名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

今と昔の「フルクサス」の作風の違いに思いを致しつつ、新曲を書いてみた

トイドラです。
最近、YouTubeのネタにするためフルクサス音楽をいろいろ調べていました。

フルクサス音楽

フルクサスで一番有名なのは、やっぱり小杉武久の「革命のための音楽」でしょうね。
「目をえぐり出せ」という指示だけが書かれた楽譜なのですが、普通に生きていればこれが音楽であることはおろかアート作品であることさえ信じがたいでしょう。

フルクサスとは一体何なのか? ということは、今週アップされるであろう動画の中で話しています。
よって、ここでは割愛。

今回は、そんな荒唐無稽なフルクサス作品にも作風の変遷があるのでは? ということを話します。
そして最後に、今回僕が作ったフルクサスの新曲「もちょ・ミュージック」の作品解説をしたいと思います。

現代のフルクサス

フルクサスは1960年代ごろに発生した運動ですが、今でも一応ながれを受け継ぐアーティストはいます。
今回の動画の最後に紹介する山根明季子氏は、国内におけるその代表例でしょう。
彼女はいわゆる現代音楽の作曲家ですが、最近はフルクサス音楽の作品をいくつも残しています。
その1つが「状態」シリーズで、現在No.10まで書かれています。

山根明季子 - 状態

パチンコ実機をプレイする」という内容のNo.1に始まり、「音楽をノイズとともに演奏する」「複数の曲を同時に演奏する」「複数のリズムパターンを同時に演奏する」「複数のゲームを同時にプレイする」などの指示が並びます。
そして最新作であるNo.10では、「空間をピンクにする」という、もはや音響が一切関係ない指示に至るという……。

これらのスコアは、典型的なテキスト・スコアで書かれた不可解な指示を見るに、いかにもフルクサスらし~い作品に思えます。
しかし、書かれたテキストの内容を吟味してみると、意外にも過去に書かれたフルクサス作品とは明確な差があることに気づきます。
それは、過去のフルクサス芸術が
外に向けたメッセージの発信(政治・社会的な動機づけ)
だったのに対して、山根氏の作品は
個人的な嗜好に向き合う行為(内的・ロマン主義的な動機づけ)
であるように見える点です。

過去のフルクサス

例えば、フルクサスの代表作である「Drip Music」。
この作品では、ただ空っぽの容器に水がポチャンと落とされ、それで曲が終わります。

ジョージ・ブレクト - Drip Music

ここには、作者であるジョージ・ブレクトの構想やメッセージ性は込められているでしょう(かなり迂遠に、だが)。
しかし、そうした構想はフルクサスにおける反芸術的な思想と深く結びつくものであって、ブレクト自身の音楽的な嗜好が反映されたものには思えません*1
言葉を変えれば、この作品はロマン主義的ではありません
生まれる音が嗜好と切り離されているという意味では、セリー音楽とかに近いのかも?

で、それは他のフルクサス作品にもおおむね言えることです。

ところで、一部のフルクサス作品は、明らかにロマン主義的な情緒を含んでいます。
イベント・スコアというより、詩に近いようなタイプのもの。

オノ・ヨーコ - Secret Piece / Voice Piece for Soprano

こうした作品は、それまでのフルクサスと比べて徐々に雰囲気が変わってきたと言えるでしょう。

ただ一方で、ロマン主義的な情緒を持ちつつも、フルクサス作品は概して他者や社会との触れ合いを主眼に置いたものが多いような気がします。
これはなぜなんでしょう?
単にフルクサス活動に関わっていた人たちの傾向なのだろうと思いますが、面白い特徴です。
フルクサスはそもそも政治的な色の強い運動なので、必然的にそうなるのは分かります。

例えば、アリソン・ノウルズの「Proposition #2」。
「サラダを作る」というシンプルな指示ですが、演奏される際にはたくさんの人がサラダを食べながらパーティーのように交流することになります。

アリソン・ノウルズ - Proposition #2

塩見允枝子氏の作品には、明確に他者とのコミュニケーションを題材としたものもあります。
「二人の演奏者のための音楽I/II」ですが、これは一見するとロマン主義的なポエムのようでいて、実はかなり社交的な作品だと思います。
内的な印象は受けません。

塩見允枝子 - 二人の演奏者のための音楽I/II

フルクサスにおける"ヌーディズム"

このようにして見てみると、最初に紹介した山根氏のフルクサスは結構変わっていることが分かるのではないでしょうか。
「状態」シリーズでは、一貫して社会的なコンセプトは投げかけられておらず、個人的に閉じた嗜好をそのまんまボーンと打ち出しているように思えます。

まず、No.1~8では、作者の「パチンコ実機」に対する興味から始まって、
たくさんの音が同時に鳴ること
への探求が行われていきます。
それがNo.9では、「広告の音声を最後まで聞くこと」という指示にいきなり変化しますが、これは要するに"ノイズに耳を向ける"ということなのでは?
コンテンツの途中に挟まる広告は、音響的にも思考的にもノイズでしかありません。
No.1~8までの試みで向き合ってきた内的な興味の対象が、「ノイズ」という形でより抽象化されているように思えます。
そして最後、No.10では「空間をピンクに」するわけですが、これは一見No.9までと何の関係もないようでいて、もしかしたら作者の中では全く一貫した興味の対象なのかもしれません。
"ノイズ"とは非自己である、とした場合、作者である山根氏の心の中のピンク色をそのまま空間に投影することは、No.1~9までから連綿とつながる意味を持ちえます。
要するに「状態」は、自己と非自己との干渉からなるノイズを凝視する作品であった、と。

な、なんて閉じた世界なんだ!
とても個人的かつロマン主義的で、他者が介入する余地は全くありません。
個人的・内的な作風は山根氏の作風であって、現代フルクサスが一般にそうだというわけではないのですが、これは面白いと思います。
こういった作風のフルクサスは、過去の時代には生まれなかったのではないでしょうか。

いわば、自分の中の最も柔らかい部分を裸のまま提示する、という意味で、これはヌーディズムとでも言えそうな気がします。
この命名はじつは僕ではなく、名古屋作曲の会の榊山先生なのですが、とてもしっくりくると思っています。

僕の新曲「もちょ・ミュージック」

で、ここまでの文脈をふまえて、僕の新曲を紹介します。
以下がその楽譜です。

冨田悠暉 - もちょ・ミュージック

もちょ・ミュージック

あなたが好意を抱く人の、身体のどこかモチモチした部位(頬や太ももなど)に触れながら、「もちょ」と口にすること。それを任意の回数繰り返せ。

いかがでしょうか。
過去のフルクサスとは違う、内的かつロマン主義的なフルクサス作品になっていると思います。

思えば、こうして生まれたフルクサス作品は、普段作曲するときならば作曲の前段階に抱く感興そのものです。
あるいは、作曲をする動機そのもの、とでも言いましょうか。
つまり、本来なら
「恋人をもちょもちょするのは素晴らしいなあ。そうだ、愛の歌を書こう!」
となるところ、
「恋人をもちょもちょするのは素晴らしいなあ」
をそのまま出力したのがこの作品です。
そういう意味では、普段作曲するときとやっていることは変わらないわけですから、僕としてはこの作品を「音楽である」と言い張るのは意外と違和感がありませんでした。
やってみて初めて分かる不思議……。

 

というわけで、フルクサス音楽についていろいろ考えてみました。
興味を持っていただけた方は、ぜひ僕の動画も観てね。

*1:彼が水滴にただならぬエクスタシーを感じていた可能性もないとは言えないが……。