名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

トルコの国民楽派の成立について

「トルコ国民音楽の成立について」

 

こんにちは。gです。今回はトルコの国民音楽の成立について少し語っていきたいと思います。

 

トルコって...?

   では皆さん、トルコの音楽っていうとどんなものがあるでしょうか。

多分最初に思い浮かぶのはモーツァルトの「トルコ行進曲」などでしょうか。18世紀後半に作曲されたと考えられているこの曲は、オスマン帝国の軍楽隊メフテルの影響を受けて作られたいわゆる「トルコ趣味」の音楽です。純粋なトルコの音楽とは言えません。ではトルコ人の作曲家というと誰が思いつくでしょうか。

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...すぐには出てこないですね。頑張ってひねり出すとトルコ行進曲つながりでファジル・サイなどが出てくるかもしれません。これは一昔前に日本で「鬼才!天才!ファジル・サイ!」というキャッチコピーで売り出されちょっとしたブームになったことに起因していたりします。

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 ちょっと脱線しました。話をトルコに戻しましょう。トルコには「トルコ五人組」と呼ばれるクラシック音楽の作曲家たちがいました。これは「ロシア五人組」や「フランス六人組」といった表現から借用されたものです。彼らは西洋音楽理論を学びながらトルコの民衆音楽を取り入れて、「トルコ国民学派」とも呼べる流れを作りました。今回は彼らが国民学派を形成するに至った経緯とその背景に焦点を当てていきます。

 

 

トルコ革命直後の情勢とケマリズムについて

1923年、トルコはそれまで6世紀以上にわたって続いていた皇帝制を廃止し、共和政を宣言した。イスラム世界で初めて世俗主義国家として成立したトルコ共和国だったが、決して安心できる状況ではなかった。何故なら第一次世界大戦で敗北したオスマン帝国がセーヴル条約で治外法権などを認めさせられたように、また西欧列強が植民地支配の魔の手を伸ばしてくるかもしれなかったからである。トルコは早急に国民が一丸となる必要があり、そのためのイデオロギーの確立が求められた。

19世紀から次第に衰退していったオスマン帝国はそれを「イスラム」に求めた。すなわち世俗的な権威であるスルタン(皇帝)に加えて、宗教的な権威であるカリフを名乗ることでオスマン国民、ひいては全世界のイスラム教徒をまとめ上げようとしたのである。

しかし、それはうまくいかなかった。何故ならイスラム教には生活規範を記した聖法、シャリーアがあったからである。シャリーアは通常の法律ではなくアッラーによって定められた「神の法」である。そのため時代が変化してもそうやすやすと変えることができない。例えば「電気」がヨーロッパで発明されて、トルコに持ち込まれた時イスラム法学者はこれをシャリーアに基づいて神の創造物を人工的につくり出す「悪魔の発明」であるという評価を下した。この評価は結局アブデュルハミト2世によってスルタン自らが電信機でコーランの一節を送受信するというパフォーマンスを行うまで覆される事はなかった。

 

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フェイを被ったアブデュルハミト2世

 また、スルタンの評価も、イスラム教の教えに適しているかという価値観で評
価されるため、指導者そのものに支持が集まりにくくなってしまったのである。

それに対してトルコ共和国初代大統領であるムスタファ・ケマルはそのイデオロギーとして「トルコ民族主義」を掲げて数々の世俗化政策を行った。具体的な事例としては従来のアラビア文字を廃止しローマ字を用いるようになり、またアラビア語からの借用語を撤廃し新たに「トルコ語」を作る「文字改革」や、カリフ制の廃止や女性のヴェール着用を禁止し社会参入を認める政策などが挙げられる。こうしたトルコにおけるイスラム教を政治から分離する徹底的な改革は後に「ケマリズム」と呼ばれるようになり、今回のトルコ国民学派もケマリズムの影響を強く受けて形成されたものである。

 

 

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ムスタファ・ケマル・アタチュルク アタチュルクとは後に議会によって贈られたトルコの父を意味する言葉である。

・ケマリズムにおける音楽

 さてトルコ民族主義を国民に広めるには、一つ大きな問題があった。識字率である。当時のトルコは国民の9割が文盲であり、文字の読み書きは官僚など国民のごく一部しかできなかったのである。そこでケマルは文字を必要としない美術や音楽を用いて新しい国民文化を創ろうとしたのである。具体的な政策としては各地で口伝されている民族音楽の収集と楽譜化、イスタンブル音楽院、アンカラ国立音楽院の設立などが挙げられる。また収集された音楽は国営トルコ・ラジオ・テレビジョン放送協会(TRT)によって放送された。

 

 

・トルコ古典音楽

 トルコには元々はアラブ音楽の系列の古典音楽が存在した。マカームと呼ばれる微分音を含んだ複雑な旋法体系とウスールというリズム周期によって構成された音楽である。しかしこのトルコ古典音楽に対して、ケマルはこれがトルコ地域独自の音楽であるにも関わらず国民的な音楽として取り上げようとはしなかった。何故なら古典音楽は主にイスラム教の一派であるメフレヴィー教団によって継承されていたため、政教分離を掲げた共和国政府にとって都合が悪かったからである。また、和声を持たず単旋律が主であったため、和声が発達した西洋音楽から見ると「遅れた音楽」といった評価がされていたことなども理由の一つである。結局このトルコ古典音楽は政府の支持が得られないどころか、1976年になるまで公的機関での古典音楽の教育が禁止されるなどの排除政策が行われた。

 しかしケマルがこの音楽を嫌っていたかと言われればそうではない。むしろその逆でケマルはトルコ古典音楽を好んで聴いていたとされ、2015年にアタチュルク廟で行われた祭典などではケマルの愛した音楽として古典的トルコ民謡が演奏されるなどした。

話はそれるが、個人的にこういったトルコ古典音楽に触れる際に紹介しておきたいアーティストがいる。

 上記のアルバムは2007年にトルコ系カナダ人のアーティストMercan Dedeによる宗教家のジャラルディーン・ルーミー生誕800年を記念として製作されたものである。スーフィーの影響を多く含みながらも現代的クラブミュージックの要素を織り込んだ極めて完成度の高いアルバムである。

 

・国民音楽とトルコ五人組

こうした背景からトルコ国民楽派は収集された民衆音楽に西洋的な和声を組み合わせて成立した。国立音楽の最初の担い手として「トルコ五人組」が挙げられる。

 

ジェマル・レシット・レイ(1904~1985)

交響詩”Türkiye” 

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ハサン・フェリット・アルナル(1906~1978)

カヌーンの為の協奏曲 

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ウルヴィ・ジェマル・エルキン(1906~1972)

交響曲1番 

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アフメト・アドナン・サイグン(1907~1991)

交響曲1番、2番 

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ネジル・カズム・アクセス(1908~1999)

ヴァイオリンコンチェルト Allegro(1) 

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の五人である。それぞれの音楽教育を受けながらも共通してパリ、ウィーン、ジュネーヴといったヨーロッパの音楽院に留学して西洋音楽を学んでいる。これは当時の政府が優秀な人材を海外に留学させる支援制度を行っていたことに影響されている。

 彼らのうちサイグン、アクセス、エルキンの三人はバルトークと交友があり、バルトークがトルコに訪問した際の民謡の現地調査に付き添っていたことが分かっている。収集された民謡の音階などのデータから、バルトークハンガリー音楽がトルコ民謡の影響を受けている事を論文で発表している。

 それぞれトルコ各地の民謡をテーマとした多くの曲を作った五人組はラジオなどを通じてトルコ人の間で大きな反響を呼び、後世の音楽界に強い影響力を持つようになった。

 少々長くなってきたので、今回はここらで一旦切り上げてトルコ五人組の細かな詳細についてはまた次回行いたいと思う。