名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

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シリーズ我が国の作曲家009「建依別彦」

シリーズ我が国の作曲家

・建依別彦(野町二)――二つの名を持つ作曲家を追って

 この作曲家の名を、最初から知っている人は、おそらく極めて少ないだろう。建依別彦――読み方すら即答できる人は多くないに違いない。ところが、この名の背後には、日本の近代文化史に確かな足跡を残した、きわめて著名な人物が隠れている。
 無名と著名、周縁と中心。相反する二つの位置が、同一人物の内部に併存していた。その事実に辿り着いたとき、私はこの作曲家について記録を残さずにはいられなくなった。

 冒頭に、どうしても述べておかねばならない。
 今回まとめる内容は、私一人の探索や調査だけでは、決して到達しえなかったものである。静岡県伊東市、ならびに同市立木下杢太郎記念館、そして丸井重雄先生の多大なるご協力があって、初めて一つの像として結実した研究である。この場を借りて、心より感謝を申し上げたい。

 そもそもの発端は、「建依別彦」という作曲家の名を、いくつかの断片的資料の中で見かけたことに始まる。国会図書館デジタルコレクション、大学図書館OPAC、古書目録。そこには確かに作品名があり、出版物があり、演奏記録がある。しかし、作曲家自身の輪郭だけが、意図的に消されたかのように見えてこなかった。

 決定的な糸口となったのは、伊東市の広報誌に掲載されていた、木下杢太郎記念館の過去の催しの記事である。そこに、木下杢太郎の詩に作曲された歌曲《黒日》の名が、ひっそりと記されていた【注1】。
 ここから藁にもすがる思いで伊東市へ問い合わせを行い、幸いにも丁寧な対応をいただいたことで、木下杢太郎記念館、そして丸井重雄先生へと繋がる道が開けた。

 丸井先生からは、ご自身の研究資料の提供にとどまらず、関係資料の所在確認、展覧会記録の整理、さらには野町二という人物についての私的な記憶まで、惜しみなく教示していただいた。調査というよりも、人と人との信頼に支えられた探索であったと言うべきだろう。

・建依別彦=野町二という確証

 こうして徐々に明らかになったのが、「建依別彦」という名がペンネームであるという事実である。本名は野町二(Nomachi Susumu)。1911年高知県生まれ。東京帝国大学文学部英文学科および同大学院を修了し、のちに文学博士号を取得、長年にわたり学習院大学で英文学を講じた、日本を代表する英文学者の一人である【注2】。

 この二つの名を決定的に結びつけたのが、平井康三郎の回想を含む文献であった。
 早崎えりなの著書『ベルリン・東京物語――音楽家クラウス・プリングスハイム』には、平井自身の言葉として、次のような証言が記されている。

 ――平井康三郎、安部幸明、そして野町二(筆名=建依別彦)の三人が、麻布のプリングスハイム邸に通い、和声学と対位法を学んだ【注3】。

 ここに至って、建依別彦は単なる「文人の余技としての作曲家」ではなく、当時最先端の西洋音楽理論を直接学んだ存在であったことが、史料的に確定したのである。

・若き日の作曲活動と名義の使い分け

 建依別彦(野町二)の作曲活動は、1920年代後半から1940年代初頭にかけて集中的に行われた。
 ピアノ独奏曲《湖畔の幻想(Visions by a lake)》は1927年に初稿が書かれ、1938年に改訂されている【注4】。この十年以上にわたる改訂の事実は、彼が自作を一過性の学生作品として放置せず、成熟した表現へと鍛え直そうとしていたことを雄弁に物語る。

Ionicaの表紙

 《Ionica》(1935)では、ウィリアム・コーリーの詩句が扉に掲げられ、英文学者としての専門性が、音楽の思想的基盤として明確に現れる【注5】。

サフォーにまねびて表紙



 《サフォーにまなびて(Saphique)》(1937)では、サッフォーのギリシア語原文と呉茂一訳を併記し、古典文献学的教養に裏打ちされた標題音楽が試みられている【注6】。

 注目すべきは、これらの器楽作品がはじめはすべて本名「Susumu Nomachi」名義で書かれ、後年歌曲とともに一貫して「建依別彦」名義が用いられたことから、初期に制作された楽譜には名義の混乱が見られる。この名義の使い分けは、彼自身が作曲と文学の位相を明確に意識していたことを示していると同時に、筆名を定める前は本名で作曲活動をしていた時期があることを示していると言える。

・英文学者・野町二としての生

 野町二にとって、作曲は決して「副業」ではあったが、「余技」ではなかった。しかし同時に、彼の人生の重心が英文学研究と教育にあったこともまた、動かしがたい事実である。

 1911年生まれの野町は、東京帝国大学文学部英文学科に進学し、同大学院を修了して文学博士号を取得した。これは当時としては、英文学研究者として王道かつ最上位の学術的キャリアであり、戦前から戦後にかけての日本英文学界の中核に位置する経歴である【注2】。

 その後、学習院大学に奉職し、長年にわたり英文学を講じた。研究者としての野町二は、いわゆる「理論的最先端」を競うタイプではなく、英文学をどのように読み、どのように理解し、どのように日本語で思考・表現するかという、きわめて基礎的かつ本質的な問題に力点を置いた学者であった。

イギリス文学案内の表紙

 その姿勢は著作に明確に表れている。
 代表的なものとして挙げられる『イギリス文学案内』は、単なる文学史概説ではなく、英文学を「読む行為」としてどう捉えるかを示した入門書であり、作品・時代・文体・思想を横断的に理解させる構成を持っている。また『小論文の書き方』は、英文学研究に限らず、大学教育における文章指導書として広く用いられ、文学研究を支える思考と文章の技術を体系化した著作であった【注2】。

 ここで重要なのは、野町二が詩を専門とする英文学者であったという点である。彼の関心は、物語論や思想史よりも、むしろ

-詩的言語の構造

-リズムと意味の関係

-時間性・刹那性・感覚の表現

といった領域に強く向けられていた。
ウィリアム・コーリーの詩句を掲げた《Ionica》、サッフォーの断片を正確な学術訳とともに引用した《サフォーにまなびて》は、偶然の選択ではなく、英文学者としての専門的関心の自然な延長線上にある。

 すなわち、野町二にとって音楽は、文学と同様に「言語にきわめて近い思考媒体」であり、
作曲とは、詩を読むことと同型の知的営為であったと考えるのが妥当であろう。

神話の世界の表紙

 またピアノ曲「サフォーにまねびて」と関連の深い神話についての著書もある。こういったことから、彼の創作態度は名を変えこそすれ、興味関心の分野は常に緊密に関係し合い、一つの美学形成に至っていたと考えるのがだとうであろう。

・晩年の生活と自己再編集

 丸井先生のお話によれば、野町二は晩年、青山に居を構え、東村山市にアトリエを持っていたという。英文学者としての長い公的生活を終えた後、静かな環境で、過去の創作と向き合う時間を持っていたことがうかがえる。未発表作品の原稿もアトリエにまだ多く残されているというお話であったが、ご遺族との連絡が取れなくなっており、ご自宅へのご連絡をしていただいているが、今のところ電話に出てくれる方は居ないようで困って居られた。
 私としても協力をお願いしていて心苦しさもあるので、もしこの記事をご遺族や関係者の方が目にされることがあれば、どうか伊東市立木下杢太郎記念館の丸井先生にご連絡をしていただきたく、また当会へご連絡を寄せていただきたく強く願うところである。

 1980年代後半から1990年代初頭にかけて出版された歌曲集――《木下杢太郎詩集より》《現代和歌四篇》《刈田元司詩選》――はいずれも、この晩年における自己再編集の成果である【注7】。
 重要なのは、これらが新作ではなく、戦前・戦中に作曲された作品を、本人の意思で選別・再構成したものであるという点である。

 《刈田元司詩選》の後記には、若書きであることへの自覚と、それでもなお残すべき価値への確信が率直に記されており、ここに一人の作曲家としての誠実な自己批評を見ることができる。

・音として甦らせるという行為

 私が《サフォーにまなびて》をデータ化し、音源として公開しようと決断したのは、この作品があまりにも長く沈黙を強いられてきたと感じたからである。

 この曲はピアノ独奏のために書かれ、まことに文学者らしい表題をもつ。その名が示すとおり、全体は「サッフォーのスタイル」で書かれ、どこかエロティックな感触を帯びている。やや荒削りではあるが、確かな知性と独特の感性を感じさせ、このまま眠らせておくには惜しい作品である。

 楽曲分析を行ったうえで音源化し、以下の動画として公開した。

www.youtube.com

 なお、野町氏が長年奉職された学習院大学にも資料提供を依頼したが、「記念館に行ってくれ」との一言のみで、友好的な返答は得られなかった。この点は、伊東市および木下杢太郎記念館から受けた手厚い協力と対照的であり、率直に言って残念でならない。

・結びにかえて

 建依別彦――野町二。
 二つの名は分裂ではなく、一人の知的生が置かれた複数の位相を示している。英文学者として言葉を読み、作曲家として音を思考したその営みは、いまなお静かに、しかし確かな重みをもって響いている。

 この記録が、インターネットという不確かな海に、一つの確かな錨として留まり、未来のどこかで再び誰かに拾い上げられることを願って、ひとまず筆を置くことにしたい。

・建依別彦(野町二)確認済作品一覧

器楽作品(作曲年)

1927 《湖畔の幻想(Visions by a lake)》初稿【注4】

1935 《Ionica》【注5】

1937 《サフォーにまなびて(Saphique)》【注6】

1938 《湖畔の幻想》改訂【注4】

1939 《Mazurka》

1940 《洋琴曲三篇》【注8】

歌曲(作曲年)

1937 《悲しみ》(萬葉集

1938 《黒日》(木下杢太郎)【注1】

1939 《亀》【注9】

1940–43 《残照》《秋風》《月夜》(木下杢太郎)

同上 《水辺の頌》《白樺》《野菊》(刈田元司)

同上 《集をいて》《朝羽振り》《なびきふる》《言いかけて》(現代和歌)

晩年の再編集・出版(※作曲年は戦前)

1986 歌曲集《木下杢太郎詩集より》【注7】

1986 歌曲集《現代和歌四篇》【注7】

1986 歌曲集《刈田元司詩選》【注7】

1991 組曲《孤独の姿》(再編集・出版)

1992 連曲《未知の国への道程》(没後刊行)


注記・参考資料・引用元

【注1】伊東市広報誌(木下杢太郎記念館催事紹介、歌曲《黒日》)

【注2】野町二『イギリス文学案内』『小論文の書き方』ほか

【注3】早崎えりな『ベルリン・東京物語音楽之友社、1994年、p.178

【注4】《湖畔の幻想》楽譜(1927 / Rev.1938)

【注5】《Ionica》楽譜(1935、William Cory 詩)

【注6】《Saphique》楽譜(1937、サッフォー原詩・呉茂一訳)

【注7】建依別彦歌曲集各後記(1986年)

【注8】『日本の洋楽百年史』秋山竜英 編、1966年

【注9】『現代日本歌曲』日本音楽文化協会監修、昭和19年