
考えてみるとコンスタントに書いている気がするこのシリーズ、実は前回の記事は本年3月に書いたもののようで、以外にもほぼ半年ぶりの更新ということになるようだ。
実を言うと当ブログの原稿について、以前は毎回執筆者の変わる週があり、それ以外の固定メンバーが記事を書く頻度が高かったのだが、全員が持ち回りで担当するようになり、私のようにコンスタントに書いていたメンバーの負担が大幅に減ったこともこの背景にはあるのだが。
ということで、酷暑酷暑、いつまで暑いのかわからない中ですが、今年も去年に引き続き夏を利用して「自由研究」と称して、YouTubeで当会と共同研究してい作っているRMCチャンネルにて、いつものピアノ曲とは違い、古い雑誌付録に載せられ、ひどい誤植と、今とは違う編成にひたすら苦しめながら校訂を進め、すっかり忘れられてしまった吹奏楽曲を蘇演させるということをやってみた。去年は巨匠菅原明朗の「海の行進曲」を復活させたが、今年は永井巴の書いた行進曲「航空士官」の復活に挑んでみた。
で、永井巴って誰?
という疑問が湧くのは仕方がないだろう。菅原明朗は今でも知る人にとっては当たり前の有名作曲家だったが、永井巴はそうではなくその名前ごと存在が忘れられてしまっているのである。そこで自由研究に際して集め、まとめたものから永井巴について本記事で紹介してみようと思う。

永井巴は大阪の出身、生まれたのは1892年だから明治25年である。予想より古い時代の作曲家かもしれない。
そして永井の父は軍歌の草分けとして知られる軍人の永井建子(1865-1940)であるといえば、軍歌や戦時歌謡などをお好きな方にはピンとくるかもしれない。
父は陸軍戸山学校軍楽隊の隊長にして、その階級は大尉相当。軍歌以外にも唱歌や校歌など多くの作品を書き、特に「雪の進軍」、「元寇」などは名曲として知られる。そんな軍人の父の長男として生まれたのだから、巴もまた軍人の道を歩むことになる。父の仕切った陸軍戸山学校で音楽を学び、その基礎を築き上げた後、終戦を迎えている。
しかしそのまま国内に留まることはなく、なんとこの時代に渡米し、さらに作曲を学ぶ決心をしたのである。このことで彼の経歴は音楽年鑑などを見ると以下のように書かれている。
渡米し、シェーゲルマイヤー音楽大学でライトソンに師事
しかし、調べてみるとシェーゲルマイヤー音楽大学などという大学は、後にも先にもアメリカにあったことはなく、ライトソンなる米国人作曲家も歴史に残っていないのである。ならば彼の肩書は虚偽のものなのかと言いたくなるが、ここは深掘りをする場面である。研究というのは結果に飛びついてはいけないのだ。とにかくどこまでもコツコツ事実と時系列を並べて調べ上げていくことでしか、本来の結論を導けない。
一番いけないのは妄想による飛躍を挟むことだ。そんなことをすれば出来上がった結果はトンデモ論文となり、たちまちに存在価値を失う。そう反ワクチン論文やグルテンフリー論文のそれと同じなのだ。
そこでまず「シェーゲルマイヤー」という響きに近い名を持つ学校が米国にあるのか否かを、AIの力を借りて調査していく。そして示された結果はハレーションを含んでいると疑い、ソースとされた資料を一つずつ読み漁っていくことにすると、過去に米国に「Siegel‑Myers」なる通信制の学校が存在したことがわかってきた。
The Siegel-Myers Correspondence School of Musicというのが正式な名前で、巴が渡米した頃にシカゴに存在したことが確かめられた。
これでシーゲル=マイヤーズを誤読し、シェーゲルマイヤーとしてしまったことの裏が取れた。
次にその学校にライトソンという作曲家、もしくは音楽指導者がいたかを細かく調べていくが、その学校に関する得られた資料にそれを証明するものは存在しなかった。
残念ながら、米国の「音大」で「ライトソン」に師事したという肩書は、読み間違いだけではない誤りを含んでいる事になってしまった。
ちなみにこの学校は通信制の学校なので、学校に通って授業を受けるという時間は普通の学校より少ないことは容易に想像できる。そこでもしかすると同じ時期に活動した作曲家に、学校とは別に個人的に師事していたのではないかという疑問が生じてきた。
今度はこの説を検証して行きたい。
しかしいくら調べても米国人作曲家で、同時期にシカゴ付近で活動したライトソンはいない。
ここで綴りの問題に目が行った。AIとの共同調査では「Lytson」という綴りを推奨されて、調べを進めていたのだが、日本語におけるライトソンを英語表記にすると様々なケースが想定できる。例えば「Lightson」などである。
今度は米国人の姓に着目してライトソンの綴りに当てはまるものを列挙し、この時代にシカゴ周辺で作曲家として活動していたものとの整合性を調べていくと…
なんと有力な候補が出てきた。それがHerbert James Wrightson(1869–1949)という人物である。
残念ながら肖像画や写真は確認できなかったが、1869年にイングランドのサンダーランドに生まれ、ドイツで学んだ後、1899年にアメリカに渡りウィートン大学(Wheaton College)で教鞭をとったとある。そしてその後、フィラデルフィアを経て、シカゴに渡り活動したとのことで、時代的にも場所的にも矛盾はない。しかもこの作曲家、最近になって再発見され、再評価の途上であるのだという。IMSLPには彼の書いたオルガン・ソナタが収載されている。
これらのことから、巴が渡米し、通信制の学校で音楽を学びつつ、シカゴで活動していた英国人作曲家ハーバート・ライトソンに作曲を個人的に学んだのではないかということが浮かび上がってきた。学歴詐称疑惑はここに晴れて解消したのである。
兎にも角にも、アメリカでの体験については本人も雑誌のコラムに振り返りの記事を執筆していたり、それを裏付けるものはかなり多くあり、それを疑う余地はないようだ。
帰国後は音楽教育に力を入れるようになり、教員職を選びながら吹奏楽を通じて音楽水準の向上を図って行き、関西吹奏楽の礎を作った大立者と評されるようになったようだ。当然その背景には自身の陸軍戸山学校での経験が大きく、またアメリカで感じた音楽の水準の差に危機感を感じたのだろうと察することは容易であろう。
また教育分野に近いところで活動するとよくあることなのだが、この過程で校歌の依頼にも多く応じていたようで、今でも校歌の作曲者としては永井巴の名を見ることができる。
しかし尽きぬ問題のうち、最も大きいのは没年が不詳であるということであろう。
そこで様々なアプローチで資料を漁ってみた。単純に軍の資料に記載はないか。吹奏楽の関係雑誌などに訃報が載っていないかなど、地道に調べていってもやはりわからなかった。それもそのはずで日本の吹奏楽の黎明期を研究した専門家の論文にさえ永井巴の没年は不詳となっている始末である。
やはり目先を変えねばならない。そこで有名人として記録されている父建子に着目し、その作品の著作権継承者を調べると、そこには確かに「長男巴」とあった。
この継承者としての記録がいつまで表記されているのかを追いかけると、1969年を最後 にその記載がなくなることがわかった。このため、こればかりは類推の域を出ず確証とまでは至らないが、1969年頃に巴は没したのではないかと考えることができるのではないかと思う。実に77歳頃であり、合点がいくものではあるだろう。
ちなみにこの頃は大阪に戻り、余生を過ごすべく家を建てて過ごしていたということがわかっており、音楽業界の第一線からは身を引いて隠居していたようである。
ということで今までよくわからなかった永井巴の人生について、上記のように大まかな物語は把握することができたのではないだろうか。
もしかするとご遺族等、永井巴を知る方がこのブログを読むことがあり、間違いだと思われた際は、是非ご指摘をいただきたいと切に願うものである。
さて最後に作品を聴こうではないか。渡米までして腕を磨いた彼の作品を。
しかしその作品は上述のように残っている殆どが、軍歌、唱歌、校歌なのである。立派な作品というものがあまりなく、そもそも関西吹奏楽の大立者と言われたその吹奏楽作品がない。しかし冒頭に書いた通り、戦中ころに出版されていた「吹奏楽」なる雑誌に、永井巴の作品のパート譜が収載されていることを知り、急ぎこの貴重資料を入手、先述の通り血を吐く校訂作業を経てやっと音を作ることができた。
本ブログの公開に合わせ、RMCチャンネルに音源の投稿を行ったので、是非聴いてみていただきたい。
行進曲「航空士官」/永井巴
なかなかに流麗な行進曲になっている。
今とは編成が違うコンパクトなもので、アルトホルンなども使われるのだが、去年からバージョンアップした私の制作環境では、代替音源なくこれを鳴らせるようになったので、かなり忠実度は増したと思われる。そしてせっかく校訂をした楽譜もできたので、何かの機会に恵まれ、諸々の問題がクリアできれば公開したいと願うところである。

いかがだったであろうか。忘れられた吹奏楽の大立者の行進曲を蘇演させ、保存していく二年連続の自由研究は。
今後も折に触れてこういったことはやっていきたいものだと個人的にも思うところである。
暑い夏はいつまで続くかわからないが、この行進曲のように爽やかに終わっていってほしいものである。