名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

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新海誠は嫌いじゃないが「君の名は」は嫌いだ 〜新海誠の芸術論〜 【トイドラ的映画監督批評[前編 2/2]】

~この記事は前編1/2の続きです~

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目次

 

「君の名は」を観る

「君の名は」のあらすじは、Wikipediaによるとこうです。

東京の四ツ谷に暮らす男子高校生・立花瀧は、ある朝、目を覚ますと岐阜県飛騨地方の山奥にある糸守町に住む女子高生・宮水三葉になっており、逆に三葉は瀧になっていた。2人とも「奇妙な夢」だと思いながら、知らない誰かの一日を過ごす。

翌朝、無事に元の身体に戻った2人は入れ替わったことをほとんど忘れていたが、その後も週に2、3回の頻度でたびたび「入れ替わり」が起きたことと周囲の反応から、それがただの夢ではなく実在の誰かと入れ替わっていることに気づく。性別も暮らす環境もまったく異なる瀧と三葉の入れ替わりには困難もあったが、お互い不定期の入れ替わりを楽しみつつ次第に打ち解けていく。

しかし、その入れ替わりは突然途絶え、なんの音沙汰も無くなってしまった三葉を心配した瀧は、記憶をもとに描き起こした糸守の風景スケッチだけを頼りに飛騨へ向かう。瀧の様子を不審に思い、心配していた友人・藤井司とバイト先の先輩・奥寺ミキもそれに同行する。しかし、ようやく辿り着いた糸守町は、3年前に隕石(ティアマト彗星の破片)が直撃したことで消滅しており、三葉やその家族、友人も含め住民500人以上が死亡していたことが判明する。

瀧は、以前三葉と入れ替わっている時に口噛み酒を奉納した記憶を思い出し、山上にある宮水神社の御神体へと一人で向かう。そしてその御神体が実在していたことで「入れ替わり」が自分の妄想ではなく、2人の入れ替わりには3年の時間のズレがあったことを確信する。瀧はもう一度入れ替わりが起きることを願いながら、3年前に奉納された三葉の口噛み酒を飲む。

目覚めると隕石落下の日の朝の三葉の身体に入っていた瀧は、三葉の友人である勅使河原克彦名取早耶香の2人とともに、住民を避難させるために変電所を爆破し町一帯を停電させ、町内放送を電波ジャックして避難を呼びかけるという作戦を画策する。しかし、その計画の要である三葉の父(町長)・俊樹を説得しようとするが、妄言だと一蹴される。

避難計画は順調に進まず、三葉本人なら町長を説得できると思った瀧(身体は三葉)は、三葉(身体は瀧)に会うため御神体がある山を登る。その途中で、瀧は当時中学生だった3年前、見知らぬ女子高生に声を掛けられたことを思い出す。その女子は、瀧に会うためにはるばる東京へやって来た、三葉であった。三葉の自分に対する想いに初めて気づいた瀧は、涙を流しながらも、山を登り続ける。

山の頂上に辿り着いた瀧は、三葉の名前を叫びながら、御神体の外縁を走り回る。2人が生きている世界には3年の時間差があったため、時を超えて聞こえる声を頼りに互いの姿を探すも、声だけで姿は見えなかった。しかし黄昏(糸守ではカタワレ時と呼ばれている)が訪れると互いの姿が見え、入れ替わりが元に戻り、初めて2人は時を超えて、直接会話することができた。

カタワレ時の終盤、瀧は互いの名前を忘れないようにするため、三葉の手のひらに自分の名前を記す。しかし三葉が瀧の手のひらに文字を書き入れようとした瞬間、カタワレ時は終わってしまい、2人はそれぞれ元いた世界へ引き離されてしまう。

三葉は、瀧から住民を助ける計画を引き継ぎ下山する。勅使河原と計画通りに町を停電させ、早耶香が避難指示の放送を流すが、その電波ジャックも町役場にバレて阻止され、避難は進まない。改めて父親を説得するために町役場へ向かう三葉だったが、途中の坂で転倒してしまい、心が折れそうになってしまう。いつの間にか瀧の名前を忘れてしまっていた三葉は、名前を思い出すために、ふと手のひらを見る。だがそこに記されていたのは名前ではなく、瀧からの「想い」だった。その言葉に励まされた三葉は前を向いて、再び町役場へと走り出す。そしてその後、ティアマト彗星の破片が糸守町に落下する。

月日は流れ、瀧が「入れ替わり」という不思議な出来事に遭ってから5年後、偶然にも住民が避難訓練をしており、奇跡的に死者が一人も出なかった糸守町への隕石衝突から、8年後へと舞台は移る。瀧は就活の毎日、三葉たちは東京で暮らしていた。たまに町中でお互いの気配を感じることはあったが、もはや入れ替わりのことは忘れており、ただ「漠然と『誰か』を探している」という、切実な思いだけが残っていた。

さらに月日が流れたある春の日、たまたま並走する別々の電車の車窓からお互いを見つけた2人は、それぞれ次の駅で降り[注 5]、お互いの下車駅に向かって走り出す。ようやく住宅地の神社の階段で再会した三葉と瀧は、涙を流しながら互いの名前を尋ねた。

あの映画でも、ご多分に漏れず主人公は瀧くん、少年です。

そしていつも通りの理想的な女性枠、三葉ちゃんも出てきますね。

ちょっと今までと違うところと言えば、途中までは少年(瀧)が恋をしないということです。

まあこんな差は微々たるもんなので別に良いでしょう。

結局最後はいつもお馴染み、あの子のことが忘れられない状態に陥った瀧少年が彼女との出会いを切望し続けるという展開になります。

ただ、そこに至るまでの過程には結構工夫がありましたね。

身体が入れ替わるという斬新な(?)アイデアを取り入れたり、時間的トリックを使ってみたり、冒険活劇的なストーリー展開に重点を置いてみたりと、今までの作品のようにただ恋をするという感じではありません。

流石にそろそろ大筋丸パクリに危機感を持ち始めたんでしょうかね。

決して会うことはないままに深く親交を深めた二人は、お互いに想いを伝える機会もないままに別れを遂げてしまいます。

いやーいつも通りの展開だ。

安心の新海誠ですよ。

さあ、いよいよラストシーン、「秒速五センチメートル」を思わせる電車のシーンでこの映画は幕となります。

起こるはずのない奇跡を期待しながら、滝少年は衝動に駆られます……。

いやほんっっといつも通りの展開だ、飽き飽きしちゃうナァ!……

しかし何と、今回は

滝と三葉が出会えてしまうのです。

もう一度言いますが、

出会えてしまうのです。

 

 

さあ怒れ若人! 滾れオタク!

我らの新海誠は何処行った!!!!!!

 

陰キャを切り捨てるという勝算

「君の名は」は、最後以外の大まかなストーリー展開は他の新海誠作品と全く同じです。

つまり、

少年が異性に出会う→

ハッキリしないままお別れ→

引きずる→

幻影を追い続けて生きていく

という流れのうち最初の3つまでは踏襲しています。

が、最も大事な最後のステップだけがガラリと入れ替えられ、

「→奇跡的に出会い結ばれる」

という文句無しのハッピーエンドへと変貌しているのです。

僕の考えでは、この点こそが「君の名は」が他の新海誠作品と比べて異例の大ヒットとなった大きな理由の一つです。

それでは、「君の名は」がハッピーエンドで幕となった理由、その狙いについて考えていきましょう。

 

前記事で、僕は次のように述べました。

新海誠作品で最も重要なのは『共感』だ」

登場人物の心情や行動に深く共感し、エモエモ気分になれるのが新海誠作品の良さだと言ったわけですが、実は新海誠映画に「共感」できるのはクソ陰キャオタク童貞だけです。

自己肯定感と成功体験の塊みたいな体育会系陽キャマッチョが「秒速五センチメートル」を見たとしても、

「ずいぶんナヨい主人公だね。てか10年以上引きずるとか有り得んし前向けよww 絵は綺麗やけど」

としか思わないでしょう。

新海誠は、クソ陰キャオタク童貞の感性に寄り添うことに特化した作風を持っています。

(それはきっと彼自身がクソ陰キャオタク童貞だからでしょう)

それ故、新海作品はクソ陰キャオタク童貞には熱烈にウケるものの、その他の層からは多少冷淡な態度を取られていたと考えられます。

というのも、最近こそマシになってきたものの、もともとコミュ障とかオタクというのは社会的に見て好ましくないアンダーグラウンドな少数派と捉えられて忌避されていたからです。

だからこそクソ陰キャオタク童貞は、新海誠のようなクリエイターが差し伸べる手(=新海誠作品)に物凄い熱意で食いつくわけですね。

陰キャでコミュ障なオタクは、持ち前の社交性の低さから、陽キャのように友達100人作ったり、いつものメンツで渋谷に繰り出したり、スクールカーストの上位でのびのび暮らしたりすることが出来ません。

社会的には、「社会」という文字の意味そのまんまに陽キャの方が好ましいとされているので、ありふれた創作物の題材となるのは「仲間との友情」「努力と根性」「チームワーク」「勧善懲悪」などのように陽キャが得意とするフィールドのものばかりです。

そこにあって、新海誠作品ははっきりと陰キャ側に焦点を当て、触れば割れ吹けば飛ぶような極度に繊細でエモい映画を作り上げたのです。

 

さて、ここで本題ですが、以上のことは「君の名は」にも当てはまるでしょうか。

答えはNOです。

「男女の身体が入れ替わる」というオタクらしい設定を取り入れながら、話の内容には陽キャ向けのあれこれがたくさん練り込まれ、代わりに陰キャ的なナヨさは排除されています。

そもそも、今作の主人公である滝と三葉は全然陰キャっ気がありませんね。

いかにも紋切り型な普通の高校生って感じです。

ストーリー展開にも友人関係や冒険活劇がフォーカスされており、言ってみれば典型的なオタクではない人でも幅広く楽しめる作りになっています。

事実、「君の名は」を見て口コミを広め大ヒットせしめた主要な客層は、ごく普通の中高生だったはずです。

カップルで「君の名は」を見に行った人もいたとか。

前述の旧新海誠作品では考えられないことと思います。

 

然して、それのどこが悪いのか?

前の記事で僕は、

新海誠作品には主張がない」

と書きました。

新海誠作品は共感を呼ぶだけに終始していて、作品としての深みに欠くというのが僕の考えです。

とは言いながら、

新海誠作品そのものが絶対的に悪いとは思わない」

とも書きましたね。

その理由は、新海誠作品は娯楽作品としては優れているからです。

そして、ここにきてもう一つ付け加えておきたいのが、新海誠オタクや陰キャに焦点を当てたということです。

あくまでアンダーグラウンドで、日の目を浴びないサブカルな存在であったオタク。

そのサブカルチャーに焦点を当てたという意味で、新海誠作品はアニメ文化的にも価値を置くことができる存在です。

オタクだって青春してんだよ!

これが陰キャ青春なんだよ!

童貞で何が悪いんだ!

こういう意気込みというかメッセージみたいなものは、新海誠作品からジワ〜っと滲み出ているような気がしますね。

青春は仲間とか友情とかだけじゃないんだ、これが俺たちの正統な青春だったんだ、という主張は、作品全体から伝わってきます(個々の作品は薄いけど)。

 

ここまで書けば分かってくれたでしょう。

「君の名は」には今までの作品以上に中身がありません

あれで仮にいつも通りのバッドエンドだったとしたら、非常に賛否両論な問題作になったかも知れません。

大衆向けの顔をしつつ、オチでしっかり陰キャの美学を見せつけてくる訳ですから、むしろ今までの新海誠作品以上に主張の強い作品になっていたことでしょう。

しかし、大衆向けの顔をしつつ大衆向けに終わるのであれば、一体この作品は何がしたかったのでしょうか。

さあ、皆さんお分かりですよね。

そうです。

 

売れたかったのです。

 

お金が文化を喰っていく

事実、「君の名は」は売れる要素を確実に持った作品でした。

爽快でスピード感のある展開、イカしたバンド音楽、青春の甘い匂い、それを補って余りある美麗な作画、衝撃的な伏線回収、可愛い登場人物、クッソエモいハッピーエンド、などなど……。

挙げていけばキリがありませんが、商業的に見てこの作品は見事だと思います。

こりゃ売れない方がウソですね。

根拠があって言う訳ではありませんが、多分新海誠本人もヒット作を作るつもりでこの作品を作ったんだと思います。

だって、そうとでも考えないと今までの作風無視し過ぎですからね。

あんなにナヨっちくて、繊細で、小さくて儚い映画を作っていた監督が、「売れよう!」と思った瞬間にあんなに力強くスピード感があって大規模な映画を作ってしまう、しかもこれまでの自分の信念や方向性を捨て去ってまでそれをやってしまうのだとすれば、お金が文化を喰いものにしているとしか思えません。

 

クリエイターの仕事というのは、世の中にまだないものを作り出すことですね。

しかし、そうやって活動していたクリエイターが多少有名になって「売れよう!」と思った瞬間、やるべき事は変わってしまいます。

世の中にまだないものは、言ってみれば誰にも求められていないものです。

売れるためには、むしろ世の中に既にあるものに乗り移ってそれを上手く運転せねばなりません。

かくして、大衆をチクチク刺激するのが仕事だったはずのクリエイターは、いつしか大衆を褒めそやし忖度する側に回ってしまうのです。

そういう風に堕ちていったコンテンツは身の回りに溢れていますが、大衆が食いつくのはむしろ「このタイミング」です。

それまで新表現の追求に身をやつしていたクリエイターが、あるとき分かりやすくて俗なものを作り出してそれが売れてしまうと、まるでその作品こそが代表作とでもいうようにメディアに取り上げられ、流行っていきます。

つまり、

「表現を捨て売り上げに走って初めて世間に認められる」

という悲しい現象が多発するのです。

確かに、1回バーンと売れてから改めて

「この人こんな表現もしてたんだ」

と見直され、正しく認められていくという側面もありますが、それは決して多くないパターンです。

「君の名は」の音楽を手がけたRADWIMPSが、以前はかなりダークで暗い歌を歌っていたということを知らずに

「ラッドいいよね〜」

なんて言っている女子高生が一体何千人発生したことでしょうか。

 

これが、資本主義が文化の敵である所以、そして「君の名は」が大ヒットした理由だと僕は考えているのです。

 

結局「君の名は」の何が悪いの?

さあ、クッソ長い記事でしたね。

いよいよ総括に入ろうと思います。

結局のところ「君の名は」の何が悪いのか?

それは、「君の名は」が文化破壊者だということに尽きます。

文化というものは、とても広いフィールドを持つものです。

あらゆる価値観、あらゆる感覚、あらゆる手法、そういったものが無限とも思える範囲で広がりを持っている。

こういう状態こそが文化である、と僕は強く主張したいのです。

そういう意味で、新海誠の過去作は一応ちゃんと文化だったと思います。

しかし、その文化が資本主義を前にすると途端に萎縮し、逆の事をやり始めてしまうのです。

つまり、広がりをなくして「理想的消費者」という単一の人間像を求めるようになります。

文化が文化でなくなった瞬間、それが「君の名は」だとここで主張しておきます。

 

 

炎上対策(切実)と次回予告

さあ、こんだけ新海誠バッシバシにバッシングしといてタダで済む気がしませんね(震え声)

一応フォローしとくと、以上のクソ長い文は全て僕個人の考えであって、名作同は関係ありません

てかこれ会員にも反感買いそうだな………。

ただ、これも僕が伝えたいことの一つなのですが、何かを批判することは褒めるのと同じくらい重要なことだと思います。

褒められれば嬉しいのと同じように、批判されても喜べるのが理想だと思うんですよね。

あるいは、見当違いなバッシングを受けると「何をッ?!?」と思うのと同じように、見当違いな褒め言葉にも怒れるといいと思います。

そうでないと、ものを作る側の人間として広がっていきませんからね。

僕は炎上覚悟でここに「本気の批判」の例を置いときます(まあ炎上イヤだけど)。

なお、反論自論は絶賛受付中です。

「俺はこう思う!」

とか、

「お前の考えはここが間違ってる!」

という鋭いご意見があればコメント欄にでもぶち込んでください。

自分の価値観が変わるときほど面白く、不安で楽しいことはありませんからね。

 

最後に、「それじゃあどんな映画が良い映画なんだ?」と思う方のために、一人の映画監督の名前をここに出しておきたいと思います。

その名も湯浅政明監督。

次回では、この湯浅政明作品を、新海誠作品と対比させつつ批評していこうと思います。

 

次回→湯浅×新海の比較文化論 〜湯浅政明の芸術論〜 【トイドラ的映画監督批評 後編1/2】 - 名大作曲同好会

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