明けないに1万掛けてましたが、明けましたね。
おめでとうございます。
なんすいです。
名作会今年もよろしくお願いします。
さて、我々名作会より、今年の年明けと同時に「ストリートピアノ企画」の公開を行いました。
皆さんご視聴頂けたでしょうか。
ストリートピアノを使って演奏することを前提としたストリートピアノのための楽曲を、3人の会員が書き下ろしました。
KIRITORI~by the media's efforts to sabotage the nation through street pianos /榊山大亮
榊山先生が制作したこの作品は、原曲の演奏にさらに映像編集を施した、メディアアートになっています。
「私はだれ?どこから来て、どこへ向かうの?」…というテロップから始まり、終始シリアスな雰囲気を纏ったドキュメンタリー風に映像が仕上げられています。
一体この映像にはどういう意味が込められているのでしょうか。
ここで作品の英語タイトルを訳してみると、「ストリートピアノによる、国家を妨害するメディアの"KIRITORI"」となります。
なんだか不穏ですが、このタイトル自体が本作品の種明かしになっています。
実は、意味ありげな映像には本当は何の意味も無く、ただそれっぽさを演出しているだけのものです。
意味の無い素材達を切り取って繋げ、恣意的に編集する「マスコミの手法」がメディアアートとして再現されているのです。
ストリートピアノはもともと、街中での文化的な営みの機会として世界中に広まりました。
誰でも弾くことが出来、その中で文化的な交流が生まれることを期待されてきました。
しかし、現状はどうでしょうか。
ピアノの弾ける人達がこぞってストリートピアノでの演奏動画をYouTubeにアップし、人気を博しています。
もはやストリートピアノといえば、こういう風に上手い人が動画を回して流暢に流行りのポップスを弾いてみせる、といったイメージを持つ人も多いのではないでしょうか。
「誰でも弾く」ものではなく「弾ける人が弾く」ものへ、「何でも弾く」ものから「人気の曲を弾いてウケる」ものへと、ストリートピアノの役割は変貌してしまいました。
すなわち、当初の目的を果たせなくなったストリートピアノは「もっともらしく意味ありげな無意味」の象徴となった……ここに、マスコミの"KIRITORI"の手法を重ねるというのが、本作品のからくりになっているわけです。
非常に榊山先生らしい、意地悪なコンセプトです。
ストリートピアノの演奏が専らYouTubeで動画として拡散されていることに対比して、メディアアートの形で本作品が作られているという点も、皮肉ポイントです。
演奏者の私自身、最初からコンセプトを聞いていたので、演奏の際は本当に何も考えずに譜面の音符を弾いていただけでした。
映像として見ると、なんだか神妙な面持ちで弾いているように見えてきますが、それは弾くのが難しかったからです。素人の私でも弾けるようにだいぶ少ない音数で作って頂きましたが、いや、ピアノって難しいんですね。
私の演奏のぎこちなさ、そして風貌の謎さがより意味ありげな感じを醸していて、作品により良い効果を出せていたようで光栄です。
空間デザイン/冨田悠暉
冨田悠暉(トイドラくん)作曲の「空間デザイン」。
これを最初から最後まで飛ばさずに聴いてくれた人は何割くらいいるんでしょうか。
1ページに収まるくらいの短くシンプルな譜面を、無限に繰り返し弾くという内容。
私自身、最初に楽譜をもらった時はかなりギョッとしました。
本曲を聴いてくれた人は、なんかずっと同じようなことばっかり弾いてるなと思ったかもしれませんが、本当にそうなのでした。
本曲の背景には、エリック・サティの「家具の音楽」という概念の存在があります。
「家具の音楽」は無意識のうちに聴かれながら空間の心地良さを演出するという、アンビエント的な音楽の構想といわれています。
しかし、そうして作られた楽曲はいずれも癖があり、あまり無意識的に聴けるような内容ではありませんでした。
実際、その初演は観客が音楽に聴き入ってしまったため失敗に終わったとされています。
さて、この「家具の音楽」を踏まえた上で、本作品は機械的な内容をひたすら繰り返すという、まさに道具のような音楽を鳴らし続けるものです。
静かな騒音を響かせ続けるピアノ、これを人々が意識に上らせまいと無視することにより、ストリートピアノは環境に溶け込みます。「逆・家具の音楽」になりうるのです。
本作品は終始左腕で幅広のクラスターをpppで響かせ続けます。それは明確なビートにすらならず、機械のノイズのように静かに単調になり続けます。
コンセプト通り、譜面も演奏の動作自体も家具的で、静的な異様さを孕んでいるのが私的にとても好きです。
さて、榊山先生の作品とトイドラくんの「空間デザイン」は、どちらもストリートピアノが抱える重大な矛盾を指摘しています。
すなわち、公共空間に自由さを持って設置されたはずのものが、娯楽的で異質な存在としてある現状。本来の存在意義を見失って社会の中で浮遊しているという矛盾です。
この点で、2人の作品は非常に似たコンセプトを持ち、異なる手法でその矛盾に迫っているものといえるでしょう。
一方、榊山先生はストリートピアノがYouTube等で拡散された動画として消費されている点に目を向け、トイドラくんはストリートピアノの本来想定された聴衆の方を意識して、それぞれの作品を作り上げたという相違点も明確にあります。
どちらもストリートピアノの現状に異なる目線から切り込んだ、厳しいコンセプチュアル・アートになっていました。
ピアノ・イドラ/なんすい
正直、先の2人と全然コンセプトの毛色が違ってドキドキしていました。が、それは割と当たり前の結果だったと言えます。
何故なら、本企画は私が発案し、私が全曲演奏したいと買って出たものだったからです。
したがって、先の2人の作品はいずれも演奏者を含めた空間や映像全体にピントを合わせた作品になっていますが、一方で私の「ピアノ・イドラ」は、最終的に演奏者…つまり私にスポットライトが当たる仕組みになっています。
本作品では、「冷たい羨望」をキーワードに、ストリートピアノを使って所謂「地下アイドル」的な風景を作ることを目指しました。
聴衆の平たい眼差したちを含めた風景が、結果的に演奏者をアイドルたらしめるのです。
この演奏を通して、ストリートピアノ界の地下アイドル…「ピアノ・アイドル」を出現させるのが、本作品の目的です。
私が演奏者である私のために作ったと言っても良い本作品の背景には、やはり非常に個人的な動機がありました。
人前に立った時の湿っぽい緊張感、自分がなれなかったものへの嫉妬心、遠く離れた分野で華々しく活動する人達への複雑な目線。
そうした感情が、去年とあるアニメを見たことがきっかけでより深刻に起こり、作品に残すことを迫られることになりました。
それが「ひろがるスカイ!プリキュア」です。
このアニメに出てくる青色のプリキュア「キュアスカイ」は、今の所私の中で最もアイドルです。
最高にかっこいくてかわいくて真っ直ぐで向う見ずで、私が絶対になれない性格をしています。
キュアスカイを見るたびに心が洗われ、同じくらいまた心が濁るので、毎回プラマイゼロになっています。
そんなわけで、本曲に使われているモチーフはほぼ全て「ひろがるスカイ!プリキュア」のOPメロディや変身シーンのBGMから取られています。
(本曲は「ひろがるスカイ!プリキュア」の二次創作と言ってしまっても過言ではありません、)
本作品「ピアノ・イドラ」は私をプロのピアニストにはしてくれませんが、アイドル性の本質にある濁った仕組みを描き出してくれる装置として機能するのです。
今一度他の作品と比べてみると、ストリートピアノが演奏されている空間自体に作用するという点では、トイドラくんの作品とより近いと言えそうです。
というより、むしろ榊山先生の作品の視点の特殊さがより際立ったという所でしょうか。
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以上3曲、変わったテーマの企画であっただけにいつもに増してコンセプチュアルな作品が集まりましたが、それぞれ全然異なるアプローチのものになっていたと思います。
これら3曲の楽譜は全て近日無料公開する予定です。どれも楽譜で見るとまたとても面白いので、ぜひご覧頂きたいですね。
またこれらの作品に興味を持って頂けたなら、ぜひお近くのストリートピアノで演奏してみて下さい。公共空間をちょっとだけ揺さぶることが出来ます。