名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

自作曲あけすけ解説シリーズ②「夜の窓辺にて」~楽曲編その1~

~前編~


気づけば。もう6月も中旬に差し掛かろうとしています。
来る6/26、名作同は1年ぶりにコンサートを挙行するわけでして、今はその準備に追われております。
そうわけで、ブログの更新が1週間遅れたことはご勘弁を……と弁解させてもらったところで、今回もあけすけに語っていきましょう。
今回は、それぞれの曲を作る際に考えていたことを話します。

 

 

【もくじ】

 

はじめに

この曲集には、28曲の曲が収められています。
曲のタイトルは、初めの方は「夜、月、鏡、水」などといったモチーフを含むものになっており、最後の方に行くにつれてだんだんとアイデンティティの確立を匂わせるものになっていきます。

ピアノ小品集「夜の窓辺にて」 /冨田悠暉 - YouTube

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曲のタイトル

各曲については、特に語ることがないものもあれば、かなり思い入れのある曲もあります。

今回は、思い入れのあるものを中心に語っていきます。

 

水底に沈んだ星座

この曲のタイトルには、「水の底」に星座という「空」のものが沈んでいるという視点の転倒が含まれています。
視点の転倒は、この曲集のテーマでしたね。
水の底から夜の空を見上げている、というイメージで、ゆったりとした3拍子の湿っぽい曲に仕上げました。

ちなみに、この曲は曲集の中では2番目ですが、完成させたのはだいぶ後の方です*1


交わらない2声の献歌

この曲を作る直前、僕の部活の後輩が恋人に振られてしまいました。

この曲は、その一件にインスピレーションを得て作ったものです。

曲全体が2声の対位法で作られていると同時に、この2声は2星、つまり織姫と彦星の暗喩でもあり、この2つの旋律線が曲の最後まで交差しないことで、通じることのなかった2人の心を表しています。

ちなみに、献歌も献花とかけており、死んだ恋に対しての僕なりに花を供えたつもりです。

 

あの子と話した

この曲を作っているとき、僕はめっちゃ片思いをしていました(他人の失恋を観察してる場合じゃねえ)。

まあそういうわけでこの曲ができたのですが(雑)、この曲は最後の部分に少し工夫があります。

前半は甘く溶けるような曲調なのが、最後の部分でいきなり怪しく不安定な調子に変わり、そのまま終わっていきます。

ここには、僕なりの価値観の転倒が含まれています。

つまり、恋愛って必ずしも甘くとろける幸せなものではないですよね?

恋焦がれることは、ある種の狂気にも似ていますから。

 

授業中のワルツ

この曲にも、僕なりに価値観の転倒というメッセージが含まれています。

みなさんが小学生とか中学生の頃、授業は真面目に受けていましたか?

もしかしたら、授業中に窓の外なんか眺めて、好き勝手な思索の世界に没入しちゃってた人もいるんじゃないでしょうか。

あるいは、じっと席に座っていられなくていきなり立ち上がってしまう生徒とか。

この曲の主人公は、そんなどこか不真面目(?)な、それでいて自分に正直な1人の生徒です。

彼らの頭の中には、授業で教えているのとはまた別の広い世界があって、もしかしたら彼らはそこでワルツでも踊っているのかも。

たくさんの半音進行を含むこの気だるげな曲は、静かな破戒の雰囲気を漂わせながら淡々と進んでいきます。

 

なに いってるのか わからない

この曲は、タイトルに大きな意味が込められています。

実はこの曲にはある1つの暗号が隠されているのですが、多くの人はそれに気づくことはないでしょう。

「何言ってるのか分からない」というのは、そんなみなさんの気持ちの代弁というわけですね。

訳の分からないホラばかり吹いている子供や、妄言を吐き続ける狂人など、皆さんも1度は相対したことがあるでしょう。

そういう人々はどうしようもない奴だと思われがちですが、実は彼らも彼らなりに何か伝えようとしていることがあって、それを僕たちが分かっていないだけなのかも。

(あとは遊び心で一度自分の曲に暗号を仕込んでみたかった……)

 

ちなみに、この曲に隠された暗号を解くカギは、右手の奏するメロディ*2

あけすけ解説とは言いつつ、最後までネタバレするのはつまらないので、ぜひこの曲に隠されたメッセージを解読してみてください。

 

夢に出てくる子

「夢」というのも、現実の陰の部分ということで、ある意味この曲集のテーマと言えるかもしれません。

みなさん、夢の中に出てきた人に惹かれてしまった経験はありませんか?

その人が現実にいるのかいないのかは別として、夢から覚めてしばらくは猛烈な切なさに襲われちゃったりして。

 

さて、この曲は最後の部分に1つ工夫がしてあります。

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曲の終わりの和音ですが、これを弾こうと思うと必ず右手と左手が触れあってしまうように書いてあります。

一瞬触れ合った両手ですが、右手にだけ次の音が書いてあるので、それを弾くために触れ合った両手はすぐに離れ離れ。

まさに夢の中の2人ですね。

手をつかんだと思ったら、すぐに目が覚めてしまって決して結ばれることはない。

 

寝ているわたしと空が見える

この曲は、実はあるアニメに霊感を得て作曲しました。

「アドベンチャー・タイム」というアメリカのアニメのシーズン6第25話、「幽体飛行」という回です。

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幽体飛行

このアニメは、子供向けのタッチで描かれていながら、かなり重い世界観で哲学的・宗教的なメッセージ性を含み、ナンセンスで不可解なことで定評がある問題作。

僕が知る限りのアニメの中では一番好きです。

 

「幽体飛行」という回では、主人公の少年フィンが幽体離脱をし、空に昇りながら、この広い世界や宇宙について知っていきます。

幽体離脱というのは、主観である自分が客体化されるということです。

この曲集のテーマである「アイデンティティの確立」とかかわりの深い、重要な示唆を含んでいます。

 

あつくって ねむれない

この曲ですが、実は僕がひそかに一番気に入っている曲です。

真夏の暑い日、熱帯夜で全然寝付けないことってありませんでしたか?

(え、冷房ついてたけど?って人は金持ちなので黙ってて下さい(怒))

熱帯夜の暑さにやられて眠れず、寝返りを何度も打ち、それでも眠れずに夜が更けていく、というのがこの曲のイメージです。

 

さて、勘のいい人ならお気づきかもですが、「夜になっても起きている」というのは、前回の記事で示したライナーノーツの詩の第3連

みんな 夜に目をとざして ねむる

ここと対照関係にあるんですね。

つまり、この曲は主人公のアイデンティティが覚醒していくきっかけ、境目となる曲です。

眠れないということは、そのぶん物思いや思索もはかどることでしょうし。

 

この曲以降、意味深なタイトルの曲が増え、怪しい響きの曲も多くなっていきます。

 

 

さて、キリのいいところまで行ったので、今回はこの辺で。

次回では残りの数曲について解説していきましょう。

*1:この曲集は、一旦28曲を完成させてから曲順を再構成してあります。

したがって、曲順は作曲順ではありません。

あるていど演奏難易度順になるようにしつつ、多少のストーリー性も生まれるように並べ替えてあります。

*2:もっと言えば、メロディのリズムが重要。

【音楽理論】進捗発表①(基本的な定義:音空間~スケール)

こんにちは!なんすいです。

最近、研究っていうほどではないけれど和声理論で考えていることがあって(近々ちゃんとした形で出すつもりです)今回はその導入部分を記事にします。

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ちょっとだけ数学っぽい話になります

 

離散的音空間

導入部分でやっているのは「環境整備」です。話をより快適に進めていくために、色々基本的な部分を定義していきます。
特に、私が今考えたいのは和声理論なので、それに特化した環境を整備します。

以下、今執筆中のpdfから適宜引用しつつ解説していきます。

 

最初に「音全体」を定義しようと思います。
繰り返しになりますが、今は和声理論を考えたいので、音の要素のうち特に「高さ」だけ見れたらいいですね。したがって「音全体」というのは実際には「音の高さ全体」ということになります。
また、詳しい説明は省きますが、音の高さはcentという単位を利用して実数値で表すことが出来るので、音全体は実数全体ℝとみなすことが出来ます。

 

さて、これで音の空間をℝの中で扱えることが分かりましたが、このまま一般的な和声理論を扱うのは難しいです。

なぜかというと、ℝは連続的な空間ですが、一方で、多くの理論は「ドレミファソラシ…」のような「とびとびの音」の空間の中で組み立てられているからです。

そこで、「離散的な音全体の空間」を考えましょう。実は、これは整数全体ℤと見なせます。

 

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ここで「整列的」と言っているのは、"任意の元xに対して「次の元」x'が存在する"という性質を強調したかったからです。ℤがこの性質を持つことは、ℕ(自然数)が通常の≤で整列順序集合になることから分かります。

 

さらに定義1.1では、音程の定義もしています。2つの音の差の絶対値としました。

これで、「同度が1度」っていうマジでやめてほしい度数表記の慣習から逃れることが出来ました。嬉しいです。

 

 

n音律空間

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定義1.3では、ある音程n(1オクターブ)があって、その音程関係にある音同士を同じ音とみなす空間を定めています。

また、今回は調性のある音楽を考えたいので、n音律空間の中に「中心音」を定めたものも定義します。中心音が複数あるような空間も考えられますが、とりあえず中心音がただ1つであるもののみ考えることにします。このとき、0∈ℕ_nを特に中心音としておけば良い、ということですね。

これで、私たちが一番馴染みのある12平均律の世界を表すことが出来るようになりました。すなわち12音律単純調空間ℕ_12={0,1,...,11}で表され、中心音ドが0、ド#が1、レが2、…となります。

 

 

音列・スケール

最後に、音列スケールを定義します。

 

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(この定義ではとりあえずmを「位数」と呼ぶことにしていますが、「位数」と呼ぶか「基数」と呼ぶか「次数」と呼ぶかどれが一番妥当なのか、ずっと迷ってます。助言とか下さると助かります。)

 

定義1.6にしたがって、いくつかスケールの例を考えてみましょう。

  • 位数1のスケールはただ1つ、すなわち中心音のみの1点音列[0]に限ります。
  • 任意のnに対してℕ_nの位数nのスケールはただ1つ[0,1,2,...,n-1]で、これをクロマチックスケール、半音階と呼びます。
  • 私たちに馴染み深い12平均律におけるメジャースケールは[0,2,4,5,7,9,11]∈SK_12^7 と表すことが出来ます。

 

 

いかがだったでしょうか

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いかがだったでしょうか

まあ正直定義ゾーンなのであんまり面白味は無かったと思います。ごめん!

この後からは、上で定めた定義のもとで、スケールを正規性などの特徴によって分類したりしていきます。(まだまだ手探り状態な部分は大きいので頓挫するかもしれません)

考えてる内容はもちろん作曲にも活かせたらいいなあと思っています。今後益々の進捗をご期待下さい。終わり

渋谷系の時代⑨ポスト渋谷系1

この超不定期連載をいつでも畳めるように、話を渋谷系以後に進めていきますよ~。もちろん渋谷系本流にも引き続き触れていきますが。

今回は一聴しただけでは渋谷系との違いがイマイチわからない、ポスト渋谷系の紹介です。

 

ポスト渋谷系とは

渋谷系ムーブメントが落ち着いた90年代終盤から00年代にかけてデビューした、渋谷系に影響を受けたミュージシャン群の総称です。とはいえ影響受けてなくてもネオアコっぽいから」という理由でこの枠組みにぶち込まれる悲しい事例も多いです。まあ渋谷系直後にネオアコやったらそう分類されても仕方ないだろ、とも思いますが。

 あとポスト渋谷系以外にネオ渋谷系と言われるようなものもあるんですが、これもポスト渋谷系として扱ってます。あまり分ける意義を感じなかったので。

 

Cymbals 

1997年結成。

フリッパーズギターなどの渋谷系初期の面々と比較して、パンキッシュな曲が多いのが特徴。


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ラスサビ前のキメがめちゃかっこいいですね。この曲はメンバーの沖井礼二作曲ですが、彼が作る曲にはこの音型のキメが頻出するので面白いです。どんだけ好きなんだよみたいな。

2003年に解散しており、今では沖井礼二と清浦夏実のユニット、TWEEDEESなどでCymbalsの面影を垣間見ることができます。

 

ROUND TABLE

1997年デビュー。

渋谷系からの影響はガンガンありそうというか、


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もろフリッパーズギターのそれみたいな曲が多いです。

 

アニメのサントラとかOPも担当してるので、そちらでなじみのある人の方が多いかもしれません。


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Plus-tech squeeze box

 1997年結成。

宅録が上手すぎることから、当時それなりに注目されていたらしいです。


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(↑これは演出が謎すぎて、曲の内容も当て振りであることも頭に入ってこない映像)

惜しむらくはアルバムが2枚しかないことです。

2004年以来アルバム発表はないですが、他ミュージシャンのリミックスなどは行っているため、もしかしたらものすごいアルバムを水面下で作ってるかも......と勝手に妄想しています。

 

hazel nuts chocolate

 


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2000年結成。声がかわいい。ちょっと音楽がアニソン寄りになってきた気がしますが、全然気のせいではないので、このことを今後の連載で言及するまで覚えておいてください。

この曲が収録されている2ndアルバムの出来がかなり不服だったらしく、しばらく活動を休止しました。気づいたときにはHNCに改名し、出したアルバムCULTは今までとは全く異なる音楽になっていました。


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この間に何があったんでしょうね。声全然違うやんけ。

 

という感じで、今後はポスト渋谷系についても話を進めていきます。これナンバリングどこまで続くんでしょうね。果てしない道のりになりそうです。

土俗性と祭儀性について

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祭儀

 来る6/26にはいよいよ我々名作同のおくる第4回ピアノコンサートがライブ配信される。

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 また、これに関わるクラウドファウンディングもおかげさまで達成し、現在ネクストゴールチャレンジとなております。
御礼を申し上げるとともに、さらなるご支援を是非お願いいたします。

readyfor.jp

 さてその名作同のピアノコンサートで取り上げる曲に以下の2つの楽曲があるのだが、この楽曲を代表として名作同の飲み会配信のときにも言った「土俗性」と「祭儀性」について少し考えてみようと思う。

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 はじめにまずストラヴィンスキーの「春の祭典を聴いていただきたい。
とりあえずは原曲のオーケストラで。

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そして作曲者の手による4手連弾版

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異教徒の祭り

 この曲に私は「祭儀性」を感じると表現した。
 この曲はよく言われるように何か特定の祭典を取材して音楽化されたわけではない。
作曲者本人の見た幻影すなわち「輪になって座った長老たちが死ぬまで踊る若い娘を見守る異教の儀式」に着想を得て作られた。

 

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イーゴリ・ストラヴィンスキー

 しかしこの幻影というのは作曲者の中に知識として備わっていた「古代の異教徒の野蛮な儀式」のイメージ化にほかならない。
 確かに人類の歴史の中には「生贄」を神に捧げ、五穀豊穣を祈ったりするものがあったことは広く知られている。
 しかしその頃のそうした祭りで歌われていた音楽は、ほとんど絶えてしまっていることから収集しづらい。
 そこでストラヴィンスキーはこの序奏に出てくる素朴な民族旋律を自国の民謡に求めた。
 バルト三国の一つである「リトアニア共和国」の民謡を用いた。なるほど言われてみると旧ソ連圏の各地にあった民謡の雰囲気を感じなくもない。
 しかしストラヴィンスキーはこの民謡の提示に極めて異様なオーケストレーションを用いた。


 このことはフランスのサン=サーンスに酷評され、後年同じくフランスのブーレーズにも「最も異様で興味深い」と評された。
 なぜならファゴットのソロで奏でられる民謡は非常に高い音域に設定され、ファゴットの常用音域を大きく超えるもので極めて演奏が難しい。
 手法だけ見るとたしかにこれは異様だが、ストラビンスキーはリトアニア民謡が裸で用いられることで、生贄たちの踊る古代の儀式の異様さが表現されなくなることを憂慮したのではないだろうか。
 その結果、ファゴットの超高音を用いることで、極めて人声に似せ、さらに不安定さを誘発することで、はるか古代の印象を与えたのではないだろうか。
 更に複調処理を施すことで、極めて異様な雰囲気を作り出し出だしから物々しさと怪しさを醸し出し、異教徒の祭祀の雰囲気を作り出したのだろう。

 そしてその異様な序奏に続き、生贄の踊るシーンが続く。
複調の技法をオスティナートにも用い、極めて打楽器的で野蛮な響きを構築し、一般のそれとは大きく違うリズム拍動を与えて儀式性を作り出し、メロディーはまるでその儀式の群衆の囃し立てる声にすら聞こえる。
 複数の調性が同時に鳴ることで厳しい響きになるのだが、実はその調性構造は三全音関係の配置であり、緻密な計算と伝統的な方法論の援用がされているのは流石といったところではないだろうか。

 我々の演奏会ではこの2つの部分の抜粋のみとしたのは、これが春になって異教徒が火でも焚きながら、歌い神に捧げる生贄が乱舞するという祭儀性の観点から捉えた春の躍動を表していると感じられるからである。
 またここで「祭儀性」という重要なコンテクストを得たことで、この後に出てくるもう一つの楽曲と極めて重要な関係を構築することに成るのだ。


 もう一つの楽曲というのはすなわち伊福部昭の「ピアノ組曲である。
 この楽曲はその後様々な形に編曲され、特に大オーケストラのための編曲において「日本組曲とタイトルも変え、その様相は更に荒々しいものとなった。

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伊福部昭

 伊福部の、或いはその弟子たちに脈々と引き継がれていくオスティナートと日本風の旋律による音楽の構築法は「土俗性」という言葉で形容されることがしばしばある。
とりあえずこの音楽を聴いてみよう。

 

まずは「ピアノ組曲」である。

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そしてこれのオーケストラ版「日本組曲」だ。

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 我々のコンサートではこれも抜粋で最終楽章の「佞武多」のみを取り上げるが、オーケストラ版ではむしろ「盆踊」のシーンに注目が集まる。
 はじめから極めて分厚いオーケストレーションで迫りくる音楽はどこまでも盛り上がり続け、完全なトランス状態になって踊り狂うようなラストにまでもっていかれる。

 「日本人作曲家は西洋の作曲家と違う音楽観を持たなければならない」とした伊福部は弟子たちだけでなく、日本の音楽のあり方に大きな影響を与えた。
 そしてそのために伊福部が注目した手法こそ「オスティナート」である。
 伴奏に執拗に繰り返されるリズムの伴奏などを指す言葉で、伊福部の音楽には大抵これが聞こえる。
 そしてこれらを継承した作曲からもこのオスティナートの手法をその基本としてゆく。それらを少し聴いてみよう。

 

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芥川也寸志

芥川也寸志「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」

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池野成

池野成「ラプソディア・コンチェルタンテ」

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和田薫

和田薫「オーケストラのための協奏的断章 鬼神」

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 こうやって聴いてみると「和太鼓」という楽器の存在がクローズアップされてくる。
 和田の作品はそのまま和太鼓が用いられているが、我々が和太鼓の地打ちを聴く時の民族的高揚、或いは祭りのお囃子の鳴り物にみられるリズムの高揚がどうやらこの「土俗性」の正体であり、伊福部が日本人として美学の中心としておいたものであったのではないだろうか。

 

鬼太鼓座による演奏

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 確かに和太鼓というものは何故か我々日本人の血潮を滾らせる音を出すことに異論はない。それならこの和太鼓というものはどこからやってきたのだろうか。

 伝説によればすでに縄文時代には存在していて、日本神話の世界にもそれを示すと思われる記述があるのだそうだ。
 つまり日本人にとって極めて原始の象徴であり、また戦国時代にかき鳴らされた陣太鼓の異常な興奮はまったくこれら伊福部一派の音楽のそれが表しているものにほかならない。
 そしてそれが江戸時代には祭礼に取り込まれて行き、段々と一般化して最終的にエンターテインメントと化していったようだ。

 かくして伊福部の主張する音楽の根幹をなすオスティナートは和太鼓のそれではないのかという仮設が成り立ち、和太鼓こそ日本人の美学中の美学、DNAに刻まれたトランス状態を作り出すエネルギーに他ならないと言うことが出来るのではないだろうか。

 

 冒頭のストラヴィンスキーの項で触れた「祭儀性」と伊福部の「土俗性」この2つは西洋的なアニミズムと東洋的な原始主義という対立をもっており、古代における血潮の東西の違いにその原点を見いだせる点は極めて面白い。
 しかしよくよくそれなの本質を調べ上げてゆくと、結局の所それらは「土俗的祭儀」という原始の祭祀の興奮という点で共通しており、人間のルーツは一つのところに落ち着くという和合を描く点でも興味深い。
 またそれらの音楽は洗練とは真反対のベクトルもっていることも重要であり、これらをまさに現代を生きる若い音楽化がどう切り取り、解釈し音にするのか、ますます興味が尽きない。

 そしてこの古代の血脈というものは如何にしてコロナ禍をくぐり抜け、未来へバトンとして繋がれるか、一人の東洋人として非常に気になるところである。

自作曲あけすけ解説シリーズ①「夜の窓辺にて」~ライナーノーツ編~

私たち名大作曲同好会は、芸術に向き合いながら表現を模索する仲間たちを募集しています!!!

芸術を磨きたい方、発信の場を探している方、芸術家を応援したい方、私たち「名作同」の会員になってみませんか???

気になる方はHPから気軽にお問い合わせあれ。

 

……などといきなりぶっこんでみましたのは、名作同にもう2年間新しい会員が入ってきていないからです。

私たちが何をやっているのか、周りの人にうまく知ってもらえていないのかも。

 

まあ当然、私たちは作曲をやっているわけですが、それにしたってイマイチ想像がつきづらいと思います。

「作曲って具体的に何するの?!」と思う方は多いでしょう。

特に、私たちは芸術方面からのアプローチを常にするようにしているので、

「カッチョイイEDM作ってるんですか?」

とか

「ボカロで作曲したりするんですか?」

などという声を聴くと、ウ~ン少し違うんだよなあとなるわけです*1

何が違うかというと、

「作曲をするときに考えていること」

がかなり違います。

 

以前、↓の記事にて僕が作曲をする際に考えていることを洗いざらい話してみました。

書いてみて思ったのですが、こういうことをするのって僕たちのやっていることを知ってもらう上で結構大事かもしれません。

というのも、芸術家って自分の作品について語りたがらない人が多いですよね。

それも芸術家として正しい態度だとは思いますが、それゆえに芸術というものが一般人からは遠い存在になってしまうのも事実。

芸術家の頭ン中を覗けたら、その分理解や共感も深まると思うのです。

というわけで、

自作曲あけすけ解説シリーズ

いってみましょう。

普段、芸術家が作品を作る際の頭の中をあけすけに見られる機会はめったにないと思いますが、僕はあけすけにしても全然平気なタイプなので、どんどん話していこうと思います。

 

【もくじ】

 

ピアノ小品集「夜の窓辺にて」

この曲集は、僕が2020年に作曲した子供のためのピアノ曲集です。

ピアノ小品集「夜の窓辺にて」 /冨田悠暉 - YouTube

この曲集を作る動機になった出来事は、2つあります。

 

まず、三善晃の「海の日記帳」に心酔したこと。

「波のアラベスク」をはじめとする数々の名曲を含んだこの曲集は、子供のために書かれた28曲のピアノ小品集であり、三善晃の作品としては広く知られたものです。

僕は当時、作曲の勉強としてこの曲集を読んでいましたが、その素晴らしい内容に強く衝撃を受けました。

1曲あたり1、2分の短さなのに、極めて工夫と遊び心、メッセージ性に満ちていて濃厚。

また、曲のタイトルが良いのです。

「うつぼの時計」「おやすみ、夕映え」「沈んでいった鍵盤」「わんぱく さざえ」など、三善先生の子どもに対する温かかつ精緻な眼差しが感じられ、素晴らしいものがあります。

子ども相手だからと言って決して作風を変えず、三善節を貫きつつ、それでいてとても叙情的なこの曲集に、僕はおったまげてしまいました。

 

そしてもう一つは、この頃ちょうどトイドラ式ロクリア旋法理論、もといTLTが完成しつつあったということです。

TLTについては↓を読めば詳しく書かれていますが、ざっくり言ってしまえば、

「ロクリア旋法っていう超キモチワルい音階をキレイに使うための音楽理論

のことです。

 僕にとって、このロクリア旋法というのは大きな意味を持っています。

というのも、話すと長いので結論だけ言いますが、ロクリア旋法は

「善は本当に善なのか? 悪は本当に悪なのか?」

というきわめて鋭い問いを僕に投げかけてきたからです。

つまり、常識や固定観念を疑うことで初めて見えてくる世界があるのでは?ということですね。

このメッセージ、大人よりも子供に届けたいな、と僕は思いました。

 

以上の2つの出来事があって、僕は「夜の窓辺にて」の作曲に着手しました。

三善先生の「海の日記帳」を参考にしながら、TLTを使って独自のメッセージを込めた曲集を作った、というわけです。

芸術音楽をやるうえで大切なのが、このメッセージの部分だと僕は考えています。

ただカッコイイ・美しいだけではなく、伝えたいメッセージはあるのかどうか。

そしてそれがどう伝わっていくのか……。

 

ちなみに、「夜の窓辺にて」はコチラで楽譜を販売しています。

ライナーノーツに書いた詩

というわけで曲の解説に入っていくのかと思いきや、今回はそこまで行きません。

ライナーノーツ、つまり楽譜の前書きの文章を解説して、次回に渡そうと思います。

 

このライナーノーツというやつは、音楽を読むうえでかなり重要です。

というのも、音楽というのはどう頑張っても抽象的な表現方法ですが、言葉はそれに比べると具体的で、音楽に込められた意図を汲み取るための手掛かりとなることが少なくないから。

また、作曲家によってかなりの個性が現れるポイントでもあり、長い人や短い人、簡単な人や難解な人、その有りようはさまざまです。

ちなみに、先述の三善先生は毎回ライナーノーツに詩題がついています。

内容も、子供向けの曲でも相当に難解で哲学的。ワオ。

 

さて、今回「夜の窓辺にて」では、ライナーノーツとしていきなり一遍のを載せています

その詩がこちら。

夜の窓辺にて


夜の窓辺で みたものは
窓の向こうの 夜の森
田んぼにうつった 水の月
それから、
窓にうつった 暗い部屋
に 白くうかんだ ぼくの顔

窓の向こうは 広い海
海のそこは 暗い空
ぼくは
空にむかってすいこまれながら
じめんの下でゆれる
水の星を ながめた


海のなかでは 夜がいっとう 明るいのに
みんな 夜に目をとざして ねむる


夜の窓辺で ぼくが
みたものは
ねむりについた 静かなまち
逆さにしずんだ アトランチス

この詩は、この曲集全編を通して伝えたいメッセージが全て詰まった詩です。

いわば、最初のページに全ての答えがすでに書いてある、というわけ。

子どもに向けた小品集を構想したとき、ライナーノーツは長々とした文章よりも詩の方が抽象的に子供に伝わりやすいと考えました。

 

そして、この詩を読解するための手掛かりとなるのが、この後に続くライナーノーツ本編の方です。

ーこの曲集について一


夜、月、虚像に実像。どれも光の対照としてあるものだ。

ということは、光は陰の対照としてあるものだ。

光が照らさない場所を陰というなら、陰が照らさない場所を光というのだ。

人々は平和を願うが、世界中が平和になったとき、一体何が“平和”の意味になるのだろうか。

差別を嫌う人々は、世界が差別に満ちたとき“差別がなくなる”ことを知らない。

鏡に映った君自身は、君ではないものに囲まれて、いかにもおぼろげだ。

少年少女はそのとき、はじめて自分が「世界の一部」ではないことを知る。

そして、自分以外の誰もが“自分ではない”ということも。

 

だから、この曲集は「こどものための」曲集なのだ。

夜、自室で窓の外の世界を見つめるのは、大人ではなくこどもだから。出来るだけ平易なピアノ曲集に仕上げたっもりだが、結果としてさほど”こども向け”の難易度にならなかったかも知れない。だとしたらそれでも良い。この曲集は、必ずしもこどもが「弾くための」曲集ではない。ただし、幼いピアニストがこの曲集を弾くとしたら、その意義は計り知れないものになるだろう。


「ロクリア旋法」という旋法は、まさに音楽の「陰」の部分だ。

上下さかさまになった世界で、“音楽”がもてはやされる代わりにロクリア旋法はどんどん無視されていった。

人々は音楽を「光」だと思いたがったのだ。

しかし、光に満たされた視界で人々は“何を“見るのだろうか。

月の見えない白夜の地平で、人々はだんだんと飽和した光の中に飲み込まれていった。

みずから進んで“闇の輝き”を忘れ、思い出さず、そしてそのまま大人になっていった。


この曲集では、そんな“輝かしき闇”を28曲ご紹介する。

28曲の全てがロクリア旋法で書かれ、この“闇の音楽”は君たちが弾き慣れた“光の音楽”とは少々異なった運指を要求するので、はじめは戸惑うかも知れないが、きっとすぐに慣れるだろう。

なぜなら、闇や陰は常に光とあるものだから。

悪魔の旋法は、もはや忌まわしきものではない。

漆黒の翼をもって夜の空に飛び立ち、月の光を浴びながら水面に降り立つくらいのことはできるのだ。

 

この文章を解説していきましょう。

まず、第1段落では、「夜、月、虚像、実像」というこの曲集のモチーフが示され、曲集全体を貫く思想が提示されます。

光と闇を反転させる、という発想は、先ほど述べたロクリア旋法から来たものです。

そして、この鏡写しの関係性=2項対立は、子ども自身に対して「自 vs 他」というものの見方を植え付け、

「自分≠世界」

という現実を突きつけます。

 

第2段落、

「自室で窓の外の世界を見つめる」

というのは、

「自分のアイデンティティを探し求める」

ということの暗喩です。

子どもは、外の世界と自分とを対照することで、アイデンティティの確立を求めるようになります。

 

第3段落では、「光」、すなわち常識や固定観念に染まってしまった大人の姿が示唆されます。

これに対し、「闇の輝き」という言葉が現れ、これもまたこの曲集のテーマとなっていきます。

 

第4段落、

「漆黒の翼をもって夜の空に飛び立ち、月の光を浴びながら水面に降り立つ」

という文章は、この曲集で僕がやろうとしていることを、この曲集のモチーフを絡めて描写しています。

「悪魔、夜、月、水」といった、陰とされるものを勢ぞろいさせているわけですね。

 

以上をまとめると、ここで示された曲集のテーマは次のようなものになります。

つまり、この曲集は主人公を子どもとしてみたとき、

「あたりまえを疑うことを知り、自分が何者なのか分からなくなり、自分らしさを探し始める」

という子供の成長ストーリーになっているのです。

 

これを踏まえて、先ほどの詩を読んでみてください。

まず、第1連では

「夜、窓、水、月」といったモチーフが示されています。

ここでは、顔を映し出す「窓」というものは「鏡」と同じはたらきをしていますね。

最後の2行で、

窓にうつった 暗い部屋
に 白くうかんだ ぼくの顔

とあり、世界と自分との対比(暗い部屋 vs 白い顔)に不安を感じているのです。

 

第2連では、出てくる名詞の陰と陽、上と下が逆転しています。

窓の向こうは 広い海
海のそこは 暗い空
ぼくは
空にむかってすいこまれながら
じめんの下でゆれる
水の星を ながめた

という文章は、現実的には

窓の向こうは 広い
海のそこは 暗い
ぼくは
にむかってすいこまれながら
水面でゆれる
の星を ながめた

の方が正しいことになります。

ここで、価値観の転倒を表しているわけです。

 

2行で終わる第3連は、この詩で最も重要な部分になります。

本当は、みんなが思っている上と下、善と悪、光と闇は、逆なのかもしれない。

主人公の子どもが、そんな気づきを得たシーンです。

 

第4連、

夜の窓辺で ぼくが
みたものは

「ぼくが」という主語が挿入されることで、アイデンティティが確立されたことを表しています。

ねむりについた 静かなまち
逆さにしずんだ アトランチス

という部分は、夜の町が海の底に逆さまに沈む、という価値観の転倒を表した暗喩で、これをもってこの詩は終わります。

 

曲集のテーマ

というわけで、長々と語ってきましたが、

という結構でかいテーマがこの曲集にはあります。

これが実現される過程を、曲集では描いているわけですね。

次回の記事では、具体的な曲のコンセプトや小ネタについて語っていこうと思います。

作曲家の生々しい頭ン中を楽しんでもらえたら幸いです。

*1:もちろん、EDMやボカロで芸術をやることも可能だと思いますが、一般的に言ってこれらは娯楽音楽の方が多いでしょう。誤解を防ぐため、念のため。

Easy Listnerのためのアニメサントラ選〜風人物語編〜

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〜前回〜

 

暖かくなり風も心地の良い季節、いかがお過ごしでしょうか。どうも、gyoxiです。そしてのサントラ選シリーズです。今回ご紹介するのはこちら。

 

風人物語

より

風人物語 Original Soundtrack Image Album

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風人物語について

風人物語は第1回アニメ企画大賞の大賞を受賞した大鳥南の企画・原案をアニメ化したものだ...

 

...が大鳥南さんに関する情報が調べても全く出てきませんでした。本業では脚本・企画等々はされていない方なのでしょうか、はてさて。

 

で、この作品の監督は西村純二だ。

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西村純二の画像・写真 | 押井守監督、新作アニメ『ぶらどらぶ』制作発表 吸血鬼少女&女子高生のドタバタコメディーが来春放映予定 1枚目 | ORICON NEWS

1955年12月23日生まれ。佐賀県東松浦郡呼子町出身。

明治学院大学卒業後、にしこプロダクションへ入社。1980年に『宇宙戦士バルディオス』で演出家としてデビュー。1982年にフリーとなり、その後は主にスタジオディーン作品を手掛ける。

1985年に『プロゴルファー猿』で初めて監督を務める。2006年の『シムーン』からは西村ジュンジ名義で脚本も手掛ける。

西村純二とは (ニシムラジュンジとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

私が(名前だけ)知ってる西村監督の作品はtrue tearsとかDOG DAYSとかばくおん!とかですね。未履修!

そしてそして、この作品の監修をしているのはなんと押井守だ。

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押井 守(おしい まもる、1951年8月8日 - )は、日本の映画監督、アニメーション演出家、小説家、脚本家、漫画原作者、劇作家、ゲームクリエイター東京大学大学院特任教授、東京経済大学客員教授などとしても活動している。

押井守 - Wikipedia

 

GHOST IN THE SHELL「劇場版 機動警察パトレイバーなどなど、超有名作品に関わっている、あの押井守さんです。私、今年2月に4DXで初めて機動警察パトレイバー 2 The Movie」を観ましたが、その後もう一度観に行き、さらに家でも7回くらい観たのでパトレイバー2はガチでオススメです、ええ。この話はまたの機会があれば...ね。

 

作品内容について

さて、この作品は「風」を操ることができるようになった中学生たちの日常を描いた物語だ。「風を操るなんて、どうやってそんなことを」と思った方のために、その経緯となった1〜2話のあらすじを紹介しよう。

 

主人公ナオはフツーの女子中学生だ。

「ね、聞いた?カオリなんてさ二股かけられたんだってよ!

「ウソ!?サイテー」

友達とそんな会話をしてる、フツーの中学生。彼女は屋上から落ちそうになったのを「風使い」である大気先生に助けられたことから、風の使い方を教えてもらうべく、友人達と先生の帰省先である「風使いの里」へと押しかける。風使いの里での生活風使いの老人から受ける風の手解き恋の悩み、そして強風吹き荒ぶ中の「風の祭り」...そんな様々な経験を経て、ナオは「風」を習得する、というのが1〜2話のストーリーだ。

 

この1〜2話はある種の青春モノとして楽しむことができるし、それ以降は一話完結で話が進むので日常モノとして楽しむこともできる。


 

そしてこの作品の見所はやはり、節々に出てくる風の描写であろう。上に載せたオープニング映像でも、その表現は見ることができる(1:15〜1:19の所とかラストの所とか)。細かな線無数の矢印そして草木のざわめき... この作品では、この少し独特な画風のなかで様々な手法で風が表現されており、観ている我々は映像から風を感じることができるのだ。

 

風人物語サウンドトラックについて

この作品の劇伴を担うのは川井憲次だ。

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川井 憲次(かわい けんじ、Kenji Kawai、1957年4月23日[1] - )は、日本の作曲家、編曲家。東海大学工学部原子力工学科中退、尚美音楽院中退。本人が自分のことを「かーい」と表すため「かーいさん」と呼ばれている。インストゥルメンタルバンドであるfox capture planのカワイヒデヒロは甥。

川井憲次 - Wikipedia

 

うる星やつらめぞん一刻Fate/stay nightひぐらしのなく頃に等の超有名TV作品の劇伴から、前述のGHOST IN THE SHELL「劇場版 機動警察パトレイバーのような劇場版作品の劇伴まで、ありとあらゆる作品の劇伴を担当している大御所だ。

 

そんな川井憲次の作る風人物語の音楽は、風の持つ様々な表情をその音楽で表現している。壮大さ、冷たさ、柔らかさ... そんな風の持つ顔を余すことなく詰め込んだのがこのアルバムなのだ。

 

それでは早速、風人物語の音楽を紹介したい。

 

風のはじまり

風はどのように生まれてくるのだろうか。きっと、何も無いところからふわりと生まれるのだろう。そしてその風は私達の住む街を優しく吹き抜け、世界の旅に出るのだろう。そんな一つの工程を表現しているのがこの曲だと私は思う。

 

風使いの休日

この曲は軽やかでとても楽しげな曲だ。風で例えるならば、暖かくて気持ちの良い春の風といったところだろうか。そよ風の中をサイクリングしているような、そんな心地良さがこの曲からは感じられる。

 

風に抱かれて

この曲から私が想像した風は、宇宙に近いところを吹いている風だ。地球が薄青く、そして丸く見えるような、そんな場所を吹いている風。それは、私達の住む地球を見守り、包み込んでいるのだ。

 

おわりに

さて、今回紹介した風人物語だが、dアニメストアくらいでしか配信されておらず、CDもプレミア価格つきまくりという現状です...配信してくださいマジで。

しかし、DVDは安い価格で転がっておりますので気になった方は是非一度視聴してみてください。心地の良い“風”が、そこにはあります。

 

ではまた。

 

~次回~

nu-composers.hateblo.jp

「四季を巡る」自作解説④ 榊山大亮「last day of summer for 2 pianos」

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last day of summer for 2 pianos

 先に行われる名大作曲同好会第4回「ピアノコンサート」
今回はコロナ禍という未曾有の事態にあってオンライン配信でお送りすることになった。

nu-composers.main.jp

 他のメンバーも書いていることかも知れないが、配信コンサート自体は誰でも無料で観られる形態なので、どうかその代わりと言ってはなんですがクラウドファウンディングにご協力ください。
 若い音楽家たちが身を削って、この時代に準備した文化の灯に温かい眼差しとご支援をお願いできたらと心から思っております。

 

 ということで、今回はこのコンサートに出品した新曲の解説をブログの特集としてお送りするということで、私も自作解説をすることになった。
 自作解説というと、以前のオルゴールコンサートの際に書いた「塑像」の自作解説があるが、今回は趣を変えてみたいと思う。

 

nu-composers.hateblo.jp

 

 どう変えるかというと、作曲ノートをそのまま公開するスタイルにしたいということだ。
 このため、内容は専門的な語句や理論を多く含み、付加する説明も無いので、一般的には理解しづらいものとなってしまうが、なるほど作曲家というのはこうやって自分と対峙しているのかということをリアルに感じて頂けたら幸いである。

 

 とは言えあまりにノートだけであると厳しいので、はじめにこの曲の概要を示したライナーノーツをそのままここに書くこととする。

 

 

「時の終わりに置くブーケ」
 この曲は2020年の夏の終わり頃、なんとはなく書いたピアノ独奏のための小品がベースになっている。
 毎年折に触れて小品をなんとはなく書いたりしていたが、ここ数年は夏の情景の間に間に漂う日本的な、あるいは感傷的で個人的な風景を切り取って、茫洋とその響きを書き留めていたが、2020年はある意味で極めて特殊な年になってしまった。
 当然青天の霹靂が如く、令和の世の中に悪疫が蔓延し始めたのである。全く未知のウイルスのことが少しずつ分かってくるに連れ、人と人との接触を抑えることが重要ということが言われ始め、花見もなく、歓送迎会もなく、学校や通勤でさえも一時はなくなった。飲み会も会食も、帰省さえも奪われてゆく世の中で、誰にも愛でられることなく散ってゆくソメイヨシノを眺め、なんとも言えない寂寥感に襲われた春が過ぎ、プールや海のレジャーさえも取り上げられて、気がつけば家の中で夏の終わりを迎えていた。
 ふと、耳を澄ませるとツクツクボウシが鳴いている。今年の法師蝉の声は誰も季節の風物詩として聴いてくれないのかなと思ったときに、私はまた春と同じ寂寥感に襲われた。
 そこでツクツクボウシの声、ヒグラシの声をサンプリングして周波数解析を行い、これに晩夏の最も遅い頃、誰もいない夜の帳の中で感じた空気の匂いを表現した和音群を混ぜ、一片の小品に仕立ててみたのが始まりである。
 どこにも発表することもなく書いた断片的な小品だったが、2021年になって未だ続くコロナ禍にあって、我が弟子たちが運営する名大作曲同好会がオンラインによるピアノコンサートを企画した。
 実を言うとそれ以前に本来のピアノコンサートを企画していて、別の曲も書いていたのだが、様々な事情で流れてしまい、配信形式となってもう一度一から企画することになったのだ。
 しかもちょうどそのコンサートのテーマは「四季」。とかくある時期に限定せず円環の思想が如く流れ行く四季の間に、私はこの曲を出品したくなった。そこで二台のピアノのための作品として抜本的に書き直してみることにしたのだ。
 原曲を大幅に拡張し、失われた夏の亡霊をふんだんに盛り込んで再構築した。ツクツクボウシ、ヒグラシ、なくなった祭りの高揚、かき消された海風と人々の歓声、そんなものを織り込んで曲は展開する。
 もし我々が、我々人類が一人もいなくなっても、この歌はずっと聞こえ続けるのだろう。聴き手がなくても続く歌は寂しいのだろうか、果たして寂寥とは一体どこからやってくるのか。時の終わりにそっとおいてみたい音のブーケである。

 

 

作曲ノート

 

前提とキーワードの設定

・四季の切り取り、流転、円環
・失われた夏に感じる人間的寂寥感
・感覚的に感じる夏の色彩の象徴
・聴覚的に感じ取られる夏にある実際の音
・時間の外側からの眺望
・人類が時間の一員でなくなったとしたら
・そのときに寂寥はあるのか
・寂寥とは傲慢な完成に過ぎないのか
・円環とは我々の時間の中だけに作用するのか
・滅亡の後の誕生への大きな意味での円環
・そのピリオドとしてのある夏の1ページ

 

素材

01

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夏のハーモニーテーマ

・直接感じた音Gを中心にする
・Eを第二中心とする
・T機能が連続するためにはすべてが経過的かD的である必要がある
・経過が経過の役割を放棄するようにする(円環分断の予兆)
・感覚的にまとめ上げるためにあえて和声的違反をわかりやすく付加する(対斜する進行)

 

02

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実際の夏の音1

ツクツクボウシの音
・スペクトルアナライズを用い、テンポ割に嵌入させることでリズムを得る
・特に特徴的と思われる部分を切り抜き素材源として用いる

 

02-02

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特徴的な部分1

・ハーモニーテーマと半音関係が多く結びつくとは考えにくいと感覚的に感じるもの

 

02-03

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特徴的な部分2

ツクツクボウシの鳴き止み前のカオス
・PCSによる音列化によって素材転用する

 

03

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実際の夏の音2

・ヒグラシの音
・スペクトルアナライズと平均律による平均化
・漸減リズムとフェード(時の停止への予兆)

 

 

実際の作曲に際して

 

04

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素材の変奏1

・ハーモニーテーマの変形
・繰り返しを多くミニマリズム的な処理にする(時の連続性と円環の実感)

 

05

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素材の変奏2

ツクツクボウシの変容
・ミニマル的変奏、時の一員としての表現、恣意性のある聴取の比喩として

 

06

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人間の瞬時消失

ツクツクボウシの変容のみでなる部分
・拍動を5/16を1単位とするものにして変奏する(時の連続性への疑義)

 

07

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挿句1

・失われた夏祭りの挿句
・伊福部先生的土俗性(かつて普通だった人間の夏)
・音列をツクツクボウシ由来とする(人間が気が付かない円環の象徴として)

 

08

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挿句2

・失われた歓声の挿句
・ハーモニーテーマの変奏を伴う(人間主体の象徴として)
ツクツクボウシの音列を動きのあるパッセージとして用いる
・徐々に高まる音密度(歓声の高まりとして)

 

09

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いつの間にか加わってくるヒグラシのテーマ

・ヒグラシ音形を連打のみに変形する(隠喩)
・夏のハーモニーテーマとの共存(時の終わりへの予感)

 

10

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セミの共演

・2つのセミが鳴き合う
・人はその声を意識しなくなっている
・時の交代

 

11

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ヒグラシの原型

・ヒグラシのテーマを原型のまま繰り返す
・夏の夕方の象徴として
・時の夕暮れの象徴として
・人類の夕暮れ

 

12

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コラール

・夏のハーモニーテーマの回帰
・ヒグラシの音列を和声進行化(ただし調的な並びに拘泥しない)
・人の時間にセミが介在している(という錯誤)

 

13

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終結

・すべての素材の単純化とはじめの感覚的中心への回帰
・和声中心は複数用意する
・次の人類の登場の予感
・四季は時であり、時は人のものではなく、また時もまた流転する

 

以上


あなたはコロナ禍に何を聴いたか。
私は人のエゴを聴いたのかも知れない。あるいは時の一員であるものの自然で無垢な声を聴いたに過ぎないのかも知れない。