名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

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ロマン好きへの手紙 -ラトビアの天才三兄弟

ラトビア

 日頃現代音楽の普及と理解に筆を走らせて少しでも力になろうとしていますが、たまにはロマンティックな作品を聴きたいという声にも応えなければと思うこともあります。しかし研究の進んだジャンルを私が取り上げることにはあまり意義がないとも感じるので、あえてあまり知られていないロマンを追い求めて、そういった作品の再評価や知名度控除に貢献できればと思う次第です。
 昨今は何でも「自分が知らないものは誤りだ」と言わんがばかりに、無駄に強気にアホくさい価値観を押し付けられる世の中ですが、本当に必要なのは柔軟な受けと真摯な態度で行う研究であると強く思いを新たにして原稿に向かいます。

 

今回はラトビアの天才的三兄弟を紹介してみようと思います。

 旧ソ連を構成していた各国の音楽史にはある共通性があります。それは国民楽派運動の伝搬と受容が西洋音楽の受容の歴史の初期に必ずあるということです。どの国もそれ以前の支配国の影響や自国独自の西洋音楽の受容が最初期にあり、これらは大体において宗教音楽と関係が深く、教会のオルガニストや合唱曲で占められています。
 そこにパイオニアたる作曲家が現れ、本格的な作曲の勉強のためロシアに出て、多くは国民楽派運動の中心であったリムスキー=コルサコフに師事して自国に戻り、この思想とともに作曲法を教え始めることになります。
 そのパイオニアのもとに育った第2世代は、多くこの国民楽派運動の影響を強く受けた世代となり、いわゆる第二世代として初期の黄金期を形成するわけです。第0世代を宗教音楽としての受容の時期、パイオニアの登場を第1世代と見ていくと、各国の特徴と西洋音楽の受容が結びついた最初の黄金期となっていくのは自然なことであるといえます。

 

Jāzeps Vītols

 ラトビアの場合も同じくして、第0世代から大変賛美歌のたぐいが盛んに作られました。そして第1世代にヤーゼプシュ・ヴィートルシュ(Jāzeps Vītols)という大パイオニアが登場、そのシーンは一気に変わっていきます。今回紹介するメーディンシュ(Mediņš)三兄弟は1.5世代というくらいの位置にあるといっても良いかもしれませんが、兄弟すべてが極めて優秀で、さらに素晴らしい楽曲を残しているので、是非多くの人に知っていただき、できれば日本での評価確定につながってほしいと思います。

 


・ヤーゼプシュ(Jāzeps Mediņš)

Jāzeps Mediņš

 三兄弟の一番上はヤーゼプシュ・メーディンシュ(Jāzeps Mediņš)です。1877年に現リトアニアカウナスに生まれ、父はクラリネット奏者でした。
 ヤーゼプシュの音楽歴はヴァイオリン、ピアノ、チェロからスタート、オーケストラの団員になりあらゆる楽器を身に付けていきました。その後劇場指揮者として働くも、戦火から逃れてモスクワに出ることになります。ここでオペラ指揮者として働き、その後アゼルバイジャンででも指揮者として活動しました。
 作品はこういった彼の人生が現れており、オペラ、オーケストラ曲が多くを占めています。また彼は第1世代に位置するとも捉えられるだけに、オルガン曲も多く書きました。最後は本国ラトビア音楽院で後進の指導にあたり、1947年に70歳でこの世をさりました。

 

 ヤーゼプシュの代表作とも言われる「ヴァイオリン協奏曲イ短調」をまずは聴いてみましょう。

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 北欧的な情緒と乾いた空気感に、切ないロマンティックなメロディが極めて印象的な作品ではないかと思います。ヨーロッパ各国の状況に比べると些か遅れているとも言えるかもしれませんが、まさにロマン派感がプンプンと立ち込めていて非常に美しく、どこか懐かしさを感じる作風なのかと思わされますね。

 協奏曲では物足らないという生粋のシンフォニー好きには彼の「交響曲第3番変ホ長調」をおすすめしたいと思います。ちょっとドイツ的な響きに、やはり北欧感を伴った極めて立派なシンフォニーです。特に木管の使い方に豊かな自然を感じさせる気もします。

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 というように、ラトビアクラシック音楽の初期を支えると言っても、その音楽はすでに円熟の極み、素晴らしいロマンティシズムに満ちていることがわかります。


・イェーカブシュ(Jēkabs Mediņš)

Jēkabs Mediņš

 三兄弟の二番目はイェーカブシュ・メーディンシュ(Jēkabs Mediņš)です。1885年にリガに生まれ、教員資格を得たのちに兄のヤーゼプシュが指揮をしているリガ音楽院にて本格的な音楽の勉強を始めました。兄がオーケストラを中心に活躍する一方、イェーカブシュは合唱を中心に活動をしていくことになります。そしてベルリンに渡り、ベルリン音楽学校のマスタークラスを終了するも、兄と同じく戦火を逃れモスクワに渡った後、1920年に故郷に戻りラトビア音楽院で教鞭をとる事になりました。しかしその職を1年で辞し、イェルガバに移って、民族音楽研究所の所長として指揮者を兼ねて活動をしました。その後再びリガに戻り、合唱を中心とした活動以外にオーケストラの指揮者としても活動し、1971年に86歳の天寿を全うしました。
 三兄弟の中では一番知名度が低い様に思いますが、私は個人的に極めて好きな作曲家の一人です。多くの作品が未紹介ですが、小品と室内楽、合唱曲に強みを発揮しているといえ、兄よりも幾分民族色が強いのも特徴と思います。

 

 まずは比較的よく演奏されている「ヴァイオリンとピアノのためのロマンス」を聴いてみましょう。小品ですが極めて美しく、民族的な匂いが仄かに漂う珠玉の作品です。

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 個人的に痺れた作品は「トロンボーン協奏曲」です。音源は2つ確認できますがいずれも一楽章のみで、ピアノリダクション版ですが、それでもこれは大変な名作だと思います。

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 極めて叙情的かつ、民族性が溶け込んだ美しさを持ち、知られざる名曲を多く残した作曲家と言えるのではないでしょうか。


・ヤーニシュ(Jānis Mediņš)

nis Mediņš

 さて三兄弟(実はもうひとりマリアという女性も居るので四兄妹)の最後はヤーニシュ・メーディンシュ(Jānis Mediņš)です。
 1890年にリガに生まれ音楽一家であった家庭を強みに、メキメキとその才能を開花させていき、兄が所長を務めるシゲルツ音楽院でヴァイオリン、ピアノ、チェロを学びました。その後ソリストとして活動を開始しましたが、作曲も行っておりそちらでの成功が早かったようです。そしてオペラ、バレエとラトビア音楽史上極めて重要な仕事をし、その名が知れ渡りました。
 兄たちと同じく次代に翻弄されるも、ラトビア音楽院で教鞭をとり、この時期に傑作を多く書き上げたと言われています。その後彼はスウェーデンに移住、1966年に75歳で亡くなりました。

 

 彼の代表作は多くありますが、まず「24の前奏曲」をご紹介したいと思います。
多くの作曲家が挑んだ「24の前奏曲」は彼も挑戦し、民族主題と後期ロマン的様式を見事に統合、素晴らしい作品に仕上げています。

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 最近アルメニアの作曲家、アブラミアンやバグダサリアンの「24の前奏曲」が一部で見直され、楽譜が再販されるなどの動きがありますが、この作品も早くそういった扱いを受けてほしいと思う傑作です。

 二人の兄よりモダニズムの影響が入ってきていますが、更にモダンになりつつもショパン的なピアニズムを加えた素晴らしい曲に「ピアノ協奏曲嬰ハ短調」があります。

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 非常に卓越した筆でオーケストレーションも野暮ったくないという名曲ですが、知っているという人は非常に少ないと思われます。

 

 

 と兄弟3人の作品を見てきましたが本当にしびれるロマンティシズムに満ちているとは思いませんか。これらすべてがほぼマイナー曲で国内くらいでしか取り上げられていないのは、あまりに惜しい。


その原因の一つが楽譜の入手が至難であるということが挙げられます。

 

 世界的出版社を通じて、こういった楽曲の紹介がなされることを強く願わねばならないと思いますし、そういったことこそが人類の文化伝承への義務なのではないかと思います。
 昨今ろくろく勉強もしないで頭でっかちになって糞の役にも立たないことを喚く人が多い本邦でこういった文化継承の大きな仕事がなされるとは思えませんが、微力でもそれに貢献できたら幸いです。引き続き楽譜の捜索はしていきたいと思いますし、そういったものが見つかったあと、校正、再販される未来を願ってやみません。