名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

私とクリスマス ~榊山の場合~

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陰陽五行説

ある人には幸せな家族の群像の象徴、ある人にはひねくれた思いを持つに至った元凶の日
そして巷には「不安を懐きつつもそれを埋め、あるいはそれから目を逸らしながら」24日、25日を迎える。
懊悩享楽と、欲望のまにまに聞こえる喘ぎ声の協奏曲が現代のミサだと言うにはあまりに低俗すぎるだろう。
しかしいつしか祝福されるべき日は、恋人たちの讃歌へ、そしてそれに群がる商売人のギラリと光る目に埋め尽くされる日に成り下がったのだ。

今年も様々なストーリーがそこかしこで展開されたに違いないし、享楽の裏には同じ以上の悲しみと空虚があるのもまた事実なのだろう。

私はそのどちらも経験したかもしれないし、そこまでディープな思いに至らなかった程度の経験しかないのかもしれない。

 

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温かい家庭


私は一人っ子である。
親の愛情を、家族の愛情を一身に受け、よくある「特別な存在」と勘違いしながら幼少期から青年前期を過ごしたのは間違いない。
だからクリスマスプレゼントだってかなり奮っている。
天体望遠鏡顕微鏡図鑑セットCDコンポなど大抵の欲しい物はもらってきた気がする。
そのたびにサンタさんというのは、何でもお見通しだし、あのクソでかいものをストーブの換気用の細い煙突からどうやって運び込むのかななどと考えていた。

その中でもちょっと変わったプレゼントとして記憶に残っているものが二つある。

 

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ペルシャ

一つは猫のぬいぐるみだ。
大人の女性のインテリアにありそうな、実物と見まごうようなリアルなぬいぐるみだ。
猫の種類はよくわからないが、多分ペルシャ猫だろうとお思われるぬいぐるみを、父方の祖母の家の近くのショッピングモールで見つけて惹きつけられた。
ついには始終通うまでになり、最後はプレゼントしてもらったのだ。
今でも薄汚れてしまったが実家にちゃんと座っている。あのぬいぐるみを見るといまでもホッと心が暖かくなる、私にとっては幸せの象徴になっているのかもしれない。

 

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タイプライター

もう一つはタイプライターだ。
変わったリクエストを「サンタさん」にしたものだと思うが、その時の私はタイプライターに夢中だった。
文字が打てること、音、構造、その全てに何故か強烈に惹きつけられていた。
当然手に入ってしばらくは片時も離れずインクと紙を消費し続けていた。
無論すぐ壊れてしまったが、これもおそらく実家のどこかにとってある気がする。

 

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幼稚園



私は不自由は感じない典型的な中流家庭の出身である。
家族は幼い時は同居が私を含めて6人、別居が1人、親戚も実際にはかなり多く、社交的な祖母の関係で来客も多かった。
明治生まれの曾祖母の畑仕事にくっついてまわり、なぜか換気扇マンホール、そして鉄道が好きな子だった。
幼稚園では先生の後ろにすぐ引込み、全く活発なタイプではなく、そのへんに生えた草やきのこを眺めたり、裏のお寺のお墓をこわごわと遠目に眺めるような、今からは想像のつかない純真無垢な子そのものだったのだが、様々な成長期の経験から、どんどん性格が歪んでいって、音楽に没入するとすぐに現代音楽の虜になって行き、ますます性格の歪みを加速させていった。

そして世の中はそう甘いものではないとまざまざと知ったのは大学生の時だっただろう。

 

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絶望


中流の群像は私がとんだ放蕩息子化して行く過程で徐々にくすんだものになり、学費の高い大学に進んだことで一層それが加速していった。
そして私自身も人生で初めてといえるどん底を経験することになった。

それまで天才だの何だのと言われてきた自分が大したこともない、実にくだらないタンパク質の塊だと知ってひどく落ち込んでしまっていた。
やることなすことうまく行かないので、逃避をしてばかりになった。
そんなことをしてるとろくなことにならないのが世の中の常と言わんばかりに、自分自身を持ち崩してしまっていたのだ。


このままではいけないなどと奮い立ったわけではなく、なんだか成り行きで下積み生活を初めたのもこの頃。
舞台のバイトをしていた。その御蔭で今も舞台が仕切れるし、多少PAもできるのだが、クリスマスと関係するのはもう一つのバイトである。

 

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飯テロ


その頃埼玉県の某所に友達が見つけてきた美味しいステーキショップがあって、何かにつけてはその友だちの車に乗って食べに行っていた。
学生のポケットには多少重い金額だったが、当時の私には見栄を張っても食べに行く価値を感じる店であった。

その店はステーキが美味しいのは言うまでもないが、生ピアノが置かれていて、入れ替わり立ち代わり演奏者がいっときも絶やさずにBGMを生演奏している。
正直そのムードが本当に好きだった。
自分もちょっとJazzを齧っていたし、何しろ作曲家を目指していたくらいだから即興が得意だった。

ステーキの音とともにこのスタイルの「仕事」に憧れるようになった。


今のように「便利なアプリ」もなかった時代なので、いろいろな人のつてをたどって似たような形態のお店でピアノが弾けることになったのだが、すでにクズになっていた私は週何日も駆り出されるスタイルが嫌で、担当者とトラブルになってすぐに放棄してしまった。


しかしひょんなことからある「おばさま」と知り合うことができた。

 

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ピアノのバイト

その人は多くの「他の演奏者」が楽譜を持参したり、暗譜をして有名な曲を弾く中、一切の仕込みなく即興だけで弾いている私を面白いと思ってくれたようだ。
その人はそういった「社交の場」を提供する制作会社の関係者で、その後主にクリスマスのときを中心に私をBGM演奏者として呼んでくれるようになった。

当時はまだバブル景気の影が薄っすらと社会に残っていて、というよりバブルが忘れられない馬鹿な人達が、現実から目を逸らしていただけなのだろうが、そういったタイプの「パーティーが結構数があったらしい。
私が指定された会場に行くと、だいたいグランドピアノ付きの結婚式場を小さくしたような部屋があって、そこには列席の人が着座し、料理が運ばれてくるという流れが多かった。
BGMは余興の出し物以外の時はずっと弾いていなければならず、いろんな音大の学生が「お小遣い稼ぎ」に来ていた。

私も適当なクリスマスキャロルやクリスマスソングを弾いて見たり、完全に雰囲気に合わせた即興をしたりと、色々試すことができて、それが今の仕事にも間違いなくつながっている。
大体4時間くらいの拘束時間で7000円~12000円はもらえたので嬉しかった。
一見良い仕事のように見えるが、一つだけきつかったのは、目の前を美味しそうな料理が通り過ぎていくことだった。
食いしん坊の私は、いい匂いを立ち上らせ目の前を過ぎていく料理に目を奪われて演奏をトチったり、空腹でイライラしてBGMなのに不協和音を連打したり肘が入ったりとなって怒られることも結構あった。


しかし時代の流れは人々の願い虚しく一向に好転しない。
不景気を痛感する時代へと突っ込んいくことになる。

 

「今年はお願いする現場がないの」
「そうですか。またよろしくおねがいします」

 

そんなやり取りをしたのはそれからすぐだった。
その会社も先述のステーキショップもなくなっていたことを知ったのは、それから随分してからだが、なんだか自分の青春の一部が「潰れた」気がして虚無感を感じたのを覚えている。

 

その後なんとかかんとか作曲家の端くれとして仕事をするようになった私には前の記事にあるように、機会音楽のシーズンになっていった。

 

nu-composers.hateblo.jp

 

今までにアレンジしたクリスマスピースはかなりの数になると思うのだが、それも最近はすっかり減っている。
積極的に取りに行っていないのでなんとも言えないが、ピークでは毎年3曲は委嘱をもらっていたものが、この頃は数年に1本くらいだから、これについても需要は低迷しているのかもしれない。
その代わり、年末シーズンもののアレンジが増え、さらにこうやって弟子の企画に参加したりして、なんだかんだこの時期の過ごし方は年を追うごとに変わっていっている。

 

本当なら街のイルミネーションの様に、あるいは人々の数だけ幸福に包まれる時期であればよいのだが、そんな生易しい夢見話は童話だって書かないだろう。
私にとって、いつしか幸せの群像だったこの季節は、ただ世知辛い社会の鑑たる日に変わり果てている。
そして今後も、如実に社会を反映する時期になっていくのだろう。

願わくば一応日本人として、文化的ななにかに携われる日のままであってほしいものだ。

 

メリークリスマス。人々に幸あらんことを。