名古屋作曲の会(旧:名大作曲同好会)

“音楽”を創る。発信する。

ノイズと音楽の間に~チェルノウィンの系譜

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Chaya Czernowin

彼女の名はChaya Czernowinハーバード大学の教授である。
1957年にイスラエルに生まれ、音楽の道へ進んだ。
世界で最も権威ある作曲家である。
今回は最新の現代音楽シーンの中核である彼女を中心に書いてみようと思う。
はじめに断っておくが、今回の記事は非常に長い

 

とりもとりあえずまず彼女の音楽を聴こう。
このブログの読者ならすでにお分かりだろうが、
一筋縄ではいかない音楽である。
あまり考えず、純粋に耳を傾けてみる事をおすすめする。

 

www.youtube.com

Jour 1/Chaya Czernowin

 

彼女の作風は一言で言えば「騒音」との関係性にある。

私の書いている現代音楽の歴史を軽く語るシリーズを読むと
楽家はまず調性に立ち向かい、システムに立ち向かいと
それまでの既成概念を壊しては新しい潮流を作り出し、
そして自己破滅的にまた破壊を繰り返してきたことがわかるだろう。

 

nu-composers.hateblo.jp

 

 

nu-composers.hateblo.jp

 

それは芸術に宿命付けられた悲しい運命でもあるが、
しかしその運命に身を置き自ら破壊を主導することこそ
芸術家の本分とも言える。

 

その芸術音楽は「今」何に立ち向かっているのだろう。

 

その答えは彼女の音楽が雄弁に語っているではないか。
まさに「騒音」との関係性なのである。

 

従来の音楽は無調であっても「楽音」からは離れては来なかった。
楽器の音、音楽を演奏するための音とそれ以外を明確に区分し、
打楽器という抽象的な存在がその2つを隔てる境界を示していたのだ。

 

しかしその在り方は大きな転機を迎えた。

 

 

John Cageやその周辺の作曲家による実験音楽や、かつての未来派などには
すでに騒音を主とする音楽があったにはあった。
しかし彼女の音楽とそれらは、目指すものや哲学の面で大きな隔たりがある。

 

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Luigi Russolo

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騒音発生機

未来派の実験ではLuigi Russolo騒音発生機が知られているが、
これはあくまで騒音を楽音として取り込んだものであり、
それ専用の楽譜を「演奏」することで楽音としての音楽を保っている。

 

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John Cage

John Cageらの実験では上記のような楽音を持たないものもあったし、
そもそも音がない曲まで書かれたわけだが、
それは「音」というものを作曲家の意図から解き放ち
ヒエラルキーに押し付けられることなく

アナーキーに自由を求めるものにするという
考え方が根底にあるものだった。

 

では彼女の音楽はどうなのか。

Schott社が公開しているCzernowinのインタビュー動画を見てみよう。

www.youtube.com

Infinite Now: Chaya Czernowin Composer Portrait

 

彼女の作曲過程にはエンジニアの存在がある。
そして彼女は抽象的な騒音のイメージをエンジニアに伝え
エンジニアはそれをDAW上に再現していっている。

 

そして様々な処理を経て完成された騒音によるプロジェクトは
純音楽に落とし込まれることになる。

 

騒音から音楽へ。

 

まさにここが彼女の音楽の肝となる部分である。

 

専門的にはこの「還元作業」には様々な手法があり、
どのようなフィルターを通じて還元されるかには

作家の大きな個性が現れることになる。

 

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Open Music

そして出来上がった音楽自体も様々な特殊奏法が駆使され、
騒音に満ちている。
それは楽音としての騒音ではなく、騒音としての騒音が、
楽音としての楽音と対峙し、その境界を探し求めるかのようである。

 

そう調性の崩壊から始まった歴史は、楽音と騒音の境界を探し始めたのだ。

 

Czernowinの音楽はどこで形成されたのだろう。

少しだけ彼女の師事した作曲家についても見てみよう。

 

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Dieter Schnebel

Dieter Schnebelは彼女の最初の師である。
詳しい読者であれば、この名前だけでも納得ができるものがあるだろう。
SchnebelはJohn Cageらのフルクサス運動にも共鳴し、
「勝者を作らない」音楽を標榜していた。
つまり音楽におけるヒエラルキーの否定の中で、
必然として騒音の取り込みが行われることになる。

 

www.youtube.com

Konzert für 9 Harley Davidson/Dieter Schnebel

 

Schnebelの作品からこの作品を紹介することには異論反論もあるだろうが、
あえてわかり易い例と考えた。
9台のハーレー・ダビットソンがかき鳴らす騒音と、
演奏者が演奏する音楽が一同に介している、非常に実験的な音楽である。

 

Czernowinの音楽の源流の一端を感じるのには十分すぎるだろう。

そして彼女は博士課程で決定的な出会いを経験している。

 

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Brian Ferneyhough

それは新しい複雑姓を生み出した巨匠Brian Ferneyhoughである。
Ferneyhoughの音楽についてはその潮流の名が示すとおり
非常に「複雑」であり、演奏困難さでも群を抜いている。
Ferneyhoughはプログラム演算を用い、

非常にシンプルな素材からカオスに近い複雑な組成を取り出し、

これを音楽の基本骨格に応用する手法を開発した。

 

www.youtube.com

La Chute d'Icare/Brian Ferneyhough

 

現在Ferneyhoughはスタンフォード大学で指導にあたっているが、
それ以前はカリフォルニア大学サンディエゴ校で教えており、
Czernowinはその時の教え子である。
なおその後Ferneyhoughの後任にCzernowinが就いたことは
彼女がFerneyhoughの正当な後継者とみなされたからであり、
優秀さと師の影響の大きさを示していると言えるだろう。

 

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Roger Reynolds

 

そしてカリフォルニア大学サンディエゴ校時代にはもう一人の師匠とも出会っている。
Roger Reynoldsである。
デトロイト生まれのReynoldsは非常に前衛的な作風であり、
騒音と楽音を追求するCzernowinの前身とでも言えるような音楽性を示している。

 

www.youtube.com

Quick Are the Mouths of Earth/Roger Reynolds

 

なるほど師匠からの系譜をみると彼女が如何に師の影響を受け
そしてそれを自身の音楽性と結びつけながら深く理解し、
自らの言葉として取り込んできたのかがよく分かる。


かくして楽音と騒音との鬩ぎ合いは彼女を中心に世界へ発信され
その着想と手法は芸術に新たな視座と手法をもたらし、
それに続く若者たちに大きなマイルストーンとなって
新たな個性を導くことになったのだ。

 

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マイルストーン

次に彼女の影響について論じてみたい。
しかし彼女の影響はあまりに大きく、そして世界の隅々まで
その影響が行き届き、新たな才能を輝かせているので
このブログでそれを語りきるのは不可能だ。


そこで今回は少し恣意的ではあるが、
彼女の門から生まれ、騒音と楽音の関係性に着眼した

二人の女性作曲家を取り上げてみることにする。

 

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Ashley Fure

一人目はAshley Fureである。
1982年生まれで2017年のRome Prizeにも輝いた若き才能である。


ハーバード大学で学んでおり、当然Czernowinに師事している。
しかもCzernowinだけではなく、
Brian Ferneyhough, Helmut Lachenmann, Lewis Nielson, Steven Takasugi,
Hans Tutscku, Julian Anderson, Joshua Fineberg, Bernard Rands, Harrison Birtwistle
と言った凄まじい顔ぶれが彼女の経歴には並んでいる。
なおSteven TakasugiはCzernowinの元夫で日系の作曲家である。


騒音と音楽に関係する作曲家意外には、テクノロジーを駆使した音楽を追求する人々
そしてポスト・ミニマルの潮流にある作曲家が並んでいるが、
一体どんな音楽を書くのだろう。

 

www.youtube.com

Something to Hunt/Ashley Fure

 

非常に難解に聞こえる音楽だが、ここまで読んでいただいた読者には
きっともうそれほど分かりづらくは感じないのではないだろうか。
はっきりと「騒音」の構築という背景が見え、

それを還元するモデルはCzernowinよりもう一歩騒音寄り
更にテクノロジを自ら操っていることもわかる、

極めて電気的な騒音を感じる。


またLachenmannの影響と思われるエンディングや高揚を求めない
ナンセンスな構成法もまた彼女の表現の一部になっているように思う。
ちなみに彼女の名前Fureは「フューリー」と読むらしい。

 

なるほどCzernowinの示した音楽極めて速い速度で、
かつ極めて高い能力をもって受容されており、
そこには確かに新しい潮流が芽生えたと感じさせるものがある。

 

次にこれが海外にまで及んだ例として
もうひとりの過激な前衛音楽家Malin Bångを紹介したい。

 

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Malin Bång

Malin Bångは1974年スウェーデン生まれ。
Kapellsberg's music school、Royal College of Music in Stockholmなどで学んだ。
師匠の欄には以下の名前が並んでいる。


Brian Ferneyhough, Gérard Grisey, Philippe Manoury, Philippe Capdenat, Chaya Czernowin, Walter Zimmermann, Friedrich Goldmann, Ole Lützow Holm, Pär Lindgren, Jan Sandström, Peter Lyne.


こちらもすごい顔ぶれである。
FerneyhoughとCzernowinはFureと共通であるが、それ以外の作曲家を見ると
Grisey、Manouryというスペクトル楽派の巨匠の名があることが特に印象に残る。
早速彼女の音楽を聴いてみよう。

 

www.youtube.com

ripost/Malin Bång

 

コントラバスと打楽器のドッペルコンチェルトの形で書かれているが
楽音らしきものは鳴りを潜め、

ソリストからもオーケストラからも騒音が響き渡るのみである。


更に打楽器も最早楽器ではなく、筒やプラスチックケース、ブラシといった
楽音を得るものではなく「騒音を発生させるため」のオブジェクトだけになり、

そこから発生した騒音をコントラバス特殊奏法で模倣し、
オーケストラへ波及してゆくという構想である。


タイトルは「即答」や「リバウンド」を意味するようで、
確かに騒音に反応していくさまはタイトルの示すとおりと言えるだろう。
Czernowinよりも明らかに騒音に寄り、Fureよりは厚いテクスチャを用い
ややエンディングを求める伝統的な構成法の残滓もあると言える。

 

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かつての世界

世界を隔てた音楽性というものはまだ国が閉じていたときの話である。
ドイツ式の重さがあり、フランスの甘美さがあり、北欧の冷涼さがあった。
もちろんそれらは民族の個性として残っているのだが、
かつて程の差はなくなってきたというのもまた事実である。

 

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グローバル化

Czernowinの功績の一つはコンテポラリーのグローバル化だと言えないだろうか。
情報の得やすくなった現代は、辺境の国の個性にも活躍のチャンスを与えることになった。
そして才気あふれる若者はハーバードに集い、優れた師の下、最新の語法を身につけそれぞれの国に戻る。


かくて「騒音」は世界の隅々で「楽音」との鬩ぎ合いを始める事になった。
その代償として文化の個性感じにくくなったことは仕方ないことだろうか。
あるいは代償として大きすぎたのだろうか。


いずれにしても時は止まらない。


これが今の音楽の一つの本流なのである。

 

最後に名作同のオルゴールコンサートに書いた私の「塑像」という作品が
これらの潮流の影響下に書かれたものであることを
ここにはっきり告白しておきたい。

 

nu-composers.hateblo.jp

 


そうすることで私が何に疑問を感じ、何を打破したかったのかがより具体的になるかもしれない。

そして名作同に集う「若者たち」は、このような歴史をどう感じ、明日への扉をどんな言葉で開くのだろうか。

ちょっとだけ覗く現代音楽 - 歴史編2 百花繚乱の時代へ

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キノコおじさん

前回はキノコおじさんの登場までを簡単に振り返りました。

ここまでを纏めてみると次のように言えると思います。

①調性音楽の歴史が続いている

②調性を壊したくなる

③調性の代わりの原則を見つける

④全部計算で縛ってみる

⑤だるいから好き勝手やる

 

nu-composers.hateblo.jp

 

 

そういえば前回、各作曲家の作品を貼ってほしかったと知り合いに言われたので
今回は音源も添えていこうと思います。
まずそんなきのこショップの作品からわかりやすいものを貼っておきましょう。

www.youtube.com

Concert for Piano And Orchestra/John Cage

 

さてこのブログをお読みの方々はその方向性からも聡明な方ばかりと思いますが、
までの経緯は言ってみればまあ確かにそうなるのかもな的にはご理解いただけると思います。
しかしそこまで来ると次に何が出るかなかなか想像できないものがあるかと思います。

 

しかしね
人間てね
すげーんだよ

想像力ってね
宇宙超えちゃうのかもよ?

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にんげんだもの

 

実はきのこ料理研究家のやったことは次のような側面があったんです。

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きのこ

 

①音楽表現の根本を音から解き放った
②基本的には単純化の概念による

 

この方向性にさらなる可能性が眠っていました。

①については音楽を超えた様々な芸術に波及していく事になり
このシリーズでは扱いきれないので、まずに注目します。

 

純化という言葉は思ったほど簡単ではないものでもあります。
何故か芸術と単純化の背景には文明への礼賛と自然回帰という2つの相反する概念が眠っています。
前者の大元はかつてイタリアで生まれた未来派という芸術運動にその根源を見出すことができますが、
ここでは前に戻るのではなく先に進める観点から、ミニマリズムの潮流をご紹介します。

 

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Steve Reich

彼の名はスティーヴ・ライヒ、帽子の似合うニューヨーカーです。
彼の音楽はその時期にもよりますが、一貫して小さいフレーズを執拗に反復することからなるものです。
これは文明が生む都市構造物が、無機質に繰り返しの風景をもたらすことと関係する
ミニマリズムという芸術運動の音楽版とみなされ、
純化の音楽の代表と言われます。

www.youtube.com

Music for 18 Musicians/Steve Reich

 

純化?馬鹿らしい複雑化こそ至高だろ。
という人も現れます。

 

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Brian Ferneyhough

このマッドサイエンティストな雰囲気のオジサマはブライアン・ファーニホウ
現在世界で最も権威のある作曲家の一人と言えます。
かれは遅れてきたセリー主義者とも言われましたが、
徹底してパラメータ作曲を追求し、非常に複雑な音楽を作り出します。

www.youtube.com

String Quartet No.2/Brian Ferneyhough

 

こういったキノコ以降純化複雑化以外に、計算と音楽を別の道筋で追求したのが
イアニス・クセナキスです。
ギリシャ反政府運動からフランスに逃れ、顔面を撃たれるなどしつつも
建築に道にすすみ、あのル・コルビジェの事務所でも働いていました。

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Ianis Xenakis

彼の音楽は、ミュジック・ストカスティクとも言われ
確率や群論を用いた作曲法を考案、その後書いた図形の音声化を可能にするシステムを構築するなどしました。

www.youtube.com

Metastasis/Ianis Xenakis

 

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Giacinto Scelsi

少し時代は戻りますが
ジャチント・シェルシも忘れてはなりません。
メディチ家に繋がる貴族の家系だった彼は、ありあまる富で若手有望な作曲家を秘密裏に雇い、足踏みオルガンを不気味にかき鳴らした音などを与えて作曲をさせ
自分の名前で発表します。
そうです元祖佐村河内です。

www.youtube.com

String Quartet No.5/Giacinto Scelsi

 

しかしその事実を知らないフランスの若者が彼の思想に共鳴し、
なんと新しい潮流を作り上げてしまいます。

 

スペクトル楽派というその潮流は、音楽における物理学的側面に注目。
倍音を演算で変調させながら新しい音響を構築する方法にたどり着きます。

 

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Tristan Murail

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Gérard Grisey

この手法の第一人者はこの人、トリスタン・ミュライユジェラール・グリゼーです。
彼らの活動とブーレーズの庇護がやがてIRCAMという先端的な組織の構築につながったわけですね。

www.youtube.com

Treize couleurs du soleil couchant/Tristan Murail

 

フランス、イギリス、アメリカといろいろな潮流が現れてきましたが、本流ドイツはどうなったでしょうか。

 

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Karlheinz Stockhausen

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Wolfgang Rihm

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Helmut Lachenmann

カールハインツ・シュトックハウゼンはセリー時代、電子音楽時代と時代が変わるごとに最新の語法を追求、
そしてポスト・モダンの時代にはヴォルフガング・リームなどが次々と登場します。
そのなかでも特筆すべきは我が自作の稿でも出てきたヘルムート・ラッヘンマンです。
彼の音楽は異化とノイズの音響体と紹介しましたが、最新の潮流にあって
彼の影響は未だに大きく、この時代の最重要作曲家として紹介しないわけには行きません。

www.youtube.com

Mouvement/Helmut Lachenmann

 

え?
なんだかごちゃごちゃしてきてよくわからなくなった?

たしかにそうかも知れません。
きのこマニア以降の音楽はだんだん個人の思考に細分化していくので
作曲家の数だけ潮流があるとも言える様になっていきます。

 

今日はここで一度仕切って
次回は最先端の音楽までを一気に見てみたいと思います。

オルゴールコンサート来場者アンケを読む

先日、我々名作同は第2回「オルゴールコンサート」を終えました。
特にトラブルもなく、多くの方に来てくださって、とても楽しいコンサートとなりました。
いやーほんと良かった。

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演奏の風景

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演奏後(しっちゃかめっちゃか)

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それはそうと、今回のオルゴールコンサートでは多くの来場者の方にアンケートを書いていただきました。
今回は、その一部をここでご紹介させてもらおうと思います。
というのも、アンケートを読んでいて僕は
「ああ、この人メチャクチャ真面目に僕らの音楽を聴きに来てくれたんだ」

と何度も思わされたからです。
作曲者であり演奏者でもある僕ら側が真面目に音楽をやるのは当然ですが、聞きに来てくれた観客側との相互作用があって初めて、僕らの表現は成立するのだと思っています。
そういう意味で、グッと前傾姿勢でコンサートに臨んでくれたお客様が大勢いる、ということは、僕にとって大変嬉しかったわけです。

前置きはこの辺までにして、さっそく紹介していきましょう。

 

お客様の声

  • ”どの曲も好き。強いて言えば、たまにオルゴールを回す音がマイクに入ったり、きしむ音がまざったりするのが気になった。それも含めてオルゴールなら受け入れるけれど。”

まず、作曲団体としては曲を褒めていただけると自信がつきます。
今後も、褒めていただけるような曲を作れるよう、会員一同修練を積んでいきたいです。

さて、ここでご指摘いただいた「オルゴールを回す音」「きしむ音」というのは、実際に議論が分かれるところだと思います。
確かに僕自身、マイクで拡張した音の中にこうした雑音が混じってしまうのは、少し気になっていました。
もう少しやりようもあった気がするので、ぜひ次回に生かしていきたいと思います。

その一方で、この「オルゴールを回す音」「きしむ音」がαオルゴールの良さである、という一面もある気がするのです。
今回、コンサートと同時にオルゴールCDも発売していますが、このCDでは敢えて演奏の際の雑音をわずかに残した形で収録をしています。
たまに「ゴト……」とか「カタ……」とかいうのが、個人的には結構好ましいんですよね。
オルゴール以外でも、例えばヴォーカルの息継ぎ音とか、ギターのフレットノイズとか、楽器演奏に際した雑音って意外とあった方が好ましく聞こえることがある気がします。
とはいえ、当然ありすぎると邪魔な訳で……。
大変重要な視座を与えてくれたご感想でした。

  • ”コンサート自体も曲もとても挑戦的で、面白い試みだと思います。楽しい時間をありがとうございました。”

現在、日本全国にはいくつもの音楽集団があることでしょう。
その中の一つに我らが名作同もあるわけですが、所謂「普通」のことをしていても、もはや目立てないと思うのです。
それに加えて、コンサートの時にもお話した通り、芸術は常識を破壊し続ける営みです。
若い音楽家として、私たちは常に挑戦的なことをしていかねばなあ、と改めて考えさせられました。

  • ”初め、αオルゴールの演奏姿をシュールだと言っていましたが、私はむしろその演奏姿を含めて心打たれました。懸命にハンドルを回す様子、それには誰かがついて一つの曲が完成する点、圧巻でした。”

今回のコンサート、当然僕がオルゴールをぶんぶん手回しして演奏しました。
はたから見ると結構シュールな光景で、しかもオルゴールに巻き込む楽譜シートを支える人員がもう一人必要なので、ちっこい箱相手に二人の男が四苦八苦しつつ演奏する、というややコメディな光景が繰り広げられるのです。
最初の司会の挨拶で、僕はこのことを説明して客席から笑いを取りました。

しかし、この方はそんな光景も含めて心打たれたと言ってくださったのです。
そのように感じてくださる方もいるのだな、と思い、僕自身目が覚めるような思いを体験しました。

  • ”「塑像」はとってもシュール……あまりにも前衛的でした!”
  • ”「塑像」の演者の気迫に驚きました。”
  • ”「塑像」、一つの劇を見ている様でした。魔法の箱を見つけた人が、四苦八苦し答えを見つけようとしているように見えた。”

今回のコンサート最大の問題作だったであろう曲、「塑像」に関しては、多くのお声をいただきました。
この曲は、簡単に言うとオルゴールを弓で弾いたり叩いたり、オルゴールの周囲の空間を叩いたり、挙句まったく意味の分からない音がポロンポロン鳴って終わるという、極めて難解な響きの曲です。
それだけに演奏者の僕にも気合が入り、とても楽曲に入り込んで演奏できたと思います。

この曲は、響きこそ難解ですがそのコンセプトははっきりしています。

nu-composers.hateblo.jp

榊山先生の芸術が炸裂した一曲でしたが、この曲に対する評価は結構割れました。
一方では「難解すぎてついていけなかった」という声もあり、一方では「音楽観が変わる良い経験だった」という声もあります。
ただ僕の感触としては、こんな見慣れない音楽を演奏したにもかかわらず、意外とウケは良かったな、と思っています。
僕自身、最先端の芸術への興味は失ってはいけないと思いますし、こういう曲をちょっとずつ演っていくのはいい相互作用を生む気がしました。
何より、観客の間でも評価が割れているというのが面白いですね。
人間には個性がありますから、本来はこのように「感じ方が分かれる」のは悪いことではないのだと思います。

 

最後に

さて、ここまでいくつかのお声を紹介させていただきました。
他にもたくさんのご意見やご感想をいただき、しかもその大半はお褒めの言葉や好評、応援メッセージという大変心温まるものです。
これらを読ませていただき、僕自身はっきりと
「今回のコンサートは成功だったな」
と思うことができています。
同時に、鋭いご指摘やご意見も多数頂き、真摯に次回以降へと生かしていく所存です。

改めて、コンサートに来てくださった方々、ご支援いただいた皆様、
本当にありがとうございました

 

 

さ、次の企画立案でもすっか……

渋谷系の時代① フリッパーズ・ギター編

90年代と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?

 

バブル、小室ブーム、ジュリアナ東京、世紀末......などなど様々ありますね。

そんな文化乱立時代の90年代に花開いた音楽ジャンルの一つに渋谷系があります。

 

まあ正確に言うと

ジャンルではないんですがね。

 

なぜジャンル「ではない」のかというと、それは渋谷系を定義した田中宗一郎曰く

 

宇田川町外資系CDショップを中心とした半径数百メートルで流通する音楽

 

だからです。

 

いや雑過ぎね??

 

この定義には渋谷系を揶揄する意味合いもあり、それもあってか、いとうせいこうはもっと肯定的に定義しています。

 

渋谷のレコード店に通い世界中の音楽を聴いたアーティストたちによって生み出された音楽

 

そして渋谷系ミュージシャンの特徴を以下のように挙げました。

 

・オシャレ

・力まない歌声

・メインストリームとの絶妙な距離感

 

 

まあ結局渋谷系ってのは曖昧なんですけどね

 

というわけで今回は、そんな曖昧な渋谷系を聞きながら、渋谷系とは何か考察しつつ、渋谷系の歴史を辿っていきましょう。

 

......と思っていました。

 

思っていたんですが、書いてたら文量が死ぬほど膨大になったので分けます。

 

今回は渋谷系の黎明期、フリッパーズ・ギターに焦点を当てます。

 

黎明期 80年代後半

The Flippers Guiter

 

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左)小沢健二  右)小山田圭吾

 

~すげー簡単な歴史~

五人組バンド「ロリポップ・ソニック」から改名

小沢健二小山田圭吾の2人になる。

売れる。

なんだかんだで解散。

 

ジャンル的にはネオアコ(リバイバル)に属します。

正直名前はどうでもいいので、ネオアコがなんなのかだけわかれば良いです。

たとえばこのアズテック・カメラ


ロックでもソウルでもない、独特の軽さが特徴ですね。

ちなみにアズテックカメラとフリッパーズギターめちゃ似てます。

 

なぜ似ているのか?それもそのはず

フリッパーズギターは曲から歌詞からアートワークから題名まで、とにかく引用が多いんです。ぶっちゃけパクってます。

 

っていうか

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堂々とパクり宣言をしてます。

3rdアルバムに至ってはサンプリングが多すぎて再発ができない有様。

まあ、日本のポピュラー音楽は海外のものを模倣するのが常套手段なので、彼らだけが一概に悪いとは言えない。また、あからさまな模倣をすることで、日本のポピュラー音楽が進歩するという側面もあり...云々

 

 よくもまあ著作権侵害で訴えられなかったものだなあとは思いますが、マイナーな曲を真似したくらい[要出典]だから大丈夫だったのではないか、と勝手に思っています。

 

サンプリングに関しては、これを多用していたHiphopシーン自体がアンダーグラウンドなものだった故に目に付かなかったんでしょうね~。著作権侵害親告罪ですし。

 

サンプリングが一般的な手法になるにつれて規制が厳しくなり、サンプリングにも変革が起きるのですが、その話はまたいずれ。

 

アルバムは全部で三枚。

この流れが渋谷系全体の流れに近しいものがあるので、順に紹介していくことにします

 

 

three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった〜

記念すべき第一作。どこへ行くつもりだったんでしょうね。

メンバーが脱退する前の貴重な演奏が聴けます(ただしそんなに上手くない)。

サンプリングを伴わないパクりの数は、おそらくアルバム三枚の中でダントツで多く、

その最たるものがこの「さようならパステルズ・バッヂ」です。


甘すぎる歌声下手くそすぎる英語はこの際触れませんが、この発音なのにこのアルバムが全編英語なのは流石にツッコみたい。英語に明るい人は笑っちゃうでしょうね。

 

 

つか

パステルズ・バッヂのパステルズってなんなん?

 

答え


パステルズ

タイトルまで引用してしまうバンド、それがフリッパーズギターです。ここテストにでます。

 

引用はこれだけじゃあ終わりません。曲、タイトルときたら次は歌詞です。

 

歌詞↓

http://www.kget.jp/lyric/5592/Goodbye%2C+our+Pastels+Badges+%2F+さようならパステルズ・バッヂ_The+Flipper%27s+Guitar

 

固有名詞が異常に多いですね。なぜでしょうか?

 

全部引用だからだよ!

『さようならパステルズ・バッヂ』の歌詞には、80年代イギリスのインディシーンのバンド名やそれらにまつわる単語がちりばめられている。おそらく30個以上はあるのではないか。そんな中で当時の私がなんとか元ネタに辿り着けた歌詞が以下である。
A postcard from Scotland says
It’s still raining hard in the highland
(スコットランドからのポストカードに書いてあった
高い山ではまだ激しく雨が降っているって)
©kenji ozawa
これは、スコットランドに「ポストカード」というインディレーベルがあって、そこから生まれたバンドが「アズテック・カメラ」で、彼らのデビューアルバムが『ハイランド・ハードレイン』である、ということをモチーフにしている。

 

ん な も ん わ か る か ! !(怒)

もはやめちゃくちゃです。確実に小沢健二の知識披露癖がでています。

 

 知識披露する小沢健二

 

ただこういった側面が必ずしも悪いとは言えず、結果的に耳の肥えたリスナーを生み、ネオアコ再評価・再発売の波などが来ました。立派な功績と言えます。

 

 

CAMERA TALK

満を持しての2ndアルバム。題名は多分先ほど紹介したアズテックカメラが由来しています。

タイアップ効果もあり、なんとレコード大賞ニューアーティスト賞受賞

おそらく渋谷系が浸透することとなった最大の要因であろうと踏んでいます。

ちなみに前作で懲りたのか、今作は全編日本語詞です。最初からそうすれば良いものを......

 

このアルバムのリード曲が、彼らの代表曲でもある恋とマシンガン

 

 なかなかにシャレオツでMVもかっこいいですね。

当時80年代は空前のバンドブーム(ブルーハーツとかユニコーンとか)だったので、かなーり斬新に聴こえたとか。

 

 恋とマシンガンも、当然のように元ネタがあって、

黄金の7人という曲なんですけど

恋とマシンガンの冒頭と、黄金の7人の35秒くらいからとが、まあ似ている似ている

 

また、有名になるにつれてメディア露出も増えていくわけですが、ここでの彼らの言動はひどいまあ見ればわかる。(と言いたいところでしたが、軒並み動画が消されていました。悲しいかな、情報化社会において我々は映像ではなく映像を見る権利を得ているのです。)

ちなみにレコード大賞でのテレビ出演もあったのですが、その内容は和田アキ子をからかい、やる気の無い口パクを披露。というものでした。

いやーこれ見てると本当に酷いんですよ。ナメプという言葉がぴったり。

まあ相手が和田アキ子なので大歓迎なのですが

 

 

ヘッド博士の世界塔

フリッパーズギター最高傑作にして問題作にして最終作

全編サンプリングまみれすぎて再発売が事実上不可能な一枚となっております。

一曲聴いてみましょう。


前2作は生演奏を基調とした、明るめの曲が多かったですが、今作はリズムマシンが主体でどことなくサイケダンサブルです。

 

なぜこうなったのでしょう?

その鍵はサンプリングという技法の導入にあります。

 

サンプリングとは、元々はミュージックコンクレートと呼ばれる現代音楽のジャンルで編み出された技法で、ざっくり言うと「自然音や楽音などを録音して自分の曲に使ってしまえ~!!」というものです。んな無茶な。

 

さらに80-90’sはそこそこ高性能なサンプラー(サンプリングした音を発する打楽器みたいなやつ)がHiphopシーンで大活躍、音楽後進国の日本にも流石に入ってきたという時代背景があるわけです。

 

めざとい彼らは持ち前の引用力を武器に、サンプリングを使い倒しました。

ゑ? 引用力ってパクりのことじゃないかって?

ものは言いようなのです。

 

ということで全編サンプリングまみれの狂気のアルバムが完成しました。

 

ただし、狂気はサンプリングだけではないのです。

 

アルバムを通して

やけに曇った音・退廃的な歌詞・サイケ

など、どう考えても万人受けしないサウンドが鳴り続ける、かなり実験的な作品になっています。それでいてポップ・キャッチーさも同居しています。自分でも何言ってるかわからなくなってきました。

 

挙げ句の果てに終曲がこれ


カオスオブカオス。

おもちゃ箱いくつひっくり返しても足りないしっちゃかめっちゃかさ。つか長え。

バンドの終焉を暗示するかのような大曲に仕上がっております。

 

というのも、このアルバム発表後しばらくして、フリッパーズギターは解散したからです。

フリッパーズギター解散後、小沢健二小山田圭吾はそれぞれソロ活動を始めます。

(ちなみにこのサンプリング過多カオス路線小山田圭吾が引き続き行っていきます。いや引き継ぐのかよ。)

 

フリッパーズギターの活動期間は約3年と短いですが、日本の音楽シーンに多大なる影響を及ぼしたらしいです。具体的には渋谷系が誕生します。

 

 

 

...おや?

 

そう、フリッパーズギターが活動していた段階ではまだ渋谷系(という括り)は誕生していないんです。

フリッパーズギターの成功が、後に渋谷系と呼ばれるミュージシャンの存在を顕在化させた、と言っても過言ではないでしょう。

 

 

 

 

さあ、いよいよ渋谷系が始まるというところですが、フリッパーズギターについて一通り話したので今回はここで終わりです。この記事長いし。疲れたし。

渋谷系の時代、次回はおそらく小沢健二小山田圭吾のその後について書くと思います。ではまた。

 

 

                                    終

                                  制作・著作

                                  ━━━━━

                                   ⓃⒽⓀ

 

次回

 

nu-composers.hateblo.jp

 

 

 

アイスランドの二人の女性作曲家を聴く

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アイスランド

アイスランドの作曲家と言って
数人の名前を挙げられる人は
クラシックフリークでもかなりのだろう。

実にアイスランドのクラシックの歴史は
まだまだ短く
国歌を書いたことでも知られる
Sveinbjörn Sveinbjörnssonが生まれたのが
1847年で
古く最も成功したJón Leifsが生まれたのが
1899年であることを考えると
せいぜい1900年位からの歴史でしか無いと
言って差し支えないだろう。

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Sveinbjörn Sveinbjörnsson

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Jón Leifs

音楽の歴史ははじめドイツからの流入
Sveinbjörn Sveinbjörnssonライプツィヒ
Carl Reineckeについて学び、
Jón Leifsも同じくライプツィヒ
Ferruccio Busoniについていた。

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Carl Reinecke

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Ferruccio Busoni

ときは下り、現代ではどうだろうか。
本来は順を追って書いていくべきだろうが、
紙面の都合もあるので
アイスランドの今に着目してみよう。

 

「今」のアイスランド人作曲家で
最も注目を集める女性作曲家に
Anna Þorvaldsdóttirがいる。
1977年アイスランドの首都レイキャビクに生まれ
アイスランド芸術大学を経て渡米
カリフォルニア大学サンディエゴ校で
Rand Steiger梁雷(Lei Liang)に学んだ。

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Anna Þorvaldsdóttir

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Rand Steiger

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梁雷

彼女は2011年に
Nordic Council Music Prize
を受賞したことを皮切りに
ニューヨークフィルの委嘱など
一気に知られることになった。

彼女の音楽から特に印象的なものを
一つ聴いてみようと思う。

www.youtube.com

Aeriality(空虚)と名付けられた
オーケストラのための作品であり、
長く暗いドローンの上に
様々な方法で獲得された倍音やノイズが立ち上がる。

重く、暗く、乾いた作風で
クラスタなども出現しているが、
その中に調的な誘導が隠されていたり、
はっとするような旋法の出現
コントラストとなり光り輝く。

 

issuu.com

スコアを眺めてみると、
持続の上に折り重なるテクスチャー
そして細かい音で倍音を揺らす音形
そして不思議な音列が重なり合っている。
変化に乏しいと思われる展開だが、
実に緻密に編み込まれ
飽きることのない構成を作り出しており
作曲者の実力が伺い知れる。

またドローンに注目してみても
はじめのG音
最後にはC音へ変わっており、
曲全体に緩やかな調性誘導が敷かれていることが
ここでもわかるのである。

 

 

しかしこの暗く乾いた質感は一体なんだろう。
あまりこのフィーリングを聴いたことがない。
もしかするとアイスランドの国や文化が
背景にあるのだろうか。

 

 

ここでもうひとりの女性作曲家を見てみたい。

Bára Gísladóttirである。
実に1989年生まれの新鋭作曲家であり、
アイスランド芸術大学
Hróðmar Ingi Sigurbjörnssonに学び、
ミラン音楽院で
Gabriele Manca
更にデンマーク大学のマスタークラスで
Niels Rosing-Schow
巨匠Hans Abrahamsenに学んでいる。

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Bára Gísladóttir

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Hróðmar Ingi Sigurbjörnsson

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Gabriele Manca

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Niels Rosing-Schow

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Hans Abrahamsen

彼女はコントラバス奏者としても活動しており、
そのことは彼女の作風に大きく影響している。

ひとまずここでも彼女の曲を一つ聴いてみよう。

 

www.youtube.com

 

「VAPE」と題されたオーケストラ作品で
蒸気が噴き出すようなノイズ
不穏で重い音響が特徴に聞こえる。
Þorvaldsdóttirに比べると衝動的ではあるが
乾いた質感に類似性を感じてならない。

 

 

issuu.com

 

スコアを見てみると
意外にもテクスチャーは濃く書かれ
特に「吹き込むだけのノイズ」を要求され続ける
金管楽器の書き方がユニークである。
このモノトーンのノイズが
打楽器のランダムなリズムのテクスチャとともに
全体に厚みを出し、
そこに倍音を揺らぐフルートを中心とする
木管楽器を立ち上げている。

 

GísladóttirÞorvaldsdóttirに比べて
明らかに無調傾向が強く、
その音響操作はむしろ最近的なプログラム演算を
用いた処理がされているものと思われる。

 

しかしこの曲は我々にアイスランドの作曲家の作風形成に
「蒸気」的なものが関わっていることを示してくれた。

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エイノフィヤトラヨークトル



考えてみればアイスランド火山国である。
その地熱を使った環境エネルギー
世界でも有数のクリーンエネルギー大国と言われ、
極寒の北国に有って充実した暖房設備
つながっているのだという。

 

なるほど環境要因が彼女たちの作風の背景にある。

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雪のレイキャビク

そう仮説立ててみるなら
この乾いた音雪に閉ざされた北国のものであること
反響を抑える雪の上では
音の聞こえ方が極めてドライになることの現れだろうし、
暗さについても、夜が長い
極夜の国であることを示しているのだろう。

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極夜

こういったものを「原初体験」として
彼女たちの作風が本人たちも知らないところで形成され、
それが先端的な技法と出会うことで
世界でも今まで聞いたことのない音楽を作り出し
それがいま評価されてきていると言えないだろうか。

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原初の光

そこで我にい立ち返った時、
我々の「音の原初体験」とは何なのだろうか。

彼女たちの音楽は
模倣や技術に偏りがちな今の音楽に
素朴な言葉で「原初」を囁いているように感じられる。

その純粋な音に
我々は学ぶべきところが多いのではないだろうか。

ちょっとだけ覗く現代音楽 - 歴史編1 ジョン・ケージ登場まで

現代音楽って聞いて何を思い出しますか?

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一般的な現代音楽のイメージ

・難しい!
・音楽に聞こえない!
・吐き気がするっ!
・笑っちゃうwww
・真面目に何やってるの?
・どうしてこうなった?
・あれでお金もらうの?
・詐欺にはならないの?

 

……………す、すいません

 


現代音楽の難しさや意味不明さはまず

一般的な音楽にある三原則

・メロディ
・ハーモニー
・リズム

これらが普通の形ではないことに起因すると思われます。

 

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Why?

まず「どうしてこうなった」

について見てみようと思います。

 

そもそも音楽というのは
「既成概念を破壊する」
ことを義務付けられているという側面があります。

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芸術は爆発?

なので大昔から

それまであることを

ひとまず模倣し、
それを発展させ、

最終的に疑って破壊する
という一種不毛なことを繰り返しています。

 

ただ現在に有っては模倣ばかりが目立つんですけどね。

 

ともあれそうやっていろいろ疑ってると行き着くんですよ

「調性っていらなくないか?」

ってところに。

 

なんで行き着くかについては紙面の都合で踏み込みませんが、
とにかく行き着くんです。

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行き着いちゃった人々

ドビュッシーは中心音は複数存在できるかもといい、
ワーグナーは永遠に終わりのない転調を作り、
コルトレーンは代理構図の発展の後に終止は崩壊することを発見し、
スクリャービンはそもそもトニックが支配する構図が誤りだとし、

 

まあこうやって同時多発的に

調性は袋叩きに合いました。

 

その果に現れたのがこちらの印象的な髪型の方
シェーンベルクです。

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印象的な髪型の方

「調性システムに変わるシステム見つけたわ」

ということで12半音が等価に存在できる新システム
「十二音技法」
を編み出します。

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十二音技法

かくて調性は打倒されてしまいました。

次は和音でしょうか。

いいえ、上の十二音技法は和音をも破壊し尽くしたので
次はリズムです。

 

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オリヴィエ・メシアン

こちらはメシアンという作曲家です。

平泉成ではありません。

 

「十二音技法が音のシステムなら、音楽全体に波及可能である」

 

かくて音楽のすべてを数理的に操作するモデルが完成してしまいます。

「トータル・セリー」

と呼ばれます。

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パラメーター表なるもの

そしてこれが一大ブームを巻き起こします。

 

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フランス人

メシアンの弟子である

ブーレーズ

いかにもフランス人な顔立ちをしています。

非常な論客であり、

かつ高名な指揮者である彼は

このセリエリスムを推し進めていきます。

しかし大問題が生じたのです。

 

「誰が作っても似たような感じになるじゃん!!」
「つーか演奏困難じゃん!!」

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ガックシ

一斉に行き詰まってきます。

しかし論理性だけは最強なのでなかなか捨てられません。
困り果ててるところに、

とどめを刺した人がいます。

こちらのキノコ研究家の方です。

 

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キノコ研究家

彼の名はジョン・ケージ

現代音楽を知らない人でも

名前は聞いたことあるという人は多いでしょう。

本当の大天才

常人とは全く違う思考をする人です。

ちなみに印象的な髪型のシェーンベルクのお弟子さんでもあります。

 

彼が見つけたのは

「偶然性の音楽」
「不確定性の音楽」

と呼ばれる概念。

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偶然の神様

偶然性というのは、

何が起こるか作曲者にもわからないもの。


不確定性というのは、

曖昧な指示によってはっきりと実態が確定しないもの。

 

は?

 

そうなんです。

要は適当にやったらどうなるかという発見です。
普通は子供の遊び程度の次元なんですけどね。
大変なことがおきます。

 

「トータル・セリーの音楽と、適当に弾いた音楽には響きの上で大差はない」

 

とんでもないことが起きてしまいましたが
長くなるので今日はこのへんで一回幕にしましょう。

こうやって人々は何を考え、何をしたのかをみながら聞いてみると
ちょっとだけ難解な世界が手元に近づいてきます。

 

つまらない見栄やプライドよりも、

好奇心が大切なんですね!

 

次回記事はこちら

 

nu-composers.hateblo.jp

 

谷川俊太郎作「なんでもおま〇こ」は俗悪な詩なのか

谷川俊太郎を知らない人はいないでしょう。

日本で最も高名な詩人の一人で、小学生の国語の教科書に載っている詩「いるか」や、合唱曲としても有名な「生きる」 、鋭い切り口で孤独をとらえた「二十億光年の孤独」なんかが有名ですね。

彼の詩は、非常にシビアでありながら時に優しく寄り添うようで、しかし鋭く切り裂くような詩的表現、残酷なほどまっすぐなひらがな詩、韻律への愛や究極的な孤独など、多岐に渡りながら僕はとても好きです。

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まだご存命

で、彼には現代詩作家としての一面もあり、こんなタイトルの詩も残しています。

 

 

 

「なんでもおまんこ」

 

 

 

 

!????!?

?、???!?!、???

 

なんでもおまんこ

この詩は、極めて衝撃的な一言から始まります。

 

”なんでもおまんこなんだよ”

 

左様ですか。。

 

とりあえず全文はここから読んでいただけますが、とにかく衝撃的な言葉の連続ですね。

ご存じない方のために解説しておくと、「おまんこ」とは女性器のことです。

普通なら口にするのも躊躇う単語ですが、なんせ「なんでもおまんこ」らしいですからね。

もうオンパレードですよ。

 教育ママなんかが目にしようもんなら一発で発狂、男子中学生は狂喜乱舞天地鳴動青天の霹靂と、フェミニスト走って逃げだしそうな勢いです。

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それじゃあ、この詩は下劣で品位のない俗物なのでしょうか?

 

それが、そんなことはないんですよね。決して。

 

大名作「なんでもおまんこ」の怖さ

 さて、まずは詩の冒頭部分を眺めてみましょう。

 

なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ

 

この詩の形式は、口語自由詩です。

全体にひらがなが多く、ややひらがな詩の印象も受けますね。

さらに、口調はとても粗野です。

これらが表すことは、この詩の主体が思春期の少年であるということです。

さらに読み進めていくと、極めて直截に性行為を想起させるような表現(というか性行為そのもの)が文中に現れてきます。

 

"なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ"

そこに咲いてるそのとだってやりてえよ

とはもうやってるも同然だよ

 

勘がいい人は気づいたでしょう。

この少年は何故か、大自然とのセックスを渇望しているのです。

実際彼はこうも言っています。

 

女なんかめじゃねえよお

 

そんな彼は、詩の大部分を使って自分の異常性癖さんざん開陳するわけです。

ついには、彼の渇望はほとんど狂気と言えるレベルにまで達します。

 

おれ地面掘るよ
の匂いだよ
もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれにかけてくれよお
葉っぱもいっしょくたによお

 

そしてなんと、戸惑う読者を突き放したまま、この結びの言葉です。

 

 

でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ


笑っちゃうよ

 


おれ死にてえのかなあ

 

 

 

 

さて、鳥肌は収まりましたか

ちなみに僕はまだ収まってません。

 

結びつく「性」と「死」

結局のところこの詩は、「性=死」であるという極めて重いメッセージ性を持っています。

詩の主人公である少年は、今まさに思春期のただ中にあって、耐えがたいほどの煩悶を抱えています。

平たく言えばヤりたくてしょうがないということです。

世間ではこういうことを、「下品だ」とか「汚らしい」とかすぐ言いますよね。

だから誰しも、こういった性的衝動、それによる悶えや苦しみは隠し、目を逸らそうとするわけです。

でも、これって生き物である僕たちの宿命じゃないですか。

僕たちの先祖、祖父母、あるいは両親だって、この宿命の渦に飲み込まれて僕たちまで命を繋げてきたわけですよ。

そして、この少年は今まさにその事実を知ろうとしているのです。

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人はいつまでも純真でいられない

清らかで純真でいられた幼少期は終わりを告げ、否応なしに第二次性徴に苛まれます。

避けられない自然の摂理に巻き込まれ、自分の意志と関係なしにセックスばかりが頭の中を占領していく不安

少年は考えるでしょう。

考えざるを得ないほどに渇望するのだから。

「これは何なんだ。」

何となくいけない気がする汚らしいと思う、でもやりたくてしょうがない

僕の親も、その親も、そのまた親も

それどころかそこの鳥も、犬も猫も、虫でさえも

 

やってるんだ。

やったんだ昔。

 

そして死んでいくんだ。

命を遺して悔いなく死ぬんだ。

 

そうやってこの世界は紡がれていったんだなあ。

 

だからなんでもおまんこなのでしょう。

大自然の仕組みと自分の生きる意味生かされてきた道のりをにわかに悟ってしまった少年。

自分の意志とも、道徳ともルールとも無関係に押し寄せる衝動。

命を繋ぐという営み、それと切り離せない

この衝撃的な結びの言葉は、あまりにも如実に少年の大きすぎる気づき生命の真実を言い切っています。

 

 

 

 

おれ死にてえのかなあ