まだまだ夏真っ盛り、暑い日に体力も奪われがちですが皆様お元気ですか?
私はなんとが生きております。
さて音楽の世界で夏といえば「吹奏楽コンクール」を思い起こす方も少なくないのではないでしょうか。
吹奏楽の甲子園とも言われる文科系部活動の有名大会ですが、毎年発表される課題曲に一喜一憂した思い出は多くの人と共有できるものと思います。
「あの曲楽しかったなー」
「あの曲めっちゃきつかった」
OBOGがあつまればたちどころにこんな会話が始まるのではないでしょうか。
吹奏楽コンクールの課題曲というとマーチがその主役ではありますが、それは全体の半分くらいの話です。
残りはベテランから気鋭の若手が学生たちが演奏するという前提の難易度設定で、様々な曲を書いています。
(まあたしかに大した内容のないくだらない曲や、十年一日のつまらん曲が量産されてはいますが)
最近では大学、一般枠のみの課題曲として、難度の高い芸術作品と言えるものも必ず選ばれるようになってはいますが、
その枠組が設けられる前から、難易度設定なんてどこ吹く風。自分の音楽を書ききりましたとばかりに書かれた凄まじい難曲が存在します。
今日はそんな歴史的難曲を聴きながら振り返ってみようかと思います。
まずは歴史転換点にもなったと言える1974年の課題曲Bに選ばれたこの曲
高度な技術への指標/河辺公一
作曲者は東京音楽学校で橋本國彦らに学んだ作曲家で、また数々のバンドを歴任したジャズ・トロンボーン奏者でもあり、
この曲は芥川也寸志のすすめでポップスの語法をふんだんに使って書かれた公募作品だという。
たしかに様々なPopsが散りばめられ、その演奏には高い技術がいるのは聴いてみるとすぐわかる。
楽しい曲なので、未だに人気があるのも面白いのではないだろうか。
しかしまだまだ全然序の口なのである。
次は1979年課題曲Bのこの曲である。
プレリュード/浦田健次郎
いきなりTimpaniを手で叩く特殊奏法の長い独奏から始まるという斬新な曲で、曲は明らかに現代曲である。
作曲者は東京芸術大学でトロンボーンを専攻し、その後作曲科に入り直し、石桁眞禮生に師事したたという経歴を持っている。
作風は本人が語るとおり、音楽は作者のカタルシスであるというものが形になったもので、この曲のように音列的で難解なものも多い。
ついに課題曲に現代曲が現れてきた。当時を考えればこの曲は恐ろしく斬新だったのだろうと思う。
1982年課題曲Bにはその世界では結構有名なこの曲が登場する。
作曲者は押しも押されもせぬ合唱の大家である。
しかし御本人は合唱の作曲家ではなく、むしろ器楽の作曲家だと思っているとのことで、たしかにこの曲などその力がいかんなく示された素晴らしい名作だと言える。
東京藝術大学卒、石桁眞禮生、黛敏郎、浦田健次郎、丸田昭三に師事している。
浮遊するような不思議なメロディに、跳躍の多いソロワーク、そして激しい変拍子の躍動と確かに高い技術が必要な曲である。
なお一部のサイトでこの曲を「無調作品」としている記事を見かけたが、
この曲は難解ではあるものの、調性を手放しておらず指摘は誤りだと言っておきたいと思う。
1984年課題曲Aにはマイナーだが屈指の難曲が登場する。
変容―断章/池上敏
作曲者は東京芸術大学卒、池内友次郎、矢代秋雄、松村禎三、間宮芳生、永正之に師事した。
経歴が示すとおり、本格的な芸術音楽であり、難解なクラスター状のハーモニーに、細かいソロワークが絡み、ダウンベルトーンの強烈な応酬は高い集中力が求められる。
おそらく能などの伝統音楽に由来すると思われるような響きをまとっているが、
あまりの難易度に演奏した団体は少ないだろう。
1986年課題曲Cには大巨匠の作品が入る。
東京音楽学校で池内友次郎に師事した巨匠であり、特に合唱のためのコンポジションシリーズは生涯をかけたライフワークとなっている。
外山雄三、林光とともに山羊の会を結成したことでも知られるが、メンバーを見ても分かる通り日本の伝統音楽に取材することの多い顔ぶれである。
この曲も間宮先生の研究命題そのものの民謡性と世界性が盛り込まれており、日本の民謡と黒人霊歌的なフィーリングが合わさった独自の語法は、多くのティーンエージャーを苦しめただろう。
と、ここまで確かに凄まじい難易度のものが並んでいるが、
まだまだトップランクではないのだ。
1988年課題曲Aはついに恐れていたことが現実になる瞬間である。
深層の祭/三善晃
現代日本が誇る大巨匠の一人、三善晃が書いた超難曲である。
池内友次郎、平井康三郎に師事しながら、東京大学仏文科からパリ国立音楽院に進み、その後はディティユーに私淑し独特の作風を確立、難解な和声を背景に哲学的な命題を得意とし、あらゆるジャンルで傑作を残した。
この曲も大変な哲学性と内容を持っており、屈指の芸術作品だが、プロでも一筋縄ではいかない凄まじい難度と充実した表現力を求められるため、これを物にできた団体は殆どなかっただろう。
この曲は大問題だったのだろうか、ここから難曲の登場が減ってくる。
1991年の課題曲Aは久々に難曲の登場。とはいえ前の曲のように多くの団体が挑戦を見合わせるほどのものではなく、全国の腕自慢が取り上げ、悲喜こもごものドラマを生んだ。
斜影の遺跡/河出智希
作曲者は愛知県芸術大学出身で、この曲は学生時代に書かれたもの。
その後J-POPのコンポーザーに転身して、現在も活躍されている。
この曲はその響きのコントロールの独自性もさることながら、各ソロワーク、セクションワークが難しく、早い動き、タンギングの正確性、そして途中のEuphのソロ、ラストのTpのソロに泣かされた人も多いだろう。
かくいう筆者もこの曲は「現役時代」に出会っており、いたずらに演奏してみて玉砕した思い出がある。
そしてその時。
あの巨匠がまたやってくれた。
一般に「マーチ」なら驚愕難易度になりようがないと思うだろう。
当時の吹奏楽連盟もそう思っていたに違いない。
そしてあの人に委嘱を出してしまったのだ。
1992年課題曲C
大巨匠三善晃にかなえば、マーチも当然芸術である。哲学である。
交錯する行進はエネルギッシュで難解な謎の音楽へ昇華してしまった。
変拍子(実際にはそう聞こえるだけ)、テンポ変化、駆使される演奏技術!!
マーチを楽しみにしていた中級以下の学校は軒並み挑戦を見合わせ、腕自慢の学校ですら、この曲を演奏するリスクをとらない選択をしたことで、非常に演奏実績が少ない課題曲となったのだが、後年その高い芸術性が評価され、アマ、プロ問わず演奏会の楽曲に取り上げられるなど、当時より今のほうが演奏回数が多いかもしれない。
さすがにこの失敗は吹奏楽連盟にも強い記憶となって残る。
翌年はマーチだけの課題曲となり、難易度もぐっと下がったのだが、
そうなると腕自慢の学校からはクレームも出てくる。
そこで更に翌年オリジナル作品を解禁したところ、
またやらかしてしまったのだ。
1994年課題曲III
饗応夫人 太宰治作「饗応夫人」のための音楽/田村文生
作曲者は東京芸術大学卒、北村昭、近藤譲、松下功、Robert Saxtonに師事、終始変わらず難解な中にシニカルさやジョークを称える作風を確立しており、身体表現と音楽との関係など独特の視座をもっておられる。
この曲は表題にある通り、太宰治の名作にあてられた音楽であり、饗応夫人の発狂っぷりや相次ぐ来客の会話などがそのまま表現された怪作である。
また非常に長い曲であり、抜粋版として課題曲になっているがそれでも7分もかかってしまう。
連盟は流石にこれ以降、現代的な音楽への対策を実施していったようで、飛び抜けた難曲は誕生しづらくなったはずだった。
しかし早速翌年、朝日作曲賞受賞作品という不可抗力でまたもや難曲が来てしまった。このため、この年は課題曲を急遽5曲にするという異例の対応を見せている。
1996年課題曲V
交響的譚詩 〜吹奏楽のための/露木正登
作曲者は浦田健次郎に作曲を師事し、一貫してシリアスで本格的な語法による純音楽を書かれている。
私も実は学生時代に仕事をご一緒させていただいたことがあるが、とても真面目で寡黙な方だった。
打楽器の使い方が大胆であり、またこの曲の特徴ともなっているが、分厚い音響のバランスをとるのは難しく、変拍子部分のキレもかなりの技術を要する。
様々な困難があったが、やっと吹奏楽連盟にもノウハウが蓄積されたようで、
ここからは全く難曲というものが出てこなくなる。
しかし人間とは欲深いものであり、大学、一般の部を中心に難易度不足の声も上がることになる。
その結果、大学一般の部のみ選べる課題曲Vが2003年から設定されるが、
この枠はそもそも難曲ホイホイ枠なので、今回の記事では扱わないことにある。
かくして平和は訪れた。
はずだった…
あの人に委嘱をするまでは…。
その時は突然にやってくる。
2015年課題曲III
作曲者はやはり戦後日本の前衛シーンの大立者である。
東京藝術大学卒、池内友次郎、矢代秋雄、野田暉行に師事し一貫してヘテロフォニーという東洋的な音楽イディオムを用いた独自の音楽を展開し、国内外で高い評価を得る大巨匠である。
なんでもこの曲の依頼にあって「楽器をはじめて数ヶ月の子でもできる音域で簡単に」と注文をつけられたのだとか。
なるほど吹奏楽連盟はこうやって難曲が生まれないようにコントロールしていたことが明るみに出た。
しかし頼んだ先は大巨匠、その要件をクリアした上で自身の語法を貫ききってみせた。
久しぶりの難曲登場に沸き返った諸君も多かったのではないかと思う。
この経験は吹奏楽連盟にどのようなノウハウをもたらすことになったのか、今後の推移を追っていきたいと思う。
たっぷり見てきたとおり、吹奏楽コンクールは日本の吹奏楽のレベルと質の向上を促してきたのは明白である。
しかしその連盟自体はプロフェッショナルの集まりとは言い難く、むしろ教育畑の教員たちで構成されている。
それだけに「高い志」のある時代は良かったかもしれないが、それが失われた現在はなんというかただの官僚集団の事なかれ主義が蔓延する実に醜い組織となってしまったと感じてならない。
難曲を巧みに避けるこの歴史は、その事なかれ主義の一端を見るようでもあり、その中にあって西村先生の仕掛けた一発の爆弾は、まさに痛快そのものであった。
芸術が制限を受けるいわれなどないのである。
知ったかぶって勘違いしてはいけない。