名大作曲同好会

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我が国の作曲家シリーズ001 「細川碧」

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がしょ~ん!

皆様あけましておめでとうございます。
どんな年末年始をお過ごしになられましたでしょうか。
私はいつものように、酒に酔いしれ友と語り合う良い時間を過ごせました。
本年も名作同を始め、あちこちでしっかりと仕事をしてく気持ちを新たに臨んでまいりますので、よろしくお願い致します。

 

さて私の年明け1本目の記事は、新シリーズ「我が国の作曲家」を開始してみようと思います。


我が国の作曲家と聞いて何人くらいが頭に浮かぶでしょうか。
少ない人で2~3人、一般的には10~20人というところでしょうかね。


Wikipediaの「日本のクラシック音楽の作曲家一覧」の項を見ると伝統音楽の作曲家を除いて428人ほどの名があり、さらにその他のジャンルの作曲家を含めるとその数は1000人を超えるのは間違いないものと思います。


もちろん、ぱっと聞かれて頭に浮かばないだけで、作曲家の名前を聞けば思い出すということも多いと思いますが、それでも多くの人の認識よりも日本の作曲は多くいるのは間違いないところだろうと言えるでしょう。


このシリーズでは、その中でも超有名な人はあまり扱わないシリーズにはなるかもしれませんが、自身の研究や、文章として残しておきたい人などを中心に随時書いていってみようかなと考えています。

 

 

さて第1回として取り上げるのは「細川碧」です。

「ほそかわみどり」と読みます。男性です。
どうでしょうご存じの方はいますか?

 

簡単な略歴を紹介しましょう。

1906年5月15日東京府牛込区に生まれます。
1906年というと明治39年です。皇紀では2566年らしいですね。
東京府牛込区というのは現在の東京都新宿区牛込にあたります。

 

東京府立第一中学校在学中に梁田貞に作曲を学び、1923年に東京音楽学校本科声楽科に入学します。
東京府立第一中学校は現在の東京都立日比谷高等学校にあたります。日比谷高校の偏差値は現在70-75程度、文武両道の進学校として有名です。
東京音楽学校は言わずと知れた東京藝術大学の昔の名前ですね。

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梁田貞

 

高校時代に師事した梁田貞先生は童謡、唱歌の巨匠として知られ、黎明期日本の有力教育者として名高く、多くの門弟を輩出した名伯楽です。

 

東京音楽学校入学後は声楽をHanka Schjelderup Petzold、Margarete Netke-Löweという二人のソプラノ歌手に師事し、作曲は信時潔の門に入ります。

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信時潔


信時潔はこの時代の最有力作曲家の一人で、最名門の呼び声高い門弟からは下総皖一、橋本國彦、髙田三郎、大中恩など錚々たる顔ぶれが輩出されています。
まあ言ってみれば非常に名門を渡り歩いたエリート中のエリートだったわけですね。
加えてこの節に補うなら、信時潔の作曲の師はGeorg Schumannですから、直系の細川もドイツ系の系譜に位置する作曲家ということができると思います。

 

その後順調に研鑽を積み同校研究科作曲部に入り、信時門で作曲の勉強に集中することになります。

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Franz Schmidt

1929年(昭和4年)には同校を卒業し、文部省(現文部科学省)在外研究員として、ウィーンに渡り本場の音楽を5年間に渡って学ぶ経験をします。
このときにドイツでついた師はFranz Schmidtであったということなので、あのマーラーシベリウスは伯父にあたるという系譜になります。
ともあれこのことで細川の作風はガッチリとしたドイツ様式のものになっていくことになります。

 

細川碧はこういった経歴もあって、作品はオーケストラ作品に軸心を置き、重厚なドイツ様式に支えられた作風をを確立、どっしりとした本流の音楽を志向していたようです。
ウィーン時代には交響詩「法の夕」という楽曲がウィーンフィルによって演奏され、日本へ中継される予定でしたが、この計画は残念ながら中止され、叶わぬものになってしまったようです。
この作品は現存していないようですが、師のシュミットは「日本のストラヴィンスキー!」と激賞したそうです。

うーん他の曲から感じられる作風からはぜんぜん違う気も…。
ともあれ一度聴いてみたい曲ではありますね。

 

1936年(昭和11年)帰国。母校東京音楽大学の教授として迎えられ、團伊玖磨芥川也寸志といった巨匠の師の一人として活躍。

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團伊玖磨

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芥川也寸志


自身の作品発表も活発に行い、重鎮の道を歩んでいたかに思われたが、この時代特有の忌まわしい風潮に翻弄されることになってしまいます。


戦争責任問題というのがそれで、この忌まわしき事態により橋本國彦、平井康三郎とともに東京音楽学校教授職を追われてしまいます。


このことは大きな心労になったのでしょうか、その後すぐ1950年(昭和25年)に44歳の若さで世を去っています。


と、細川碧の略歴を振り返ってみると、名門のエリート、本場への留学、作品の成功とこの時代の作曲家にあっては異例なくらいの活躍でしたが、なぜこの作曲家の名前を聞かなくなってしまったのでしょうか。


実はそれにも彼の「不運」が影を落とします。

 

細川の死後、彼が得意としたオーケストラを中心とした楽曲の楽譜は、弟子であった竹内昭一が預かったとのことですが、どういう経緯からかこれらの楽譜は紛失されてしまい、時代的なこともあって生前の出版や録音がなく、そもそも彼の音楽を論評することすらできない状況となってしまったのです。

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バレーと音楽


この竹内氏というお弟子さんについてはあまり詳しい資料がないのですが、古田徳郎との共著「バレーと音楽」という書籍が国会図書館に蔵書されているのが確認できました。
しかしこの行方不明の経緯というのは一体どういったことだったのでしょうか。非常に気になるところです。

 

では彼の作品には全く触れられないのでしょうか?
実はそんなことはないんです。

 

Wikipediaにも「録音が一つもない」と書いてあるのですが、辛くも一つだけ音源が残っていたことがわかりました。

 

1941年(昭和16年)に日本への外国人の観光誘致用の映像音楽として書かれた後、組曲として編纂され直した交響組曲「富士」という曲があります。
この楽曲を昭和35年山田一雄指揮するところの東京フィルハーモニー交響楽団が放送ように録音しており、これがNHKアーカイブスに残されていたことがわかりました。
現在この曲は細川の書いたオーケストラ曲で唯一音源のある楽曲ということになります。

早速その音楽を聴いてみようと思います。
ニコニコ動画のアカウントが必要です

www.nicovideo.jp

 

なるほど噂に聞く通り、非常に重厚な響きを中心とした音楽で、いかにもドイツ系本流の響きですね。
ストラヴィンスキーは当てはまらない気がしますが、後期ロマン的でリヒャルト・シュトラウスの軽量版と言った印象があります。
しかしその中に日本情緒が立ち上ってきて、ウィーン的な描写と微妙なバランスを構成、あまり聴いたことのない雰囲気になっているように感じます。
録音状況もオーケストラの技術の問題もありますが、非常に貴重な細川の作風を伝える音源に触れられるのは研究者冥利に尽きます。

 

しかし本当に他に細川の曲は聴けないのでしょうか。

Youtubeで「細川碧」「Midori Hosokawa」と検索しても何もヒットはしません。

 

 

しかし彼の曲は失われてしまっているのかと落胆するのは少し早いようです。


実は細川の作品で出版実績のあるものがいくつかあります。
一つはピアノ曲、残りはいくつかの歌曲です。


細川はそもそも信時門の作曲家ですから、歌曲は信時門の代名詞でもあり、もちろん細川も歌曲を残しています。
そして当時結成されていた日本作曲家協会の会員であったことから、その会員の作品発表として出版された楽譜集に彼の作品を見つけることができます。
しかしこれらの資料は発刊年代が非常に古く、すでに絶版であり入手も難しい古書となっています。
研究にはつらい状況ですが、これらの資料は国立国会図書館に所蔵されていることがわかりました。
さらに、これらの資料は国会図書館に赴かなくても国立国会図書館デジタルコレクション」に収載され、図書館送信限定ではあるもののネットを介して閲覧、複写ができるようになっています。

 

国立国会図書館デジタルコレクション

dl.ndl.go.jp

 

上のサイトに接続し「図書館送信資料」にチェックを入れて「細川碧」と検索してみましょう。

19曲あまりの歌曲と合唱曲、1曲のピアノ曲がこのサービスを通じて閲覧することができるようです。
これは素晴らしいことです。

早速これらをここで紹介したいのはやまやまなのですが、遠隔複写資料の利用規定に「許可なき公開を禁ずる」という規定があるので、遠隔入手したものをここに掲載するのは問題があります。
そこでこれらの資料の内、個人的に入手できるものを古書サービスで探し、実際にいくつか手に入れてみました。

 

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古き様式のフーゲより

これはピアノ曲「古き様式のフーゲ」と題された作品の冒頭です。D-Durに於けるドーリヤ調とサブタイトルに書かれており、旋法を題材にしたフーガであることがわかります。
主唱を弾いてみると、ちょっとよくわからないテーマになっていて、本当にこれでフーガになるのだろうかと心配になります。
日本作曲家協会刊「日本作曲年鑑1936」に収載されている作品で、作曲年はこの頃のものだろうと思います。

 

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悲歌より

こちらは「悲歌」と題された歌曲の冒頭です。
大野守衛の詩につけられた楽曲ですが、しばらく歌が出てこず、ひたすら重厚なピアノの響きで書かれています。
この曲の詩は短く、歌が登場する部分自体がわずかで、後はひたすら重苦しいピアノで埋め尽くされているというちょっと変わった構想の曲です。
しかしながら、ピアノパートはなるほどオーストラの響きを彷彿するもので、細川自身がオーケストラの響きを念頭に書いたことがうかがわれる内容と言えるのではないでしょうか。
こちらも日本作曲家協会刊「日本作曲年鑑昭和13年度」収載でこの頃作曲されたものだろうと考えられます。

 

ただこれらの楽曲はまだ録音がなされた痕跡はなく、演奏されることも無いか非常に稀であろうと思われます。
しかし楽譜があれば演奏することはできるのですから、もっと多くの演奏家がこれらの楽曲を知り、音にしてみることが望まれます。
特にこの「悲歌」を代表とした歌曲は、今の若い日本人の感性で再解釈されたらどうなるか、考えただけでも興味深いとは思いませんか。

 

今後名作同の公演私の個人的な活動でもこういった作品の再演、音源化を重要な役割の一つと考えて扱っていきたいと考えており、この細川碧の作品もそのリストの筆頭に入っています。
こういった活動を通じて、同じような思いの演奏家や制作者が繋がっていくことができたらどんなに良いことでしょうか。
そしてそれが今の文化の源流を培った先人への、今の世代としての敬意の表し方だと思えてなりません。

 

ところでネットで細川碧について検索してもまったく顔写真が出てきません。
おそらく殆ど残っていないのだろうと思いますが、さるやんごとなき方のご落胤と言われるそのお顔立ちが少し気になるかと思いますので、前述の日本作曲家協会の写真名簿に発見した氏のご尊顔をご紹介したいと思います。

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細川碧

うーんたしかにやんごとない雰囲気をお持ちですね。

 


さて最後にWikipedia記載の作品リストに、国会図書館所蔵の作品を加え、細川碧の作品一覧として掲げて本稿を閉じることにしたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。


細川碧作品一覧
Wikipedia掲載のものに国会図書館デジタルコレクション検索結果を付加

組曲「日本の物語」(1933)
ピアノ協奏曲 ハ長調(1933)
混声合唱管弦楽のための「法の夕」(1934)
交響楽詩「明治天皇御製組曲」(1937)
2人の独唱者と管弦楽のための交響楽詩「大和路」(1940)
交響楽詩「から松」(1940)
交響組曲「富士」(1943)
日本的バレエ組曲(1946)
歌劇「仏陀」(未完)
ピアノのための「古き樣式のフーゲ D Durに於けるドーリヤ調」
歌曲「カスタニエの」(川上嘉市 詞)
歌曲「悲歌」(大野守衛 詞)
歌曲「旅の日の山寺」(久保田宵二 詞)
歌曲「野の幸」(正木つや子 詞)
歌曲「湖國の春」(飯田龜代司 詞)
歌曲「山百合」(河井醉茗 詞)
歌曲「白ばら」(富原薫 詞)
歌曲「青丹よし」(小野、海犬養 詞)
歌曲「大和路」(佐藤一英 詞)
歌曲「牧場の春」(飯田龜代司 詞)
歌曲「春の野に」(良寛 詞)
歌曲「櫻」(風卷景次郎 詞)
歌曲「かもめ」(吉屋信子 詞)
歌曲「極熱の」(柳原白蓮 詞)
二部合唱「惜春」(風卷景次郎 詞)
二部合唱「象徴」(風卷景次郎 詞)
二部合唱「天・日」(明治天皇 詞)
二部合唱「夕月夜」(藤原秀能 詞)
日華提携の歌(小林愛雄 詞)