名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

シリーズ我が国の作曲家006「栗原泰」

我が国の作曲家

 この研究をしているとしばしば出会うのがほとんど資料が残っていない、もう存在を肯定することも難しいという作曲家である。
 そんな作曲家の書いた「楽譜」がと登場してしまうと、誰かのペンネームでない限りその作曲がいた事になってくるので、調べ上げなければならなくなる。


今回テーマにしているのはまさにそういうタイプの作曲なのである。

 

栗原泰


「栗原泰」

 

 この名を聞いたことがある人がどの程度いらっしゃるのだろう。
 私も当初は彼の書いた「Walzer Sakura」という曲の楽譜を目にしただけで、いつもどおりある程度の情報は出てくるだろうと考えていた。しかし調べても調べても彼の横顔はわからずじまい。さくらさくらをテーマにした件のワルツを書いた人以上の情報が見えてこないのである。

Walzer Sakuraの冒頭

 そこで調査の範囲を広げ、Twitterでいつもお世話になっているErakko.I.Rastas(@erase_m)さんにも聞いてみることにした。その結果おぼろげながらこの作曲家の横顔が見えてきた気がする。

 まず生年についての類推だが、直接生年に触れた資料は見つかっていないことをお断りしておきたい。これについては前述のErakko I. Rastasから教えていただいた東京音楽学校の資料である「東京音楽学校一覧」である程度想像ができる。

 まず東京音楽学校に入学した年であるが

dl.ndl.go.jp

この資料から1925年(大正14年)に「甲種師範科」に入学していることがわかる。

 

dl.ndl.go.jp

 そしてこの資料から1928年(昭和3年)に同科を卒業していることがわかる。
 同期に町田等がいることから、その生年と入学年をあわせて鑑みると1900年代初頭、1903年頃~1907年頃の生まれであろうと思われる。
 そして「甲種師範科」の卒業なので中等教員の育成をメインとした科ということから、教員になったのではないかと想像される。更に出身地についても「埼玉→東京」となっているので、埼玉生まれで東京に移住したと思われることがわかる。

 

 この資料から読み出されたことを更に掘り下げてみようと思う。

 

http://www.linkclub.or.jp/~taka-org/workscd.htm

 

 上のページを見ると「栗橋市出身の栗原泰」との記述があり、静御前に関係する史跡の催しで彼の書いた「静を偲ぶ」という曲が歌われているとのこと。なるほど埼玉県出身という点についての裏付けになるはなしだろう。

 

dl.ndl.go.jp

 今度は昭和16年発行の「音楽年鑑」であるが、ここに彼の名の記述がある。
 東京音楽学校出身で教師していることと、当時の住居が牛込区早稲田、現在の新宿区早稲田に居を構えていたことがわかる。これで彼は1900年初頭頃に埼玉県栗橋市に生まれ、その後東京都新宿区早稲田に居を構え東京音楽学校甲種師範科に大正14年に入学、昭和3年に卒業し教員の道を歩んだ。というところまでまとめられる。

 続いて教員になったという点から、校歌を手掛けたのではないかという類推ができるだろう。この点から教員としての彼を少し追いかけられるかもしれない。

 

www.city.kazo.lg.jp

 真っ先に見つかるのがこのページである。


「埼玉県加須市立元和小学校校歌」

 作詞は「栗原浩」とあり兄弟かもしれない。

 そのほか「さいたま市立馬宮小学校校歌」、「さいたま市立桜木中学校応援歌」を書いていることがわかる。また教員として幸手市幸手中学校、蓮田市立蓮田中学校に奉じた記録がある。どうやら出身地の埼玉に錦を飾ったようだ。このあたりの学校を歴任しているのは昭和30年代であり、その後の記録が途切れることから、その頃なくなっているのかもしれないし、引退し表に残る活動から遠のいたのかもしれない。没年については生年より遥かに調べにくいものであり、現時点で定かではない。ただ生まれ年を考えればまだ存命と考えるのはちょっと無理筋だろう。

 

 いかがだったであろうか。

 

 調査としては未完成であり、内容も充実しているとは言いかねるが、こういった忘れ去られてしまった作曲家について、その調査の方法や過程とともに、栗原泰の横顔を少しでも多くの人に知っていただければ幸いである。

 さて最後にそんな栗原泰の書いたピアノ曲「Walzer Sakura」を聴いて、今回を閉められえばと思う。

 

www.youtube.com