名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

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「すずめの戸締まり」が良すぎて新海誠を嫌えなくなった 〜新海誠の芸術論 vol.2〜

注※ 本記事は映画「すずめの戸締まり」のネタバレを含みます!!

 

以前、わたくしトイドラこと冨田は新海誠の「君の名は」を批判する記事を書きました。

それも結構ボロクソに批判しております。

結果的にプチ炎上を起こし、3年たった今でもこの記事は名作会の人気記事TOP3となっています。

いや不名誉すぎるだろ……。

 

↑の過去記事にも書いている通り、何かを貶すことは何かを褒めるのと同じくらい大事なことです。

とはいえ、3年前から今までで僕の心境にもいろいろと変化がありました。

あ、変化っていうのは「炎上コワイ……」ってことではないですよ?? 炎上は適宜していこう。怖がる必要はない

秒速5センチメートル」を再視聴し、「天気の子」も観ました。

そして最新作「すずめの戸締まり」も、この前劇場に見に行ってきました。

結果、メチャいい映画だったので知り合いという知り合いにオススメしまくるオタクと化しています。

…………「天気の子」はマジクソ映画で1ミリも良さがわかりませんでしたが。

 

目次

 

2度目の「秒速」が鳴り止まない

「すずめの戸締まり」のレヴューに今すぐ行きたいのはやまやまですが、まずはここから始めねばなりません。

 

2年ほど前、友達の家で2度目の「秒速5センチメートル」を観、感想が180度変わりました

前回の記事では、「秒速」について

新海誠の作品で最も大事なのは「共感」だということです。

作品を観ることで鑑賞者に作用しようとするものが芸術だとするなら、新海誠作品は鑑賞者に寄り添いこそすれ何らの作用を及ぼしません。

つまり、観る前と後とで、見た人の価値観は何も変わりません。

と批評していました。

しかし、この批評は「秒速」が人気オタクコンテンツであるという先入観から出てきたものだったように思います。

改めて「秒速」を観てみて、

「いや新海誠ぜんぜん共感させる気ないだろ!?」

と思ったのです。

登場人物は全員90年代のアキバオタクみたいな気持ち悪い陰キャで、多くの人にとって共感できる対象ではなかったでしょう(公開当時は特に)。

ナヨっちい主人公と叶わない恋のせいで、見てる側はずっとお預け状態です。

「エモい」という言葉もまだなかった時代にあれをやったのは、思えばかなり挑戦的でトガっていたんじゃないでしょうか。

論理的にメッセージを語りかけてくるようなタイプの作品ではありませんが、性愛・感情・エモさといったある種の動物性・汚い本能みたいなものを目の前に突き付けられて、僕は結構ビビってしまいました。

ちなみに、「秒速」を観た友人はしっかり価値観に影響を受け、ことあるごとに思い返している上、初恋の人に会いに東京まで出かけたりしていました。

めっちゃ鑑賞者に作用してるじゃん。。。

 

「秒速」に描かれる風景が具体的過ぎ、ラッセンのように情報過多であるという感想は変わりません。

ただ、2回目に見たときは妙に心に食い込んできて、「秒速」は他人にオススメできる映画だなあと思うようになりました(人はかなり選ぶが)

……というか、確かその時友達の家で見たのも僕がオススメしたからでした。

つまんねーと分かっていたはずの映画を、なんで僕はわざわざオススメしたのか。

結局、メッチャ不快な作品というのはメッチャ素晴らしい作品と紙一重ということでしょうかね。

 

何も分からなかった「天気の子」

このように、僕の感性は少しずつ変わっているようです。

が、別に根っからの新海誠信者になったわけではないことを示すため、今から「天気の子」をボロカスに言おうと思います

 

 

 

▽ネタバレ注意▽

いや、マジであの映画、何が言いたかったんでしょうか(結局これ)。

つまんなすぎて内容を細かく覚えてはいないのですが、とにかく気になった点は3つ。

 

まず、主人公のグレ方が雑すぎでは?

冒頭のシーンでいきなり家出しているわけですが、

「なんで家出してるんだろ、まあ後々語られるんだろうな」

と思っていたら語られないまま映画が終わっていきました

え、結局この主人公は何者だったの???

バックグラウンドが何もないただの家出少年だったので、共感も解釈もできず「???」状態でした。

しかも、冒頭で拳銃を拾うわけですが、その拳銃を最後のほうで本当にぶっぱなします。

やりたい放題過ぎだろ。

 

そして、そんな無名家出少年である主人公に対して、ヒロイン枠の陽菜ちゃんが優しすぎる

人間、優しくされるためには当たり前ですけど理由ってもんが必要です。

理由なく優しくしてくれる年下ママを待ち続けて干からびて死んでいくのがキモ童貞オタクですので、この描写はフツーに不快でしたし、ご都合主義が過ぎます。

ついでに言うと、主人公の世話をすることになる新聞ライターの須賀さんも優しすぎます。

一応フォローしておくと、こういうご都合主義というのは、時間的制約の大きい映画であれば仕方がないこともあります。

ただ、ご都合主義をやってまで表現したい何かがその先にないと、やはり見ていられないですよね。

 

最後に、この映画のオチについて。

けっきょく主人公は、

①東京を救うために陽菜ちゃんを犠牲にする

②陽菜ちゃんを助けて東京を水没させる

という究極の2択を迫られるわけです。

いかにもセカイ系っぽい展開じゃないですか……!!

で、どうなったかというと主人公は普通に陽菜ちゃんを助けます

そのせいで東京は本当に水没し、めっちゃひどい大災害になります

何しとんねん。

別に、道徳的に正しいことをしろ!と言いたいわけではありません。

ただ、この映画のオチは本当に

「大好きな子を助けて、それ以外を全部犠牲にする」

というだけ。

いやマジで何が言いたいんでしょうか。

特に何の深みもなければ、葛藤も苦しみも成長も何もありません。

しかも、主人公はそのあと補導され保護観察処分を受けたのち、何年も後になってから陽菜ちゃんとエモ~い感じで再会します。

え、よく顔向けできたな。。。。。

お前のせいで壊滅した大都市が目の前にあるんだぞ!?!?!

この映画にエモさを感じられる人、ラッセン風の色彩で彩られれば「ゲルニカ」とか「我が子を食らうサトゥルヌス」とかでもエモ~い!って感じで見ていられるんじゃないでしょうか。

ネタバレおわり△

 

 

 

はい、というわけで今回も炎上確定です。

ただ、ネットのレヴューを見ると意外にも「天気の子」を評価する真っ当っぽいレヴューも多く、実に評価が割れているなと思います。

どうやら、新海誠は自作品でけっこう尖った挑戦をしているようで*1、同じコンセプトの映画を作らないように(少なくとも最近は)しているように思えます。

おそらく、「天気の子」を評価している人にしか見えていない部分があるのでしょう。

もしよければコメントで教えてください。

 

「すずめの戸締まり」レヴュー

では、ようやく「すずめの戸締まり」のレヴューに入っていこうと思います。

「すずめの戸締まり」は、「君の名は」「天気の子」から続く震災3部作の3つ目です。

東日本大震災に影響を受け、大災害がストーリーの中心に据えられている点が3部作で共通しています。

…………とは言ったものの、実は今作を観てはじめてそれに気づきました

だって、「君の名は」も「天気の子」も、確かに災害を中心としたストーリーではあったけど、あくまで(悪く言えば)ストーリーに彩りを添える舞台演出という感じでしたから。

必ずしも災害をテーマにする必要があったか?というと微妙な気がします。

ただ、今作では明確に東日本大震災がストーリーの中核にあり、はっきりと震災に向き合っているといえます。

 

悪かった点(いつも通りだね)

先に悪かった点を指摘しておきます。

これはみんな言っていることですが、やっぱりご都合主義が多いです。

主人公であるすずめと旅の同行者である草太、2人の仲が接近していく過程の描写がやや薄いですね。

ただ、これは先にも言った通り、映画だと多少は仕方ないと思います。

それに、今作ではそんなご都合主義をしてまで描き出したいものが見て取れたので、個人的にはそこまで気になりませんでした。

 

想像を掻き立てられる怖さ

さて、以後は良かった点を挙げていきます。

まず、本作の主人公であるすずめは、実は東日本大震災の被災者ですが、そのことが映画の後半に至るまで伏せられたままストーリーが進行していきます

なんというかこう、非常に…………リアリティがありますね。

 

映画を見ている側としては、

「すずめちゃん、行動力ヤバww」

「いきなり家出しちゃってすごいなあ」

なんて思いながら見ているわけですが、そんなすずめちゃんが

生きるか死ぬかなんて運でしかないんだから!」

みたいなセリフを吐いたシーンから

「あ、何かあるんだな……」

と(カンが良ければ)思い始めます。

すずめは、ただのお転婆はっちゃけ娘(それこそ今までの新海誠が好んで描きそう)として描かれているのかと思いきや、実は隠された一面があるという構造になっています。

 

で、少しづつすずめが被災者であることが明らかになっていきます。

いきなり明確に明らかになるのではなく、あくまで少しずつです。

すずめが叔母と二人暮らしをしていたり、死と隣り合わせの状況に何の感情も抱かなかったり、海岸を見て美しいと思えなかったり、自分の過去について一向に語ろうとしなかったり、随所に挿入される真っ黒に塗られた日記のシーンだったり……。

こうした控えめで想像を掻き立てる描写が、「被災」という体験のおぞましさをよく引き立てていました。

もしこの映画が「被災者のすずめ」という明確な情報から始まっていたら、ストーリーの面白さは置いておいても、思想の深みはかなり損なわれたことでしょう。

 

また、映画の中で震災の被害が直接的に描かれていなかったのも素晴らしいと思いました。

ストーリー上、すずめと草太が地震の発生を未然に防いでいくので、実際に地震が発生して被害が出るシーンはほぼ描かれていません

この点は賛否あるようで、人によっては「ちゃんと描いたほうが震災の恐怖を表現できたのでは?」という意見もあるようです。

ですが、僕は真逆のことを言いたい。

劇中、すずめを襲った大震災がどんな被害をもたらしたのか、直接的にわかるシーンはありません。

しかし、間接的にその想像を掻き立てるようなシーンはいくつもあります。

泣きながら母を探して走るすずめの断片的なシーン。

壊滅したまま10年間そのままになっているすずめの旧家。

地震を止めようと献身するすずめにダイジンが言った「人がたくさん死ぬね」という味気ないセリフ。

最後の後ろ戸を閉める際に聞こえる、無数の「行ってきます」の声。

そして何より、すずめが過去の記憶を求めて日記帳を開いたシーン、あれが非常に怖かったです。

ただただ真っ黒に塗りつぶされたページが大写しになり、ざわざわと幻聴のように被災時の叫び声や鳴き声が聞こえてきて、ページをめくってもめくっても真っ黒なページが続き、幻聴が大きくなっていく。

視覚的な情報量はゼロなのに、幼少期のすずめが日記を何ページも黒で塗りつぶしたという事実や、脳裏を埋め尽くす当時の幻聴から、どんな凄惨な体験があったのか想像せずにはいられません。

 

このように、具体的な被害を描かず見ている側の想像に委ねたのは、今作で非常に感動した点の1つです。

新海誠といえば、過剰に具体的な描写を重ねるイメージがありましたので、こういう深遠な表現もできるのかと見直しました。

実際に震災の被害を描こうとしたとき、具体的に「こんなことが起きました」と描いてしまえば、取りこぼす部分が必ずあるし、陳腐化してしまいますからね。

 

また、映画の中で一瞬だけ、大震災の被害が視覚的に描写されるシーンが(実は)ありました。

草太を救うために後ろ戸に入ったシーンで、当時の壊滅したすずめの故郷が壊滅した姿のまま燃えていましたね。

あの描写はえげつなすぎて、だいぶ心にキました。

すずめはものすごい表情でそんな景色をにらみつけながら、丘に向かって走っていくわけですが……。

 

「過去の自分に向き合え」という厳しいまなざし

本作は、すずめの成長を描いた作品といってよいと思います。

が、劇中を通してすずめが段々と成長したかというと、全くそんなことはありません

旅をする過程ではずっと叔母さんに要らぬ心配をかけ続け、それどころか親切にしてくれたスナックのママにも心配をかけて怒られる始末。

反省はしているようでしておらず、叔母への連絡もしないし非常に自分本位です。

 

実は、この「自分本位」というすずめの未熟さは、ダイジンを通しても描かれています。

すずめは冒頭、ダイジンに対してウチの子になる?と声をかけています。

ダイジンはそれを真に受けたので以後すずめに懐いているわけですね。

ところが、ストーリーが進むにつれてすずめはダイジンへの憎しみを募らせ、自分がダイジンに言ったことを忘れてしまいます。

この構図は、のちに叔母さんによってすずめ自身に降りかかってくることになります。

すずめがダイジンに「ウチの子になる?」と言ったことと、叔母が被災直後のすずめに「ウチの子になろう」と言ったこと、これらは対比構造になっていますね。

好き勝手迷惑をかけるすずめに対し、左大臣に憑りつかれた叔母が憎しみをぶつけることで、すずめは自分のしたことに向き合わされることになります。

 

劇中ですずめが成長するシーンは、上のシーンともう1つ、後ろ戸の中で過去の自分と出会うシーンの2つだけだと考えています。

逆に言えば、それ以外の過程ではすずめは成長していません。

この描き方も非常に見事だと思いました。

なぜなら、ここには「過去の自分に向き合え」という、被災者の方々には厳しすぎるとさえ思えるメッセージが込められているからです。

 

というわけで、次に「後ろ戸の中で過去の自分と会うシーン」に話を移します。

これは本作再終盤のシーンですが、劇中では冒頭からずっと

「幼少期のすずめは常世に迷い込み、死んだ母と会った」

という事実が匂わされ続けています。

事実、常世は死者の国であると途中で明かされるし、ありうる話ですね。

こうきますと、最後のシーンは母と涙の再会をして、すずめちゃんは過去を清算し成長する、という流れが大方想像つきます。

 

ところが、ラストシーンですずめが実際に会うのは幼少期の自分です。

それと同時に、幼少期の自分が常世で出会っていたのは母ではなく、実は未来の自分だったことが明らかになります。

幼少期すずめは、本当は母と会ってなどいなかったのに、母を求めるあまりそう思い込んでいたということです。

泣きながら「お母さん知りませんかあ?」と訴えかける幼少期すずめに対し、大人すずめがかける言葉は、

「本当は全部分かってるんだよね」

です。

つまり、お母さんは死んでいてもう二度と会えないということを、幼少期すずめは理解しているのに、目を背けているということになります。

結局、幼少期すずめとの出会いを経たすずめは、

「本当に大事なものは、はじめから全部持ってたんだ」

と口にして元の生活に戻っていきます。

 

この一連のシーン、相当ヤバいと思います。

もし、すずめがお母さんと再会してエンディングを迎えるとなれば、すずめはある意味救われたことになります。

震災で無慈悲に奪われたお母さんという存在を取り返し、お母さんを失った傷を埋める。

こういう視点で見れば、すずめは被災者であり、救われるべき被害者であることになります。

しかし、本作のエンディングではそうした救済を拒否していますね。

ストーリーの流れ的にずっとこうした救済を匂わせていながら、最後にすずめが出会うのは自分を救ってくれる母ではなく、救いを求める側の過去の自分です。

そして、過去の自分は母を失ったという事実から目を背け、ここで出会った未来の自分のことすら母だと錯覚して生きていくことになります。

そんな幼少期の自分と相対して、一旦は「どうすればいいの!?」と取り乱してしまうのも非常に赤裸々です。

が、そのあとすずめが過去の自分に語った内容。

「あなた(=自分)はこれからも、強く幸せに生きていける」

これは自分に向けてのメッセージでもあります。

この瞬間、すずめはようやく救われるべき被害者であることをやめ、自分で自分を救うことができたのです。

それを受けての「本当に大事なものははじめから全部持ってた」というセリフ、ヤバいですね。

つまり本作は、すずめが新しい経験を経て少しずつ成長していくお話ではなく、すずめが抑圧していた過去と向き合って自立する話なのです。

 

このメッセージ、結構キツくないでしょうか。

映画の中の話なら「ほえ~素晴らしいな~」で済みますが、日本には実際に被災した方々がたくさんいるわけです。

そんな方々の中には、過去と全く向き合えずに苦しみ続けている人も大勢いると予想できます。

甘いエンディングで描くことも可能だったはずなのに、よくこの重たいメッセージ性を貫き通したものです。

実に感動しました。

 

過去作からの変化

また、今作ではいわゆるセカイ系に対する自己批判みたいなものが見て取れます。

セカイ系」とは、新海誠などサブカルラノベ系の世界観をあらわした言葉で、

主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)との関係性が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」といった大問題に直結する作品群

と定義されています。

今作はまさにセカイ系で、というか「君の名は」「天気の子」を含めた3部作ぜんぶが典型的なセカイ系です。

 

こうしたセカイ系の作品は、「ぼくときみ」がいきなり「世界」に接続するので、その間にあるはずの「社会」を全く描かないことが批判されてきました。

というか、「天気の子」とかまさにそうじゃないですか???

社会を描いてたらあんな荒唐無稽な展開にならないだろ……。。。

 

で、「すずめの戸締まり」です。

今作では緻密に社会が描かれているんですよね。

というか、本作の主題はむしろ社会のほうであり、それを描くための媒体としてセカイ系を用いている印象を受けました。

事実、劇中ですずめが

①東京を救うために草太を犠牲にする

②草太を生かして東京に震災をもたらす

という非常~~にセカイ系的な選択を迫られるシーンがありますが、すずめが下した決断は「天気の子」とは真逆です。

ちゃんと社会の存在が意識されたストーリーメイキング、結構うれしいものでした。

 

 

もう1つ、些細かもしれませんが僕が感動したことを挙げておきます。

本作では、映画の一番最後にすずめと草太の再開が一瞬だけ描かれています。

このシーン、新海誠的には結構大きな意味があるのではないでしょうか。

 

以下、「秒速」のオチに関するネタバレを含みます。

 

 

 

▽ネタバレ注意▽

 

 

 

新海誠作品において、一番最後に「出会えるか・出会えないか」は非常に重要です。

 

「秒速」では、ウンタラカンタラ長々と過去の恋愛を引きずる主人公を描いておいて、ラストシーンでその人(かどうかも分からない人)とすれ違うシーンがあります。

その直後、踏切が2人を分かち、出会えるか、出会えないか、出会えるか、出会えないか、どっちなんだーーい!!!………………出会えなかった!!!!!

ウワーーーー!!!!!

ドカ――――ン・・・・・

……という感じでエクスタシーが訪れます。

 

対する「君の名は」でも、全く同じようなシチュエーションがラストシーンに用意されています。

主人公がヒロインを駅で追いかけて、出会えるか、出会えないか、出会えるか、出会えないか、どっちなんだーーい!!!………………出会えたーーーー!!!!!

ウワーーーー!!!!!

ドカ――――ン・・・・・

……という感じでエクスタシーが訪れたわけです。

 

こうした構造を気にかけながら見ていたので、本作のラストにはちょっと感動しました。

というのも、本作ではラストに「出会えるか・出会えないか」というのがエクスタシーに少しも関係なかったからです。

「出会えるか・出会えないか」という展開でラストを飾るのは、非常にエモい一方、性愛的で大袈裟で、どこかマッチョな感じがします。

青春的、とでも言いましょうか。

異性愛の一番キモい部分を煮詰めたような感覚ですので、否定する気はないけどどこか粗削りな感じがします。

そこへきて、本作でラストに「出会えた」ときに感じた感情は、エクスタシーではなく安心というか、日常感というか、そういう類のものでした。

「あ、もうそこで描くのはやめたんだな」

と思い、個人的に新海誠の変化を感じてうれしかったです。

 

 

 

ネタバレおわり△

 

 

 

おわりに

というわけで、新海誠に足を向けて寝られない身体になってしまいました。

「君の名は」以降の作風の変化については、有能なスタッフが制作陣に加わってアドバイザーとして機能しているとかいう話もあります。

古参のファンにとっては、むしろ昔のキモ陰キャオタク童貞的作風が恋しい人も少なくないでしょう。

とはいえ個人的には、今作みたいな問題意識のある作品を今後も作ってくれるなら、新海誠作品には期待したいです。

 

映画レヴューは長くて書くの疲れるので、次回作は極端に良作だったりクソだったりしないといいな…………。(???)

*1:批判にも精力的に答えているらしい。「君の名は」で東京を美化しすぎ!と批判されたら「天気の子」で東京のカゲを描いた挙句水没させ、「天気の子」の主人公が自分勝手すぎ!と批判されたら「すずめの戸締まり」のメインストーリーを人助けにするなど……