名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

我が国の作曲家シリーズ「番外編3」

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我が国の作曲家シリーズ

 皆様あけましておめでとうございます。


 旧年中は名作同も新型コロナウイルスの蔓延で思ったような活動ができず、非常に苦しい思いを致しましたが、皆様におかれましては、ご健康にお変わりはございませんか?
 中国武漢を発生源とする新型コロナウイルスの感染拡大はとどまるところを知らず、そこに馬鹿な日本人の行動バイアスも手伝って、まったくひどい年越しになってしまいました。
 こんなにも年越し感のない経験は個人的に初めてであり、今年もいつから本格的に文化社会活動が再開できるか先が見えず、不安がいっぱいのスタートです。

 本来であれば時節柄新春に関係する記事を書くべきところなのでしょうが、上記の経緯で筆者は全く年越し、新春の空気を感じていません。
 私の中では年が変わっていないとすら言えるのではないかと思っており、2020年13月のスタートだなと考え、いつもどおりの音楽を真面目に考える記事にしようかと思います。

 

 


 前回の私の担当週に書いた「我が国の作曲家シリーズ-番外編2」では2人の個性的な作曲家、八村義夫と甲斐説宗を紹介した。

 

nu-composers.hateblo.jp

  実はこの記事とも関連が少しあるのだが、八村義夫のお弟子さんに藤家溪子さんという女性作曲家がいる。

 

――女性作曲家

 

この表現は常に様々な議論の焦点とされる言葉である。

 

―男女関係なく「作曲家」は「作曲家」であり「女性」とわざわざ冠するのは性差別である!
―「女性作曲家」とくくることで男性の優位性を示すミソジニーに満ちた思想だ!

 

など、常にフェミニズムのターゲットとして取り上げられてきた。

 

 私は個人的にこうやってフェミニストがその思想を色眼鏡に言葉狩り的に「女性作曲家」という言葉にアレルギーを示すこと自体が、被差別側にこそ差別意識があり、それを触媒に利用して技術的差異を無視させようとする恣意性を感じると思っている。
 私の最も嫌いな思想の一つがフェミニズムであることは言うまでもないのだが、だからといって女性を蔑視しようというわけではないのだ。
 本来的にそれが才能と技術によってなされていれば、どのような言葉で形容されても良いはずであり、それを切り取って脚色することで別の問題にすり替えてしまうことのほうが、文化的活動においては障害になってしまうと思っているのである。

 そういう意味では「男性作曲家」「女性作曲家」「作曲家」と、どの表記も基本的それ以上の意味はないし、区別はあっても差別を内包しているとは思えず、常にこの手の議論や「ウイメンズアクション」などと聞くと、おぞましい気持ちでいっぱいになるわけである。

 しかしそれはそれとして、確かに日本の作曲をめぐる中心はずっと男性であって、女性はある意味で「ろくな曲がかけるわけがない」というレッテルを貼られていたのも一方で事実ではある。
 これこそ実にくだらないもので、色眼鏡によって正しくそこにある事物を見ることが出来ない、聴くことが出来ない愚かな評論家達によって醸成された、極めて醜い楽壇の形であった。

 ではいつそういったムードが打破されていき、上記のように私同様に実際には差はなく、イーブンであり、単純に才能と結果で語ろうという意見を持つ人が増えてきたのだろうか。
 いわば日本作曲界における男女雇用機会均等のような話であるが、今回はそんな日本の作曲史のなかにあって特筆すべき功績を生み出したと私が思っている作曲家2名と、それこそ登場の早すぎた作曲家1名を中心に記事を書いてみようと思う。

 

 

●藤家溪子

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藤家溪子

 藤家溪子は1963年7月22日に京都に生まれた。
その後、東京芸術大学に進み作曲を八村義夫に師事、ギタリストの山下和仁と結婚した。

 なぜこの人を取り上げるかというと、彼女の「思いだす ひとびとのしぐさを」という曲にその理由がある。

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「思いだす ひとびとのしぐさを」

 この曲で注目したいのはまずタイトルである。
 通常は日本語タイトルの下に書かれる、外国語タイトル表記は日本語の訳であることがほとんどなのだが、この曲全く違う。


 「Beber」という単語一つだけが書かれている。


 それ以外にこの曲のスコアを見ても、楽曲について解説している部分はなく、実際にどういう曲であるか意図的に説明を避けたように見える。
まずはこの謎めいたタイトルの曲を聴いてみよう。

www.youtube.com

 

 非常に込み入っていて分かりづらいという印象を持った人の多くは男性ではないかと思う。
 女性が聴いたときには、抽象的だが、なんだか分かりづらいというより、分かるような気がするけど分からないというような感情を持つのではないかと思う。

 

少しこの曲について考えて見る必要がある。

 

 まず手がかりが非常に少ない中、外国語タイトルの「Beber」に注目して見る必要がある。
 これはスペイン語の「飲む」という意味の単語である。

 「思いだす ひとびとのしぐさを」という邦題がなぜ「飲む」になるのだろうか。
この点を理解しないとこの曲にはまず入り込むことは出来ないだろう。

 実はこの「Beber」というタイトルは、チリ人の女性詩人ガブリエラ・ミストラルの詩に由来しているようなのだ。

 

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ガブリエラ・ミストラル

 ガブリエラ・ミストラルは1889年に生まれ1957年になくなったチリの女性詩人であり、外交官でもあった人物である。
 幼い頃から苦労し、独学で詩を覚えて、さらに独で教員資格を得た。
 その後詩人としての活動開始するが、恋人の自殺を機に作風が変化して行く。
 こうして高名な詩人となっていった彼女は、メキシコ革命の後にメキシコ政府の招聘を受けるなどして、政治的な活動にも参画するまでになる。
 

 彼女が世界的詩人となった決定的な瞬間は、ラテンアメリカで初めてのノーベル文学賞受賞者となったことなのは間違いない。
 こうして女性として大いなる出世をした彼女だったが、今度は彼女の甥っ子が自殺してしまう。
 人生の成功の裏に常に親しい人の死がついてまわる激動の67年を送った彼女が1947年に書いた詩集「Antologia」の中に「Beber」はある。
せっかくなので原文の載っているサイトを紹介しよう。

cvc.cervantes.es

 

 詩の内容は難解ではあるが「飲む」という行為にまつわる様々な生き物や人の記憶を描いている。
 そしてそこには幼い子の存在を示す部分があるのだが、この時点で先程の藤家作品の意味が見えてくるではないだろうか。

 まさに「飲む」ことを通じて様々な記憶を綴ったこの詩がそのまま曲に投影されていると同時に、ノーベル賞をとった女性詩人の詩であること、そして子育てをする母の姿、これらが一気に見えてくるのである。
 この曲はある意味では「女性であること、母であることは芸術であるか?」と世に問うた作品であるのだと思う。


そしてその結果はすぐに出たのだ。


 藤家のこの作品は1995年の尾高賞を受賞したことではっきりと「それが芸術たりうる」という評価を受けたのだ。

 私はこの瞬間に日本の作曲史の1ページが塗り替えられたのだろうと考えている。
女性が女性であること自体が「芸術」であると認められた瞬間である。

 藤家は他にも打楽器アンサンブル「花庭園」ギター協奏曲第2番「恋すてふ」といった作品で、臆面もなく、いや自信を持って女性性を作品にしている。
そしてそのどれもが明らかに傑作であることは言うまでもない。
日本の一つの曙である。

 

 

 

山根明季子

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山根明季子

 山根明季子は1982年10月1日に大阪に生まれた。
 京都市立芸術大学に進み、同大学院を修了した。作曲を澤田博、松本日之春、前田守一、中村典子、川島素晴に師事し、ドイツのブレーメン芸術大学へ渡って朴泳姫にも師事している。
 彼女はかなり若いときから活躍しており、23歳の時の作品「Re-Collet」では武生作曲賞入選、同年の「Transcend」では日本現代音楽協会作曲新人賞富樫賞受賞と早熟であった。
 そして彼女の存在を確固たるものにしたのが2006年(24歳の時)に書かれた「水玉コレクションNo.1」日本音楽コンクール作曲部門第1位に輝き、作曲部門では初めて聴衆賞である増沢賞をも受賞したことである。
 この曲はその後彼女のライフワーク的作品シリーズになっていくので、少し解説が必要であると思う。

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「水玉コレクションNo.1」

 山根の作風は端的言えば「四分音符の多用」「全休止の多用」につきる。そしてあらゆる作曲論理から離れた独特の感性による音楽構築をしており、まさにそういった意味ではポスト・モダン世代の申し子とも言えるだろう。
 彼女自身はこの水玉コレクションのシリーズでは「明滅するテクスチャーを空間に配置する」という概念で「空間デザイン」的に作曲を行っているという。
 特にこの第1番では当時極めて親密であった師の川島素晴の影響が強く見られるが、それでも四分音符を中心とした明滅テクスチャーははっきりと見えてくるし、それらが周期を変えながらレイヤーされていく様子も聴いていてすぐ分かる。
 そこにソロのピアノが実にユニークな演奏を乗せてゆくことで「かわいい空間」が表現されていると言えるだろう。

音源の一部が彼女のSoundcloudで聴ける。

soundcloud.com

 彼女のこうした独特の個人的作風はこのシリーズを追うごとに強くなってゆく。
 次に「水玉コレクションNo.2」を聴いてみよう。
 この曲は「任意の楽器を伴うヴォイスパフォーマンス作品」であり、言葉をすべて「ぱ行」で変質させて標本化してそれを収集していくという作品であるそうだ。
歪められた日本語の残滓とその抽象化された残骸が変質されて「かわいい」作品として完成している。

www.youtube.com

 このように山根の作風は奇異で独特であり、それ故他人と音楽的共感を共有できたことがないのだという。
 その痛みが彼女の音楽の根源にあり、またその孤独が彼女の独自性を強化させることにつながっていっているように見える。


しかし重要なことはそこではない。

 

 彼女の曲が世に問うたテーマはなんだろう。
 そう「かわいい」という現代女性独特の表現そのものである。
 言い換えれば「かわいいは芸術ですか?」というものである。

 そして結果は明らかである。それは芸術として評価されるばかりでなく、大衆に広く受け入れられるという快挙を成し遂げたのである。
 ポスト・モダンにおける個人様式が叫ばれて久しいが、それらはまた個人が集団に圧倒されないように、同調圧力と闘うというエネルギーを作曲家にもたらした。
 それは20世紀の前衛音楽家がさらされてきた「音楽とはこういうものだ」という同調圧力と似ていなくもない。
 そういう意味でかつて(いや今も)そういった圧力に屈せず、階級闘争としての音楽を追求する高橋悠治などの姿勢との共通点を語るものもいる。
 無論、ポスト・モダンの個人様式であれば近藤譲との共通点を論じるものもある。しかしそれらは基本的に私は間違えだろうと思う。

 

これらは階級闘争ではないのだ。

 

 単なる個人の「感想」過ぎないものであり「かわいい」ということに絶対性もなければ、実は永続性すらもない。
 衝動性と連結された感性そのものであり、刹那的で案外排他的なものですらある。クローズドでありながら共感を求めてさまよい歩く感覚の亡霊だとすら言えると思うのだ。
 そしてそれが現在の芸術の一翼であり、説得力を獲得して存在するのは実に衝撃的な出来事ではないだろうか。

 

 

 

 

●早すぎた作曲家、そして日本クラシックの源流

 階級闘争という言葉でいうと、かつて吉田隆子という作曲がいたことを思い出さざるを得ない。
 本当に楽壇が男性に満ちており、社会は封建制が当たり前であった時代の作曲家であり、それと激しく闘った人物なのである。

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吉田隆子

 吉田隆子は1910年2月12日に当時の東京府荏原郡目黒村(現東京都目黒区)に生まれた。
 父は陸軍少将の要職にあり、そういった意味では上流階級の生まれである。
 当然幼い頃から情操教育を受ける事になり、琴はわずか4歳から習うことになったという。
 その後順調に進学をし、女学校時代には納所弁次郎にピアノを習うことになった。
親の意向での結婚を破断させ、更に音楽への研鑽を深める道を選び橋本國彦の門に入る。
 しかしこのあたりから彼女の中に抗いがたい不満が高まっていったようだ。
 橋本の教えに不満を持ち、その門を割って出ると、菅原明朗の門に移って多くの作曲家と交流するようになる。
 男性遍歴もこの当時にしては過激で、不倫、二股と驚くような過激さだが、それも彼女が男性社会に対して抱いていた強い不満の現れだとも言える。
 私個人としては、だからといって「女性として生きようとした」という言葉の下に、これらのインモラルな選択を許容するのはおかしいと思っている。
 こうやって論のすり替えによって現代では「早すぎた女性革命家」と持ち上げられる彼女だが、その後はさらに過激度を増してゆく。
 1932年にプロレタリア音楽同盟に参加したことがその一端を表しているが、残念なことに同団体自体はその2年後に解散になる。
 反戦運動通じて社会的な活動する一方、相変わらず私生活は奔放を極め、離婚、不倫を繰り返しながら、治安維持法による逮捕も4度経験する。
 戦後に音楽活動を再開するが、奔放な人生の代償なのかガンを患い1955年に46歳で亡くなっている。

 そういった彼女だが、これだけはっきりとこの時代に「女性である」ということを主張し、作曲の楽壇で闘ったものはいない。
 その意味では早すぎた革命者の二つ名はぴったりとも言えるが、肝心の作品はどうなのだろうか。

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「ヴァイオリン・ソナタ

 本当はこのヴァイオリン・ソナタを紹介したいのだが音源がない。
 そこで初期のピアノ作品である「カノーネ」を紹介する。
 短い小品ではあるが、すでに当時としてはモダンな作風をもっていたことは分かるだろう。

www.youtube.com

 吉田隆子は未だその評価が分かれ、再評価の途上であることから、音源も楽譜の出版も少なく研究するにはまだまだ資料不足の感が否めない。
 しかし一聴にしてなるほど最近の曲かなと勘違いさせるだけの魅力はあり、確かなモダニズムと技術を持っていたことはすぐに分かる。
 とかくその人生ばかりが強調されるが、肝心なのは作曲家としての彼女の作品である。
 現代の妙な思想の犠牲者にしないで、音楽家として、文化として評価されることを望まずにはいられない。


 ところで、日本の西洋音楽の源流は誰かという議論の中で、初めての音楽留学生として、優れたピアニスト、ヴァイオリニスト、作曲家として多くの後進を育てた人物に女性がいたことをご存知だろうか。

その人の名は幸田延という。

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幸田延

 幸田延は1870年4月19日に当時の東京府下谷(現東京都台東区下谷)に生まれている、兄の一人はかの有名な作家の幸田露伴であり、妹の安藤幸も日本黎明期を支えたヴァイオリニストである。
 当時であるから当然名家の生まれではあるが、本格的な音楽教育を受け、1889年にボストンのニューイングランド音楽院への留学を果たしている。
 更に1890年にはオーストリアに留学し、ヘルメスベルガー二世にヴァイオリンを、ロベルト・フックスに作曲を師事している。
 帰国後は東京音楽学校助教授となり、すぐに教授に昇進している。
 弟子にはなんと瀧廉太郎、三浦環本居長世山田耕筰久野久、萩原英一などの名前が並び、殆どの日本人が日本の西洋音楽の源流と思っている瀧廉太郎や山田耕筰を指導したことに驚かされるばかりか、それが女性であったことは大いなる衝撃をもって受け止めざるを得ない
 つまり、日本の西洋音楽の伝道師はそもそも女性であったと極論することも可能であり、その後の吉田隆子のような闘争の時代をもたらしたのは、文化とは関係のない政治の世界、世界の力学構造の変化であったことは無視できないと思う。

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「ヴァイオリン・ソナタ第1番 変ホ長調

 さてそんな日本のクラシックの育ての親とも言える幸田延の音楽だが、実に流麗なドイツロマン様式で書かれており、その技術力の高さに驚かされるばかりである。
 書かれた曲は多くないが、代表作と言われるヴァイオリン・ソナタ第1番変ホ長調を聴いてみようと思う。

www.youtube.com

 こうやって日本作曲史を振り返ってみると、封建的な楽壇の姿勢とは何だったのだろうか。
 しかもその後楽壇は左傾傾向が加速し、黛敏郎のような音楽家は闘争の姿勢として右傾化を選択するなどしていった。
 残念ながらその体制は未だに変わらず続いているが女性を排斥しつつも左傾化するというのは、論理的にはおかしな話であり、音楽家の浅知恵と馬鹿にされてもなんら反論の余地すら残っていないと思う。

 私は、音楽の原動力、芸術の原動力の一つに闘争があることを否定しない。
 しかし闘争というものは、一旦色眼鏡をかけ、ポジションを決めてしまえばいつか潰えて壁にあたってしまうことになる。
 本来的に闘争を考え続けたときに、そういう立場の固定から最も遠い場所にあって文化を護持してゆくことこそ現代の音楽に課された命題であり、名作同のような在野音楽家の専門機関としての存在は、今後楽壇の対極の存在としてその重要性を増してゆくと信じている。

 日本における女性の作曲というものを時系列で見つめた時、音楽というものを政治のあるいは既得権益の確保の媒介とするウジ虫の存在を強くうかがい知ることができるのは、非常に痛烈な矛盾ではないだろうか。


さあくだらない力に対して今こそ指をさして嘲笑の雨を降らせようではないか。


 もっとも今一番下らないものは、まともなコロナ対策もできず、妙な力におもねり続ける「日本という国」とその「為政者」に他ならないのだが。

 

そんなわけで今年も一年、名大作曲同好会共々、どうぞよろしくおねがいします。

クリスマスソングのるつぼ

皆さんいかがお過ごしでしょうか。

いきなり寒くなったかと思えば猛烈な勢いで年末が迫り、あれよあれよという間に今日はです。

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クリスマス

今年は何につけてもコロナ禍抜きでは語れない1年でしたが、クリスマスも例外ではありません。

大勢で集まってパーティーをしたり、都会に繰り出して喧噪に揉まれたりすることは、この世相では難しかったことでしょう。

しかし、そんなときでも音楽というのは強いですね。

電波に乗ってみんなの元へ届いてくれます。

そういうわけで、今年のクリスマスは家で慎ましくクリスマスソングに耳を傾けてみてはいかがでしょう。

たまにはそんなクリスマスの過ごし方もリッチじゃないですか?

 

先日、名作同の会員たちに声をかけ、みんなのお気に入りクリスマスソングを集めてみました。

ジャンルも雰囲気もばらばら、さながらクリスマスソングのるつぼという感じですが、あなたのお気に入りのクリスマスソングを1つでも見つけていってもらえると嬉しいです。

 

 【もくじ】

 

交響曲第2番「クリスマス」/Krzysztof Eugeniusz Penderecki

いきなり大曲ですが、「広島の犠牲者に捧げる哀歌」などで知られるクシシュトフ・ペンデレツキがこんな交響曲を書いています。

選者は榊山先生。

【選者のコメント】

一般的には後期ロマン様式に転換したあとの作風で書かれたと言われる交響曲で、重厚かつじっくりと展開する単一楽章の交響曲です。本来のクリスマスの過ごし方を考える時、あるいは今年のような世界的受難の年にはまた違う聴こえ方がするような気がします。ミサ的であるこの曲には「きよしこの夜」が引用されている点も面白いかと思います。

 非常に重厚で荘厳な、本当に神様が降りてきそうなオーケストラ曲ですね。

古典的な作風に回帰した響きがとても神聖です。

 

ルーマニアのクリスマスキャロル /Bartók Béla

お次はピアノ曲

民族音楽研究家として知られるバルトークの作品です。

選者はなんすい会員。

 【選者のコメント】

バルトークが)民俗音楽を分析してその語法をどんどん取り入れている初期の頃の作品です
ルーマニアにはコリンダっていう伝統的なクリスマスキャロルがあって、子供たちがそれを歌いながらハロウィンみたいに家を回ってお菓子とかもらう風習があるらしいです

ルーマニアにそんなかわいらしい風習があるとは知りませんでした。

この曲を聴いても見知ったキャロルは出てきませんが、何となくうきうきした気分になるのはやっぱり国境を超えた力なんでしょうか。

 

サンタが町にやってくる(ジャズver.) /Dave Brubeck Quartet

クラシックが続いたので、そろそろポップスに移ってみましょう。

クリスマス・キャロルイカしたジャズアレンジ、心躍りますよね。

選者は榊山先生。

【選者のコメント】

変拍子をジャズに持ち込んだ巨匠で、ウェスト・コーストジャズの第一人者として知られるデイブ・ブルーベックが、サックスのポール・デスモンドらと組んでいた伝説的クァルテットである、デイブ・ブルーベック・クァルテットがクリスマス・キャロルやクリスマス・ピースをカヴァーしたものから、サンタが町にやってくるです。
渋みの中に童心のときめきみたいなものが残っていてナイスなプレイだと思います。

 派手すぎない落ち着いたサウンドが大人っぽく、それでいて自然とノッてしまう名アレンジだと思います。

途中「荒野の果てに」のメロディが隠れているのもチャーミングですね。

 

Christmas Time Is Here(cover)/Dave Koz

もう1曲ジャズ行ってみましょう。

非常に色っぽいサックスで有名なデイヴ・コーズ、このアレンジもとても懐かしく感傷的です。選者は榊山先生。

【選者のコメント】

現代のacid jazz、smooth jazzのサックスプレイヤー、デイブ・コーズのクリスマスカヴァーアルバムから、これも定番曲のChristmas Time is Hereです。

たまには普通に楽しめるプレイもいいですね。 

 「Christmas Time is Here」は、スヌーピーで知られる「Peanuts」のクリスマスアニメ版をきっかけに作られた曲です。

原曲もとてもいい歌なので、ぜひ聞いてみてください。

 

きよしこの夜(レゲエver.)/Carlos Malcolm

さて、今度は変わりダネ。

なんとクリスマスソングの本場ジャマイカ版アレンジです!

選者はg会員。

別の曲を探す過程で偶然見つけてしまったそうですが、西洋の厳かな雰囲気とはやっぱり違って面白いですね。

アルバムの名前が「クリスマス・レゲエ」なのも、そのまんま過ぎて面白いです。

 

 ペチカ(cover)/嶺川貴子 + rei harakami

にほんのうた 第四集 - YouTube

「ペチカ」といえば、山田耕作による純国産の童謡です。

クリスマスソングなのかどうかは微妙ですが、ペチカを囲んで家族で団らんを楽しむ様子はとてもクリスマス的だと思います。

そんな暖かい歌を、rei harakami が非常に大人っぽくアレンジしたヴァージョンを紹介します。

選者は私、トイドラ会長です。

クリスマスの夜にぴったりなアレンジですね。

 

No.9 /鈴木慶一ムーンライダーズ

さて、お次は映画のサントラから。

選者はgyoxi会員です。

【選者のコメント】

クリスマスといえば『東京ゴッドファーザーズ』、ということでこの曲。

3人のホームレスが赤ちゃんを拾ったことから始まるドタバタ劇。

今年6月くらいに初めて観ましたが、とにかく色んなことが巻き起こるので常にドキドキして非常に楽しめました。

この歌はヴェートーベンの第9「歓喜の歌」のアレンジ(というか替え歌)になっているのですが、歌詞はだいぶやさぐれています。

映画を見ながら過ごすクリスマスもアリかも?

 

 ひそやかな12月 /松木美定

最後に、J-popミュージシャンである松木美定の歌を1つ紹介しましょう。

とてもお洒落でありつつ、童心にも響く気がします。

選者は榊原副会長。

【選者のコメント】

元々ジャズ畑出身というだけあってジャズの語法をJ-popに落とし込み、ナイスな曲に仕上がっています。
クリスマスというと家族や恋人と過ごさねばならないような空気を世の中が醸し出していますが、この歌みたいに喧騒を離れて一人クリスマスを過ごすのもまた一興だと思います。 

 クリスマスとジャズの相性は抜群ですね。

よく眠れそうです。

 

おわりに

いかがでしたか?

名作同の紹介するクリスマスソングたち、気に入ってもらえたでしょうか。

最後の最後に、会員が作ったクリスマスソングを少しだけ挙げて終わりにしたいと思います。

皆さんメリークリスマス、そしてよいお年を。

Easy Listnerのためのアニメサントラ選 第三回 ~灰羽連盟編~

~前回~

 

nu-composers.hateblo.jp

 

 

どうも、gyoxiです。第一回、第二回と日常系アニメのサウンド・トラック紹介でしたが、今回はちょっと日常系作品から離れてこの作品。

 

灰羽連盟

より

『ハネノネ』

 

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灰羽連盟」について

灰羽連盟安倍吉俊の同人誌「オールドホームの灰羽たち」を含む作品群を原作とした作品だ。安倍吉俊さんはserial experiments lainのオリジナルキャラクターデザインも手がけており、小説の装丁等のイラストも描いているので、画風を見てピンと来る人も多いのではないだろうか。

 

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安倍吉俊さん

安倍 吉俊(あべ よしとし、英語表記:Yoshitoshi ABe1971年8月3日 - )は、日本イラストレーター漫画家東京都目黒区出身。東京芸術大学美術学部日本画科卒、同大学大学院美術研究科修士課程絵画専攻日本画科修了[1]

安倍吉俊 - Wikipedia

 

そしてこの作品の監督はところともかずだ。

 

ところ ともかずは、日本男性アニメーターアニメーション演出家及びアニメーション監督所 智一所 ともかずと表記されることもある。

湖川友謙の率いていた有限会社ビーボォー出身。

ところともかず - Wikipedia

 

メインで監督をしている作品は少ないものの、アクセル・ワールド七つの大罪きんいろモザイクなどの数多くの人気作品に絵コンテ・原画・演出等で参加している。

 

灰羽連盟の世界

さて、肝心のストーリー紹介なのだが、

ひとまずWikipedeaからあらすじを引用しよう。

 

高い空からまっすぐに落ちていく少女。やがて彼女は水に満たされた繭の中で目を覚ます。古びた建物の一室で彼女を迎えたのは背中に飛べない灰色の羽を持つ、「灰羽」と呼ばれる人物たち。繭の中で見ていた空を落ちる夢から、少女は「ラッカ」と名づけられる。

高い壁に囲まれたグリの街、灰羽たちの暮らすオールドホーム、そこでの仲間たちとの穏やかな日々。戸惑いながらも少しずつその生活に馴染んでいくラッカ。しかしやがて、短い夏の終わりに1つの別れが訪れる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/灰羽連盟

 

この作品の世界観は謎が多く、しかもその謎はストーリーの中であまり解決されることはない。また、この灰羽連盟の世界観は村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドから大きく影響を得ているそうで(自分は読んだことない)、他にも一種の宗教的・哲学的な話が出てきたりと、語る人が見れば幾らでも語ることができる作品になっている。

 

 できればまずネタバレなしで視聴し、その後もう一周して欲しいくらいなのだが、「いや...さすがになんかよう分からへんし...」という方もいるかもしれないので、一つの導入としてその世界観についてお話したい。是非観ていただきたいので。

「ガチでゼロの状態からこの作品を観たいんだ」という方はこのパートを飛ばしてください...

 

それでは「灰羽連盟」の世界を紹介させていただきたい。

 

①灰色の羽根を持つ存在「灰羽

背中に灰色の羽根を持つ「灰羽は水で満たされた大きな繭の中から生まれる。赤ん坊の姿で生まれてくる訳では無いものの、灰羽繭の中で見た夢以外の記憶を持っていない。そして生まれてきた灰羽繭の中で見た夢を元に名前がつけられ、光輪が授けられる。第一話で繭から産まれたばかりの「ラッカ」の看病をする灰羽「レキ」は、こう語っている。

 

レキ:

私たちが何者なのかは誰にも分からない。

とりあえず、灰羽って呼んでる。

灰羽はこの街から出ることはできないんだよ。

それに、この世界のどこかにもしあなたの家族が居ても、今のあなたを見て、あなただとは思わないと思う。

あなたが、あなたの居た世界を思い出せないように、この世界の誰も、あなたのことを覚えていないの。

ここは...そういう世界。

第一話 「繭 空を落ちる夢 オールドホーム」より

 

もちろんこの街には羽根の生えていない、“普通の人間”も暮らしている。

 

ヒカリ:ていうか人の街に灰羽が居候してるのよ。

カナ:そう、そして人が使い終わったものを引き継ぐのが灰羽の務めなんだとさ。

第二話 「街と壁 トーガ 灰羽連盟」より

 

灰羽たちは灰羽連盟によって生活を保障されている。彼女らはお金を受け取ることを禁じられているため、灰羽が働いて得たお金は灰羽連盟を通して、金券のようなものが発行されるのだという。

 

では灰羽とは一体如何なる存在なのであろうか?

そして灰羽達は、"何故に"生まれてくるのであろうか?

 

②塀で覆われている街、街で暮らす人々

生活、とは言ったがそもそも不思議なのはこの街だ。彼女たちが暮らす「グリ」の街は高い塀で囲まれており、住民達は壁に触れることを固く禁じられている。作中でこの塀について「壁は灰羽を守るためにある」とレキが言及しているが、灰羽達が何から守られているのかは語られていない。しかし、街は完全に閉ざされている訳ではない。定期的に塀の外から「トーガ」と呼ばれる交易が来るのだ。しかし例に漏れず、街に住む人々はトーガと交流することはできない。そして「話師」と呼ばれる人々のみが手話によってのみ、接することができる。結局、壁の外に何があるのかは、街に住んでいる者は誰一人として知る由もないのだ。

 

何故グリの街は壁で囲まれているのか?

壁の持つ力とは?

グリの街は誰が作ったのだろうか?

街の外に住んでいるトーガは何者なのか?

 

③旅立ち、そして罪付き

そして、この作品の最大の肝は「巣立ち」の存在である。

 

レキ:

西の森の奥に古い遺跡の跡地があって、巣立ちの日が来た灰羽は、そこに導かれて壁を超えるって言われている。

巣立ちの日は、誰に、いつ訪れるか分からない。

ただある日、ふっといなくなってしまう。

何故そんなことが起きるのか、理由は誰も知らない。

巣立って行く灰羽は、決してそのことを話さない。

第6話 「夏の終わり 雨 喪失」より

 

一方で巣立ちを迎えることができない灰羽が存在するのも事実だ。そのような灰羽「罪付き」と呼ばれる。「罪付き」は灰色の羽根に黒いシミができ、繭の夢も思い出せないのだと言う。

 

巣立ちとは一体何なのだろうか?

灰羽が巣立つ条件とは?

巣立った灰羽は何処へゆくのだろうか?

罪付きの背負う「罪」とは一体?

 

 灰羽連盟サウンドトラックについて

さて、そんな作品の劇伴を手がけているのは大谷幸だ。

 

 

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大谷幸さん

モダンダンサーの両親の元に生まれ、音楽と舞踊の中で育つ。
日本大学芸術学部作曲コースにて、クラシックと現代音楽を学び、An School of MusicでJazzを学ぶ。
その後Party、ダンガン・ブラザーズ・バンドなどのバンド活動を開始。
その傍ら、サザン・オールスターズ、桑田バンド、松田聖子らのコンサート・サポート及びレコーディング・アレンジなどを手掛ける。
ピアノ・ソロ・コンサートを行ったり、海外でのコンサートに出演したりなど、演奏活動を続けるうちに映画音楽に夢中になり、作曲家・プロデューサーとして独立。
ガメラシリーズ」(平成版全作品)「ゴジラモスラキングギドラ精霊流し」「ガンダムW」「金色のガッシュベル!!」など様々なサウンドトラックを担当し、音楽ファンはもとより、映画ファン・アニメファンに愛される存在となる。
映画音楽とオーケストラ、ピアノをこよなく愛するが、クラシックに留まらず、現代音楽、ジャズやロック、テクノ、ヒップホップまで得意分野は幅広い。

 大谷 幸 Artist Plofile (imagine-music.co.jp)

 

個人的に見た作品だと「Another」人類は衰退しました。」とかですね。Anotherの1話冒頭で使われている曲なんかは実におどろおどろしい感じで、放送当時はガチビビりしながら見ていました(自分語り)。

 

それでは、灰羽連盟の世界を感じることのできる音楽たちを紹介したい。 

 

Refrain of Memory


Haibane Renmei - Hanenone - Refrain Of Memory

誕生と出会い。そしていつか訪れる、旅立ちと別れ。そんな優しさと切なさを孕んでいるのがこの曲だ。前世があるとしたら、我々はどのような人生を送っていたのだろうか。思い出すことはできないけど、確かにあった。そんな大切な何かを思い出すことのできない寂しさもこの曲からは感じ取れる。

 

Toga


Haibane Renmei - Hanenone - Toga

壁の外からやってくる交易商、トーガ。独特な衣装に身を包み、フードで顔を隠し、言葉を発しない。彼らと接することのできる話師の人々もまた、民族衣装に身を包み、面で顔を隠している。どこか妖しげで民族風なこの曲は壁の内外の”異文化”への想像をかき立たせる。

 

Rustle


Haibane Renmei - Hanenone - Rustle

灰羽は不思議な存在だ、などと長々と語ってはいたが、灰羽達だって我々と同じ日常を過ごしている。なんら変わらない、静かな日常。街で仕事の手伝いをしたり、みんなで楽しくおしゃべりをしたり、一緒に食事を食べたり。そんな灰羽たちの穏やかな生活の素顔が、この曲からは思い浮かぶ。

 

Eternal Remains


Haibane Renmei - Hanenone - Ethereal Remains

 灰羽達を守る"壁"の存在、そしてそれを超えてゆく"巣立ち"。壁にまつわる事柄の多くは特に謎が多く、不思議で、そして神聖である。壁を越えた灰羽達はどこへゆくのだろうか。転生し、また新たな人生を歩むのだろうか。分からない。分からないがその荘厳さに、ただただ、心を打たれるのである。

 

 おわりに

今回は灰羽連盟サウンド・トラックを特集した。実は灰羽連盟は冬に見るのにぴったりな作品なのだ。というのもこの作品は晩夏~冬にかけての物語であり、また毎年冬至灰羽連盟の日」として、ファンの間で灰羽連盟を見たり、思い出したりする日になっているのだ。貴方も冬至の夜は灰羽連盟を見てその世界に浸ってみてはいかがだろうか?

 

それでは、また。


〜次回〜

日本のエクストリームミュージック①The Gerogerigegege

クリスマスも近いし、世の中には閉塞感が漂ってるし、実は世界ももうすぐ終わるので、エクストリームミュージックの話をしましょう。エクストリームミュージックとは究極にヤバいクリスマスにぴったりな音楽のことです。多分。聴けばわかります。

 

今回紹介するのはThe Gerogerigegege(ザ・ゲロゲリゲゲゲ)、通称ゲロゲリです。

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ちょっとゲゲゲの○太郎に似た名前のこのお茶目な音楽グループは、山之内純太郎(写真左)によるソロユニットです。随分前にチラッと紹介しましたが、今回はもっと詳しくやります。

 

 

来歴

1985年、ゲロゲリゲゲゲこと山之内は、高校時代にメルツバウ秋田昌美に一本のカセットテープを送り、秋田が主宰するレーベルからデビューしました。

 

そのメルツバウの音楽というのが

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こんななので、送ったテープも相当狂っていたことでしょう。

 

その一年後のデビューライブで早稲田大学の講堂ステージに穴をブチあけますが、エクストリーム・ミュージック界隈ではよくあることなので特に言及しません。

 

さらに翌年に記念すべき1stLP「センズリチャンピオン」をリリース。

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ゲロゲリの曲は大体こういう感じなので、以後気にしないでください。気にしたら負けです。

 

このようにしてゲロゲリはエクストリームミュージック街道を爆進していったのです。

 

山之内以外のメンバー紹介

ゲロゲリはソロユニットとは言っても、常にいるのが山之内というだけで、その時々にはメンバーがおり、流動しています。以下はその例です。

 

ゲロ30歳

名前があまりにも衝撃的すぎますが、それを遙かに超えるレベルでゲロ30歳はヤバいです。その証拠をご覧いただきましょう。

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動画開始大体1分後から見てください。ステージ中央で金玉を掃除機で吸われ恍惚としている全裸の男性、これがゲロ30歳です。形容詞のインパクトが強すぎて内容が頭に入ってきませんね。

ちなみにその下の方でひっくり返って奇声を上げているのが山之内純太郎です。本来はこれで十分ヤバいはずなのに、そのヤバさが完全にかき消されてしまっています。

 

ゲロ30歳が登場する曲で有名なのは、この「B面最初の曲」ではないでしょうか。

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アイドルとお喋りができる虚しい楽しいCD音声と言葉のドッヂボールをするのは、我らがゲロ30歳です。あらゆるオブラートを突き抜ける性欲100%の言葉の一つ一つから、婉曲表現に塗れた現代日本人のへの批判が込められているように感じられます。そんなわけあるかい。

 

ストロング金剛

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このビデオの冒頭で叫んでいる男は元プロレスラーのストロング金剛(ストロング小林)です。日本人初の覆面レスラーとして大変有名です。

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彼はまだ常人の域を脱してないので、米軍基地前で叫んだ後恥ずかしそうにしてたり、横でノイズをまき散らしまくる山之内を見て、「うるさ......何やってるんだろう俺」とでも言わんばかりの目をしてたりしていますね!その反応で合ってると思います。

 

彼の声が聴けるアルバムは知りません。ゲロゲリはめちゃくちゃ作品数が多く、かつライブ会場限定で数十枚単位で発売されてたりするので把握が困難なのです。ということもあり、めちゃくちゃ高価でレアでもあります(一応通販で買える)。まあこんなの普通欲しくならないからレアだわな......

 

ゲロゲリの音楽性

そんなゲロゲリの音楽性は、上記からなんとなく察せるように、あまりにも自由で広大です。

 

例えばエクストリーム・ハードコアパンク

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方やアンビエント・インダストリアル

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その音楽性は広すぎて、作品の中には最早音楽なのかもわからないようなものもあります。

 

最早音楽ではない「昭和」

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昭和天皇のご尊顔をジャケ写にしたアルバム、その名も「昭和」音割れ君が代が流れたかと思えば、後はAVの音声が流れるだけです。

 

何故コレを売ろうと思ったのか。そういうことを考えてはいけないのです。何故ならそれは何故聴いてしまったのか、という問いと同じであり、そこにあるのは圧倒的無意味のみであるからです。アングラは基本的にナンセンスがセットでついてくるので、意味を求めない方が健康に良いと思います、本当に。

 

更にゲロゲリには「音楽/音楽でない」以前の問題もあります。

 

発売前のシングルを全部燃やす

見出しの通りです。センズリチャンピオンの後に出したシングル「SEXUAL BEHAVIOR IN THE HUMAN MALE」の発売記念ライブで、このシングル盤を全部燃やしてしまいました。商業主義に真っ向から対立するこの姿勢はまさしくパンクそのものであり、やはりゲロゲリの根幹にはパンク精神が存在していると言えるでしょう。

 

 

......本当にそうなのか?

 

別にゴミみたいな音楽ばかり作っているわけではない

ここまで読むと、ゲロゲリはノイズ撒き散らすだけのヤベー奴らと思ってしまいがちですが(実際そういう面もありますが)、必ずしもそうではありません。

ノイズや奇行はあくまでも手段であり、ゲロゲリの音楽性は時とともに移り変わっているのです。

 

2019年発売のアルバム「Uguisudani Apocalypse」を見てみましょう

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なんとノイズの姿はほとんど見られず、80年代風の音楽(のサンプリング?)になっています。みんなノイズが無いと一周回って不安なようで、YouTubeのコメント欄で外人が困惑しててウケました。

 

まさにこのようにリスナーの期待を裏切りまくっていくところがゲロゲリの最大の魅力であり、ゲロゲリがカルト的人気を誇っている所以なのです。多分。標本が自分しかいないのでなんとでも言えます。本来なら実際にゲロゲリ聴いてる人に魅力を聞くべきですが、そんな人に絶対会いたくないですし......

また、ゲロゲリは近年アルバムを精力的に発表しているため、今後の作品から目が離せませんね。というか離さないでください。おわり。

 

 

我が国の作曲家シリーズ「番外編2」

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我が国の作曲家シリーズ

 久しぶりのこのシリーズだが、今回はこのシリーズで取り上げるような忘れられてしまった作曲家でもなければ、無名のままひっそりと消えた作曲家でもない。
確固たる仕事と、足跡を残し日本音楽史にその名を刻んだ作曲家2名である。
無論一般的な知名度という観点から見たら、そこらへんのクソアイドルにも及ばないのかもしれないが、日本音楽史の中でも孤高の存在であり、自らの音楽を徹底的に追求した真の芸術家なのである。

 

八村義夫という作曲家
一人目に紹介するのは八村義夫という作曲家だ。

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八村義夫

 八村義夫は1938年10月10日に東京に生まれた。
 ご多分に漏れず英才教育を受けていたようで、桐朋学園大学が開いている「子供のための音楽教室」(通称「音教」)に入って勉強を開始している。
 前衛の風が吹き始めていた当時、音教でも当時の最新鋭を行く作曲家が教えており、柴田南雄や入野義朗に出会ったのもこの頃だという。
 しかし作曲ということになると、松本民之助に長くついて学んでおり、その後島岡譲についていることを考えると、名伯楽を渡ってきたなという印象もある。


 芸大卒業後、一旦は教職の道へ進むが、大学院に再入学更に研鑽を深めたという。
しかし作品はというと、彼は生涯を通じて極めて寡作であったことが知られている。
その理由の一つは、圧倒的な個人主義による音楽への美学を持っており、徹底的に自作に厳しい姿勢を貫き、中途半端なものを書かず、また納得行かなければ破棄してしまう上に、恐ろしく遅筆であったからだ。
 もう一つは、精神性の脆さというか、もともと人格形成における歪みのようなものがあったと思わせる、非常に危うい面を持ち合わせていたことによるものと思われる。

 

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星辰譜

そんな中「星辰譜」という作品を完成させ、これが彼の出世作となって、桐朋学園大学、芸大と両母校で教鞭をとることとなってゆく。
 お弟子さんも野川晴義、藤家溪子、久木山直、杉山洋一など特徴的な作風をもつ人々が多くなっているのもまた、八村義夫という人物を表しているように思う。

 八村の音楽は一般的に超現実主義と個人語法の極端な集積として語られる面が多く、初期作品を除くとその音楽はポスト・モダン初期のネオ・ロマンのような趣があり、個人の美学を極限まで追求し、そこに論理性やある意味ではエリクチュールを遠ざけ、たった一人で心中の不安定と孤独に向き合い、それをカミソリで切りつけながら描いた絵画のような痛みの音楽である。

 

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錯乱の論理

 そんな八村の音楽が最もはっきりと形になって現れたのが、彼の代表作である「錯乱の論理」だろう。

 


八村義夫:錯乱の論理~ ピアノとオーケストラのための

 

 この曲はピアノ協奏曲のスタイルをとっており、本来これを超える大作となるはずだった未完の遺作「ラ・フォリア」を除けば、唯一八村が完成させたオーケストラ曲であることも重要である。
 極限まで積み上げられた彼の美意識というものは、一般のそれを遥かに凌駕しており、きっとぱっと聴いただけでは轟音との区別はつかないかもしれない。
しかしこれが彼のロマンであることは言うまでもない。

 

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カルロ・ジェズアルド

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シルヴァーノ・ブソッティ

 彼は「歌いたい歌もなければ、響かせたい和音もない」ということを言っている。
そんな音楽を書く基本と思われる前提が「存在しない」のになぜ音楽を書くのだろうか。
 そして八村は、殺人を犯したことで罪の意識から病み、その鬱々たる精神を描き出したともいわれるカルロ・ジェズアルドの音楽を愛し、またセクシャルで極めて表現的、センセーショナルで常に破滅的な芸術を得意とするシルヴァーノ・ブソッティに心酔したのはなぜだろうか。

 

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彼岸花の幻想

 私はその答えの一端を彼書いた子供のためのピアノ作品である彼岸花の幻想」に感じられるように思う。

 


Yoshio Hachimura: Medaitation "Higan-Bana" for piano Op.6 / Rikuya Terashima[pf]

 

 「少年の頃に感じた言いしれぬ不安感を表現した」というこの曲は、子供のための音楽という前提を(技術難度的には)完全に無視し、自身の音楽感とそして、脆すぎる精神性をあえて打ち出して書いてきた。
 そのことは彼の「生への苦しみ」の独白であろうし、それが少年時代から彼に宿っていたという告白であるように感じる。

 こうして極めて不安定な土台の上に、極めて苛烈な美学を併せ持った八村が正気を保つのは難しく、彼は次第に酒に溺れてゆくこととなる。

 混声合唱のための「愛の園」(アウトサイダーNo.1)やエリキサなどの充実の作品を発表するが、その頻度は芳しく無く、
 相変わらず一曲の完成度の高さに比して、作品数は伸び悩んでいき、身体に不調きたし始めると一層それは顕著になった。

 そしてそんな中、彼に期限なしの作曲依頼として、オーケストラ作品の依頼が来た。
その頃はすでに八村の体はぼろぼろであり、結腸がんに侵され創作ペースは絶望的な状況となっていた。
 しかし本人はこの依頼に奮起し、体調を顧みない巨大な構想を用意し、作曲に取り掛かったものの、遅々として進まず完成に至る前、1985年6月15日にその命が尽きてしまったのである。

 

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La Folia

 その曲は「ラ・フォリア」というオーケストラ曲であり、未完のまま演奏された音源があるのでぜひ聴いていただきたい。

 


八村義夫:ラ・フォリア

 

 この曲の解説に三善晃が寄せた文の末尾にこんな言葉があった。

 

「『変わりたい』と言っていた八村さんの変容のきざしが私たちにも聴こえてくるだろうか。そして猶かつ、変り得ないはずの類まれな資質もまた。」

 

 日本音楽史においてここまで自分の闇と対峙した作曲家はいなかっただろう。
そして寡作ながらそれを発表する姿は、耳を切り落とし、鼻を削ぎ、最後には心臓まで差し出すかのような壮絶な痛みを感じる。
 私は八村のようにまで自らの痛みに向かい合うこと、あるいはそれと知って逃げようともがくことはできないと強く思わされるのだ。

 

 

・甲斐説宗という作曲家
二人目に紹介するのは甲斐説宗という作曲家だ。

 

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甲斐説宗

 奇しくも八村と同じ1938年生まれ、11月15日に兵庫県に生を受けている。
変わった名前の作曲家だが、これは甲斐の生家が寺であったことに由来する。
 甲斐もまた芸大に進み、長谷川良夫に師事をして卒業するが、八村とは違いここからドイツに渡って、ベルリン音楽大学ボリス・ブラッハー等に師事し、その間にはジェルジ・リゲティの教えを受ける機会もあったそうだ。
 帰国後は学芸大で教鞭をとり、やはり個性的な嶋津武仁、井上郷子などを育て上げた。

 

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ピアノのための音楽I

 甲斐の作風は一言で言えば非常に個性的な訥々とした世界観の中に、確かな狂乱が隠れていることにあるように思う。
 例えば度々取り上げられる代表作の一つ「ピアノのための音楽I」はそのことが顕著に伺える作品ではないだろうか。

 


甲斐説宗 Sesshu Kai - Musik für Klavier; Music for Piano (1974) played by Aki Takahashi (ca.1980)

 

 1音を執拗に聴かせる姿勢と、クラスターの殴打という素材から徐々に音楽は上方に慎重に展開してゆく。
 偏執的な繰り返しを経ながらも少しずつ変容した音楽は、今度はプリペアードされたことを理由に変質してゆく。
 変容と変質の先にはカオスが待ち受けており、激しい無意味の支配するコーダへ向かって霧散してゆくのだ。

 

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武満徹

 この音楽に禅的な東洋思想の影響を論じることも出来るだろうし、本人の語るところの「音響作法の一種」という観点から、西洋音楽におけるポスト・モダンの潮流に位置する音楽と語ることも出来るだろう。
 甲斐の音楽にはしかしそれでいながら二項対立は存在しないのである。

 このことは武満徹が、ノヴェンバー・ステップスで「決して交わらない西洋と東洋の激しい対立、更には日本の伝統の中の異種対立をすべて舞台上に上げて、多層的な対立空間を見せつけたこと」真反対のベクトルである。
 真反対のベクトルと言っても、本来そこには大きな矛盾が生じてしまうものだ。それは西洋音楽西洋音楽であるという歴史的根源と、東洋音楽が東洋音楽であるという歴史的根源を超え、それぞれの文化思想の原点までさかのぼった上での決定的な差があるからに他ならない。

しかし甲斐の音楽にはなぜかそれがない。一体なぜだろうか。

更に後年書かれた前作の続編である「ピアノのための音楽II」を聴いてみよう。

 


KAI Sesshu : Music For Piano II (1975-76) EMURA Natsuki, piano

 

 甲斐の音楽性が更に淡白なものに集約され、前作で見せたようなカオティックな狂乱も鳴りを潜め、訥々とした音の中に神秘に満ちた静謐と一種の闇の美を強調させてきている。

 

甲斐は生前こんな事を言っている。

「盆栽にパチパチとハサミを入れる。そうやって無駄をできるだけ削ぎ落とした音楽を書きたい」

 

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盆栽

 確かに甲斐の音楽を聴いたときに感じる訥々とした静謐は盆栽を鑑賞するときに感じるそれに非常に似ているようにも思う。
この背景には間違いなく、彼が寺の生まれであったことが影響していると言えるだろう。
 無駄を削ぎ落としてゆく姿というのは、無に向かおうとする僧侶のサガなのかもしれないし、その静謐は寺の本堂の凛とした冬の朝の空気なのかもしれない。
 それでいながら、音響作品としての立体性と、音響変移の面白さがちゃんと備わっているのは一体どういうことだろう。

 

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ヘンリク・ミコワイ・グレツキ


 その単純でいながら静謐に変化してゆく音響像には、例えばホーリーミニマリズムという形で表現されたポーランドの作曲家、ヘンリク・ミコワイ・グレツキを重ねる見方もあるようだ。
 確かに日本版のまさに「ホーリーミニマリズム」とも言える甲斐の音楽の西洋性に対して、最も近似値をとった解釈であると思う。
 しかし問題はそこではない。なぜ二項対立が起きなかったのかということだ。

 なおポツリポツリと音を削いでいった甲斐は、その独特のイディオムを確立させるが1978年10月31日に39歳という若さで亡くなっている。
 39歳にしてこの静謐の世界を作り上げてきたのかと思うと、背筋が寒くなる思いすらする。

 

 

 

・二人の相違点と共通点

 上述のように、明らかに日本作曲史に追いて異質で奇異な孤高の作曲家である二人には、まず大きな相違点がある。
 八村の音楽はあからさまにスキャンダラスな狂気が満ちていて、その果にある種のエクスタシーにも似た狂気が全面に押し出されてくることを特徴としている。
 これは八村の項で書いたとおり、シルヴァーノ・ブソッティへの共感があることは言うまでもないだろう。
 それに対して甲斐の音楽は静謐で、極めて禁欲的であり、そこには仏教とグレツキのようなホーリーミニマリズムとの関連が指摘されていることも前述したとおりである。

 

 この2つの対立はあまりにも強烈なものであり、全く交わることのない二人の根本的に違う作曲姿勢と、まさに人間の差である。

 

そうであるはずなのに、二人の音楽には一方で強烈な共通点があるのだ。

二項対立が起きないということ。

 八村の音楽はとかく個性的で、個人的な美学によって貫かれた狂気の世界である。
その音楽は西洋の一部の音楽への強い共感を得ながらも、子供の頃から変わらぬ彼自身の「不安」と強烈に結びついている。
 もしかすると「不安」がもたらす「不安定」を埋めるものが「酒」であり、また狂乱と狂気であったのかもしれないし、彼にとってはそれ自身がロマンティシズムそのものだったのかもしれない。

 甲斐の音楽は再三書いたとおり、西洋的なイディオムであるはずの音響作法を用いているのに、その音楽がもたらすのは日本的な無の世界感であり、諸行無常の観念である。
 そこには西洋の方法論の受容と、本人の音楽観がやはり対立を起こさずに静かに同居している。

 

作曲を行う人は是非試してみてもらいたい。

 

・個人言語のみで西洋的なイディオムに対抗しうるロマンティシズムを打ち立てること
・西洋的方法論と東洋哲学をなんの違和感もなく同居させること

 

 ほぼ無理難題であるはずのこれらのことが、それぞれの音楽で現実に起きているのだ。

 なぜ二項対立が起きないのだろう。

 一つの見方として、それは彼らが「真に個」であったからではないかと考えられる。
 音楽は経験芸術であると、私自身は信じてやまないが、一方で個人言語の極地としても成立しうるものであるのだ。
 無論それは、理論学習が面倒で堅苦しいからと逃げ出した上で批判するような、現代のバカなコンポーザーの姿とは根本的に違うことは言うまでもない。

 追い詰められ、究極に探求された自己というもの、あるいは自己の不全性の直視からくる、強烈な痛みという立脚点、あるいは訥々と盆栽の枝を落としながら、ポツリと呟く独り言のような姿勢。
 これら独自の「個」にたどり着いたものだけがなし得る、二項調和の世界がここにはあるのだ。
 こんなことはめったに起こらない、奇跡のような状態であるが、彼らの音楽を聴くだにそのことに対する疑問は晴れ、確信に変わってゆく。

 

音楽とは「自分自身」でなければならないということなのである。

【R-18】アンチ・アイドル音楽の絶望的新星「ルイス・コール」を語る

最近、音楽とアイドルとの関係は切っても切れないものになりましたね。
聖子ちゃんブームがあり、おニャン子クラブが世間を騒がせた時代から時は流れ、ジャニーズが一世を風靡したかと思うと、AKB48だかAK-47だかわかんねー奴らがオリコンチャートを壊滅させたりもしました。
今やアイドル業界はシッチャカメッチャカの様相を呈しています。

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AK-47

なんでこうなったかといえば、それはもう可愛いおにゃのこor性的なボーイズが歌唱してんのを見ると人間の幸福中枢は活性化する傾向にあるからです。
つまり一言でいうと、アイドルというのは外見がいいのです。
外見がいいからアイドルなのであり、アイドルだから外見がいい。
もはや歌すらヘタクソでもいいのです。
アイドルは歌手ではなく、あくまでアイドル。
歌がうまければその分魅力的ではありますが、別に下手でもそれはそれ。
ただし、外見だけは絶対に良くないといけません。
だってアイドルだかんね!!!

 

 

え、それ音楽と関係あんの??????

 

【もくじ】

 

下ネタと反骨精神の化身「knower」

そう、アイドル文化は音楽文化と並行しているように見えて、実際は全然違うもんです。
見た目の良い男女が音楽を利用して自身のカッコよさ・可愛さを売る、というのがアイドル文化の正体なので、それはもう音楽というより演劇的の方が近いと思います。
実際、アイドルが歌うためのBGMと化したアイドルソング(特に最近の)は酷い質のものばかり。
そしてその歌詞も、当然ですが性的な魅力を誇張したものが多いです。
抱き合うとか濡れるとか脱がすとか何回言えば気が済むの???

www.dailymotion.com

 

さて、こんな感じに蔓延したアイドル文化ですが、これは別に日本だけの話ではありません。
アメリカなどの海外を見ても、アーティスト=アイドル=見た目が良い&セクシー、という構図は同じ。

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K-popアイドルとか

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ジャスティンビーバーとか


そんな中、ある音楽グループが2010年頃からyoutubeに動画をアップし始めます。
その名も「kower」。
まずは音楽を聴いてみましょう。


色々ツッコミどころはありますが、一旦無視して話を進めますと、「knower」はルイス・コール(Louis Cole)ジェネヴィエーヴ・アルタディ(Genevieve Artadi)(すげー名前)の2人による音楽グループです。
で、失礼なことを言いますとこの2人、ルックスはお世辞にもいいとは言えません。。。

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kowerのふたり

「なんだブスじゃん、動画見んのやめよ……」と思ったそこのあなた。
今すぐ悔い改めて雷に打たれ転生してknowerの歌を聴いてください。
歌はめちゃくちゃにカッコいいのです。
新世代らしいDTMサウンドを大胆に取り入れつつ、ルイス・コールの高い演奏技術と作曲センスを存分に生かしたサウンドになっています。
ベースラインの動きとドラムのフィルインがドチャクソカッコいいですね。

が、今回特に注目してほしいのは歌詞の方。
上に挙げた「BUTTS TITS MONEY」の歌詞を見てみると……

Butts and tits and money (Yes!) (x3)
Cause I'm broke and ugly

〈日本語訳〉

おケツ、オッパイ、そんでお金(Yes!)
だってアタシは文無しのブスだもん

おお…………
なかなか重い歌詞ですね。
MVでは、白鳥の首に跨った下着姿のアルタディが体をくねくねさせるシーン(oh...)を見ることができますが、歌詞を知らない人が見ても多分エロいというより不気味に思うでしょう。
というのも、アルタディが全然かわいく見えないからです。
本人の外見のせいというより、製作者の意図として明らかに可愛く見せようとしてないでしょう。

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全くエロくなくむしろ怖い

さらに、「THE GOVERNMENT KNOWS」の出だしの歌詞を見てみましょう。

The government knows when you masturbate

〈日本語訳〉
政府はあんたがいつシコってるか知っている

う~~~ん前奏明けの歌詞がいきなりこれかい?????
ちなみに、それ以外の部分の歌詞も

They fill the sky full of drones
To check and you and your bone
〈日本語訳〉
政府は空をドローンで埋め尽くす
あんたとあんたの亡骸を確認するためだ

They can see your dick from outer space

〈日本語訳〉
あいつらはあんたのちんちんを宇宙からでも見ることができる

The only dick they haven't seen is Edward Snowden's

〈日本語訳〉
政府が観察していないちんちんはエドワード・スノーデンのやつだけだ

などと供述しておりひどいもんです。
全体的にド直球な下ネタと政府批判に満ちています。
MVにドナルド・トランプ出てくるし。
ちなみに、「BUTS TITS MONEY」のMVにはちんちん型ロケットが出てきて2人の顔面を粉々に粉砕していきます。
ちょいと下ネタが直接的すぎやしませんか?????

 

…………というように、knowerの音楽性は極めて変わっています。
音楽自体はめちゃくちゃクールなのに、歌っている内容はぐっちゃぐちゃの下ネタ・ナンセンス・大衆批判に政治批判ときたもんです。
そして特筆すべきは、2人とも明らかに意図的にルックスを良く見せようとしてません
むしろ、自ら進んでブサイクを演じているように感じます。
”ブッサイクな2人組がクソみてえな歌詞をめちゃくちゃイカした音楽に乗せて歌い上げる。”
それこそが、knowerなりの表現のしかたなのです。

 

歌詞は数行、後は暴走「ルイス・コール」

彼らの音楽に込められたメッセージは、ルイス・コールのソロ作品からも存分に味わうことができます。
まず、「When You’re Ugly」を聞いてみましょう。

MVは開始早々いきなり混沌に支配されますが、それはいいとして注目すべきは歌詞です。

We all live on planet earth and this is how it works (x2)

When you’re sexy, people wanna talk to you
When you’re ugly, no one wants to talk to you
When you’re ugly, there is something you can do, called
Fuck the world and be real cool 

 

〈日本語訳〉

僕らはみんな地球に住んでる
そして、これがこの星の仕組みだ(x2)

 

あんたがセクシーなら、みんながあんたと話したがる
あんたがブスなら、誰もあんたと話したがらない
でも、あんたがブスでもやれることはある
つまり、
世界をブチ犯して本当のカッコ良さを手に入れろ、ってことさ

歌詞はたったのこれだけ。
4分間ずっとこの歌詞を繰り返して終わるのですが、この短い歌詞が心に染みます。
Fuck the world and be real cool 」ってメチャクチャかっこよくないですか????????

ちなみに、MVでは途中からルイス・コールが実際に近所の町を破壊しはじめます。
それどころかキーボードまで破壊したうえ、今度はコール自身がイスでぶん殴られて最後は車に轢かれて吹っ飛んでいきます。
因果応報ということでしょうか。

 

他にも、「F it up」という曲も見てみましょう。

If life is asking, here's what's up
I would rather f- it up
Easy, safe and dreams with dust
I would rather f- it up

I don't know what I'm doing but I want to live (x3)

 
〈歌詞〉
人生が俺に「何があった?」といちいち求めてくるなら、*1
そんな人生ぶち壊したほうがマシだ
簡単で安全で、でも夢はホコリをかぶっている
そんな人生ぶち壊したほうがマシだ
 
俺がしていることが分からない
でも俺は生きていたい(x3)

 やっぱり歌詞はほとんどこれだけ。
一通り歌詞を歌い終わると、長い長い間奏に入ってみんな好き勝手に暴れ始めます。
「言いたいことは言い終わった、よし暴れっぞ!!!」みたいなノリですね。

ちなみに、上の2つのMVにはどちらにもアルタディがゲスト出演しています。
というか、ルイス・コールのMVにはだいぶ頻繁にアルタディが出てきますね。
おめーら仲良しかよ…………。

 

「アイドル」の対義語は「ルイス・コール」でいいと思う

というわけで、ルイス・コールはじめknowerの音楽性はかな~り独特でした。

  • 直截な下ネタ・風刺・ナンセンス
  • 短く直球なメッセージ
  • 不快で混沌としたMV
  • 圧倒的な演奏技術とクソかっこいいサウンド

これらがバカみてえなバランス感(なんてあるのか???)で配合された結果、歴史的な要注意ポップス量産マシーンが完成したわけです。

これに対して、冒頭に挙げたようなアイドルたちは、

  • 遠回しな性的表現
  • メッセージ性を失い道具と化した歌詞
  • アイドルの外見を映えさせることに特化したMV
  • 演奏や音楽の質は二の次

というわけですから、これはもう実質対義語と言っていいでしょう。

 

最後に余談ですが、実はルイス・コールはもう一つ別のバンドも手掛けています。
「Clown Core」という覆面バンドです。
一つ聞いてみましょう。

 

 

 

 

 

「Toilet」

 

 

 

 

 

いやバカなのか??????

 

 

*1:翻訳に自信がありません。間違ってても知らないよ。

Easy Listnerのためのアニメサントラ選 第二回 ~スケッチブック編~

≪前回≫

nu-composers.hateblo.jp

 

 

どうも、gyoxiです。そして、アニメサントラ選第二回です。

 今回ご紹介するのはこちら。

 

スケッチブック~full color's~

より

サウンドスケッチブック』 

 

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サウンドスケッチブック

 

「スケッチブック~full color's~」について

スケッチブック〜full color's〜は小箱とたんの4コマ漫画「スケッチブック」を原作とした作品だ。

原作漫画は無口な少女、梶原空と彼女が所属する美術部の部員達、そしてその周囲の人々の何気ない日常を描いた所謂ほのぼの4コマのジャンルだ。割と生活感あるエピソードもあるので気軽に読めて、面白い。

 

magcomi.com

 

...のだが、昆虫ネタがマジで多い。美術部の先輩である栗原先輩はガチの自然好きのため、栗原先輩が出てくると必ず昆虫ネタが出てくる。最近買った8巻に登場する、栗原先輩絡みの昆虫・自然ネタはこんな感じ。

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昆虫ネタが多い!!!!!


とたん先生自身も生き物大好きな方故、栗原先輩は実質、とたん先生の自然に対する熱意の擬人化である。

 

 

 

さて、そんなスケッチブックのアニメーション作品の監督を務めているのは平池芳正だ。

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平池芳正監督

11月16日生まれ。

代々木アニメーション学院卒業後、スタジオジュニオ(現ジュニオ ブレイン トラスト)を経て、現在フリーランスで活動している。

2003年の『カレイドスター』で初めて監督を務める。

https://www.satelight.co.jp/creators/%E5%B9%B3%E6%B1%A0%E8%8A%B3%E6%AD%A3/

平池芳正とは (ヒライケヨシマサとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

平池さんが監督をしていた作品で個人的に見ていたものだと、カレイドスターとかWORKING!!とかが印象深いですね。カレイドスター、熱血スポコンで面白いんすよ、オススメです。

 

 そして監修をしているのはお馴染み佐藤順一さんです... 自分、なんか好きなんですよね、サトジュン監督の作品。今まで何度も紹介しているので、詳しくは過去の記事をお読みください......

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佐藤順一さん


nu-composers.hateblo.jp

nu-composers.hateblo.jp

 

何故こんなにハマったか

 さて、そんなスケッチブック~full color's~ですが、今年の4月に視聴してそれはもうドエライ勢いでハマりました。一体何故でしょうか。その理由を、考えてみました(事実上の布教活動)。

 

明確なストーリー展開がない

一般的な日常アニメというものは、巨大な山場のあるような急激なストーリー展開はあまり無い。が、それでも明確なストーリー展開はあるもので、例えば前回紹介したARIAでも、物語の起承転結が存在している。しかし、スケッチブックは元が四コマ漫画である所為もあってか、明確なストーリー展開をあまり感じさせず、物語の起伏にとらわれる事なく作品を視聴することができるのだ。

 

話のベースが梶原さんのモノローグ

とは言うものの、「明確なストーリー展開のないアニメ」なぞ探せばなんぼでも出てくるだろう。それでも、この作品が他の作品と違うのは「ストーリーの根底に梶原空のモノローグがある」ということだろう。

例えば自分の大のお気に入りである第4話「三人だけのスケッチ大会」でどれだけモノローグが語られているかを実際に調べてみると、合計で115秒もある。またそのモノローグもハキハキとしたモノローグでは無く、「...と、わたしは思うのだ」といった無口な梶原空らしい語り口であり、それらによって一人の時間を過ごしているような静けさと不思議な心地よさがこの作品にもたらされるのだ。

 

サウンドが良い

そして何より、サウンドが良い(直球)。サントラ選シリーズで紹介しているので、そりゃあ音楽が良いんでしょう、と思うかもしれないが、それだけでなく環境音も良いのだ。

美術部が活動するのは主に放課後であるが、活動しているその後ろでは吹奏楽部が練習している音や、運動部が活動している音が聞こえてくる。先に例に挙げた第4話は雨の降りそうな日に写生大会に行くという話であるが、雨の降る前にはカエルの鳴き声や風に揺れる草木の音が聞こえる、そして、雨が降り始めて雨粒が草木を打つ音が聞こえる。そんな誰もがどこかで聞いたことのある音劇伴がそっと寄り添いどこか懐かしいような、大きな感傷を呼び起こす風景を描いているのだ。

 

スケッチブックのサウンドトラックについて

スケッチブックの劇伴をしているのはピアニストの村松健だ。

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村松健さん

なつかしゃ唄の島、奄美大島のピアニスト、作曲家、そして三絃(奄美三線)弾き。幼少からピアノをおもちゃ代わりに、東洋〜民謡やシマウタから、西洋〜クラシック・ジャズ・ブラジル音楽までボーダーレスな音楽環境で成長し、独自のなつかしい音世界を育む。成城大学在学中の1983年にデビュー。以来、自作自演のスタイルで送り出したCDは40作を超え、季節の彩りから生まれた優しくせつないアルバムは多くのファンに愛されている。

PROFILE

プロフィールで語られている「独自の懐かしい音世界」が、この作品の雰囲気に本当にビタとはまり込んでいるんです。すごいんです(語彙力)。村松さんの音楽は各種音楽サービスで配信してるので、是非聴いてみてください、お願いします。これ、オススメです。

 

 

それでは、スケッチブックのサウンドトラックで村松健によって奏でられるどこか懐かしい音楽たちを紹介したい。 

 

遠まわりして帰ろ


Sketchbook ~full color's~ OST - 01 - Toomawari Shite Kaero

最初はコロコロとしたピアノで始まり、ワンフレーズが終わると、流れるような演奏に変わる。ストリングスがそのピアノに優しく寄り添う。いつものように流れる時間。何気ない静かな帰り道。まさにこの作品の雰囲気そのものを表現しているといえる曲だ。

 

夕焼けを歩いたね

 


Sketchbook ~full color's~ OST - 09 - Yuuyake wo Aruita ne

西の空に太陽が沈みゆくその瞬間、この曲が描いているのはきっとそんな光景だろう。誰しも、日没の瞬間を毎日眺めている訳ではない。でも、ふと気づけば、日常の側にはこんな壮大で美しい光景もあるのだ。ちなみに最近、村松さんによるこの曲のロングバージョンの野外演奏動画がリリースされたので、そちらも要チェックだ。


なかさつ音まちWEBシリーズ(野外編) 村松健 秋の“やさしい時間”夕焼け坂

 

雲の澪を行く


Sketchbook ~full color's~ OST - 21 - Kumo no Rei wo Iku

どこまでも深く青い空。流れゆく雲。雲は壮大な旅をする。時には入道雲のように大きく盛り上がり、時には形を成さずにサラリと流れていく。雲は旅の途中、様々な景色を目にしているだろう。 そんな雄大で美しい雲の行く道を、ピアノとストリングスが描き出している。

 

バルーンムード~夢からさめても~


Sketchbook ~full color's~ OST - 07 - Balloon Mode ~Yume Kara Samete mo~

上で紹介してきた曲とは打って変わって、柔らかで温かい雰囲気の曲だ。放課後に友達と一緒に過ごす穏やかな時間。人生でこの一瞬しかない、とても大切な時間。この曲からはそんな風景が頭に思い浮かぶ。

 

おわりに

今回は、スケッチブック~full color's~のサウンドトラックを特集した。音楽もアニメも共に素晴らしい作品なので、機会があれば是非一度ご覧になってはいかがだろうか。

 

 それではまた。