名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

たまには交響曲、聴きませんか?

オーケストラ配置図

 私は元々長大な曲、特にドイツ本流のブラームスワーグナーブルックナーが苦手だったりする。本流の重厚さに胸焼けがするのと、ブルックナーなどはそのロマンティシズムへの共感ができないという個人的な理由だ。なのであまり「交響曲」というもの全般を毎日のように聴くタイプではない。しかしクラシック音楽の最も完成された最終形態が交響曲ということもいやというほど知っているつもりではある。一方で大崎先生の指摘など、交響曲の時代は終わったというものもあり、これも現代における交響曲の役割が希薄になったことから頷けるものでもあり、交響曲に対して独特の感情をもっていると言える。

 そんな私でも個人的に「発作」と言えるめちゃくちゃに交響曲が聴きたくなるシーズンが年に1~2回到来するのだ。不思議と短い曲ではなく、普段苦手としている重厚な世界に浸りたくなる。無論マーラー交響曲なども普段は長くて敬遠するのだが、この時期に聴くとなぜだか充実した気分になるし、ベートヴェンのそれも同じだ。
 しかし、やはり私はメジャーなものよりマイナーなものに光を当てたくなるのが性分のようで、一般にあまり演奏されることなく眠っている交響曲を聴き漁り、好みの重さや響きを持ったものに耽溺するのが好きだ。そんな「発作」で出会った曲の一部をご紹介して、皆様と「交響曲」について今一度考えを巡らせてみたいと思う。初めて聴く方も、そんなのは常識という通人もちょっとばっかり私の好みに付き合ってくださいな。


Symphony No.5/Arthur Butterworth

Arthur Butterworth

 アーサー・バターワースはイギリスの作曲家、1923年に生まれ、2014年に亡くなった。作曲の師匠はイギリスの未来を開いたとも言える巨匠ヴォーン・ウイリアムズである。トランペット奏者出身で、作曲はシベリウスに対して強い憧れを持っていたという。交響曲は全7曲書いており、ここでは5番を取り上げてみようと思う。
 イギリスの保守的なモダニズムの匂いがたまらない作品で、2001-2002年にかけて書かれた曲である。2000年代に入って書かれた作品とすると保守的に過ぎるという批判も頷けるが、イギリスはスーツの国である。しっかりとした仕立ての良いスーツをそう簡単に脱ぎ捨ててはイギリス紳士の名がすたるというものではないだろうか。この曲はそんなスーツの紳士がベストを脱ぎ、帽子を脱いで現れたかのような慎重なモダニズムが素晴らしいさじ加減なのである。
 バターワースはコンチェルトも多く書き、1988年に書いたヴィオラ協奏曲は特に重要な作品とされている。また実は吹奏楽作品も多く、これは王立バンドを擁するイギリスにおいては当たり前のことではあるが、その作品の殆どは見向きもされていない。日本の「一部のミーハー」だけで構成される音楽のおままごとのような吹奏楽界ではバターワース吹奏楽曲など演奏されようがないだろう。作品群として面白いのは、カリヨンのための曲を書いていることだろうか。
 話を交響曲に戻せば、この曲にはホールトーン性が強く感じられ、ドビュッシー的な音像が立ち上がると思えば、ティンパニーのソロにハープをかけあわせたセクションなどは、実に素晴らしいと感じる。一方後期ロマン的なメロディと対位法もしっかりとしており、イギリスでしか生まれ得なかった曲と言っても良いと思う。胃もたれするような重さもなく、かといって軽すぎるわけでもない素晴らしい交響曲だ。

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Symphony No.1/Ljubomir Pipkov

Ljubomir Pipkov

 リュボミール・ピプコフは1904年にブルガリアに生まれ、1974年に没した作曲家である。交響曲は全4曲書いており、各種コンチェルト群も充実している。作曲はパリに出て、ポール・デュカとナディア・ブーランジェに師事している。ああまたブーランジェ門下か。作風は近代性を押し出すことよりも郷土への愛着とデュカ的なメロディをライトモチーフ的に構成し、ロマンティックに仕上げるタイプである。
 パッと聴きでは何が面白いの?と言われそうな交響曲第一番だが、5拍子を中心として書かれているのに違和感を感じないロマンティックなものになっていることをみるだけでも非常に異質と言えるのではないだろうか。これは西洋クラシックの徹底した訓練と、ブルガリアという得意な民謡をもつ国に生まれたことが奇跡的な配分にならなくては達成し得ない。民族的なビートやメロディが随所に顔を出しながらも、わかりやすい構成を持ち、違和感も聞きづらさも全く無く届いてくる牧歌的な雰囲気が味わい深い。
そしてデュカ門下であることを強く感じさせるモチーフの展開が秀逸で、物語性を強く感じられる点も良い。どことなく映画音楽的ニュアンスを感じる方もあるだろうが、本人が映画音楽も手掛けていたことと関係がないわけはないだろうと思う。日本でも演奏の機会があれば、こういった音楽を好む人には刺さるのではないだろうか。

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1.Symphonie/Wolfgang Rihm

Wolfgang Rihm

 ヴォルフガング・リームは言わずとしれたドイツの大天才にして、今や大巨匠となった作曲家である。1952年に生まれると徹底的な英才教育を受け、極めて若い頃からメキメキとその才能を開花させ、ネオ・ロマンティシズムという概念を提唱し、いわゆるトータル・セリーの時代を終わらせた。はじめはシュトックハウゼンに師事していたことも影響し、セリエールな音楽にその基盤をおいたが、肌が合わなかったのかすぐにその門を出て、現代の名伯楽クラウス・フーバーについている。そしてセリエール、ポストセリー問わず多くの巨匠の音楽を手本にし、モダニズムの最先端をひた走っている。
また大変な多作家でもあるにもかかわらず、その内容は希薄にならずしっかりとしていることからも、世界的な評価が高い。
 今回選んだ交響曲第1番は彼が17歳のときに手掛けた初めての交響曲で、現在までに全3曲の交響曲を書き上げている。17歳にしてセリエールな技法を完璧にコントロールし、単一楽章でやや短いものの、密度の濃い音楽を書きこなしていることは驚嘆に値する。まさに現代のモーツァルトと言っても良いのかもしれない。
 音響空間のコントロールが極めて上手く、散発的な音楽の断片が見事に一つの響きを構築し、隙を与えない緊迫感に満ちている。しかしどことなくロマンティシズムの断片を感じさせ、なるほどその後セリエールな方法を離れていったということも頷けるなという秀作であるとおもう。

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Symphony No.3/Stanley Bate

Stanley Bate

 スタンリー・ベイトはイギリスの作曲家で主に舞台音楽のジャンルで活躍した。1911年に生まれると英才教育を受け、成人前にオペラを2作も書き上げるまでになった。ヴォーン・ウイリアムズ、ゴードン・ジェイコブ等の他、ナディア・ブーランジェ、パウルヒンデミットにも師事しており、ウイリアムウォルトンの影響も大きかったという。交響曲は全4曲書いており、晩年になるにつれ少ししずつ不穏な影が現れてくるように感じる。というのも、アメリカやオーストラリアで大きく活躍し、凱旋帰国したベイトは本国ではああまり芳しい評価が得られず、おそらく心の病に陥ってしまったのだろう。最後は悲劇的な自死を選び、1959年にその人生に幕を閉じたのだ。
 作品雰囲気はしっかりとした形式美、上手いオーケストレーション、風格と表現を兼ね備えた堂々としたものだが、晩年にはそこにそこはかとないほの暗さと不安定さが加わる。どうも私はイギリスの後期ロマンとも言える1900年代初期生まれの世代の音楽が壺のようだが、ベイトの作品についてはその情緒の不安定さを察知して聴き込んでしまっているように感じる。特に不安定さというのは突如鳴り響く明るい音に現れると思っているのだが、それはタイプは違うが苦悩の作曲家ベルリオーズの作品にも見られる。特にこの交響曲第3番では2楽章にそのあたりが強く現れていて、切ないメロディラインに突如二度並行のハモりがつくあたりなど、ちょっと心に刺さってくる。その後のフルートソロの美しさと比較しても、激しい苦悩の渦中にあったことが容易に想像できる。まあそういった意味ではあまり共感してはいけない作品なのだろうが、とにかく一聴して頂きたい。

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Symphony No.3/Marcel Tyberg

Marcel Tyberg

 マルツェル・テュベルクはオーストリアの作曲家で1893年に生まれた。作曲家としてのキャリアについてはあまりわかっていないようで、正規の音楽教育を受けたものと想像されるとの表記が見られる。非常に器用な作曲家であったようで、交響曲で見せる顔はドイツ本流系とも言えるマーラー風のガッチリした音楽だが、一方でポピュラーミュージックの作曲も得意であったとのことだ。
 テュベルクも極めて悲劇的な最後を迎えた作曲家であり、1944年にアウシュビッツ収容所にて死亡したという、いわゆるホロコーストの犠牲者である。なぜドイツ本流の作品が書けたのにホロコーストの犠牲になったのかというと、当然ユダヤ人だったのだろうと想像されるが、彼は1/16ユダヤ人であったというだけで収容所送りにされたのだという。歴史における大悲劇、そして指導者の暴走に拍車がかからなくなったとき、世界が混迷の中にあったときにまま起こることではあるが、今という時代またその気配が高まっている気がするのは私だけではないだろう。
 交響曲は全3曲書いたようだが、この第3番は代表的なものでトロンボーン奏者は必聴と言える。いやむしろ所属するオーケストラがあるならこの曲の演奏を直訴すべき作品だ。私はトロンボーンの活躍する音楽もツボのようで、一聴でこの曲のファンになった。とは言え1943年の作品で収容所送りになる直前の作品ということもあり、その音楽の中には様々な思いと、不穏な時代の香りが閉じ込められているように思う。
 個人的に緩徐楽章に不安と希望が入り混じり、そしてある意味では天の安寧を希求するかの如き絶世の美しさを持った歌を聞くことができるところが落涙ポイントだと思う。この作曲家を失ったのはおそらく人類史における知られざる大損失だったと言っても過言ではないだろう。二度と繰り返したくないものである。

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と、以上5曲好みの交響曲を紹介させてただいた。
 聴く行為は書く行為と同じくらいに自分自身を語るものだともいえ、そこに投影されるのは自身そのものだと思う。そういう意味では今を生きる一作曲家として感じているものが如実に現れているのだろうと想像されるが、皆様はこれらの作品についてどう感じられるだろうか。
 なかなか語り合うことのできる機会もない作品で、更にこの耳で、目で、生の演奏に接することはまずないだろうが、そういう機会こそがもっと増えることを期待してやまない。