名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

編曲で芸術をやるということ

もうすっかり年の瀬ですね。

人々がせわしなく歩く季節ですが、名大作曲同好会のメンバーも今がまさに大忙しです。

どうしてかというと、次のコンサートのための編曲をしているからですね。

今年中に演奏曲の楽譜を全部書き切ってしまわねばなりません。

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演奏曲の楽譜

 

5thコンサート「名古屋の作曲家たち」

11月、私たちは一般の方々から楽曲を公募しました。

次のコンサートでは、「名古屋の作曲家たち」と銘打って、広く一般の方が作った曲を初演しようと考えたからです。

しかも、ちゃんと完成した作品ではなく、メロディだけとか伴奏の一部だけとか、そうした未完成な作品の断片でも応募可能ということにしました。

現状まるまる1曲作りきることができなくても、眠っている才能があるかも知れないし、初演される機会があるのは大事だろうと考えたからです。

その結果、実際に素敵な作品の断片を複数ご応募いただきました。

そのままでは演奏できないので、会員たちが腕によりをかけて編曲をしている最中です。

 

編曲×芸術=?

編曲という作業は、多くの方にとってむしろ作曲よりも想像しづらいことかも知れません。

自分で曲を0から作るわけではなくて、他の人があらかじめ作った音楽の材料を使って、残りの部分を作っていくことになります。

言ってみれば、ぬり絵に色を塗るようなものです。

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ぬり絵

このとき、もちろん実直にきれいな色を塗ることもできるし、意外性のある色を塗ることもできます。

全体を塗りつぶすこともできるし、ほとんど塗らずに元の絵を生かすこともできます。

あるいは、元々なかった物体を勝手に書き足すこともできます。

ぬり絵をビリビリに破ってモザイクアートを作ることすらできるのです。

 

つまり、「編曲」と一口に言っても、実際に何をするのかは完全に編曲者にゆだねられています。

「原曲をアレンジする」という縛りの中で、無限の可能性を探究していくこの作業は、ある意味実に芸術的だと言えます。

しかし、他人が作ったものを材料にして芸術をやるとき、そこには一体何が生まれるのでしょうか?

 

僕の作品か、君の作品か

今回ご応募いただいた作品の中には、明確なコンセプトがある曲もあれば、特にコンセプトが決まっていない曲もありました。

そうした作品たちを編曲したとき、編曲後の作品は一体誰のものなのでしょうか。

 

例えば、あるキャラクターのぬり絵があったとします。

それにキレイに色を塗ったとしても、「このキャラクターを作ったのは僕だ」とは言えないことでしょう。

しかし、描き込みを丁寧にして、毛の一本一本、服装や背景の細かい部分まで描ききったらどうでしょう。

やはり「このキャラクターを作ったのは僕だ」という感じはしないものの、少なくとも「この絵を作ったのは僕だ」とは言える気がしてきます。

それでは、ぬり絵をビリビリに破いてモザイクアートを作ったとしたらどうでしょうか?

もはや「キャラクター」は存在しませんが、「このモザイクアートを作ったのは僕だ」という言葉に反対する人はいないのではないでしょうか。

 

一方で、ぬり絵に書かれているのがキャラクターではなく、ただの四角形だったらどうでしょう。

四角形を美しく塗り分けた時点で、既に「この四角形を作ったのは僕だ」と言ってもいい気がします。

このように考えていくと、アレンジを含む作品が「僕の作品か、君の作品か」というのは案外難しく、線引き不可能なのかも知れません。

 

「名古屋の作曲家たち」では、ご応募いただいた原曲に対して、芸術的な切り口から編曲に取り組んでいます。

つまり、原曲をシビアに見つめ、そのコンセプトを洗い出し、編曲者の思いを上乗せした楽曲に作り替えると言うことです。

その結果、必ずしも原曲と似たような曲になるとは限りません。

全く別の曲になることもあるし、コンセプトが真逆になることすらあります。

単なる「カバー」と違って、編曲された曲の魂は、作曲者・編曲者の両方に宿るのだと思います。

 

手を加える意味がない

この企画では、もちろん僕も編曲をしています。

副会長・榊原拓の短いピアノ曲を、より大きい編成にアレンジしたのです。

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原曲の楽譜

榊原は、名作同の副会長をしているだけあって、優れた作曲家です。

原曲を聴いたとき、僕は

「この曲に手を加える意味はあるのか……?」

と思ってしまいました。

すでに完成されていたし、本人に聞いたコンセプトもしっかりしていて、手を加える必要があるように思えなかったからです。

しかし、コンサートで演奏するためには僕の手で編曲しなくてはなりません。

ただ編成だけを大きくして、原曲の雰囲気はそのままにすることもできたのですが、せっかく芸術をやれる機会があるのに、無駄にするのは嫌でした。

 

結果的に、僕はこの曲に対してかなりラディカルな編曲を施しました。

楽譜はほとんど5線譜ですらなく、演奏者は大量のセリフを読まされます。

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編曲後の楽譜

これは、僕なりの苦悩の結果でした。

原曲に対して技術的に手を加える意味はなかったので、思想面をさらに煮詰めて、全く別の曲にしてしまったのです。

 

このように、完成された曲を編曲する上では、「そもそも意味があるのか」という問いに悩まされることもあります。

最終的には、編曲者が自分で「意味」を発見しなければならず、むしろ作曲より厳しい仕事になることもあるのです。

 

おわりに

さて、こんな苦悩を経て、コンサートのための曲が少しずつ揃ってきています。

「名古屋の作曲家たち」は大変面白いコンサートになりそうです。

3月中頃に名作同のYouTubeチャンネルにて、オンラインコンサートとして公開しますので、こうご期待。