厚な意味を目指した結果、このようになっているわけです。
ただ、これらの曲には問題があります。
多くの場合、小学生がテキトーに楽器をぶっ叩いただけの雑音と見分けがつかないことです。
ええ、言ってやりますとも。
誰もが思っていること、だけど表立っては言わないことです。
もちろん、楽譜を精細に読み込み、一音一音の響きに耳をすませば、ただ適当にピーヒャラやったのとは違った魅力的な音楽だというのは分かります。
だとしても、極端な話、本当に小学生にデタラメな演奏をさせたうえで
「テキトーにピーヒャラやらせることが芸術なのだ。なぜなら・・・・・・」
と語られてしまえば、ただのピーヒャラも概念芸術になってしまいます。
つまりここで言いたいのは、概念芸術が感覚的な価値観から極めて遠いところにあるということです。
概念芸術は、有意味性を高めていった結果として、感覚的・直感的に価値を見極めることが実質不可能になっています。
商業音楽の価値
そうしたものと対極をなす音楽として、商業音楽があります。
こちらも挙げるまでもないですね。
聞いて気持ちいい普通の音楽たちです。
こうした音楽たちの価値は明確で、「聞いて気持ちいい」ということです。
しかし考えてみれば不思議なことで、こうした音楽たちはなぜ「聞いて気持ちいい」のでしょうか。
人間の特性として、周波数比が単純な音の響きを気持ちよく感じるとか、リズム感に快感を覚える、心地よい周波数帯域がある、ナントカ分の1のゆらぎはリラクゼーション効果がある、ナントカ周波数はチャクラに働きかけて宇宙とあなたをつなぐ・・・・・・
とか何とかいろいろありますが、正直どれもよく分からんです。
結局のところ、
「気持ちいいから何?」
「俺は気持ちよくない。こっちの曲の方が気持ちいいよ(爆音ノイズ)」
「そんなことより俺とキモチイイことしようぜ・・・?」
などと言われてしまえば言い返すすべがありません。
こうした商業音楽の価値は、感覚的・直感的に判断することが容易である一方で、とても個人的で説得力に欠けるものでもあります。
スカム・ミュージックの無意味性(そして有意味性)
最後に、スカム・ミュージックの話をします。
名作会副会長の榊原がよくブログに書いている通り、世の中にはスカム・ミュージックと呼ばれるゴミカスのような音楽が存在します。
こうした音楽は、非常に技巧性が低く、衝動的に作曲され、コンセプトがあるかどうかすらもあやふやで、大変個人的なものです。
多くの場合は聞くに堪えないか、かなり奇妙な曲になっています。
実は最近、自分もスカム・ミュージックを作る機会がありました。
本当に何も考えず、何のコンセプトもなく、テキトーにYouTubeの動画をサンプリングしてカスのような雑音を作り、ゴミのようなタイトルをつけて発表したのです。
すると、意図しない気付きがいくつもありました。
まず、本当に本当の「無意味」をやるというのがとても疲れるということ。
何も考えずに作った作品というのは、まさに自分の根底にあるものがそのまま表れた、言ってみれば一糸まとわぬ全裸の自分みたいなものですから。
そして次に、「無意味をやる」というのは芸術に携わる上で非常に重要な態度なのではないか?とも思いました。
何が有意味で何が無意味なのか、そういう根柢の部分から疑っていく精神が芸術には必要ですから、今回の経験は自分が今まさに立っている地面が崩れ去るような経験で、とても有意義に感じました。
結局のところ、無意味を突き詰めると意味が発生するということです。
だって、無意味を突き詰めたスカム・ミュージックによって自分が気付きを得てるわけですから。
しかも、ここで得られている「意味」というのは、「聞いていて気持ちいい」という感覚的なものではなく、どちらかというと哲学的で抽象的な意味、概念芸術的なものなのです。
こうして、無意味と有意味が円環構造をなしました。
さらに付け加えると、このように表すこともできるでしょう。
結論:音楽における価値とは
今のところ、音楽の価値をめぐる考えとして
「芸術作品は価値が高く、芸術でない娯楽作品は価値が低い」
という共通認識があるように感じます。
こうした認識は、以下のような固定観念から生じていると思われます。
つまり、この図で右に行くほど価値が高い。
逆に左に行くほど価値が低い、ということですね。
しかし、この図が間違いで、本当は無意味と有意味が円環構造をなしているとしたら?
このような価値判断はできなくなってしまいます。
僕は、音楽における価値は
「この意味の螺旋を何周したか」
によって決まると思いました。
つまり、螺旋を何周もすることでより高い場所へ行ける。
その高さが価値となるのではないか、ということです。
たとえば、先ほどの例に立ち返ってみます。
概念芸術と小学生のピーヒャラは非常に似ています。
実は、この2つは似ているどころか同じものなのです。
図の中で言えば、2つともここに位置しています。
ただし、上から見たら同じ場所にありますが、横から見れば違います。
この2つは高さが違います。
小学生は、本当にただ何も考えず真っさらにピーヒャラとやるだけでしょう。
一方の概念芸術では、色々なことを考えて感覚の世界と抽象的な世界を行き来し、そのうえでようやく「ここに決めた」と腰を下ろすのです。
もう1つの例として、クラシック音楽を挙げてみます。
一般的に「クラシック音楽はたいへん芸術的価値が高い」と思われているのですが、僕は必ずしもそう思わないのです。
なぜなら、クラシック音楽というのは太古の昔に作られた作品です。
時代の流れと共に、人々は集合知を受け継ぎ、加速度的なスピードで有意味と無意味の円環をめぐっていきます。
つまり端的に言って、昔の作品はその当時としては高い位置にあったのかもしれないが、現代の私たちから見れば当然低い位置にあるだろう、ということなのです。
もちろん、全ての作品がそうだというつもりはありませんので、悪しからず。
このように考えていくと、
「調性音楽なんて芸術とは言えない」
「商業作品より概念芸術の方が価値が高いに決まってる」
などといった考えの馬鹿らしさに気づくわけです。
むろん、作品の「高さ」を見極めるのは非常~に難しく、定まった答えがあるわけでもありません。
しかし、この新しい視点から芸術の価値について考えてみることには、一定の価値がありそうな気がします。
皆さんも一度、無意味と有意味の螺旋をくるくると登ってみてはいかがでしょうか。