名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

日本のエクストリームミュージック②ノイズカレー

人間の三大欲求は俗に

・食欲

・睡眠欲

・性欲

と言われている。音楽は当然これらを満たすことはできない。

 

そのはずだった――。

youtu.be

不定期にエクストリームミュージックを紹介する謎記事、第二弾はノイズカレーです。

ライブするたびにツイッターでバズっているので、知っている人も多いかもしれません。

 

パフォーマンスの流れ

彼のパフォーマンスを先ほど添付した動画で確認していただいたかと思いますが、ここで今一度その流れを復習しましょう

①カレー調理中に音楽を流す

②調理音をアンプリファイして流す

③ノイズと化す

④できあがったカレーをみんなで食べる(おいしい)

です。

作ったカレーを食べるので、ライブハウスはワンドリンク制にしなくてもよさそうですね(しらんけど)。

 

「カレーは飲み物」はもう古い!! 「カレーは音楽」

ごらんのとおり、男がステージ上で調理をしていますね。これはカレーです。

彼はステージで調理を行うことによって、私たちに「カレーは音楽ですか?」という問を投げかけているのです。これを前衛と言わずして何を前衛というのでしょう。

 

カレーに必要なのはスパイスではなくノイズだった

そして彼は調理中のカレーに奇声と爆音のノイズを聴かせるのです。もうおわかりですね? カレーを美味しくする上で必要なのはスパイスではなくノイズなのです。カレーにノイズを聴かせると美味しくなる、宇宙138億年の歴史の中で最も驚愕すべき事実がここに明らかとなってしまいました。

 

どうしてこうなったのか?

しかしここで一旦冷静になって考えると、ノイズを爆音で鳴らしながらカレーを作るという奇行がポンと現れたとは考えにくいです。何かしらステップを踏んで徐々にこの形態に移行したと考えるのが自然です。そしてそれを裏付けるデータを私は入手しました。

以下の資料をご覧ください。

www.j-cast.com

資料から一部抜粋すると、

 

・元々の活動

ノイズカレー:ロックやパンク、オルタナティブ系のバンドをやってました。今は活動停止中です。パートはドラムです。知り合いと即興バンドをしたり、また海外の路上で空き瓶を叩いて生活してた事があったので、それをライブで、ソロでやったりしていました。

 

・きっかけ

ノイズカレー:最初はライブハウスでフードを作っていました。ですが、気が付いたらステージ上でそれをやっていて、気が付いたら定期的に呼ばれ...やっていく中で進化していきました。(このスタイルに行き着いた)理由はありません。

(気が付いたらステージ上で??????????????????)

ちなみにカレーの作り方は我流だそうです。

 

最近の動向

最近はなかなか観客ありでの公演も難しいらしく、オンライン開催のライブも行っているようです。

 カレーを味わうのにもはや舌は必要ない、耳で味わえということでしょうか。今後の動向に目が離せませんね。

私達のコンサートのメッセージ

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バトンタッチ

いよいよその日が近づいてきた。
 達成率100%以上となったクラウドファウンディングとういう大きな支援を頂いて、私達のコンサートが始まろうとしている。

 前回私のブログの担当週ではそのコンサートからストラヴィンスキーの「春の祭典」、そして伊福部昭の「ピアノ組曲」について、祭儀性と土俗性という2点から少し考えてみた。

 

nu-composers.hateblo.jp

 


 そして私の個人プロジェクトを元とする「忘れられた音楽」で取り上げた淸一二については、特集記事を以前に書かせていただいている。

 

nu-composers.hateblo.jp

 

 また各会員による新曲の説明については以下のように特集を組んでいる。

 

nu-composers.hateblo.jp

 

 

nu-composers.hateblo.jp

 

 

nu-composers.hateblo.jp

 

 

nu-composers.hateblo.jp

 

 となれば残りの作品に対する解説をしないとどうにも片手落ち感が否めないのも事実だ。たしかに一切の解説なく、自らの主観と出会いの瞬間によって音楽聴取の恍惚に触れるのも良いことだろう。
 しかし私達はプログラムというものも芸術表現の一環であると考えていて、その中で会員による侃々諤々の議論と分析をもって選び出された楽曲たちと、その配置には大きな意味が隠されているのである。

 

 少し苦言を言うなら、昨今クラシックのプログラムと言うと十年一日の内容で、さらにプログラム自体への洞察や解釈もされていないものが多いように思う。
 曲というものは生まれた背景がかならずあるものだ。そしてその曲には少なからず作曲家の身を削る思いそのものが注ぎ込まれている。技術だけに長けたものは、何曲であってもその譜ヅラをさらっと演奏してみせることも可能だろうし、オケなどでは観客の反応が良い曲ばかりを並び立てるのはビジネス効率が良いのだろう。
 しかしそんないい加減な姿勢で生命の雫と言っても良い作品に臨んでいてよいのだろうか。
 私は全くそうは思わない。だからこそプログラムにこだわり、さらに演奏者にも深い解釈を求めていたいのである。自分が何らかの形で制作に関わる演奏会やサロンプログラムでも、これまでこの姿勢は一貫して貫いてきたつもりである。
 今回ももちろんその姿勢は変わらず、また多くの会員にそのことを理解してもらえたことは、実に大きな実りであった。

さて話をもとに戻して残る曲を見てみたいと思う。

・A Summer Journal/Robert Muczynski
・Veiled Autumn/Joseph Schwantner
・春の風景/長生淳
・日本の四季/中田喜直

上記の4つが未だ未解説になっている楽曲である。抜粋ではあるがこれらから作品を演奏させていただく。


A Summer Journal/Robert Muczynski

 ロバート・ムチンスキーはポーランドアメリカ人で1929年にシカゴに生まれている。その後ピアノと作曲に熱中し、どちらの道に進むか悩んでいたようであるが、ドゥポール大学で師に作曲の道に進むように助言され、そのことで人生を決定したのだという。このことからも分かる通り彼自身がかなり優秀なピアニストでもあったわけで、彼の作品群にピアノ曲が多いのもうなずけるのである。
 今回取り上げる「A Summer Journal」という作品は彼の前中期の頃の作品で、1964年に書かれ、作品番号は19番となっている。本来は7曲からなる組曲で夏の風景を描写した小品群からなっている。今回はこの中から、Morning Promenade、Park Scene、Midday、Night Rainの4つを取り上げる。

 ムチンスキーの作風というのは当時のアメリカの作曲家の一つの典型例にあたるものということが出来るだろう。つまりJazzのイディオムを取り込んでいる点である。
 またアメリカのクラシック音楽というのはそもそも歴史が短く、その定義を作り出したのはアーロン・コープランドであり、民衆の音楽として、市民の音楽として存在しようとするという特徴を示している。
 ムチンスキーの音楽はコープランド的なメロディとJazz的な掛け合いを特徴とするとよく論評されるが、実際どうなのかMorning Promenadeから検証してみようと思う。

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終止和音

 これはMorning Promenadeの終止和音である。
 見ての通り左手にはE♭の和音、右手にはE♭mの和音という長短混合のハーモニーで曲を閉じている。これはバークリーセオリーというJazzの理論で言えばテンションハーモニーという部類のもになり、この和音はE♭(#9)と書かれるハーモニーと言える。典型的にJazzの匂いのする和音として頻繁に用いられているものだが、ムチンスキーのそれとバークリーセオリーのそれには大きな隔たりがあるのだ。

 というのもバークリーセオリーで見たときにはこの和音は(Bluesの一種を除いて)機能はドミナント、つまり属和音でないといけないことになっている。
 ムチンスキーの場合、上記の例を見ても明らかのように終止和音としてこの和音を選んでいることから、これはトニック、つまり主和音として捉えていることがわかる。つまりクラシックの和声を拡張するときにラヴェル的に非和声音を多く含む形に変容させる手法の一つとして、長短混合和音を選んでいることが伺えるのである。

 

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冒頭の進行

 これはMorning Promenadeの冒頭部分の和音進行を抜き出したものである。専門的ではあるが、これらの和音は実に機能和声を彼自身の方法や、様々なイディオムによって拡張しているものだとわかる。

 はじめの和音も長短混合和音であり、ムチンスキーはこの和音の和声主体は下方に置かれた長和音が主導すると考えているようなのでこれはIということになる。続いて出くる和音は完全四度の堆積からなる和音であり、ダリウス・ミヨーのような語彙を感じさせる。四度堆積和音はその軸をどの構成音にでも取れるのだが、ここではDisに置かれていると考えられる。そうするとこの和音は↑Vという半ズレ和音の亜種であると見ることが可能になる。反復進行が行われ2回目の↑VはVIへ進行するが、VIの和音には上部に非和声音の拡張が行われていて、コードで書くならEm7(9)となる。次のC#m7(b9)は少々難解だが、おそらくは「↑↑vi/V9」と捉えられ、これを反復し2回目に登場するときには同じ音を「↑vii/V9」と読み替えている。続いてF7(13)になるがこれは次のF7(#9)とセットで次のBbm7(9)へのドミナント、つまり「○-iii/V9」と捉えられる。
 このようにズレと非和声音の拡張が彼の持ち味であり、フランスから輸入された、つまりラヴェル、ミヨーの影響下で生じたハーモニー構成が主体になっていると言えるのではないだろうか。

 この楽章にすると朝の慌ただしさと、その後のホッと一息と言った情景に対して、その気だるさの表現として長短混合和音が有効に用いられていると言えるだろう。また気だるさというのは気温や湿度にも関係してくる。
 彼の持つ和音特性が、そういった気象特性を意識して用いられることで、この組曲を通じて極めて暑く気だるい夏の表現の主体として働いていると読むことが出来るだろう。全楽章に通じてこの特性は現れてくるので、風景表現の音楽として、目を閉じて夏の情景を想像しながら聴くと極めて印象的な時間になるだろう。

 

 

Veiled Autumn/Joseph Schwantner

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Joseph Schwantner

 ジョセフ・シュワントナーは1943年にムチンスキーと同じシカゴに生まれた。幼い頃からギターに親しみ、フォーク、ジャズに親しんだことが、彼の作品形成の根源にあるのは間違いなさそうである。その後はスクールバンドでテューバを演奏し、吹奏楽の名門ノースウェスタン大学修士号と博士号を取得したことは、明らかに彼の作品群に吹奏楽作品が多いことと無関係ではないだろう。
 彼の作風はよくフランス的でドビュッシーメシアンの影響があり、またミニマリズムやアフロミュージックの影響、そしてバルトークの影響があると論じられている。実際にそれは響きが美しく、折衷的な語法で変化に富む色彩を持っていることからそのように言われているのだろうが、専門的に見るとすこし様相は違うように思う。
 しかしシュワントナーの音楽はモードセオリーに力点が置かれており、その説明にはピッチクラスという分析方法の心得がないと難しいので、ここではそこまでは踏み込まないことにしようと思う。
 簡単に言うと、旋法を主体としていて、これを数理構造的に変化させることで音楽に変化を起こし、複合的に移旋されたものを積み上げて行われるマトリックスという手法を用いてレイヤーされることで、時層コントロールをも行おうとしている。
 たしかにそういった意味ではメシアンの影響下にあることは否定できない、しかしそのモードの中心はメシアン的なものではなく、むしろ幼いころから親しんだJazz的なものであり、特にリディア旋法を中心に編み上げられる響きを特徴としていると言って良い。

 今回演奏するVeiled Autumnは彼の非常に珍しいピアノ独奏曲である。実際に彼はこれまでピアノ独奏曲は2曲しか発表しておらず、この曲は子供向けの曲集の中に収録されている。

 はじめから彼の語彙とわかる旋法性を打ち出し、これを小規模に変化させながら響きを変えてゆくように変化していく。変奏を主体としているとも言えるが、大雑把に見ると楽曲の形式は古典的なものをベースにしており、ロンド形式の援用であろうと思われる。ロンド形式はその性質上、主題と主題の間に副主題を挿入して進む形式であるから、彼の作曲方法であるモードセオリーによる変化の音楽と相性が良い。

 

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冒頭

 これはこの曲の冒頭部分であるが、非常に緩やかでありながら金属質の光沢を持つ美しい響きが立ち上がってくる。第一小節目の構造を見てみると、次のような特徴があるのがわかる。

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第1小節


 この音形には3度6度5度という要素、加えて2度と7度という要素が見られるのだが、音楽的には3=6、2=7、4=5なので、ある規則を持って構成されていることがわかるだろう。このうち2=7についてはそれほど意味をなしているとは言えないものの、3度と5度については次の小節ではっきりと意味づけがなされる。

 

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第2小節

 この金属質で美しい音列はやはりはじめの小節同様の音程的特徴が見られ、更にはじめの3音と終わり3音はP5移行形となっている。これら数的な秩序を持たされた音を平均化して並べ替えてみると以下のようなリディア旋法を主体と見ることが出来るようになる。リディアであると断言するのは実は少々難しい検証が必要だが、調的中心から判断できるものである。

 

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リディア旋法に還元できる

 彼の生まれたシカゴは四季があって、秋はその中でも非常に短い季節であるそうだ。「ベールに包まれた秋」という詩的なタイトルから、どんな秋を想像するのだろうか。或いはそれは想像の中の秋なのかも知れない。

 

 さてここまで外国人による作品二つについて見てきたが、実は一見日本と無関係と思われるこれらの曲には、日本と非常に大きなつながりが隠されている。シュワントナーについては、日本の吹奏楽界でもよく演奏されるおなじみの作曲家であるということと、旋法性を用いるスタイルから名作同の会員の作品と精神的に親しい関係があるといえる。また「秋」をテーマに出来る地域の出身であることは大きなつながりと言えるだろう。

 ムチンスキーに関してはどうだろう。ジャズの影響、近代フランス的な和声構造、コープランドの築いたアメリカ音楽の中にある点など、あまり日本との関係は感じられないかも知れない。しかし彼の作曲の師を知れば、通人ならなるほどと思うだろう。彼の作曲の師は「アレクサンドル・チェレプニン」である。

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Alexander Tcherepnin

 チェレプニンといえば日本の作曲家の作品からユニークなものを取り上げ、自身で演奏、出版、録音を行い世界に紹介した日本クラシック発展期の大恩人である。
そして今回のプログラムにある伊福部昭は実はこのチェレプニンコレクションに選ばれた作曲家の一人なのである。こうやって実は緻密に構成されたプログラム。残る日本人作品の曲に移っていきたい。

 

 

春の風景/長生淳

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長生淳

 長生淳は1964年に茨城県に生まれた。幼い頃から音楽に親しみ、東京藝術大学で永冨正之、野田暉行に師事している。吹奏楽やアンサンブル関係の作品も多く、特に須川展也率いるトルヴェール・クアルテットとのコンビは彼の出世の一つとなったのは間違いない。
 極めて色彩的で、Popな感覚に溢れた作品はこういったSaxとの交わりの中で培われたのだろう。そしてオーケストレーションの達人としても知られ、ルイ・アンドリーセンが審査員であった2000年には武満音楽賞を見事受賞している。
今回はこの組曲である「春の風景」より第1曲目の「春の夜の夢」を演奏する。

 

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冒頭部分

 これはこの曲の冒頭の楽譜である。左手で演奏されるテーマが実はこの曲の主要動機となっていて、これを定旋律のようにして様々な脚色が施される、パッサカリアにも似た構成をとっている。

 

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中間部分

 このフレーズは曲の途中で現れる下降型のフレーズである。これも何度か繰り返される音形であるが、上記二つよりなんとなく想像するのがメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」である。

 

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メンデルスゾーンの冒頭

 これはメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」の冒頭のハーモニーだが、この曲の主要動機と雰囲気が幾分似ているようにも感じる。

 

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メンデルゾーン下降形旋律

 また「夏の夜の夢」にも重要なテーマとして下降形の旋律線が出現するのも面白い。メンデルゾーンの「夏の夜の夢」はオーケストラ曲として知られているが、実はもとはピアノの連弾曲であった。フェリックスが姉と演奏するためにシェークスピアの作品を題材に17歳の時に書いた作品である。
 そしてこのシェークスピアの作品には「妖精パック」が登場するのだが、このパックをテーマにしたドビュッシー前奏曲がある。

 

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ドビュッシーのパックの踊り

 それがこの「パックの踊り」であるが、このメインメロディに感じられる日本的なムードは五音音階を中心システムとして採用していることから起こってくる。
これは長生の曲の主要動機後半部分の形と部分的に似ていなくもない。

 これらはおそらく偶然の一致であろう。

 しかしそういった関連付けをして読んでいくのは音楽の文化的な楽しみの一つではないだろうか。実際にこの「春の夜の夢」もジャズのイディオムをまといながら官能的なクライマックス向かって突っ走ってゆく。そしてその情熱的な春の恋は、夢うつつの中に消えてゆくのである。


さて最後の一曲だ。

 

 

日本の四季/中田喜直

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中田喜直

 中田喜直は1923年に東京の渋谷に生を受けた。多くの歌曲や童謡を残しており、その多くは多くの人に愛され歌い継がれている。父は作曲家の中田章、兄に同じく作曲家の中田一次がおり、兄に作曲の手ほどきを受け、今の藝大の前身である東京音楽学校を卒業している。戦中の混乱期であり、卒業は特別の繰り上げで、そのまま戦地に赴き特攻隊員として終戦を迎えたという。
 意外なことに若いときにはジャズピアニスト志望であったという。今回はそんな中田が書いた四手連弾の組曲であるこの組曲から最後の一曲「冬がきて雪が降りはじめ、氷の世界に、やがて春の日差しが」をお送りする。
 美しいタイトルであり、また「春夏秋冬」のどれかに四季を固定するのではなく、冬から春へという動的に移り変わる切れ目なき四季を描いているのが特徴だ。タイトル通りの情景を実に丁寧に描写した本当に心から美しいと思える曲だが、この曲が四季のどこか一点をとって描かなかったのは理由があるのだろう。

それは万物流転、円環思想の現れと言っていい。

 そう、実は我々のコンサートこの「円環」の思想こそがテーマになっているのである。この中田の名作でそのことを打ち出して、後半の会員による新曲のステージに繋がるのだが、新曲はどれもどこか一つの四季に拘泥したものはない。日本人の四季観というものは、その死生観とも符合し、まさに流転と次代へのバトンタッチなのである。

 この死と円環という思想を最も色濃くテーマにしていたのは三善晃であった。しかし今回その作品の姿はない。我々はどうしてそこにその姿を置かなかったのか。それは秘密にしておこう。


言葉が多ければ味わいを損なうものである。
たまには黙ってみようではないか。

 

 はてなブログに投稿しました #はてなブログ

 ということでプログラム順に見てみると、

 「春の祭典」では処女が神に捧げられる原始の姿、そして「春の夜の夢」では官能的で儚い出会いが、「A Summer Journal」ではある母の日常の中の夏を。そして夏の訪れは生命の根源を揺り動かす大地の胎動を伝え、秋の匂いがベールに包まれ訪れ始めると、月の光に満ちた秋の夜長に舞い踊る。やがて雪が降り出し、踊るような雪を眺めていると再び春の日差しが現れる。一人の人間の成長と四季の流転を並行させ、円環の思想のもとに次代へのバトンを繋ぐ。


我々のピアノコンサートの主題はこんなところにあるのである。

 

 せっかくのオンライン配信なので、かしこまらずお酒を片手にゆっくりと楽しんで頂けたら幸いである。そして表現の、あるいはプログラムの在り方に、一石を投じることが出来たなら、私はこれ以上なく嬉しい。

自作曲あけすけ解説シリーズ②「夜の窓辺にて」~楽曲編その1~

~前編~


気づけば。もう6月も中旬に差し掛かろうとしています。
来る6/26、名作同は1年ぶりにコンサートを挙行するわけでして、今はその準備に追われております。
そうわけで、ブログの更新が1週間遅れたことはご勘弁を……と弁解させてもらったところで、今回もあけすけに語っていきましょう。
今回は、それぞれの曲を作る際に考えていたことを話します。

 

 

【もくじ】

 

はじめに

この曲集には、28曲の曲が収められています。
曲のタイトルは、初めの方は「夜、月、鏡、水」などといったモチーフを含むものになっており、最後の方に行くにつれてだんだんとアイデンティティの確立を匂わせるものになっていきます。

ピアノ小品集「夜の窓辺にて」 /冨田悠暉 - YouTube

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曲のタイトル

各曲については、特に語ることがないものもあれば、かなり思い入れのある曲もあります。

今回は、思い入れのあるものを中心に語っていきます。

 

水底に沈んだ星座

この曲のタイトルには、「水の底」に星座という「空」のものが沈んでいるという視点の転倒が含まれています。
視点の転倒は、この曲集のテーマでしたね。
水の底から夜の空を見上げている、というイメージで、ゆったりとした3拍子の湿っぽい曲に仕上げました。

ちなみに、この曲は曲集の中では2番目ですが、完成させたのはだいぶ後の方です*1


交わらない2声の献歌

この曲を作る直前、僕の部活の後輩が恋人に振られてしまいました。

この曲は、その一件にインスピレーションを得て作ったものです。

曲全体が2声の対位法で作られていると同時に、この2声は2星、つまり織姫と彦星の暗喩でもあり、この2つの旋律線が曲の最後まで交差しないことで、通じることのなかった2人の心を表しています。

ちなみに、献歌も献花とかけており、死んだ恋に対しての僕なりに花を供えたつもりです。

 

あの子と話した

この曲を作っているとき、僕はめっちゃ片思いをしていました(他人の失恋を観察してる場合じゃねえ)。

まあそういうわけでこの曲ができたのですが(雑)、この曲は最後の部分に少し工夫があります。

前半は甘く溶けるような曲調なのが、最後の部分でいきなり怪しく不安定な調子に変わり、そのまま終わっていきます。

ここには、僕なりの価値観の転倒が含まれています。

つまり、恋愛って必ずしも甘くとろける幸せなものではないですよね?

恋焦がれることは、ある種の狂気にも似ていますから。

 

授業中のワルツ

この曲にも、僕なりに価値観の転倒というメッセージが含まれています。

みなさんが小学生とか中学生の頃、授業は真面目に受けていましたか?

もしかしたら、授業中に窓の外なんか眺めて、好き勝手な思索の世界に没入しちゃってた人もいるんじゃないでしょうか。

あるいは、じっと席に座っていられなくていきなり立ち上がってしまう生徒とか。

この曲の主人公は、そんなどこか不真面目(?)な、それでいて自分に正直な1人の生徒です。

彼らの頭の中には、授業で教えているのとはまた別の広い世界があって、もしかしたら彼らはそこでワルツでも踊っているのかも。

たくさんの半音進行を含むこの気だるげな曲は、静かな破戒の雰囲気を漂わせながら淡々と進んでいきます。

 

なに いってるのか わからない

この曲は、タイトルに大きな意味が込められています。

実はこの曲にはある1つの暗号が隠されているのですが、多くの人はそれに気づくことはないでしょう。

「何言ってるのか分からない」というのは、そんなみなさんの気持ちの代弁というわけですね。

訳の分からないホラばかり吹いている子供や、妄言を吐き続ける狂人など、皆さんも1度は相対したことがあるでしょう。

そういう人々はどうしようもない奴だと思われがちですが、実は彼らも彼らなりに何か伝えようとしていることがあって、それを僕たちが分かっていないだけなのかも。

(あとは遊び心で一度自分の曲に暗号を仕込んでみたかった……)

 

ちなみに、この曲に隠された暗号を解くカギは、右手の奏するメロディ*2

あけすけ解説とは言いつつ、最後までネタバレするのはつまらないので、ぜひこの曲に隠されたメッセージを解読してみてください。

 

夢に出てくる子

「夢」というのも、現実の陰の部分ということで、ある意味この曲集のテーマと言えるかもしれません。

みなさん、夢の中に出てきた人に惹かれてしまった経験はありませんか?

その人が現実にいるのかいないのかは別として、夢から覚めてしばらくは猛烈な切なさに襲われちゃったりして。

 

さて、この曲は最後の部分に1つ工夫がしてあります。

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曲の終わりの和音ですが、これを弾こうと思うと必ず右手と左手が触れあってしまうように書いてあります。

一瞬触れ合った両手ですが、右手にだけ次の音が書いてあるので、それを弾くために触れ合った両手はすぐに離れ離れ。

まさに夢の中の2人ですね。

手をつかんだと思ったら、すぐに目が覚めてしまって決して結ばれることはない。

 

寝ているわたしと空が見える

この曲は、実はあるアニメに霊感を得て作曲しました。

「アドベンチャー・タイム」というアメリカのアニメのシーズン6第25話、「幽体飛行」という回です。

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幽体飛行

このアニメは、子供向けのタッチで描かれていながら、かなり重い世界観で哲学的・宗教的なメッセージ性を含み、ナンセンスで不可解なことで定評がある問題作。

僕が知る限りのアニメの中では一番好きです。

 

「幽体飛行」という回では、主人公の少年フィンが幽体離脱をし、空に昇りながら、この広い世界や宇宙について知っていきます。

幽体離脱というのは、主観である自分が客体化されるということです。

この曲集のテーマである「アイデンティティの確立」とかかわりの深い、重要な示唆を含んでいます。

 

あつくって ねむれない

この曲ですが、実は僕がひそかに一番気に入っている曲です。

真夏の暑い日、熱帯夜で全然寝付けないことってありませんでしたか?

(え、冷房ついてたけど?って人は金持ちなので黙ってて下さい(怒))

熱帯夜の暑さにやられて眠れず、寝返りを何度も打ち、それでも眠れずに夜が更けていく、というのがこの曲のイメージです。

 

さて、勘のいい人ならお気づきかもですが、「夜になっても起きている」というのは、前回の記事で示したライナーノーツの詩の第3連

みんな 夜に目をとざして ねむる

ここと対照関係にあるんですね。

つまり、この曲は主人公のアイデンティティが覚醒していくきっかけ、境目となる曲です。

眠れないということは、そのぶん物思いや思索もはかどることでしょうし。

 

この曲以降、意味深なタイトルの曲が増え、怪しい響きの曲も多くなっていきます。

 

 

さて、キリのいいところまで行ったので、今回はこの辺で。

次回では残りの数曲について解説していきましょう。

*1:この曲集は、一旦28曲を完成させてから曲順を再構成してあります。

したがって、曲順は作曲順ではありません。

あるていど演奏難易度順になるようにしつつ、多少のストーリー性も生まれるように並べ替えてあります。

*2:もっと言えば、メロディのリズムが重要。

【音楽理論】進捗発表①(基本的な定義:音空間~スケール)

こんにちは!なんすいです。

最近、研究っていうほどではないけれど和声理論で考えていることがあって(近々ちゃんとした形で出すつもりです)今回はその導入部分を記事にします。

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ちょっとだけ数学っぽい話になります

 

離散的音空間

導入部分でやっているのは「環境整備」です。話をより快適に進めていくために、色々基本的な部分を定義していきます。
特に、私が今考えたいのは和声理論なので、それに特化した環境を整備します。

以下、今執筆中のpdfから適宜引用しつつ解説していきます。

 

最初に「音全体」を定義しようと思います。
繰り返しになりますが、今は和声理論を考えたいので、音の要素のうち特に「高さ」だけ見れたらいいですね。したがって「音全体」というのは実際には「音の高さ全体」ということになります。
また、詳しい説明は省きますが、音の高さはcentという単位を利用して実数値で表すことが出来るので、音全体は実数全体ℝとみなすことが出来ます。

 

さて、これで音の空間をℝの中で扱えることが分かりましたが、このまま一般的な和声理論を扱うのは難しいです。

なぜかというと、ℝは連続的な空間ですが、一方で、多くの理論は「ドレミファソラシ…」のような「とびとびの音」の空間の中で組み立てられているからです。

そこで、「離散的な音全体の空間」を考えましょう。実は、これは整数全体ℤと見なせます。

 

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ここで「整列的」と言っているのは、"任意の元xに対して「次の元」x'が存在する"という性質を強調したかったからです。ℤがこの性質を持つことは、ℕ(自然数)が通常の≤で整列順序集合になることから分かります。

 

さらに定義1.1では、音程の定義もしています。2つの音の差の絶対値としました。

これで、「同度が1度」っていうマジでやめてほしい度数表記の慣習から逃れることが出来ました。嬉しいです。

 

 

n音律空間

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定義1.3では、ある音程n(1オクターブ)があって、その音程関係にある音同士を同じ音とみなす空間を定めています。

また、今回は調性のある音楽を考えたいので、n音律空間の中に「中心音」を定めたものも定義します。中心音が複数あるような空間も考えられますが、とりあえず中心音がただ1つであるもののみ考えることにします。このとき、0∈ℕ_nを特に中心音としておけば良い、ということですね。

これで、私たちが一番馴染みのある12平均律の世界を表すことが出来るようになりました。すなわち12音律単純調空間ℕ_12={0,1,...,11}で表され、中心音ドが0、ド#が1、レが2、…となります。

 

 

音列・スケール

最後に、音列スケールを定義します。

 

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(この定義ではとりあえずmを「位数」と呼ぶことにしていますが、「位数」と呼ぶか「基数」と呼ぶか「次数」と呼ぶかどれが一番妥当なのか、ずっと迷ってます。助言とか下さると助かります。)

 

定義1.6にしたがって、いくつかスケールの例を考えてみましょう。

  • 位数1のスケールはただ1つ、すなわち中心音のみの1点音列[0]に限ります。
  • 任意のnに対してℕ_nの位数nのスケールはただ1つ[0,1,2,...,n-1]で、これをクロマチックスケール、半音階と呼びます。
  • 私たちに馴染み深い12平均律におけるメジャースケールは[0,2,4,5,7,9,11]∈SK_12^7 と表すことが出来ます。

 

 

いかがだったでしょうか

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いかがだったでしょうか

まあ正直定義ゾーンなのであんまり面白味は無かったと思います。ごめん!

この後からは、上で定めた定義のもとで、スケールを正規性などの特徴によって分類したりしていきます。(まだまだ手探り状態な部分は大きいので頓挫するかもしれません)

考えてる内容はもちろん作曲にも活かせたらいいなあと思っています。今後益々の進捗をご期待下さい。終わり

渋谷系の時代⑨ポスト渋谷系1

この超不定期連載をいつでも畳めるように、話を渋谷系以後に進めていきますよ~。もちろん渋谷系本流にも引き続き触れていきますが。

今回は一聴しただけでは渋谷系との違いがイマイチわからない、ポスト渋谷系の紹介です。

 

ポスト渋谷系とは

渋谷系ムーブメントが落ち着いた90年代終盤から00年代にかけてデビューした、渋谷系に影響を受けたミュージシャン群の総称です。とはいえ影響受けてなくてもネオアコっぽいから」という理由でこの枠組みにぶち込まれる悲しい事例も多いです。まあ渋谷系直後にネオアコやったらそう分類されても仕方ないだろ、とも思いますが。

 あとポスト渋谷系以外にネオ渋谷系と言われるようなものもあるんですが、これもポスト渋谷系として扱ってます。あまり分ける意義を感じなかったので。

 

Cymbals 

1997年結成。

フリッパーズギターなどの渋谷系初期の面々と比較して、パンキッシュな曲が多いのが特徴。


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ラスサビ前のキメがめちゃかっこいいですね。この曲はメンバーの沖井礼二作曲ですが、彼が作る曲にはこの音型のキメが頻出するので面白いです。どんだけ好きなんだよみたいな。

2003年に解散しており、今では沖井礼二と清浦夏実のユニット、TWEEDEESなどでCymbalsの面影を垣間見ることができます。

 

ROUND TABLE

1997年デビュー。

渋谷系からの影響はガンガンありそうというか、


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もろフリッパーズギターのそれみたいな曲が多いです。

 

アニメのサントラとかOPも担当してるので、そちらでなじみのある人の方が多いかもしれません。


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Plus-tech squeeze box

 1997年結成。

宅録が上手すぎることから、当時それなりに注目されていたらしいです。


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(↑これは演出が謎すぎて、曲の内容も当て振りであることも頭に入ってこない映像)

惜しむらくはアルバムが2枚しかないことです。

2004年以来アルバム発表はないですが、他ミュージシャンのリミックスなどは行っているため、もしかしたらものすごいアルバムを水面下で作ってるかも......と勝手に妄想しています。

 

hazel nuts chocolate

 


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2000年結成。声がかわいい。ちょっと音楽がアニソン寄りになってきた気がしますが、全然気のせいではないので、このことを今後の連載で言及するまで覚えておいてください。

この曲が収録されている2ndアルバムの出来がかなり不服だったらしく、しばらく活動を休止しました。気づいたときにはHNCに改名し、出したアルバムCULTは今までとは全く異なる音楽になっていました。


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この間に何があったんでしょうね。声全然違うやんけ。

 

という感じで、今後はポスト渋谷系についても話を進めていきます。これナンバリングどこまで続くんでしょうね。果てしない道のりになりそうです。

土俗性と祭儀性について

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祭儀

 来る6/26にはいよいよ我々名作同のおくる第4回ピアノコンサートがライブ配信される。

nu-composers.main.jp

 

 また、これに関わるクラウドファウンディングもおかげさまで達成し、現在ネクストゴールチャレンジとなております。
御礼を申し上げるとともに、さらなるご支援を是非お願いいたします。

readyfor.jp

 さてその名作同のピアノコンサートで取り上げる曲に以下の2つの楽曲があるのだが、この楽曲を代表として名作同の飲み会配信のときにも言った「土俗性」と「祭儀性」について少し考えてみようと思う。

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 はじめにまずストラヴィンスキーの「春の祭典を聴いていただきたい。
とりあえずは原曲のオーケストラで。

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そして作曲者の手による4手連弾版

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異教徒の祭り

 この曲に私は「祭儀性」を感じると表現した。
 この曲はよく言われるように何か特定の祭典を取材して音楽化されたわけではない。
作曲者本人の見た幻影すなわち「輪になって座った長老たちが死ぬまで踊る若い娘を見守る異教の儀式」に着想を得て作られた。

 

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イーゴリ・ストラヴィンスキー

 しかしこの幻影というのは作曲者の中に知識として備わっていた「古代の異教徒の野蛮な儀式」のイメージ化にほかならない。
 確かに人類の歴史の中には「生贄」を神に捧げ、五穀豊穣を祈ったりするものがあったことは広く知られている。
 しかしその頃のそうした祭りで歌われていた音楽は、ほとんど絶えてしまっていることから収集しづらい。
 そこでストラヴィンスキーはこの序奏に出てくる素朴な民族旋律を自国の民謡に求めた。
 バルト三国の一つである「リトアニア共和国」の民謡を用いた。なるほど言われてみると旧ソ連圏の各地にあった民謡の雰囲気を感じなくもない。
 しかしストラヴィンスキーはこの民謡の提示に極めて異様なオーケストレーションを用いた。


 このことはフランスのサン=サーンスに酷評され、後年同じくフランスのブーレーズにも「最も異様で興味深い」と評された。
 なぜならファゴットのソロで奏でられる民謡は非常に高い音域に設定され、ファゴットの常用音域を大きく超えるもので極めて演奏が難しい。
 手法だけ見るとたしかにこれは異様だが、ストラビンスキーはリトアニア民謡が裸で用いられることで、生贄たちの踊る古代の儀式の異様さが表現されなくなることを憂慮したのではないだろうか。
 その結果、ファゴットの超高音を用いることで、極めて人声に似せ、さらに不安定さを誘発することで、はるか古代の印象を与えたのではないだろうか。
 更に複調処理を施すことで、極めて異様な雰囲気を作り出し出だしから物々しさと怪しさを醸し出し、異教徒の祭祀の雰囲気を作り出したのだろう。

 そしてその異様な序奏に続き、生贄の踊るシーンが続く。
複調の技法をオスティナートにも用い、極めて打楽器的で野蛮な響きを構築し、一般のそれとは大きく違うリズム拍動を与えて儀式性を作り出し、メロディーはまるでその儀式の群衆の囃し立てる声にすら聞こえる。
 複数の調性が同時に鳴ることで厳しい響きになるのだが、実はその調性構造は三全音関係の配置であり、緻密な計算と伝統的な方法論の援用がされているのは流石といったところではないだろうか。

 我々の演奏会ではこの2つの部分の抜粋のみとしたのは、これが春になって異教徒が火でも焚きながら、歌い神に捧げる生贄が乱舞するという祭儀性の観点から捉えた春の躍動を表していると感じられるからである。
 またここで「祭儀性」という重要なコンテクストを得たことで、この後に出てくるもう一つの楽曲と極めて重要な関係を構築することに成るのだ。


 もう一つの楽曲というのはすなわち伊福部昭の「ピアノ組曲である。
 この楽曲はその後様々な形に編曲され、特に大オーケストラのための編曲において「日本組曲とタイトルも変え、その様相は更に荒々しいものとなった。

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伊福部昭

 伊福部の、或いはその弟子たちに脈々と引き継がれていくオスティナートと日本風の旋律による音楽の構築法は「土俗性」という言葉で形容されることがしばしばある。
とりあえずこの音楽を聴いてみよう。

 

まずは「ピアノ組曲」である。

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そしてこれのオーケストラ版「日本組曲」だ。

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 我々のコンサートではこれも抜粋で最終楽章の「佞武多」のみを取り上げるが、オーケストラ版ではむしろ「盆踊」のシーンに注目が集まる。
 はじめから極めて分厚いオーケストレーションで迫りくる音楽はどこまでも盛り上がり続け、完全なトランス状態になって踊り狂うようなラストにまでもっていかれる。

 「日本人作曲家は西洋の作曲家と違う音楽観を持たなければならない」とした伊福部は弟子たちだけでなく、日本の音楽のあり方に大きな影響を与えた。
 そしてそのために伊福部が注目した手法こそ「オスティナート」である。
 伴奏に執拗に繰り返されるリズムの伴奏などを指す言葉で、伊福部の音楽には大抵これが聞こえる。
 そしてこれらを継承した作曲からもこのオスティナートの手法をその基本としてゆく。それらを少し聴いてみよう。

 

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芥川也寸志

芥川也寸志「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」

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池野成

池野成「ラプソディア・コンチェルタンテ」

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和田薫

和田薫「オーケストラのための協奏的断章 鬼神」

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 こうやって聴いてみると「和太鼓」という楽器の存在がクローズアップされてくる。
 和田の作品はそのまま和太鼓が用いられているが、我々が和太鼓の地打ちを聴く時の民族的高揚、或いは祭りのお囃子の鳴り物にみられるリズムの高揚がどうやらこの「土俗性」の正体であり、伊福部が日本人として美学の中心としておいたものであったのではないだろうか。

 

鬼太鼓座による演奏

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 確かに和太鼓というものは何故か我々日本人の血潮を滾らせる音を出すことに異論はない。それならこの和太鼓というものはどこからやってきたのだろうか。

 伝説によればすでに縄文時代には存在していて、日本神話の世界にもそれを示すと思われる記述があるのだそうだ。
 つまり日本人にとって極めて原始の象徴であり、また戦国時代にかき鳴らされた陣太鼓の異常な興奮はまったくこれら伊福部一派の音楽のそれが表しているものにほかならない。
 そしてそれが江戸時代には祭礼に取り込まれて行き、段々と一般化して最終的にエンターテインメントと化していったようだ。

 かくして伊福部の主張する音楽の根幹をなすオスティナートは和太鼓のそれではないのかという仮設が成り立ち、和太鼓こそ日本人の美学中の美学、DNAに刻まれたトランス状態を作り出すエネルギーに他ならないと言うことが出来るのではないだろうか。

 

 冒頭のストラヴィンスキーの項で触れた「祭儀性」と伊福部の「土俗性」この2つは西洋的なアニミズムと東洋的な原始主義という対立をもっており、古代における血潮の東西の違いにその原点を見いだせる点は極めて面白い。
 しかしよくよくそれなの本質を調べ上げてゆくと、結局の所それらは「土俗的祭儀」という原始の祭祀の興奮という点で共通しており、人間のルーツは一つのところに落ち着くという和合を描く点でも興味深い。
 またそれらの音楽は洗練とは真反対のベクトルもっていることも重要であり、これらをまさに現代を生きる若い音楽化がどう切り取り、解釈し音にするのか、ますます興味が尽きない。

 そしてこの古代の血脈というものは如何にしてコロナ禍をくぐり抜け、未来へバトンとして繋がれるか、一人の東洋人として非常に気になるところである。

自作曲あけすけ解説シリーズ①「夜の窓辺にて」~ライナーノーツ編~

私たち名大作曲同好会は、芸術に向き合いながら表現を模索する仲間たちを募集しています!!!

芸術を磨きたい方、発信の場を探している方、芸術家を応援したい方、私たち「名作同」の会員になってみませんか???

気になる方はHPから気軽にお問い合わせあれ。

 

……などといきなりぶっこんでみましたのは、名作同にもう2年間新しい会員が入ってきていないからです。

私たちが何をやっているのか、周りの人にうまく知ってもらえていないのかも。

 

まあ当然、私たちは作曲をやっているわけですが、それにしたってイマイチ想像がつきづらいと思います。

「作曲って具体的に何するの?!」と思う方は多いでしょう。

特に、私たちは芸術方面からのアプローチを常にするようにしているので、

「カッチョイイEDM作ってるんですか?」

とか

「ボカロで作曲したりするんですか?」

などという声を聴くと、ウ~ン少し違うんだよなあとなるわけです*1

何が違うかというと、

「作曲をするときに考えていること」

がかなり違います。

 

以前、↓の記事にて僕が作曲をする際に考えていることを洗いざらい話してみました。

書いてみて思ったのですが、こういうことをするのって僕たちのやっていることを知ってもらう上で結構大事かもしれません。

というのも、芸術家って自分の作品について語りたがらない人が多いですよね。

それも芸術家として正しい態度だとは思いますが、それゆえに芸術というものが一般人からは遠い存在になってしまうのも事実。

芸術家の頭ン中を覗けたら、その分理解や共感も深まると思うのです。

というわけで、

自作曲あけすけ解説シリーズ

いってみましょう。

普段、芸術家が作品を作る際の頭の中をあけすけに見られる機会はめったにないと思いますが、僕はあけすけにしても全然平気なタイプなので、どんどん話していこうと思います。

 

【もくじ】

 

ピアノ小品集「夜の窓辺にて」

この曲集は、僕が2020年に作曲した子供のためのピアノ曲集です。

ピアノ小品集「夜の窓辺にて」 /冨田悠暉 - YouTube

この曲集を作る動機になった出来事は、2つあります。

 

まず、三善晃の「海の日記帳」に心酔したこと。

「波のアラベスク」をはじめとする数々の名曲を含んだこの曲集は、子供のために書かれた28曲のピアノ小品集であり、三善晃の作品としては広く知られたものです。

僕は当時、作曲の勉強としてこの曲集を読んでいましたが、その素晴らしい内容に強く衝撃を受けました。

1曲あたり1、2分の短さなのに、極めて工夫と遊び心、メッセージ性に満ちていて濃厚。

また、曲のタイトルが良いのです。

「うつぼの時計」「おやすみ、夕映え」「沈んでいった鍵盤」「わんぱく さざえ」など、三善先生の子どもに対する温かかつ精緻な眼差しが感じられ、素晴らしいものがあります。

子ども相手だからと言って決して作風を変えず、三善節を貫きつつ、それでいてとても叙情的なこの曲集に、僕はおったまげてしまいました。

 

そしてもう一つは、この頃ちょうどトイドラ式ロクリア旋法理論、もといTLTが完成しつつあったということです。

TLTについては↓を読めば詳しく書かれていますが、ざっくり言ってしまえば、

「ロクリア旋法っていう超キモチワルい音階をキレイに使うための音楽理論

のことです。

 僕にとって、このロクリア旋法というのは大きな意味を持っています。

というのも、話すと長いので結論だけ言いますが、ロクリア旋法は

「善は本当に善なのか? 悪は本当に悪なのか?」

というきわめて鋭い問いを僕に投げかけてきたからです。

つまり、常識や固定観念を疑うことで初めて見えてくる世界があるのでは?ということですね。

このメッセージ、大人よりも子供に届けたいな、と僕は思いました。

 

以上の2つの出来事があって、僕は「夜の窓辺にて」の作曲に着手しました。

三善先生の「海の日記帳」を参考にしながら、TLTを使って独自のメッセージを込めた曲集を作った、というわけです。

芸術音楽をやるうえで大切なのが、このメッセージの部分だと僕は考えています。

ただカッコイイ・美しいだけではなく、伝えたいメッセージはあるのかどうか。

そしてそれがどう伝わっていくのか……。

 

ちなみに、「夜の窓辺にて」はコチラで楽譜を販売しています。

ライナーノーツに書いた詩

というわけで曲の解説に入っていくのかと思いきや、今回はそこまで行きません。

ライナーノーツ、つまり楽譜の前書きの文章を解説して、次回に渡そうと思います。

 

このライナーノーツというやつは、音楽を読むうえでかなり重要です。

というのも、音楽というのはどう頑張っても抽象的な表現方法ですが、言葉はそれに比べると具体的で、音楽に込められた意図を汲み取るための手掛かりとなることが少なくないから。

また、作曲家によってかなりの個性が現れるポイントでもあり、長い人や短い人、簡単な人や難解な人、その有りようはさまざまです。

ちなみに、先述の三善先生は毎回ライナーノーツに詩題がついています。

内容も、子供向けの曲でも相当に難解で哲学的。ワオ。

 

さて、今回「夜の窓辺にて」では、ライナーノーツとしていきなり一遍のを載せています

その詩がこちら。

夜の窓辺にて


夜の窓辺で みたものは
窓の向こうの 夜の森
田んぼにうつった 水の月
それから、
窓にうつった 暗い部屋
に 白くうかんだ ぼくの顔

窓の向こうは 広い海
海のそこは 暗い空
ぼくは
空にむかってすいこまれながら
じめんの下でゆれる
水の星を ながめた


海のなかでは 夜がいっとう 明るいのに
みんな 夜に目をとざして ねむる


夜の窓辺で ぼくが
みたものは
ねむりについた 静かなまち
逆さにしずんだ アトランチス

この詩は、この曲集全編を通して伝えたいメッセージが全て詰まった詩です。

いわば、最初のページに全ての答えがすでに書いてある、というわけ。

子どもに向けた小品集を構想したとき、ライナーノーツは長々とした文章よりも詩の方が抽象的に子供に伝わりやすいと考えました。

 

そして、この詩を読解するための手掛かりとなるのが、この後に続くライナーノーツ本編の方です。

ーこの曲集について一


夜、月、虚像に実像。どれも光の対照としてあるものだ。

ということは、光は陰の対照としてあるものだ。

光が照らさない場所を陰というなら、陰が照らさない場所を光というのだ。

人々は平和を願うが、世界中が平和になったとき、一体何が“平和”の意味になるのだろうか。

差別を嫌う人々は、世界が差別に満ちたとき“差別がなくなる”ことを知らない。

鏡に映った君自身は、君ではないものに囲まれて、いかにもおぼろげだ。

少年少女はそのとき、はじめて自分が「世界の一部」ではないことを知る。

そして、自分以外の誰もが“自分ではない”ということも。

 

だから、この曲集は「こどものための」曲集なのだ。

夜、自室で窓の外の世界を見つめるのは、大人ではなくこどもだから。出来るだけ平易なピアノ曲集に仕上げたっもりだが、結果としてさほど”こども向け”の難易度にならなかったかも知れない。だとしたらそれでも良い。この曲集は、必ずしもこどもが「弾くための」曲集ではない。ただし、幼いピアニストがこの曲集を弾くとしたら、その意義は計り知れないものになるだろう。


「ロクリア旋法」という旋法は、まさに音楽の「陰」の部分だ。

上下さかさまになった世界で、“音楽”がもてはやされる代わりにロクリア旋法はどんどん無視されていった。

人々は音楽を「光」だと思いたがったのだ。

しかし、光に満たされた視界で人々は“何を“見るのだろうか。

月の見えない白夜の地平で、人々はだんだんと飽和した光の中に飲み込まれていった。

みずから進んで“闇の輝き”を忘れ、思い出さず、そしてそのまま大人になっていった。


この曲集では、そんな“輝かしき闇”を28曲ご紹介する。

28曲の全てがロクリア旋法で書かれ、この“闇の音楽”は君たちが弾き慣れた“光の音楽”とは少々異なった運指を要求するので、はじめは戸惑うかも知れないが、きっとすぐに慣れるだろう。

なぜなら、闇や陰は常に光とあるものだから。

悪魔の旋法は、もはや忌まわしきものではない。

漆黒の翼をもって夜の空に飛び立ち、月の光を浴びながら水面に降り立つくらいのことはできるのだ。

 

この文章を解説していきましょう。

まず、第1段落では、「夜、月、虚像、実像」というこの曲集のモチーフが示され、曲集全体を貫く思想が提示されます。

光と闇を反転させる、という発想は、先ほど述べたロクリア旋法から来たものです。

そして、この鏡写しの関係性=2項対立は、子ども自身に対して「自 vs 他」というものの見方を植え付け、

「自分≠世界」

という現実を突きつけます。

 

第2段落、

「自室で窓の外の世界を見つめる」

というのは、

「自分のアイデンティティを探し求める」

ということの暗喩です。

子どもは、外の世界と自分とを対照することで、アイデンティティの確立を求めるようになります。

 

第3段落では、「光」、すなわち常識や固定観念に染まってしまった大人の姿が示唆されます。

これに対し、「闇の輝き」という言葉が現れ、これもまたこの曲集のテーマとなっていきます。

 

第4段落、

「漆黒の翼をもって夜の空に飛び立ち、月の光を浴びながら水面に降り立つ」

という文章は、この曲集で僕がやろうとしていることを、この曲集のモチーフを絡めて描写しています。

「悪魔、夜、月、水」といった、陰とされるものを勢ぞろいさせているわけですね。

 

以上をまとめると、ここで示された曲集のテーマは次のようなものになります。

つまり、この曲集は主人公を子どもとしてみたとき、

「あたりまえを疑うことを知り、自分が何者なのか分からなくなり、自分らしさを探し始める」

という子供の成長ストーリーになっているのです。

 

これを踏まえて、先ほどの詩を読んでみてください。

まず、第1連では

「夜、窓、水、月」といったモチーフが示されています。

ここでは、顔を映し出す「窓」というものは「鏡」と同じはたらきをしていますね。

最後の2行で、

窓にうつった 暗い部屋
に 白くうかんだ ぼくの顔

とあり、世界と自分との対比(暗い部屋 vs 白い顔)に不安を感じているのです。

 

第2連では、出てくる名詞の陰と陽、上と下が逆転しています。

窓の向こうは 広い海
海のそこは 暗い空
ぼくは
空にむかってすいこまれながら
じめんの下でゆれる
水の星を ながめた

という文章は、現実的には

窓の向こうは 広い
海のそこは 暗い
ぼくは
にむかってすいこまれながら
水面でゆれる
の星を ながめた

の方が正しいことになります。

ここで、価値観の転倒を表しているわけです。

 

2行で終わる第3連は、この詩で最も重要な部分になります。

本当は、みんなが思っている上と下、善と悪、光と闇は、逆なのかもしれない。

主人公の子どもが、そんな気づきを得たシーンです。

 

第4連、

夜の窓辺で ぼくが
みたものは

「ぼくが」という主語が挿入されることで、アイデンティティが確立されたことを表しています。

ねむりについた 静かなまち
逆さにしずんだ アトランチス

という部分は、夜の町が海の底に逆さまに沈む、という価値観の転倒を表した暗喩で、これをもってこの詩は終わります。

 

曲集のテーマ

というわけで、長々と語ってきましたが、

という結構でかいテーマがこの曲集にはあります。

これが実現される過程を、曲集では描いているわけですね。

次回の記事では、具体的な曲のコンセプトや小ネタについて語っていこうと思います。

作曲家の生々しい頭ン中を楽しんでもらえたら幸いです。

*1:もちろん、EDMやボカロで芸術をやることも可能だと思いますが、一般的に言ってこれらは娯楽音楽の方が多いでしょう。誤解を防ぐため、念のため。