名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

唯一神バッハの欺瞞と神の超克

 「あーなーたーの髪の毛ありますかー」
の替え歌で知られる、『小フーガト短調』。中学生の頃、誰もが学校で習った曲だろう。しかし、この曲の凄まじさを知っている人は意外なほどに少ない。多分音楽の先生も知らないだろう。知っていたとしたら、授業に熱が入らないわけがない。

 『小フーガト短調』の作曲者は、所謂"音楽の父"、J.S.バッハだ。バッハはバロック後期の作曲家であり、膨大な数の作品を残すと同時に、西洋音楽の基礎を構築した作曲家でもある。しかし、その音楽の響きは正直、総じてつまらない。いわゆるクラシック音楽という感じで、ワクワクするようなリズムもなければ、工夫に満ちたハーモニーもない。ただただシンプルを極めた響きが、延々と続くだけだ。BGMとして流れているならまだしも、これだけを集中して何十分も聞くなど苦行に近い。少なくとも僕はそう思っていた。

 しかし、楽譜を分析してその意見は根本から変わった。バッハの音楽は、現代の音楽とは全く違った視点から書かれている。全ての旋律がメロディとして等しい価値を持ち、緻密に絡み合い、歌っている。それは異常なことだ。バッハの音楽には、極めて数学的・パズル的な凄まじさがある。例えるならば、何のヒントもない状態で巨大なクロスワードパズルを完成させた上、全ての単語を繋げたら美しい詩文になっていたという感じだ。パズルを完成させるところまでは出来ても、それで文章を紡ぐなど人間業ではない。バッハが生涯をかけて完成させたこの音楽形式は「フーガ」と呼ばれ、今でも音楽の最重要概念に数えられている。

 バッハの音楽は、所謂「絶対音楽」だ。つまり、例えば「夕日の綺麗さをイメージした」とか「失恋の悲しさを表した曲だ」というような具体的なテーマはない。ただ純然たる音楽としてだけ、その存在があるのだ。それに加えて、彼の曲は数学的に精緻な作りになっており、どこか自然物の美しさ──例えば、ひまわりの種が放射状に並ぶ様子とか、魚の体表の美しい模様とか──に通ずるものを感じる。以上のことから、僕はバッハに対して「神」という概念を強く意識するようになった。絶対的存在であり、不完全な肉体を超克したもの。バッハの音楽は感情を込めて弾くのが難しいと言われるが、それもそのはずだ。神の領域に達した音楽には、卑俗な感情の匂いは感じられない。

 僕は、バッハの音楽を批判することが不可能なのではないかと考えた。単なる響きの好き・嫌いを超えた場所、人間の論理で語れる地平を超えた場所、そこにバッハがいる気がしたからだ。つまり、「神は越えられない」のではないかと思ったのだ。しかし、ある現代作曲家の先生にそのことを話した折、極めて面白い言葉をいただいたので紹介しておきたい。

〝料理であれ薬であれ、作品を挟んで、大切なのはその前だけではなく、その後も大切だ(前だけで分かってくれ、食事などしないのは、神。
バッハはそのような神を終生、設定しきっていた。なぜなら神は糞など垂れてはならないからだ!)”

 バッハの音楽は絶対的な存在であり、神がかったものだったのは間違いない。バッハの音楽は"作品の前"から見た場合はあまりにも完璧だったからだ。しかし、"作品の後"から見た場合むしろ徒爾に過ぎないと先生は言った。どういうことか。

 バロック時代、バッハは最先端の作曲家だった。最新鋭の技法を開発し、それを実用化した。そうして生まれた音楽の数々は、今でも越えられることのない壁として厳然と立っているように思える。しかし、それは本当なのだろうか。現代はもはやバロック時代ではない。事実、バッハの時代から音楽は途方もない進化を遂げ、当時は有り得なかった芸術的表現の数々が実現している。バッハの音楽など、とうの昔に超克されているはずなのだ。にも関わらず、「バッハの音楽は越えられない神だ」などと未だに囁くとすれば、それは懐古主義だ。──いや、懐古主義というより、むしろ思考の放棄かも知れない。

 音楽は進化する。突然変異を起こす。どんなに絶対的に思える音楽も、必ずいつか打ち壊される。そしてその時、自分を打ち壊したそれが「突然変異した自分」だったことを知る。ある音楽は、自身の分身によって超克されるのだ。音楽史はそれを繰り返してきた。だから終わることがない。自己がある限り、非自己もまた必ず存在するからだ。そういう意味で、バッハは神であると同時に罪人でもあった。僕は作曲家として、バッハを超えなければならないだろう。もう超えているとしたら、そのことに気づかなければならない。

 人間が不完全である以上、神は超えることができる。人間に想定しうる神の姿もまた不完全だからだ。そのことに僕たちは気付かなくてはいけない。芸術に何か社会的な意味があるとしたら、「神を超える方法を教えてくれる」ということかも知れないが、それは僕にとって正直どうでもいい。僕はただ、神を神としたまま超えていくことができる、ということが嬉しくもあり、同時に恐ろしくも感じられるだけだ。それは、終わりのない生命と芸術の輪廻を意味する。